「 2013年10月 」一覧

第606話 2013/10/06

「日下部氏系図」の表米宿禰と九州年号

 「洛中洛外日記」第604話で紹介しました「表米宿禰」伝承について、追跡調査をしましたので御報告します。
 表米宿禰の子孫が日下部氏を名乗っているとのことなので、「群書類従」の『群書系図部集 第六』(系図部六十七)に収録されている「日下部系図」と「日下部系図別本 朝倉系図」(以下「別本」と記します)を調べてみたところ、「表米」という人物について記録されていました。「日下部系図」では孝徳天皇の孫(有馬皇子の子供)として「表米」が記されており、「別本」では孝徳天皇の子供で、有馬皇子の弟として「表米」が記されています。その記された年代から判断すると、「別本」にあるように孝徳天皇の子供の世代としたほうがよいようです。もっとも、本当に孝徳天皇の子孫であったのかどうかは不明です。何らかの理由があり、後代において近畿天皇家の子孫として系図が創作された可能性が大きいのではないでしょうか。
 「日下部系図」には「表米」について次のように記されています。( )内は古賀による注です。

「養父郡大領(評督か)。天智天皇御宇異賊襲来時。為防戦大将。賜日下部姓。於戦場。被退怱異賊。朱雀元年甲申(684、九州年号)三月十五日卒。朝来郡久世田荘賀納岳奉祝表米大明神。」

 九州年号の「朱雀」が使用されていることが注目されます。赤渕神社縁起では「常色元年」(647)に新羅と交戦したとあるようですが、ここでは「天智天皇御宇異賊襲来時。」とありますから、これが正しければ九州王朝と唐・新羅連合軍との交戦(白村江戦など)の時期ですから、年代的にはよくあいます。
 「別本」では「日下部表米」とあり、次のように記されています。

 「難波ノ朝廷。戊申年(648、常色二年)養父郡(評)ノ大領(評督か)ニ補佐(任か)セラル。在任三年。」

 難波朝廷の戊申年(648、常色二年)に養父評の評督に任命されたことか記されていますが、この時期こそ「難波朝廷天下立評給時」に相当します。なお、 表米には子供が二~三人あり、長男の「都牟自」も「難波朝廷癸丑(653、白雉二年)養父郡(評)補任少領(助督か)。」と記され、己未年(659、白雉 八年)に大領(評督)に転じたと記されています。「都牟自」の没年は「癸未歳死(683、白鳳二十三年)」とありますから、父の「表米」よりも一年早く没したことになります。
 両系図の記録をまとめると、「表米」の年表は次のようになります。

648(常色二年)養父評の評督に就任。
653(白雉二年)長男の都牟自が養父評助督に就任。
659(白雉八年)長男の都牟自が評督に転任。
662頃 襲来した異賊(新羅か)と交戦し勝つ。この功績により「日下部」姓をおそらく九州王朝から賜る。
683(白鳳二十三年)長男の都牟自没。
684(朱雀元年)表米、三月十五日没。

 おおよそ以上のようになりますが、「日下部系図別本」はその後も天文二年(1533)まで続いていることから、当地には御子孫が今でも大勢おられるのではないでしょうか。
 以上の追跡調査の結果から、赤渕神社縁起の「表米宿禰」伝承は歴史事実と考えられ、白村江戦頃に新羅軍が丹後まで来襲し、表米が防戦し勝利したことも歴史事実を反映した伝承の可能性が高いのではないでしょうか。また、九州王朝による7世紀中頃の「難波朝廷天下立評」により、表米も養父評督となり、その子孫が評督職を引き継いだこともわかりました。
 疑問点として残ったのは、なぜ「表米」が孝徳天皇の孫や子供とされたのかということです。本当に孝徳の子孫だったのか、九州王朝の当時の天子(正木説に よれば伊勢王)の子孫だったのか、あるいは後世における全くの創作だったのか、今後の研究課題です。いずれにしても、九州年号「常色」「朱雀」付きの現地伝承・系図ですから、とても貴重です。まさに現地伝承恐るべし、です。


第605話 2013/10/05

文字史料による「評」論(6)

 「評制」開始時期を7世紀中頃とする史料根拠として、『皇太神宮儀式帳』をはじめ様々な史料を紹介してきましたが、いずれも後代史料でした。従って、文献史学の学問の方法として、これら後代史料の記述が真実かどうかを同時代金石文などで検証する作業が必要です。もし同時代金石文が7世紀中頃よりも早い時期の「評制」の存在を示していた場合は、当然のこととして同時代金石文が優先されます。もちろん、その金石文の史料批判も行われる必要があります。その金石文が同時代ではない、あるいは「偽造・偽刻」「後代追刻」というケースも可能性としてはあるからです。
 そうした史料批判を前提として、現存最古の「評制」が示された金石文として、法隆寺から献納された観音菩薩立像台座銘(東京国立博物館蔵)が著名です。そこには冒頭に次の文字が記されています。

