2014年10月一覧

第801話 2014/10/13

『古田武彦が語る

     多元史観』刊行

 ミネルヴァ書房から古田先生の講演録を編集した『古田武彦が語る多元史観 燎原の火が塗り替える日本史』が刊行されました。「古田史学の会」の友好団体「古田武彦と古代史を研究する会(東京古田会)・多元的古代研究会」編です。古田先生による「はしがき」には編集者平松健氏への謝辞があることから、平松さんが編集を担当されたようです。確かに見事な編集作業であることが、一読して 感じられました。本当に良い仕事をされたものです。わたしからも読者の一人として感謝させていただきたいと思います。
 本書は毎年東京八王子市の大学セミナーハウスで開催されてきた「古代史セミナー」での古田先生の講演と聴講者との質疑応答をテーマごとにまとめられたものです。その講演はコアな古田ファンを対象としたものですから、はっきりいってそう簡単には読めません。本文は500頁に及び、全12章からなる講演録は 古田史学の基礎的理解がなければ深く理解できませんし、最新のアイデア段階の発見から、論証しぬかれた研究まで論多岐にわたってます。しかし、近年の古田先生の思惟の成果が縦横無尽に展開されており、古田史学研究者にとってはアイデアの宝庫であり、未来への研究テーマも指し示されています。
 本年11月に恐らく最後となる「古代史セミナー」が大学セミナーハウスで開催されます。わたしも参加します。今までは仕事の関係で参加できなかったのですが、今回は土日の二日間ということもあって、参加できることになりました。今からゾクゾクするような期待感に包まれています。


第800話 2014/10/11

『古田史学会報』

  124号の紹介

 今日は某テレビ局特別番組制作スタッフの方から取材を受けました。わたしの「聖徳太子」に関する論文に興味を持たれ、来年放映予定の特別番組に取り入れたいとのこと。わたしの「出演」も要請され、協力を約束しました。
 古田史学や九州王朝説などの説明、『旧唐書』や『隋書』の倭国伝、『二中歴』の九州年号を紹介したところ、すぐにご理解いただき、「これほど明確な証拠があるのになぜ歴史学者は九州王朝を認めないのですか」と質問されました。わたしは各地で講演するたびに同様の質問を受けるのですが、「歴史の真実よりも、保身や出世、お金のほうが大切な学者が多いのです。そういう学者をわたしは御用学者とよんでいます」と返答しました。
 さらに、これまでも報道予定だった古田先生への取材・収録が番組編集段階で圧力がかかり、カットされたり、極端に短縮されたりしてきたことを伝えたのですが、その方は「わたしは真実を大切にしたい」と言われたので、今回の件がどのような結果になっても、これをご縁に今後もおつき合いしてほしいと述べ、快諾していただきました。とても有意義で楽しい取材体験となりました。

 『古田史学会報』124号が発行されましたので、ご紹介します。好論が集まり面白いものとなりました。正木さん岡下さんら常連組に服部さんが加わり、研究者層の厚みも増してきました。萩野さんの旅行記も楽しい内容です。服部稿は弥生時代の鉄器出土分布から「邪馬台国」畿内説が全く成立しないことがよくわかるデータも示されていおり、勉強になります。
 掲載テーマは次の通りです。会員の皆さんの投稿をお待ちしています。ページ数や編集の都合から、短い原稿の方が採用の可能性は高くなりますので、ご留意ください。

〔『古田史学会報』124号の内容〕
○前期難波宮の築造準備について  川西市 正木裕
○「邪馬台国」畿内説は学説に非ず  京都市 古賀達也
○「魏年号銘」鏡はいつ、何のために作られたか
   — 薮田嘉一郎氏の考えに従う解釈 京都市 岡下英男
○トラベルレポート出雲への史跡チョイ巡り行
 2014年5月31日~6月2日  東大阪市 萩野秀公
○鉄の歴史と九州王朝  八尾市 服部静尚
○好著二冊  川西市 正木 裕
○古田先生の奥様(冷*子様)の訃報 代表 水野孝夫
     冷*は三水編に令。ユニコード6CE0
     残念ですがインターネットでは表示できません。
○『古田史学会報』原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会 関西例会のご案内
○編集後記  西村秀己


第799話 2014/10/05

『孔子家語』の一倍年暦

 古代中国における二倍年暦について、主に周代の史料に基づいて論証してきましたが、それは「解釈」の問題であり、一倍年暦による「解釈」でも理解可能とのご批判が服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)から寄せられ、関西例会でも論争を続けています。
 そこで、反対論者をも納得させうる論証方法や史料がないものかと考えてきたのですが、今回注目したのは孔子の生きた年代と孔子の子孫の「系譜」の整合性でした。孔子の12世の子孫(11世説もある)である孔安国による『孔子家語』(現行本は魏の王粛の注本によるとされています)末尾には孔子の子孫の没年齢について次のように記されています。

