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第620話 2013/11/13

橘諸兄の故地

 今日は山形に来ています。急に寒くなり、黄葉した山々はうっすらと雪化粧して、とてもきれいです。秋と冬とが一緒に来たような不思議な景色でした。明日は東京に向かいます。

 西村秀己さんの論稿「橘諸兄考 — 九州王朝臣下たちの行方」(『古代に真実を求めて』14集、2011年)によれば、九州王朝から大和朝廷への権力交代にともない、九州王朝の官僚たちの多くが大和朝廷の官僚として仕えたとされ、その一人が橘諸兄であるとする仮説を発表されました。なるほど、ありそうなことだと思いました。
 西村稿によれば、橘諸兄の祖父の栗隈王が白鳳11年(681)に筑紫率に任命されていることなどを根拠に、栗隈王を九州王朝の王族とされました。従っ て、橘諸兄も九州王朝の王族とされたのです。一応、理屈としては通っていますが、白村江戦の敗北後に台頭した近畿天皇家側の有力者としての栗隈王が筑紫率に任命されたという可能性もあり、西村さんの論証だけではその可能性を完全には排除できませんので、有力説ではあるものの、やや安定感に欠ける仮説ではないかと思っていました。
 ところが先日、たまたま読み直していた『佐賀県史蹟名勝天然紀念物調査報告 上巻』(昭和11年、佐賀県刊)の「杵島郡橘村」の項に次の記事があることに気づきました。

 「一、道祖王遺跡 附奈良麿遺跡  橘村大字大日字草場 草場共同墓地
 天平寶字年間橘奈良麿は、道祖王を奉じ禁中の奸邪を除かんとして成らず、後、奈良麿、王を奉じて海路此地に来着す、後世稱して奈良崎(現時楢崎)と云 ふ、今道祖王と稱する地に長さ六尺の石碑あり此れ道祖王の御陵なるべく、其前方に同形の竿石三本あるは橘奈良麿の墓なるべし、此附近橘氏の後裔多し、片白 の梅宮神社は奈良麿を祀り、潮見神社亦た同じ、上宮には橘諸兄を祀り、下宮には橘氏一族を祀る、村名橘の出所故あるなり」

 佐賀県杵島郡にある橘村は橘奈良麻呂が道祖王(ふなど王、天武の孫)と共に落ち延びた地で、今も奈良麻呂の末裔が多く在住しており、そのため橘村と称したというものです。有名な「奈良麻呂の変(757)」で道祖王は罪を得て亡くなり、首謀者とされた橘奈良麻呂については 『続日本紀』はその後を記していません。
 奈良麻呂は橘諸兄の子供ですが、「変」の後に佐賀県杵島まで落ち延びたという伝承があったことを私は知りませんでした。念のため、「古田史学の会」会員 で佐賀県武雄市在住の古川清久さんに電話で問い合わせたところ、古川さんはそのことを大変よくご存じて、詳しく教えていただきました。橘村は現在の武雄市橘町のことで、明治になり「橘村」と命名されたとのこと。同地には有名な「おつぼ山神籠石」もあり、歴史的にも重要な地域のようです。なお、古川さんが主催されている「久留米地名研究会」のホームページに掲載されている記事「杵島」に、橘村や橘奈良麻呂の現地伝承について紹介されていますので、ご覧ください。
 橘奈良麻呂が大和での権力闘争に敗れて、逃げた先が九州王朝の故地、佐賀県杵島郡であったとすれぱ、橘氏と九州王朝との関係をうかがわせる伝承ではないでしょうか。こうした現地伝承の存在は、西村説の傍証になりそうです。機会があればわたしも現地調査してみたいものです。佐賀県には万葉歌人「柿本人麿」 のご子孫もおられ、本当に不思議な伝承や地名も数多く残っており、多元史観・九州王朝説での解明が待たれます。