「 2014年05月 」一覧

第718話 2014/05/31

「告期の儀」と九州年号「告貴」

 テレビで高円宮家典子さんと出雲大社宮司千家国麿さんのご婚約のニュースを拝見していますと、皇室の婚姻行事の「告期の儀」について説明がなされていました。お婿さんの家から女性の家へ婚姻の日程を告げる儀式のことだそうです。古代にまで遡る両旧家のご婚儀に古代史研究者として感慨深いものがあります。
 その「告期」という言葉から、わたしは九州年号の「告貴」(594~600)を連想してしまいました。婚姻の期日を告げるのが「告期」であれば、九州年号の「告貴」は「貴を告げる」という字義ですから、九州王朝の天子・多利思北孤の時代(594年)に告げられた「貴」とは何のことだったのだろうかと考え込んでしまいました。改元して「告貴」と年号にまでしたのですから、よほど貴い事件だったに違いありません。
 この年に何か慶事があったのだろうかと『日本書紀』(推古2年)を見ても、それらしい記事は見えません。その前年には四天王寺造営記事がありますが、そのことと「告貴」とが関係するようにも思えません。
 漢和辞典で「貴」の字義や用語を調べてみますと、「貴主:天子の娘」というのがあり、多利思北孤の娘か息子(利歌彌多弗利)の誕生を記念しての改元ではないかと考えました。もちろん確かな根拠があるわけではありませんが、作業仮説(思いつき)として提案したいと思います。なお、利歌彌多弗利の生年を 577年とする説を「『君が代』の『君』は誰か — 倭国王子『利歌彌多弗利』考」(『古田史学会報』34号、1999年10月)等で発表したことがありますので、こちらもご参照ください。
 もう一つ注目すべき記録があることに気づきました。九州年号(金光三年、勝照三年・四年、端政五年)を持つ『聖徳太子伝記』(文保2年〔1318〕頃成立)の告貴元年甲寅(594)に相当する「聖徳太子23歳条」の「国分寺(国府寺)建立」記事です。

 「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺」(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)

 もし、この『聖徳太子伝記』の記事が九州王朝系史料に基づいたもので、歴史事実だとしたら、「告貴」とは各国毎に国府寺(国分寺)建立せよという 「貴い」詔勅を九州王朝の天子、多利思北孤が「告げた」ことによる改元の可能性があります。そう考えると、『日本書紀』の同年に当たる推古2年条の次の記事の意味がよくわかります。

 「二年の春二月丙寅の朔に、皇太子及び大臣に詔(みことのり)して、三宝を興して隆(さか)えしむ。この時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る。即ち、是を寺という。」

 『日本書紀』推古2年条はこの短い記事だけしかないのですが、この佛舎建立の詔こそ、実は九州王朝による「国府寺」建立詔の反映ではないでしょうか。
 「告期の儀」の連想から、「九州王朝による国分寺建立」という思いもかけぬところまで展開してしまいました。これ以上の連想は学問的に「危険」ですので、今回はここで立ち止まって、もっとよく考えてみることにします。若いお二人のご多幸をお祈りいたします。


第717話 2014/05/31

『五行大義』の「納音」

 熊本県和水(なごみ)町で発見された「石原家文書」の「納音(なっちん)付き九州年号史 料」により、わたしは「納音」というものを知ったのですが、それがいつの時代にどこで成立したのかはわかりませんでした。インターネットや関連書籍の説明 では中国の唐代には成立していたようなのですが、出典などが不明で今一つ確信が持てませんでした。そのような中、服部静尚さん(古田史学の会・会員、八尾市)から隋代の書籍『五行大義』に「納音」に関する記述があることを教えていただきました。
 『五行大義』巻第一に、次のような書き出しで「納音」についての説明が見えます。

「第四、納音の数を論ず
 納音の数は、人の本命の属する所の音を謂(い)ふなり。」(以下略)