 「孔安国、字は子国、孔子十二世の孫なり。孔子は伯魚を生む。魚は、子思を生む。(略)年六十二にして卒す。子思は子上を生む。名は白。年四十七にして卒す。(略)子上は子家を生む。名は倣。後の名は永。年四十五にして卒す。子家は子直を生む。(略)年四十六にして卒す。子直は子高を生む。(略)年五十七にして卒す。
 子高は武を生む。字は子順。(略)年五十七にして卒す。(略)
 子産、年五十三にして卒す。(略)子襄(略)年五十七にして卒す。季中を生む。名は員。年五十七にして卒す。武及び子国(孔安国)を生む。」(明治書院。新釈漢文大系『孔子家語』612~614頁)

 ここに記された没年齢は古代人としてリーズナブルなものですから、一倍年暦によることがわかります。この部分は孔安国による「後序」となっている のですが、王粛(195~256)によると考えられています。そうであれば一倍年暦の時代ですから、その認識により没年齢が記されているはずです。これら 没年齢から判断しても、孔子の子孫の一世代は20年程度(20歳の時に次代が誕生する)と思われますから、孔安国の年代から約240年前(20年×12 代)が孔子の誕生年に相当することになるはずです。
 孔安国は漢の武帝の「元封(紀元前110~105年)の時、吾、京師に仕ふ。」(611頁)とありますから、先の240年を引くと紀元前350年頃に孔子が誕生した計算となります。しかし、通説では孔子の生没年は紀元前552年~479年とされており(生年を前551年とする説もあります)、大きく食い 違います。もし通説通り552年の生まれであれば、孔安国の世代までの一世代平均は約37年となり、これは寿命が延び晩婚化が進んだ現代でも、12代の平 均値とするには考えにくい年齢です。
 逆に孔子の生没年が二倍年暦で計算(逆算)されていた場合、より古く編年されることになりますから、先の240年を2倍の480年とすれば、孔子の生年は紀元前590年頃となり、通説の紀元前552年に近くなります。このことから、通説による孔子の生没年は二倍年暦で編年(逆算)された結果である可能性が高く、言い換えれば孔子の時代、少なくとも周代は二倍年暦が使用(編年)されていたとする私の仮説と整合するのです。
 通説ではこの系譜と年代の齟齬をどのように理解しているのか、これから調べたいと思います。


第798話 2014/10/04

火山列島の歴史と悲劇

 御嶽山噴火により大勢の犠牲者が出ました。心よりご冥福をお祈りします。火山列島に住むわたしたち日本人の悲劇と言わざるを得ませんが、噴火予知連絡会々長の東大教授のテレビでの発言と態度には驚きを通り越し、怒りさえ覚えました。
 マスコミは噴火を「予知できない」ということを問題にしているようですが、それはおかしいと思います。今回の悲劇は「予知できない」ことが問題ではなく、「予知した」ことが問題の本質です。当時、御嶽山は「レベル1」(安全に登山できる)と「予知」されていたのです。しかし、事実は連絡会々長の東大教授がテレビで開き直っていたように、御嶽山の噴火は「予知できない」ということだったのですから、予知できないのにレベル1と「予知した」ことが問題の本質なのです。レベル1という「予知」を信じて登山した多くの方々が犠牲となれらたのですから。(日本の火山で比較的「予知できる」のは北海道の有珠山など わずかのようです)
 学者はできないことをできると言ってはなりません。わからないことをわかると言ってはなりません。安全ではないものを安全と言って福島原発は爆発したのですから、御用学者がどれほど社会に悲劇をもたらすのかを日本人は知ったはずです。噴火を予知できないのなら、「レベル1」などと言ってはならず、「レベ ル」付けすることをも、真の学者なら「予知できないのだから、してはならない」と言うべきなのです。
 その東大教授が国からどのくらい「お金」をもらっているのかは知りませんが、あまりにも不誠実です。学者としての倫理観を疑わざるを得ません。少なくともわたしが見たテレビ放映では一言も謝罪していませんでした。「予知できないのだから登山した者の自己責任」と言わんばかりの口調でした。
 さらに不可解なのがマスコミの姿勢です。何の犯罪も犯しておらず、誰一人として被害にあっていないにもかかわらず、小保方さんや笹井さんに対しては叩きに叩き、小保方さんを女子トイレまで追いかけ回し全治二週間の怪我を負わせ、笹井さんを自殺に追い込みました。NHKや関西民放、毎日新聞を筆頭とするそのマスコミは、御嶽山噴火で大勢の犠牲者を出したのに相手が東大教授だと、見て見ぬふりです。「理研を解体しろ」と言ったのなら「予知連絡会を解体しろ」と言うべきです。NHK・マスコミの見識を疑います。
 日本列島の歴史が火山噴火と深くかかわってきたことを古田先生はたびたび指摘されてきました。たとえば、世界最古の土器「縄文式土器」が日本列島で誕生したことは偶然ではなく、火山の影響によるとの論理的仮説を発表されました。すなわち、火山の熱が土を堅くするという「天然の窯」の現象を見る機会があった日本列島の人々だからこそ、火山をお手本にして他の地域に先駆けて土器を造ることができたのではないかと古田先生は考えられたのです。
 そしてその縄文式土器が中南米(ペルー・エクアドル・他から出土しています)まで伝播したのも、火山噴火により日本列島から船で中南米まで脱出した縄文人がいたことが発端になったのではないかと考えられました。
 また、古代文明が筑紫や出雲で花開いた理由の一つが、南九州での火山噴火により西日本の広い地域に火山灰(アカホヤなど)が降り注いだことではないかとされました。その火山灰の被害をまぬがれたのが西日本では北部九州(筑紫)と出雲地方だったからです。
 古代史で火山といえば『隋書』イ妥国伝の「阿蘇山あり。その石、故なくして火起こり天に接す」の一文が有名でしょう。火山噴火の様子がリアルに表現されています。このように九州王朝は火山と「共存」してきたのです。歴史学でも火山学でも、真実を語る真の研究者・学者が御用学者に取って代わり、日本の学問 の主流となる日を目指して、わたしたち古田学派は歩んでいきたいと思います。


