2015年01月26日一覧

第860話 2015/01/26

『三国志』のフィロロギー

「『後漢書』の短里混在」

 漢代では長里が採用されており、魏・西晋朝になって周代の短里(注)が復活採用されたという里単位の歴史的変遷があったため、『三国志』は短里で編纂されたにもかかわらず、前代の長里が混在しうる可能性について考察を続けてきましたが、同様の方法で『後漢書』の里単位についても「思考実験」として考えてみたいと思います。
 『後漢書』はその時代を生きた人間が編纂した『三国志』のような同時代史料ではありません。中国では、ある王朝の歴史(正史)を編纂するのは、その後の別の王朝です。その点、近畿天皇家が自らの大義名分(自己利益)に基づいて編纂した『日本書紀』などとはその史料性格が大きく異なります。このように誰が何の目的で編纂した史料なのかという視点は、文献史学における史料批判という基礎的で重要な作業です。
 この史料批判の観点からすると、『後漢書』は複雑な史料性格を有しています。それは編纂時期の問題です。後漢(25〜220)の歴史を記録した『後漢書』は南朝宋(420〜479)の范曄(はんよう、398〜445)により編纂されていますから、『三国志』(魏、220〜265)よりも前の王朝の正史でありながら、その成立は西晋(265〜316)で編纂された『三国志』(著者:陳寿、233〜297)よりも遅れるのです。このような歴史的変遷を経て、『後漢書』は成立していますから、今回のように里単位を問題とするとき、次のような論理的可能性を考えなければなりません。

 1.長里を使用していた後漢の史料をそのまま引用・使用した場合は長里となる。
 2.編纂時期の南朝宋も長里を採用していたから、漢代史料の長里記録に対して、「矛盾」や「問題」は発生しない。ただし、漢代の長里(約435m)と南朝宋の長里が全く同じ距離かどうかは別途検討が必要。
 3.従って、『後漢書』は後漢と南朝宋の公認里単位の長里により編纂されたと考えるのが基本である。
 4.ところが、後漢と南朝宋の間に存在した魏・西晋朝では短里が復活採用されており、その短里に基づいた『三国志』が既に成立している。
 5.その結果、『三国志』や魏・西晋朝で成立した記録を『後漢書』に引用・使用した場合、短里が混在する可能性が発生する。
 6.そこで問題となるのが、『後漢書』の編纂時代の南朝宋において、「魏・西晋朝の短里」という認識が残っていのたか、忘れ去られていたのかである。
 7.著者范曄の短里認識の有無を『後漢書』などから明らかにできるかどうかが、史料批判上のキーポイントとなる。
 8.もし范曄が魏・西晋朝の短里を知っていたとすれば、その短里記事をそのまま採用したのか、長里に換算したのかが問題となり、知らなければ「無意識の混在」あるいは「おかしいなと思いながらも、他に有力な情報がないため短里記事をそのまま転用(せざるを得ない)」という史料状況を示すことが推定できる。

 以上のような論理的視点を踏まえて『後漢書』の里単位を論じるのが学問的・論理的な姿勢ですが、『三国志』長里論者の諸論に、このような厳密な学問的方法に基づいて論じられたものをわたしは知りません。「洛中洛外日記」本シリーズ冒頭の851話で、「その内容が20年前当時から本質的に進展していないものも見受けられました」と述べたのは、このような実態があったからなのです。(つづく)

(注)本シリーズ執筆を契機に、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)と短里の淵源などについて、メールで意見交換を続けています。その中で、短里の淵源は殷代に遡るのではないかとの仮説が浮上しました。論証が成立したら『古田史学会報』に発表されるよう御願いしています。


第859話 2015/01/25

『三国志』のフィロロギー

  「短里混在の無理」

 『三国志』の倭人伝や韓伝のみを、あるいは東夷伝のみを「短里」とする論者がいます。いわば「短里混在」説ともいうべき立場です。『三国志』は長里で編纂されており、どういうわけか「短里」が混在するという立場ですが、これは学問的論理的に突き詰めると成立困難であることを説明します。
 『三国志』に直前の漢代に採用されていた長里が混在する論理的可能性については説明してきたところですが、これとは逆のケース、すなわち長里で編纂された『三国志』に短里が混在するとしたい場合は、直前の漢代で短里が採用されており、魏・西晋朝になって長里が採用されたとしなければなりません。そうでなければ長里の史書に短里が混在することの説明ができないからです(「千里の馬」などの永く使われてきた成語は別です)。しかし、どの立場に立つ論者も漢代は長里であるとしており、そうであれば『三国志』において「短里混在」は論理上の問題として成立できないのです。
 このように『三国志』「短里混在」説に立つ論者には肝心要の「短里が混在」した理由が学問的論理的に説明できないのです。したがって、『三国志』はオール長里とする立場(短里を認めない)に固執せざるを得ません。あるいは、倭人伝や韓伝のみ短里とか、6倍に誇張されているとする「古代中国人はいいかげんで信用できない」説という非学問的な立場におちいってしまうのです。
 自説に不都合なことや自説では説明つかないことを「どこかの誰かが間違ったのだろう。だから無視する。好きなように原文改訂する。」という姿勢は非学問的であり、古田史学・フィロロギーとは正反対の立場なのです。(つづく)