2015年09月一覧

第1053話 2015/09/13

瓦の編年と大越論文の意義

 「洛中洛外日記」1014話『九州王朝説への「一撃」』で、わたしは九州王朝説がかかえている課題として次のような指摘をしました。

 「九州王朝の天子、多利思北孤が仏教を崇拝していたことは『隋書』の記事などから明らかですが、その活躍した7世紀初頭において、寺院遺跡が北部九州にはほとんど見られず、近畿に多数見られるという現象があります。このことは現存寺院や遺跡などから明確なのですが、これは九州王朝説を否定する一つの学問的根拠となりうるのです。まさに九州王朝説への「一撃」なのです。
 7世紀後半の白鳳時代になると太宰府の観世音寺(「白鳳10年」670年創建)を始め、北部九州にも各地に寺院の痕跡があるのですが、いわゆる6世紀末から7世紀初頭の「飛鳥時代」には、近畿ほどの寺院の痕跡が発見されていません。これを瓦などの編年が間違っているのではないかとする考えもありますが、それにしてもその差は歴然としています。」

 軒丸瓦の基本的編年として、6世紀末から7世紀初頭に現れる「単弁蓮華文」から、7世紀後半頃から現れる「複弁蓮華文」が著名ですが、こうした編年観から九州には7世紀前半以前の寺院が見られないとされてきたのです。
 この九州王朝説にとって課題とされているテーマに挑戦された優れた論文があります。『Tokyo古田会News』(古田武彦と古代史を研究する会)94号(2004年1月)に掲載された大越邦生さんの「コスモスとヒマワリ 〜古代瓦の編年的尺度批判〜」です。同論文で大越さんは軒丸瓦の編年観に対して次のように疑義を示されました。

 「白鳳期以前の九州から、複弁蓮華文(ヒマワリ型)は本当に出土しないのだろうか、の問いである。白鳳期以前の複弁蓮華文(ヒマワリ型)は九州に存在する。それどころか、九州を淵源とした文様の可能性すらある。その事例を挙げよう。」とされ、「石塚一号墳(佐賀県佐賀郡諸富町)出土の装飾品」を次のように紹介されています。

 「筑後川河口近くの石塚一号墳は六世紀後半の古墳といわれる。ここから華麗な馬具や蓮華文をほどこした装飾品が出土している。金銅製の装飾品は蓮華文がタガネで打ち出されており、掛甲の胴部にも同じく蓮華文がほどこされている。」

 次いで、福岡県の長安寺廃寺の造営を「欽明二三(五六二)年に長安寺は存在していた」と理解され、「長安寺廃寺はすでに発掘調査が行われている。その調査報告にもある通り、長安寺の創建瓦は複弁蓮華文(ヒマワリ型)軒丸瓦であり、五六二年頃の瓦であった可能性があるのである。」と6世紀後半に複弁蓮華文があったのではないかとされました。
 更に、「法隆寺釈迦三尊像光背の蓮華文」についても言及され、複弁蓮華文の意匠が7世紀前半に九州王朝では成立していたと次のように指摘されました。

 「光背の銘文により、法隆寺の釈迦三尊像は六二三年に制作されたことが知られている。この光背に複弁蓮華文(ヒマワリ型)が描かれている。」

 この大越論文は九州王朝説への「一撃」に対する「反撃」ともいうべきもので、10年以上も前に出されています。当時、わたしはこの論文の持つ意義について、充分に理解できていませんでした。今回、改めて読み直し、その意義を認識しました。
 大越さんの軒丸瓦の編年観については同意できませんが、「一撃」に対して古田学派から出された最初の「反撃」という意義は重要です。同論文は「東京古田会」のホームページに掲載されています。なお、大越さんには「法隆寺は観世音寺の移築か」という論文もあります。大変優れた内容で、わたしも同意見です。


第1052話 2015/09/12

考古学と文献史学の「四天王寺」創建年

 「洛中洛外日記」1047話『「武蔵国分寺跡」主要伽藍と塔の年代差』において、考古学編年と文献史学との関係性について次のように述べました。

 「考古学者は出土事物に基づいて編年すべきであり、文献に編年が引きずられるというのはいかがなものか」
 「大阪歴博の考古学者は、考古学は発掘事実に基づいて編年すべきで、史料に影響を受けてはいけないと言われていた」