 「辛亥年七月十日記 笠評君名左古臣」

 「辛亥年」とは651年(九州年号の常色五年)にあたるとされています。菩薩像の様式や特徴がこの時代のものであることから、651年の「辛亥年」とされているのです。わたしも、この菩薩像を東博の法隆寺館で何度か見たことがあり、他の仏像との比較からも651年の「辛亥年」として問題ないと思います。
 現存最古の「評制」同時代金石文の紀年が「辛亥年」(651)であり、後代史料に見える7世紀中頃の「評制」開始記事と矛盾していません。このように、 文字史料と金石文の一致は、「評制」開始を7世紀中頃とする見解をますます確かなものとしているのです。(つづく)


第604話 2013/10/03

赤渕神社縁起の「常色元年」

 このところ「洛中洛外日記」も史料批判など、やや理屈ぽいテーマが続きましたので、今回は息抜きに九州年号付きの面白そうな地方伝承を紹介します。
 「洛中洛外日記」第602話で 紹介した『粟鹿大神元記』(あわがおおかみげんき)の活字本の所在調査のためインターネット検索をしていたら、粟鹿神社が鎮座する兵庫県朝来市に赤渕神社という神社があり、その縁起書に九州年号の「常色元年」(647)が記されているとの記事がありました。それによると、御祭神の一人で表米宿禰命という人物に関する伝承があり、常色元年に丹後に攻めてきた新羅の軍船を表米宿禰が迎え討ち、勝利したというものです。表米宿禰命は孝徳天皇の第二皇子という伝承 もあるようで、当地の日下部氏の祖先とのことです。
 『日本書紀』にはこのような名前の皇子は見えませんし、この時期に新羅との交戦をうかがわせるような記事もありません。倭国(九州王朝)と新羅の関係が悪化するのは、もう少し後のことですので、何とも不思議な伝承なのです。しかも九州年号の「常色元年」とする具体的な年次を持つ伝承ですから、何の根拠もない創作や誤記誤伝とも思えません。もしかすると九州王朝の王族に関する伝承ではないかとも想像しています。
 表米宿禰命が現地氏族の日下部氏の祖先とされていることも気にかかります。というのも、九州王朝の天子の家系と思われる高良大社の祭神、高良玉垂命の子孫が日下部氏(草壁氏。後に稲員〔いなかず〕を名乗り、現在に至っています)を名乗っているからです。偶然の一致かもしれませんが、何とも気になる伝承で す。ちなみに、丹後半島の「浦島太郎」の御子孫も「日下部」を名乗っています(「洛中洛外日記」第58話「浦島太郎は『日下部氏』」をご参照ください)。
 是非とも同縁起書を実見したいと願っています。どなたか、現地調査をしていただければ有り難いのですが。


第603話 2013/10/02

文字史料による「評」論(5)

 今日は出張で東京神田のホテルにいます。テレビで伊勢神宮式年遷宮のクライマックス、「遷御の儀」の様子を見ています。いつか伊勢神宮や式年遷宮について、多元史観によって研究してみたいと思っています。

 全国的評制施行時期が記された史料として『皇太神宮儀式帳』と『粟鹿大神元記』を紹介してきましたが、「天下」(全国的)という表現はないものの、この二書以外にも孝徳期(7世紀中頃)での「評制」開始を示す史料があります。というよりも、7世紀中頃以外の「評制」開始を記した史料の存在は、私の知る限り「絶無」です。もしあるのなら、ご教示下さい。
 わたしの知るところでは、次のような孝徳期(7世紀中頃)での「評制」開始を記した、あるいは示唆した史料があります。

○『類聚国史』(巻十九国造、延暦十七年三月丙申条)
 「昔難波朝廷。始置諸郡」
 ここでは「諸郡」と表記されていますが、「難波朝廷」の時期ですから、その実体は「諸評」です。『皇太神宮儀式帳』や『粟鹿大神元記』と同じ認識が示されています。

○『日本後紀』(弘仁二年二月己卯条)
 「夫郡領者。難波朝廷始置其職」
 ここでも「郡領」とありますが、「難波朝廷」がその職を初めて置いたとありますから、やはりその実体は「評領」あるいは「評督」となります。

○『続日本紀』(天平七年五月丙子条)
 「難波朝廷より以還(このかた)の譜第重大なる四五人を簡(えら)ひて副(そ)ふべし。」
 この記事は少し説明が必要ですが、難波朝廷以来の代々続いている「譜第重大(良い家柄)」の「郡の役人」(評督など)の選考について述べたものです。この記事から「譜第重大」の「郡司」(評督)などの任命が「難波朝廷」から始まったことがわかります。すなわち、「評制」開始時期を「難波朝廷」の頃である ことを示唆する記事なのです。

 以上のように、いずれも『日本書紀』(720年成立)以後に成立した史料のため、その影響を受けて「評」を「郡」と書き換えて表記されていますが、その言うところは例外無く、「難波朝廷」(7世紀中頃)の時に「評制」が開始されたということを主張しています。それ以外の時期に「評制」が開始されたとする史料はないのですから、多元史観であろうと一元史観であろうと、史料事実や史料根拠に基づいて「論」や「説」を立てる学問としての歴史学・文献史学であれば、「評制」開始は7世紀中頃とせざるを得ないのです。なお、個別地域の「建評」記事は多くの史料に見えますが、そのほとんどは「難波朝廷」・孝徳天皇の時としており、それよりも早い時期の「建評」記事の存在をわたしは知りません。この史料事実も「評制」開始を7世紀中頃とする理解を支持しているのです。(つづく)