 以下、「木火土金水」などと関連付けながら難渋な説明が続くのですが、たとえば「山頭火」などの「納音」の冒頭の二文字「山頭」とかについては記述がありません。従って、今日見るような「納音」とは趣が異なるようです。
 明治書院のホームページにある説明によれば、『五行大義』5巻の編者は蕭吉で、「先秦時代から隋までの五行説を集め、組織的に整理、分類した書物。伝来の歴史は古く、『続日本紀』や日本国見在書目録にも載せられ、多くの鈔本が伝えられている。日本文学や平安貴族文化に多大な影響を与えたほか、陰陽道の教科書的存在にもなった。」とあります。
 服部さんから教えていただいた『五行大義』を手がかりに、引き続き「納音」の調査を行っていきます。


第716話 2014/05/30

吉野ヶ里遺跡の「ひみか」

 「洛中洛外日記」698話「梅花香る邪馬壹国の旅」で、古賀市立歴史資料館では「邪馬台国」の「台」の字が古田説に従って「壹」の字に貼り替えて展示されていることを紹介しましたが、合田洋一さん(古田史学の会・四国、事務局長)から再び「朗報」が届きました。
 「古田史学の会・四国」会員の井上在身(のぶみ)さん(高松市)が、3月に佐賀県吉野ヶ里遺跡を訪問されたとき、遺跡のマスコットキャラクターの絵が各所に掲示されており、その名前が「ひみか」と表記されていたとのことなのです。送っていただいた写真を見ても、はっきりと「ひみか」「HIMIKA」と表 記されています。たとえばJR「吉野ヶ里公園駅」への大きな案内板にも、古代人の衣装を着た「マスコットキャラクター ひみか」と説明された手を振る男の 子の絵が描かれています。公園内の各所にも同様のマスコットキャラクターの絵が描かれており、「ひみか HIMIKA」とあります。
 『三国志』倭人伝に記された倭国の女王「卑弥呼」は「ひみこ」と訓まれてきましたが、古田先生は緻密な倭人伝研究や現地伝承(筑後国風土記逸文のミカヨリ姫説話)の分析により、「ひみか」と訓む新説を発表されました(『古代は輝いていたⅠ』1984年刊、『よみがえる卑弥呼』1992年刊)。すなわち、 吉野ヶ里遺跡では従来説の「ひみこ」ではなく、古田説の「ひみか」をマスコットの名前にふさわしいと考え、採用されていたのです。このように古田史学(九 州王朝説・邪馬壹国説・ひみか説等)が九州王朝の故地では確実に公の場でも浸透しているのです。ちなみに井上さんが撮られた写真によれば、吉野ヶ里遺跡の 解説掲示板には四カ国語(日本語・英語・中国語・韓国語)が使用されており、マスコットキャラクターを通じて世界へ「ひみか HIMIKA」が紹介されて いることがわかります。
 日本を代表する弥生時代最大規模の遺跡公園「吉野ヶ里」のマスコットキャラクターの名前に古田説「ひみか」が採用されたことについて、その経緯をインターネットで調べてみました。「吉野ヶ里歴史公園」のHPによりますと、マスコットの命名にあたり、一般公募が行われ、その中から「ひみか」が採用された とのことです。命名は平成10年(1998)に行われたとありますから、古田先生による「ひみか」説の発表以後です。説明では吉野ヶ里遺跡がある3町村 (東背振村・三田川町・神崎町。いずれも当時の地名)の最初の字をとってネーミングしたとのこと。偶然の一致とはいえ、「ひみか」の名称で応募した人の中 には、おそらく古田説の「ひみか」をご存じだった方もおられたのではないかと思います。
 吉野ヶ里遺跡のような「施設」は東京ディズニーランドなどのようにアトラクションや大型イベントを常時開催できませんし、その施設性格から修学旅行客や青少年の見学者、そして歴史好きの高齢者が主たるターゲット顧客となります。従って、いずれもリピーターにはなりにくく、おそらく1回きりの顧客が大半でしょう。これでは開園当初は物珍しさも手伝って、一定の集客が期待できますが、結局、時間とともに来園者も減少を続け、赤字運営に転落し、例外なく公的資 金(税金)の投入ということに落ち着きます。まともな経営者であれば、少なくともそのようなシナリオを想定し、事前に対策を考えます。