 優れた考古学編年と多元史観が見事に一致し、歴史の真実に肉薄できた事例として、大阪難波の四天王寺創建年について紹介し、考古学と文献史学の関係性について説明したいと思います。
 四天王寺(大阪市天王寺区)の創建(開始)は『日本書紀』により、推古元年(593)と説明されていますが、他方、大阪歴博の展示説明では620年頃とされています。この『日本書紀』との齟齬について大阪歴博の学芸員の方にたずねたところ、考古学は出土物に基づいて編年するものであり、史料に引きずられてはいけないというご返答でした。まことに考古学者らしい筋の通った見解だと思いました。その根拠は出土した軒丸瓦の編年によられたようで、同笵の瓦が創建法隆寺や前期難波宮整地層からも出土しており、その傷跡の差から四天王寺のものは法隆寺よりも時代が下るとされました。
 ところが九州年号史料として有名な『二中歴』年代歴には「倭京二年(619)」に「難波天王寺」の創建が記されており、大阪歴博の考古学編年と見事に一致しているのです。ちなみに、歴博の学芸員の方はこの『二中歴』の記事をご存じなく、純粋に考古学出土物による編年研究から620年頃とされたのです。わたしは、この考古学的編年と『二中歴』の記録との一致に驚愕したのものです。そして、大阪歴博の7世紀における考古学編年の精度の高さに脱帽しました。
 このように文献史学における史料事実が考古学出土事実と一致することで、仮説はより真実に近い有力説となります。しかし事態は「天王寺(四天王寺)」の創建年の問題にとどまりません。すなわち、『二中歴』年代歴の「九州年号」やその「細注」記事もまた真実と見なされるという論理的関係性を有するのです。文献史学が考古学などの関連諸学の研究成果との整合性が重視される所以です。
 古田学派研究者においても、この関連諸学との整合性が必要とされるのですが、残念ながらこうした学問的配慮がなされていない論稿も少なくありません。自分自身への戒めも含めて、このことを述べておきたいと思います。


第1051話 2015/09/11

古田先生登場「桂米團治さんオフィシャルブログ」

 桂米團治さんのオフィシャルブログに古田先生や妻とわたしとの写真が掲載され、古田学説が見事な要約で紹介されています(9月9日付)。KBS京都放送のラジオ番組「本日、米團治日和」の収録時などの写真です。その要約があまりにも見事で、かなり古田先生の本を読み込んでおられ、正確に理解されておられることがうかがえます。大変ありがたいことです。転載し、紹介させていただきます。

「桂米團治さんオフィシャルブログ」より転載

2015.09.09 《古田武彦さん登場 @ KBS京都ラジオ》
http://www.yonedanji.jp/?p=16146

古田武彦さん──。知る人ぞ知る古代史学界の大家です。

「いわゆる“魏志倭人伝”には邪馬台国(邪馬臺国)とは書かれておらず、邪馬壱国(邪馬壹国)と記されているのです。原文を自分の都合で改竄してはいけません。そして、狗邪韓国から邪馬壱国までの道程を算数の考え方で足して行くと、邪馬壱国は必然的に現在の福岡県福岡市の博多あたりに比定されることになります」という独自の説を打ち立て、1971(昭和46)年に朝日新聞社から『「邪馬台国」はなかった』という本を出版(のちに角川文庫、朝日文庫に収録)。たちまちミリオンセラーとなりました。

その後、1973(昭和48)年には、「大宝律令が発布される701年になって初めて大和朝廷が日本列島を支配することができたのであり、それまでは九州王朝が列島の代表であった」とする『失われた九州王朝』を発表(朝日新聞社刊。のちに角川文庫、朝日文庫に収録)。

1975(昭和50)年には、「『古事記』『日本書紀』『万葉集』の記述には、九州王朝の歴史が大和朝廷の栄華として盗用されている部分が少なくない」とする『盗まれた神話』を発表(朝日新聞社刊、のちに角川文庫、朝日文庫に収録)。

いずれも記録的な売り上げとなりました☆☆☆

実は、芸能界を引退された上岡龍太郎さんも、以前から古田学説を応援して来られた方のお一人。

「古田史学の会」という組織も生まれ、全国各地に支持者が広がっています。

が──、日本の歴史学会は古田武彦説を黙殺。この45年間、「どこの国の話なの?」といった素振りで、無視し続けて来たのです。

しかし、例えば、隋の煬帝に「日出づる処の天子より、日没する処の天子に書を致す。恙無きや」という親書を送った人物は、「天子」と記されていることから、厩戸王子(ウマヤドノオウジ)ではなく、ときの九州王朝の大王であった多利思比孤(タリシヒコ…古田説では多利思北孤=タリシホコ)であったと認めざるを得なくなり、歴史の教科書から「聖徳太子」という名前が消えつつある今日、ようやく古田学説に一条の光が射し込む時代がやってきたと言えるのかもしれません^^;

とは言え、古田武彦さんは大正15年生まれで、現在89歳。かなりのご高齢となられ、最近は外出の回数も減って来られたとのこと。なんとか私の番組にお越し頂けないものかなと思っていたところ──。

ひょんなことから、「古田史学の会」代表の古賀達也さんにお会いすることができたのです(^^)/

長年にわたり米朝ファンでいらした鋸屋佳代子さんのご紹介で、古賀さんご夫妻とスリーショットを撮る機会を得た私。

古賀達也さんのお口添えにより、先月、私がホストを勤めるKBS京都のラジオ番組「本日、米團治日和。」への古田武彦さんの出演が実現したという次第!

