2015年01月01日一覧

第846話 2015/01/01

京都御所の三種宝物

 元日朝のテレビ番組で京都御所が特集されていました。紫宸殿内にある三種神器 (『日本書紀』では「三種宝物」)の内の剣と勾玉を保管していた部屋が紹介されていました。これは初めてのテレビ放映とのことでした。鏡だけは伊勢神宮にあり、その「分身」(レプリカか)が京都御所にあったそうで、その「分身」を保管する建物もありました。現在では剣・勾玉とともに鏡の「分身」も東京の皇居にあるとのことでした。
 歴代の天皇の皇位継承の正統性の証明のため、この三種神器は歴史上に度々登場しますが、多元史観・九州王朝説からみたとき、この三種神器はどのように位置づけられるのかという問題があります。それは九州王朝(倭国)から近畿天皇家(日本国)への権力交代が放伐だったのか、禅譲だったのかというテーマに密接に関わる問題です。
 中国の例を調べなければわかりませんが、王朝が禅譲さたれ場合、その「天子」としての権威だけではなく、その王朝の文物や権威を象徴する重宝も引き継ぐのではないでしようか。もしそうであれば、近畿天皇家は九州王朝の三種神器を引き継いでいてもよさそうですが、九州王朝の存在そのものを隠していることもあり、『日本書紀』などにはそうした気配はありません。たとえば事実として、王朝の権威の証明でもある重宝の類は引き継いでいません。具体的には「漢委奴 国王」の金印(いわゆる「志賀島の金印」)、卑弥呼がもらった「親魏倭王」の金印(未出土)は引き継いでいませんし、七支刀も石上神社が引き継いでおり、持ち主は近畿天皇家ではありません。
 こうした視点から見れば、近畿天皇家は九州王朝からの禅譲王朝ではないということになりそうです。『古事記』や『日本書紀』の記述から見れば、近畿天皇家は弥生時代のアマテラスやニニギにまで遡って、その権威を引き継いでいると主張していますから、いわゆる前王朝(九州王朝)からの禅譲を大和朝廷の正統性の根拠とはしていません。もっとも、史書に書かれた「史料事実」と実際に起こった「歴史事実」とが同じであるかどうかは学問的論証の対象ですから、多元 史観・九州王朝説の立場からの研究が不可欠です。「三種宝物」(三種神器)の多元史観による研究の深化が期待されます。


第845話 2015/01/01

百済武寧王陵墓碑が出展

 みなさま、あけましておめでとうございます。
 実家の久留米に帰省し、毎日のんびりとテレビを見ています。さすがに地元だけあって、HKT48が頻繁にテレビ出演しています。更に元日から開催される九州国立博物館の「古代日本と百済の交流 大宰府・飛鳥そして公州・扶餘」の告知コマーシャルもよく目にします。特別展示として七支刀(期間限定 1/15~2/15)や百済武寧王陵墓碑が出展されるとのこと。3月まで開催されるようですので、是非、拝見したいものです。
 特に武寧王陵墓碑は見てみたいと願っています。というのも、墓碑に記された武寧王の没年干支を確認したいのです。通常、同碑文の没年干支は「癸卯」 (523年)と紹介されることが多いのですが、実は古田先生等が1998年に同碑文を実見されたところ、干支部分は改刻されて「癸卯」とされていますが、 本来の原刻は「甲辰」であることを発見されたのです。すなわち、干支が一年ずれているのです。このことについて、わたしは『古田史学会報』31号 (1999年4月)において、「一年ずれ問題の史料批判 百済武寧王陵碑『改刻説』補論」として報告しました。本ホームページに掲載していますので、ご覧ください。
 韓国国宝の同墓碑が国内で見られるとは思ってもいませんでしたので、何とか展示期間中に九州国立博物館を訪れ、この目で見てみたいものです。

(後記)JR久留米駅で入手した観光案内パンフレット「太宰府天満宮&九州国立博物館」に「古代日本と百済の交流 大宰府・飛鳥そして公州・扶餘」の紹介があり、そこに「武寧王墓誌」の写真が掲載されていました。その写真をよく見ると、「癸卯」の二字部分が少し 削られて、へこんでいることがわかります。もちろん、このことを知らなければ気づかない程度ですが、写真でもわかるのですから、実物を直接見れば、削られ た原刻の「甲辰」という字の痕跡を確認できると思います。