 そこで集客力アップのための様々なアイデアが「吉野ヶ里歴史公園」でも検討されたはずです。当然のこととして「吉野ヶ里歴史公園」もプロのマーケターが検討を重ねたことでしょう。そして手っ取り早い方法として、マスコットキャラクターを作り、関連グッズを販売し、「ゆるキャラ」としてデビューさせることぐらいは、安易ではありますが低コストで比較的効果的な対策として実施するでしょう。そして、吉野ヶ里遺跡にふさわしい古代人のマスコット、しかも「倭人 伝」で有名な「卑弥呼」などを模したキャラクターを造るというアイデアはすぐに思いついたはずです。
 次いで、そのマスコットのネーミングを行いますが、そこで重要なのが「商標権」などを侵害しないようにすることです。キャラクターグッズ販売も当然想定されますから、このネーミングは極めて重要です。恐らく、当初は「ひみこ」が一案として俎上に上がったとは思いますが、ご存じのように「ひみこ」はあまりにも有名な名前ですから、日本各地にある「邪馬台国」関連施設のお土産などで「商標権」が既に成立している可能性があります。少なくとも、様々な法的制約を受けるリスクを避けられないでしょう。他地域との差別化も難しそうです。
 こうした問題をも想定して「吉野ヶ里歴史公園」の担当者は公募による多くの候補の中から「ひみか」を採用することにしたはずです。この名称「ひみか」は 商標権などの問題をクリアしただけでなく、現在の女の子の名前に多用されている「きらきらネーム」の「○○カ」「☆☆ナ」にも対応し、「△△コ」たとえば 「ヒミコ」や「タケヒコ」よりも現代風です。主要ターゲット顧客である子供たちやそのお母さんたちにも受けがいいと思われます。
 ところが次に問題となるのが、結果として古田説「ひみか」と同じ名称を採用することへの抵抗や懸念が、今度は歴史学関係者(学芸員や学者)から出された はずです。少なくとも真剣に検討されたことをわたしは疑えません。古田説(邪馬壹国説・九州王朝説)を無視すること、「なかった」ことにするのは古代史学 界の暗黙のルールですから、一元史観の研究者にとっては自分が古田説支持者と見られかねない名称「ひみか」に賛成することには相当の躊躇があったはずで す。
 しかし、現実には「ひみか」が採用されたことから、そうした抵抗や懸念を押し切って決めた事情があったものと推測します。ただ、よくある手法として「一 般公募」の形式をとって、「古田説採用」への批判をかわすというのもリスクヘッジになったでしょう。また、「ひみか」と命名されたマスコットキャラクター は「男の子」ですから、女王(女性)の卑弥呼(ひみか)とは直接関係ない、という言い逃れもできそうです。ちなみに「女の子(妹)」の名前は「やよい」 ちゃんとのことです。ビジネス的にも「学閥」的にも、よく練られたネーミングだと思います。
 佐賀県や「吉野ヶ里歴史公園」の関係者にお会いする機会があれば、ネーミングの経緯などについてうかがってみたいものです。そして何よりも、わたしも久しぶりに「吉野ヶ里公園」に行ってみたいと思いました。吉野ヶ里遺跡にはわ
たしは三十代の頃、古田先生と訪れて以来行っていません。当時はまだ発掘中でしたが、古田先生の来訪を知った当地の学芸員の方々から歓迎され、発掘現場のすぐ側まで案内していただきました。当時から、古代史学界よりも考古学界の方が、古田先生や古田説に好意的でした。吉本隆明さんも「わたしが知っている若手の考古学者の半分は古田説支持者です」と言っておられたそうですから、より 「理系」に近い考古学者の方が古田説を正しく評価できる人が多いのでしょうね。


