2015年05月30日一覧

第963話 2015/05/30

地震列島の歴史学

 鹿児島で火山が噴火したかと思ったら、今度は小笠原で地震が発生です。久留米大学の講演も盛況のうちに終わり、実家でのんびりしていたら、地震のニュースです。震源地から遠く離れた筑後地方が震度3と報道されていました。関東は震度4や5とテレビで解説され、福井と筑後がポツンポツンとどういうわけか震度3です。九州の他地域や中国・四国は震度1か2なのに、筑後地方だけが震度3ということで不思議に思いました。ちなみに、久留米の実家では揺れに気づきませんでした。
 テレビの緊急地震速報を見ながら、九州ではなぜ筑後地方だけ震度3なのだろうかと考えました。素人判断ですが、やはり地盤が地震に弱いのではないでしょうか。古代史上でも有名な筑紫大地震もこの地方に発生し、その水縄断層のずれが今でも地表に露出しており、断層の痕跡を見ることができます。
 筑紫大地震は『日本書紀』によれば、天武7年12月(679)に発生し、筑紫国は大きな被害に遭っています。その6年後の天武13年(684)には白鳳大地震(南海トラフ巨大地震)が発生しています。白村江の敗戦後、九州王朝は度重なる巨大地震により滅亡を早めたのかもしれません。もしかすると、古代の人々にはこれら巨大地震を「九州王朝への天(神)の怒り」と感じ、弥生時代から続いた九州王朝への信頼や畏敬の念は急速に失われたようにも思いました。
 このように地震と歴史との関係を研究対象とする地震考古学は今までも優れた研究が残されていますが、歴史の変遷そのものと地震との関係を深く考察する「地震列島の歴史学」の研究も期待されます。東北大震災により「原発の安全神話」が崩れ去ったように、巨大な天変地異が九州王朝の建国神話を崩壊(大和朝廷による盗用)させ、滅亡を加速させたという仮説に基づく、九州王朝史研究の深化が必要と思いました。


第962話 2015/05/30

志賀島の「金印」か「銀印」か

本日の久留米大学公開講座では九州王朝の歴史の概略について説明し、特に学問の方法について意識的にふれました。冒頭、志賀島の金印の持つ論理性について述べ、金印は中国の王朝から見て、周囲の朝貢国内のナンバーワンの権力者に与えられるものであり、その金印が志賀島から出たのであれば、倭国の王者が北部九州にいた証拠であるとしました。
ちなみに、『三国志』倭人伝によれば卑弥呼には金印が下賜され、その部下の難升米には銀印が与えられたと記されています。このことから、金印は倭国のナンバーワンに与えられるのであり、ナンバーツー以下であれば銀印がふさわしいことがわかります。従って、志賀島の金印を従来説(近畿天皇家一元史観)のように「漢の委(わ)の奴(な)の国王」というように、大和朝廷(委)をトップとする下での奴国に与えられたとするのであれば、金印ではなく銀印か銅印でなければなりません。志賀島から出たのが金印ではなく銀印であれば、倭国のナンバーツー以下がもらったと言えないこともありませんが、事実は「志賀島の金印」であり「志賀島の銀印」ではないのです。
こうした「金印」と「銀印」の論理性に、今回の久留米大学での講演の準備をしていて気づきましたので、冒頭に話させていただいたものです。
講演の最後には、久留米出身の超有名古代人こそ九州王朝の天子・多利思北孤であり、その伝承が「聖徳太子」の事績として『日本書紀』などに盗用されていたことを『盗まれた「聖徳太子」伝承』に詳しく記したと紹介しました。おかげで会場に持ち込んだ同書を完売することができました。久留米の皆さん、お買い上げいただき、ありがとうございました。会場で販売していだいた不知火書房の米本様にも改めて御礼を申し上げます。