第797話 2014/10/04

明石書店の森さん、来阪

 本日、古田史学の会・会誌『古代に真実を求めて』の編集を担当されている明石書店の森さんが来阪されましたので、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)と三人でi-siteナンバで編集の打ち合わせを行いました。
 『古代に真実を求めて』は次号の18集より大幅にリニューアルします。特集として「盗まれた『聖徳太子』伝承」を企画しており、装丁も大胆に変化させる予定です。特集では、従来は大和朝廷の「聖徳太子」のこととされてきた様々な事績が、九州王朝の天子・多利思北孤や太子の利歌彌多弗利のものであったことを明らかにします。
 さらに、古田先生と家永三郎さんとで行われた「聖徳太子論争」「法隆寺論争」の思い出についての古田先生へのインタビュー記事や松本深志高校での古田講演録(本年10月)なども掲載します。
 発行は来春を予定しています。古田史学の会・賛助会員(年会費5000円)への2014年度特典としてご提供いたします。書店でもご購入できます。かなり面白い本になりそうなので、お楽しみに。


第796話 2014/10/01

白村江戦の合同慰霊祭

 今朝は仕事で新大阪駅に行ったのですが、新幹線用みどりの窓口に長蛇の列ができていましたので、駅員さんに何事かとたずねたところ、東海道新幹線 開業50周年記念入場券購入のために並ばれているとのこと。新幹線改札口では駅員が無料で0系からN700A系までの歴代新幹線車両が描かれたクリアシー トを乗降客に配られていました。水野代表にも差し上げようと思い、わたしは催促して2枚いただきました。民営化してJRのサービスは本当に良くなりました。
 懐かしい初代0系はノーズが丸く、500系はコンコルドのように尖っています。これはトンネル突入時のドーンという衝撃音(業界用語で「トンネル・ド ン」と言う)を緩和するためのデザインですが、その結果、先頭車両の客席数が減り、営業的にはマイナスとなったそうです。その後も改良が続けられ、客席数を減らさずにトンネル・ドンも緩和するデザインとして現在の700系が採用されました。このように新幹線も進化しています。山が多い島国ならではの進化ですね。
 新大阪駅から東京行きのぞみ16号に乗ったのですが、新大阪駅で降りた人が新聞をシートに残されていたので見てみますと、私の故郷の地方紙「西日本新 聞」でした。懐かしい新聞でしたので目を通したところ、22面(ふくおか都市圏)に「白村江の戦い『1350年前のえにし』交流に」「慰霊祭 太宰府から 参加」という見出しがありました。同記事によれば、10月4日に韓国扶余郡で第60回「百済文化祭」が催され、白村江戦で亡くなった人々(唐・新羅・百済・倭)の合同慰霊祭が行われるとのこと。扶余と姉妹都市の太宰府市に招待があり、市長らが参加されます。
 同記事には「この敗戦(白村江戦)を機に、博多湾奥に水城や大野城が築かれた。」とあり、残念ながら西日本新聞の記者(南里義則さん)は古田説・九州王朝説をご存じないようです。しかしながら旧百済の地である扶余での慰霊祭に招待されたのが「大和朝廷」の奈良市長ではなく、九州王朝の旧都・太宰府市の市長であることは、招待する側の「歴史認識」がうかがわれます。冷え込んでいる日韓両国の友好親善のためにも、こうした取り組みは意義があることと思いま す。慰霊祭の成功を期待します。