第715話 2014/05/28

神武の故郷

 「洛中洛外日記」714話にて、神武の出身地(故郷)を北部九州(糸島半島)と記したのですが、それが古田説であることを出典も明記して説明する ようにとのご意見を水野代表よりいただきました。よい機会でもありますし、古田史学の学問の方法にも関わることですので、改めて説明することにします。
 神武の出発地について、当初、古田先生は「日向(ひゅうが)」(宮崎県)とされていました(『盗まれた神話』)。その後、長野県白樺湖畔の昭和薬科大学 諏訪校舎で1週間にわたり開催された古代史討論シンポジウム「邪馬台国」徹底論争(1991年)において、糸島半島説へと変更されました。そのときの古田 先生の説明として、『記紀』に見える神武軍団の主力の「久米」と、糸島半島にある「久米」地名の一致を根拠(傍証)として説明されたため、古田学派内から も批判の声があがったほど「討論」は熱を帯びたものとなりました。
 「地名当て」による比定という方法は、古田先生が批判された旧来の「邪馬台国」論争における「地名当て」と同類の方法であり、納得できないという批判で した。これは古田学派らしい学問の方法に関するもので、もっもとな批判ともいえるものでした。こうした厳しい批判に古田先生も当惑されていたように見えま した。しかし、この批判は古田先生の新説成立の根拠や論理展開に対する誤解により生じたようでした。
 実は神武糸島半島出発説の根幹は「地名当て」ではなく、『古事記』の史料批判・新読解によるものでした。ところがシンポジウムにおける古田先生の説明が「地名当て」から始められたため、聴講者に誤解が生じたのかもしれません。
 『古事記』「神武記」によれば、神武等は「日向を発(た)たして筑紫に行幸し」とあることから、従来から「日向」(宮崎県)を出発して「筑紫」(福岡 県)へ向かったと解され、神武の故郷を宮崎県とする理解が通説となっていました(ただし、「神武」架空説が学界の多数説)。当初、古田先生も同様に理解さ れていました(古田先生は「神武」実在説)。ところが、『古事記』の天孫降臨説話にはニニギが「竺紫の日向の高千穂のくじふる嶽」に降臨したと記されてい ます。従来はこの「竺紫の日向の高千穂のくじふる嶽」も宮崎県とされてきたのですが、古田先生は『盗まれた神話』において、糸島博多湾岸の高祖(たかす) 山連峰に現存する「くしふる岳」「日向(ひなた)峠」であることを論証されていました。
 こうした背景があって、先のシンポジウムにおいて、古田先生は天孫降臨の「日向(ひなた)」が糸島博多湾岸であれば、その直後の『古事記』「神武記」に 見える「日向」も同様に糸島博多湾岸の「日向(ひなた)」と理解するのが、史料批判上の正しい読解であるとされたのでした。そして、「日向を発(た)たし て筑紫に行幸し」の「筑紫」は小領域の地名であり、「竺紫の日向の高千穂のくじふる嶽」の「竺紫」は大領域地名とされ、その「筑紫」と「竺紫」の書き分け を指摘されたのです。すなわち、「日向を発(た)たして筑紫に行幸し」とは、「竺紫の日向」から「竺紫の筑紫」へ向かったことを意味するとされたのです。
 わたしはこの新説を聞いて、その学問の方法を徹底させ、自説さえも覆す古田先生の史料批判(フィロロギー)に感動したものです。この新古田説は考古学的 事実ともよく一致し、その正しさは明らかです。「三種の神器」が出土する糸島博多湾岸と、それらが弥生時代の遺跡から出土しない南九州とでは、明らかに 「三種の神器」を自らのシンボルとした近畿天皇家の祖先に地として、糸島半島が神武の故郷にふさわしいのです。
 こうした学問的経緯により、「神武、糸島半島出身」説が古田史学の中で不動の真説として今日に至っているのです。詳しくは『「邪馬台国」徹底論争』第2巻(1992年刊、新泉社)をご覧ください。