狭いスタジオで、二時間以上にわたり、古代史に纏わるさまざまな話を披露していただきました(^◇^;)

縄文時代…或いはそれ以前の巨石信仰の話、海流を見事に利用していた古代人の知恵、出雲王朝と九州王朝の関係、平安時代初期に編纂された勅撰史書「続日本紀」が今日まで残されたことの有難さ、歴史の真実を見極める時の心構えなどなど、話題は多岐に及び、私は感動の連続でした☆☆☆

老いてなお、純粋な心で隠された歴史の真実を探求し続けておられる古田先生の姿に、ただただ脱帽──。

古田武彦さんと古賀達也さんと私の熱き古代史談義は9日、16日、23日と、三週にわたってお届けします。

水曜日の午後5時半は、古代史好きはKBSから耳が離せません(((*゜▽゜*)))


第1050話 2015/09/10

武蔵国分寺跡「塔跡2」の

      「6度東偏」の謎

 武蔵国分寺跡資料館でいただいた「塔跡2」の調査報告書(コピー)によると、七重塔とされる「塔跡1」の西側約55mの地点から発見された遺構は平成15〜17年の調査の結果、塔跡とされ、「塔跡2」と名付けられました。堅牢な版築基台が出土しましたが、礎石や根固め石はなどは検出されなかったとあります。

 今回の現地調査を行うまでは、この「塔跡2」も「塔跡1」と同様に主軸は真北を向いていると理解していたのですが、同地でいただいたパンフレットをよく見るとどうも東偏しているのではないかと思われました。同行された茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集委員、古田史学の会・会員)もそのことに気づかれました。そこで、資料館の石井さんに「塔跡2」の発掘調査報告書を見せて欲しいとお願いしたところ、先のコピーをいただきました。

 その報告書によると「塔跡2」は「僧寺中心軸線に対して約6°東偏する。」と記されていました。「僧寺中心軸線」とあるのが、真北方位の「塔跡1」なのか、7度西偏する金堂などの主要伽藍なのかこの記載からは不明ですが、現地調査の結果から考えると真北方位の「塔跡1」に対して6度東偏していると考えざるをえませんし、コピーにあった「図3 七重塔西方地区(塔跡2本体部)全体図」もそのように作図されています(茂山さんが測定されました)。
以上の考古学的出土事実は次のことを指し示しています。

1.最初に「塔跡1」が真北方位で造営された。
2.次いで金堂・講堂など主要伽藍が7度西偏して造営された。
3.その後に「塔跡1」の西隣に6度東偏して「塔跡2」が造営された。あるいは造営しようと版築基台が造られた。

 以上のような経緯が想定されるのですが、それらの中心軸方位が「めちゃくちゃ」です。これで一つの「国分寺」跡と言えるのでしょうか。南北方位で造営された東山道武蔵路と同一方位を持つ「塔跡1」は造営者の統一された設計思想・意志(北極星を重視)が感じられますが、7度西偏した主要伽藍や、6度東偏している「塔跡2」はその主軸の向きを決定した理由や設計意志が、わたしには理解不能なのです。特に「塔跡2」を主要伽藍とも「塔跡1」(七重塔)とも異なる方位にした理由、しなければならなかった理由がわかりません。

 しかし、武蔵国を代表する国分寺設計にあたり、その採用方位の不統一を設計者や造営主体者の「趣味」の問題とすることは学問的ではありません。何か理由があったはずです。それを考えるのが歴史学ですから、この謎から逃げることは許されません。主要伽藍の7度西偏については「磁北」とする作業仮説(思いつき・アイデア)が提起されたのですが、6度東偏も「磁北」とすることができるでしょうか。「塔跡2」の造営は『続日本後紀』の記事(承和12年〔845〕3月条、七重塔焼失・再建記事。)などから9世紀中頃と考えられているようですが、もしそうであれば100年間ほどで磁北が7度西偏から6度東偏に変化したことを証明しなければなりません。これもまた、大変な作業ですし、100年で磁北がそれほど変化するものかどうかも、わたしにはわかりません。不思議です。(つづく)


第1049話 2015/09/09

聖武天皇「国分寺建立詔」の多元的考察

 『続日本紀』天平13年(741)に見える聖武天皇による「国分寺建立詔」に基づき、全国の国分寺造営時期を8世紀中頃以降とする不動の理解(信念)により、様々な矛盾が噴出しているのですが、この「国分寺建立詔」などを多元史観・九州王朝説の視点から考察してみたいと思います。

