2015年04月12日一覧

第921話 2015/04/12

『新撰姓氏録』の「光井女」

 『筑後志』三潴郡の「威光理明神」は神武記に見える「井氷鹿」のことではないかとする思いつきから始まった今回の探索は、伊勢神宮にまで行き着きついたのですが、伊勢神宮末社の伊我理神社の御祭神が伊我理比女命という女性であったことに、ちょっとおどろきました。というのも、かなり昔に『新撰姓氏録』の研究を行ったとき、次のような記事があり、よく理解はできませんでしたが、当時から注目していました。『新撰姓氏録』「大和国神別」に見える「吉野連」の次の記事です。

 「神武天皇が吉野へ行幸し、神の瀬に至り、水汲みに人を派遣した。帰った来た使者が言うには、光井女がいたと。天皇が召し出して名を尋ねたところ、わたしは天降り来た白雲別神の娘で、名前は豊御富ですと答えた。そこで天皇は水光姫と名付けた。今、吉野連が祭る水光神とはこのことである。」(古賀訳)

 この『新撰姓氏録』の記事は、当時の吉野連の伝承と記紀に見える「井氷鹿」「井光」記事から成立したものと思いますが、「光井女」と女性の伝承となっています。ちなみに記紀の記事からは性別はわかりません。伊勢神宮の末社に祭られた伊我理比女と『新撰姓氏録』の「光井女」(豊御富・水光姫)記事はともに女性の伝承としていますから、もしかすると三潴郡の威光理明神も女性かもしれませんが、今のところ判断できません。
 なお、佐伯有清さんの『新撰姓氏録の研究』(吉川弘文館)によれば、『新撰姓氏録』の諸版本には「井光女」とあり、諸本には「光井女」とあるとのこと。(つづく)


第920話 2015/04/12

伊勢神宮外宮末社の井中神社

 伊勢神宮外宮末社の伊我理神社を調べていて興味深いことを知りました。伊我理神社内に井中神社が同座しているのです。明治時代に井中神社が別のところから伊我理神社に遷座したようですが、このことについて詳細な事情はわかりませんので調査中です。
 この井戸の神様と思われる井中神社が同座しているという事実は、伊我理神社も「イノシシ退治の神」というよりも、本来は井戸に関わる神ではないかと、わたしは考えたのです。伊勢神宮内に数ある摂社・末社の中から、伊我理神社ををわざわざ選んで同座させたのですから、少なくとも明治時代に同座先を選んだ人々は、そのように認識していたのではないでしょうか。そうしますと、伊我理神社は記紀に見える「井氷鹿」「井光」と無関係ではないと思われるのです。
 『古事記』神武記によれば、「吉野河の河尻」の井戸から現れた「国神」が「井氷鹿」と名乗りますから、「井氷鹿」は井戸の神様、あるいは井戸と関わる神様と理解されます。従って、久留米市の威光理明神も伊勢神宮の伊我理比女命も本来は井戸に関わる同一人物(神様)ではないでしょうか。
 こうした思いつきを確かめるべく、インターネットで調査していましたら、伊勢神宮崇敬会神宮会館のホームページに次のような説明がありました。転載します。

伊我理神社(いがりじんじゃ)豊受大神宮末社
伊我理比女命(いずりひめのみこと)
祭神は外宮御料田の井泉の神、伊我理比女命。末社の井中神社(いなかじんじゃ)が御同座されている。古く外宮御料田の耕種始めの神事が行われ、猪害を防ぐ意味のお祭りであり、猪狩(いかり)がその名の由来といわれている。参道右手斜め上の神社は度会大国玉比賣神社である。

■伊我理神社御同座(一緒に祭られている神社です)
井中神社(いなかじんじゃ)豊受大神宮末社
井中神(いなかのかみ)
かつては外宮の御神田の井泉の神として仰がれたと伝わる。

 この解説によると伊我理神社も井中神社も「井泉の神」とされており、わたしの思いつきと一致しています。伊勢神宮と関わりが深い神宮会館のホームページですから、伊勢神宮の見解を表していると見なしてよいと思いますが、現地調査を行い、確認する必要があります。
 こうして、『筑後志』の「威光理明神」は「井氷鹿」のことではないかとする思いつきから始まった探索は、伊勢神宮にまで行き着き、いずれも「井戸」との関わりが明確となってました。(つづく)