第714話 2014/05/25

古代史の中の「鳥」

 今月の関西例会の時、出野正さん(古田史学の会・会員、奈良市)から張莉さんの論文「古代中国・日本の鳥占の古俗と漢字」(同志社女子大学総合文化研究所『紀要』第29巻、2012年3月30日刊)の抜き刷りをいただきました。
 張莉さんは古田先生の九州王朝説を支持されている漢字学の研究者で、白川静さんの後継者です。聞けば御夫君の出野さんから日本古代史を学ばれたとのことですが、同論文には中国古典のみならず、『日本書紀』『源氏物語』『古今和歌集』『拾遺和歌集』などの日本古典や現代の研究書が引用されており、その博識に驚かされました。「鳥」に関わる様々な漢字について考察されており、白川漢字学の後継者にふさわしい論稿です。
 わたしも古代史研究において、これまでも何度か「鳥」をテーマにしたことがありますが、最近では熊本県和水町の江田船山古墳出土の鉄刀にある銀象嵌の「鳥」は鵜飼の鵜ではないかとしました。「洛中洛外日記」704話「『隋書』と和水(なごみ)町」でも紹介しましたが、九州王朝(倭国)では鵜飼が盛んだったようで、『隋書』の他にも『古事記』にも神武の東侵説話に「島つ鳥、鵜養(うかい)が伴(とも)、今助(すけ)に来(こ)ね。」とあり、窮地に陥っ た神武が「鵜養が伴」に援軍を要請していることから、神武の出身地である北部九州(糸島半島)に「鵜養が伴」がいたことがわかります。古代における「鳥」 研究においても、古田史学・多元史観が必要なのです。


第713話 2014/05/24

古田武彦『古代は輝いていたII』復刊

 「洛中洛外日記」693話で紹介しました『古代は輝いていた I』に続いて『古代は輝いていたII』がミネルヴァ書房より復刊されました。同書は古田先生による九州王朝通史全3冊の2冊目ですが、副題に「日本列島の 大王たち」とあるように、古田史学の中でも「多元史観」を理解する上で重要な著作です。
 九州王朝以外にも銅鐸国家、関東王朝、近畿天皇家などが著述されており、古代日本列島における多元的国家の成立が解説されています。九州王朝は「倭の五王(『宋書』倭国伝)」時代を中心にその歴史が解説されています。
 巻末には松本郁子さんによる「第10回古代史セミナー~古田武彦先生を囲んで~日本古代史新考 自由自在(その6)」(2013年11月)の「実施報告」が収録されています。気鋭の研究者である松本さんならではの見事な解説です。セミナーの様子や古田先生の直近の研究動向などを知ることができます。ご一読をお勧めします。


第712話 2014/05/23

古田史学の会HP中国語版「史之路.网站」

 最近、「古田史学の会」のHP「新古代学の扉」のトップページが少し変わったことにお気づきでしょうか。中国語版のページ「史乃路」にトップページから入れるようになりました。中国語版を充実強化させる方針については既に述べてきましたが、その準備として、インターネット担当の横田さんにお願いして、中国語版ページにトップページから入れるようにしていただきました。
 現在は古田先生の小論「全ての歴史学者に捧ぐ--政・棕・満の法則」の中国語訳など3編を掲載していますが、今後、古田史学の紹介文などを掲載したいと計画中です。幸い、中国語訳を中国人研究者(漢字学)の張莉さんに手伝っていただけることになりました。このように、古田先生や古田史学の支持者が次々と現れ、様々な分野で協力していただける時代となり、ありがたいことです。
 古田先生の中国語でのメッセージを掲載することも、古田先生と相談中です。古田史学を世界に発信していきたいと思います。こうした事業も会員からいただく会費で成り立っています。皆さんのご協力をよろしくお願いいたします。

 

(インターネット事務局より 2017.5.10)

中国語ドメインを収得しました。


第711話 2014/05/17

九州王朝の葬礼

 本日の関西例会で、正木さんから衝撃的な研究が発表されました。九州王朝の葬礼「貴人の殯(かりもがり)」と近畿天皇家の葬礼との比較研究です。
 『隋書』によれば九州王朝(倭国)の葬礼について次のように記しています。

「貴人は三年外で殯(かりもがり)し、庶人は日を卜(うらな)って葬る。」『隋書』イ妥国伝

 倭国では貴人(王族か)の葬礼においては直ちに埋葬せずに、外で三年(足かけなら2年)殯するとあります。ところが正木さんの調査によれば、『日本書紀』に記された7世紀(隋以降の時代)の天皇の殯の期間は短く、『隋書』の貴人への葬礼とされた3年間(足かけなら2年)行われた天皇は、なんと天武だけなのです(2年と61日。天智は葬儀記事が無く不明)。推古は195日、孝徳に至ってはわずかに58日間です。すなわち、天武以外の近畿天皇家の天皇は「貴人」ではなかったとされたのです。
 これまで古田学派では、少なくとも7世紀の近畿天皇家は九州王朝下の最有力豪族であり、九州王朝の天子に対する、ナンバー2としての「天皇」を名乗っていたと考えられてきました。しかし、今回の正木さんの研究によれば、近畿の天皇たちは貴人ではなかった、あるいは貴人にふさわしい殯はされなかったということになるのです。
 更に『日本書紀』の大化2年(646)の薄葬令は九州王朝の天子「利歌弥多弗利」の崩御に際して出された「命長7年(646)」の薄葬令とする見解も示されました。この点については、九州年号の「大化2年(696)」に出されたものではないかとする反対意見が水野代表や西村秀己さんから出されました。さらなる論争と研究が待たれます。
 5月例会の報告は次のとおりでした。わたしからは、「洛中洛外日記」709話で紹介した「石原家文書」の「大化~安政間の年数計算」史料のコピーを紹介し、解説しました。

〔5月度関西例会の内容〕
1). 汗人と九夷と孔子(木津川市・竹村順弘)
2). 船王後墓誌の整合性(八尾市・服部静尚、代読:竹村順弘)
3). 推古の二倍年暦の百歳(八尾市・服部静尚、代読:竹村順弘)
4). 『そんなバカな』を読んで(京都市・岡下英男)
5). 「三人の継体帝」と「いくつもの伊勢大神」(大阪市・西井健一郎)
6). 『三国志』の「自○以北」の用法(姫路市・野田利郎)
7). 『隋書』の「貴人の葬礼」記事と薄葬令の正体(川西市・正木裕)
8). 熊本県和水町「石原家文書」(大化~安政間の年数計算史料)の紹介(京都市・古賀達也)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況(体調良好とのこと。ヨーロッパ古典の読み直しをされています。プラトン『国家論』、デカルト『方法序説』、他。10/04 松本深志高校で講演予定。)・会務報告・『伊豫史談』373号の合田洋一氏稿・帝塚山大学考古研市民大学講座視聴・黒田智著『藤原鎌足時空をかける・変身 と再生の日本史』・大和郡山市の大職冠鎌足神社訪問・放送大学TV「渡り鳥の旅を追う」・その他


第710話 2014/05/16

6月15日(日)に会員総会・講演会を開催済み

 来月、6月15日(日)に会員総会・記念講演会を開催します。午前中はビデオ鑑賞会を行い、午後からは記念講演会を開催します。終了後に古田史学の会・会員総会を行いますので、会員の皆様のご出席をお願いします。ビデオ鑑賞会や記念講演会は会員以外の一般参加も可能です。多数のご来場をお待ちして います。
 午前中のビデオは3月にアクロス福岡で開催された古田先生の講演と宮地嶽神社神官による筑紫舞で、なかなか見る機会のない貴重な舞です。中でも浄見宮司の「神無月の舞」は幽玄でまさに九州王朝宮廷舞楽として圧巻です。
 午後は記念講演会で、今回は会員の出野正さんとわたしが発表します。出野さんの報告は、雲南省の奥地に居住する倭(アカ)族の現地調査報告で、多くの撮影写真をプロジェクターでご覧いただけます。出野さんと張莉さんご夫妻による現地調査は、恐らく本邦初の調査で、大変貴重なものです。同調査報告の出版に向けても準備が進められています。日本の風習や民俗と極めて類似した倭(アカ)族の生活様式や文物にはきっと驚かれると思います。
 わたしからは、近年「発見」した九州年号史料の紹介とその学問的意義や展望について報告します。その一つは熊本県和水町の「石原家文書」の「納音(なっちん)」付き「九州年号一覧」史料、二つめは平安時代(天長5年、828年)に成立した九州年号「常色元年(647)」史料『赤渕神社縁起』、三つ目は内閣文庫にある九州年号「大長九年壬子(712)」史料の『伊予三島縁起』です。いずれも普段は見ることができない貴重な史料です。多くの方の参加をお待ちしております。

○日時 6月15日(日)
    午前10時~12時 筑紫舞等ビデオ鑑賞
    午後 1時30分~4時(開場1時) 講演会
    午後 4時~ 5時 会員総会
     ※総会終了後、希望者で懇親会開催。
      懇親会受付は総会当日会場にて。  

○場所 I-siteなんば(南海なんば第1ビル2階)
    大阪市浪速区敷津東2-1-41
    地下鉄御堂筋線大国町駅下車 東へ徒歩7分
    地下鉄堺筋線恵美須町駅下車 西へ徒歩7分

○記念講演会
(1)演題:西双版納(シーサンパンナ)の旅
      -倭人の源流を求めて-
   講師:出野 正さん(古田史学の会・会員)
(2)演題:新出「九州年号」史料の展開
      -『伊予三島縁起』『赤渕神社縁起』『石原家文書』-
   講師:古賀達也(古田史学の会・編集長)


第709話 2014/05/15

和水町「石原家文書」余滴

熊本県和水(なごみ)町の前垣芳郎さんの御厚意により、大量の「石原家文書」を二日間に わたり拝見せていただきました。そのおり、同文書の中から前垣さんから面白い「書き付け(紙片)」を紹介されました。それは「大化」から江戸時代までの年数を計算した「メモ書き」でした。私の知識では判読不明な字があり、誤読もあるかもしれませんがご紹介します。

「大化?年より安永四年迄
大化より天正四年迄
九百三十年成
天正四年より安永四年迄
?百年成
々千百三十年成
安永五年より安政二年迄
八十年成」

(古賀注)
1). 「より」は変体仮名。
2). 5行目の?は、計算上では「二」だが、そのようには見えない。「弐」の異体字かもしれない。
3). 6行目の「々」は「合」かもしれない。

大意は「大化」(『日本書紀』の「大化」で、元年は645年)から天正・安永・安政までの年数を計算したもので、西暦にすると次のようです。

大化元年  645年
1576-645=年931年
天正四年 1576年
1775-1576=199年
安永四年 1775年
1855-1775=80年
安政二年 1855年

紙片の前後に別の文があったのかどうかは不明ですが、「安政二年」という幕末の年号が記されていますので、この史料の成立は安政二年(1855)以後です。おそらくは安政二年かその数年後までの成立ではないでしょうか。
ただ、大化元年から安政二年までの年数を計算するのであれば、途中の天正や安永は必ずしも必要ではありませんから、もしかすると一旦は天正四年時点で計算した史料があり、その史料に基づいて安永四年に追加算した史料が成立し、更にその「安永四年」史料に基づき安政二年を起点に再計算し、全てを同一筆跡で書写されたものが、当史料ではないかと推測しています。そのように考えると、冒頭の「大化?年より安永四年迄」という計算に不要な一行の意味が理解できそうです。すなわち、「天正四年」史料に基づいて「安永四年」に計算したときの「表題」という位置付けが可能となるのです。そして、安政二年時点ではその安永四年時点の表題も含めて再書写したものと思われます。
しかし、この史料性格はよくわかりません。玉名郡の庄屋さんが何の必要があって、大化からの年数を計算するのでしょうか。恐らくこの史料の性格や目的がわかれば、石原家という庄屋の真の姿や「納音(なっちん)」付き九州年号史料の性格もわかるのではないでしょうか。こうした謎の解明も古文書調査(歴史研究)の醍醐味です。

納音年代計算紙料