 国分寺建立に関して『続日本紀』には次のような記事が見えます(武蔵国分寺跡資料館解説シートNo.3「武蔵国分寺関連年表」による)。

○天平13年(741) 聖武天皇が国分寺建立の詔を発布する。
○天平16年(744) 国ごとに正税四万束を割き、毎年出挙して国分寺造営の費用に充てる。
○天平19年(747) 国分寺造営について国司の怠惰を責め、郡司を専任として重用し、三年以内の完了を命じる。
○天平勝寶8年(756) 聖武太上天皇一周忌斎会のため、使を諸国に遣わし、国分寺の丈六仏像の造仏、さらに造仏殿、造塔を促す。

 このように天平13年の建立詔の後も、その財政的負担が大きいためか、諸国の国分寺造営がはかどらなかったことがうかがえます。そのため天平19年には、三年以内に完了させろと催促の命令が出されています。こうした事情を多元史観・九州王朝説の視点から考察しますと、次のような当時の状況が浮かび上がります。

1.九州王朝による告貴元年(594)の「国府寺」建立の命令による国分寺が存在していた場合、それとは別に建立しなければならない。(「洛中洛外日記」718話をご参照ください)
2.九州王朝の「国府寺」が失われていた場合は、新たに新築することになるが、同じ場所に造るか別の場所に造るかの判断を迫られる。
3.九州王朝の「国府寺」の一部、たとえば塔だけが残っていた場合、その塔を再利用するか、別の場所にすべて新築しなければならない。
4.同じ場所、あるいは近隣に造る場合、大和朝廷への恭順の姿勢を示すためにも、九州王朝の「国府寺」とは異なることを、あえて強調しなければならない。

 以上のような状況が考えられますが、諸国の豪族(国司)にとっては経済的負担も大きく、もし九州王朝の「国府寺」が存続していれば、新たに新築しなければならないことに、非道理を感じたはずです。他方、新たな権力者(大和朝廷)に逆らうことも困難だったのではないでしょうか。命令に従わない国司に替えて、郡司を重用するというのですから、なおさらです。

 このような状況下において、武蔵国では九州王朝「国分寺」の「塔」だけは残っていたので、それは再利用するが、全体としては九州王朝の「国府寺」とは別物であることを強調するために、7度西偏させた主要伽藍を新築したと考えてみれば、現在の「武蔵国分寺跡」の状況をうまく説明できるように思います。もちろん、他の可能性もありますので、一つの想定できるケースとして提起したいと思います。(つづく)


第1048話 2015/09/08

盛況!『盗まれた「聖徳太子」伝承』

発刊記念東京講演会済み

 今夜は長岡市のホテルで書いています。長岡駅に隣接するお気に入りのお店でおいしいお酒と食事を済ませて、一息ついたところです。

 6日の『盗まれた「聖徳太子」伝承』発刊記念東京講演会は106名参加者(+主催者6名)で盛況でした。「古田史学の会」としては初めての東京講演会でもあり不安でしたが。多くの皆さんにご参加いただき、ありがとうございました。ご協力いただいた「東京古田会」「多元的古代研究会」をはじめ会場を提供していただいた東京家政学院大学の関係者の皆様に心より御礼申し上げます。
 同講演会の責任者の服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)は「これからも年に二回は発刊記念講演会を行います」と挨拶されていましたので、これはやるしかないなと覚悟を決めました。ミネルヴァ書房から『「邪馬台国」論争を超えて』(仮称)の年内発行を予定していますから、来春には発刊記念講演会を開催しなければなりませんが、「古田史学の会」役員会での検討と承認が必要です。来春には『古代に真実を求めて』19集(九州年号特集)を発行しますので、その発刊記念講演会も開催できればと思います。
 講演では、正木裕さんが基礎的な「聖徳太子」多元論を丁寧に解説され、わたしからは多利思北孤の弟を「肥後の翁」とする最新の仮説について報告しました。九州王朝系図の「草壁氏系図」の公表は関心を持ってお聞きいただけたようです。

聖徳太子の原像ー姓は阿毎、字は多利思北孤 正木裕

「日出ずる処の天子と『肥後の翁』」古賀達也

 これからも定期的に東京講演会を開催したいと願っています。関東の皆さんに喜んでいただけるような講演会を続けられればと思います。最後に、お手伝いいただいた関東地区の会員の方々に深謝いたします。


第1047話 2015/09/08

「武蔵国分寺跡」主要伽藍と塔の年代差

 今日の午後は東京で商談を行い、今は上越新幹線で新潟県長岡市に向かっています。明日は朝から新潟県の代理店・顧客訪問です。

 武蔵国分寺跡資料館の中道さんの説明によりますと、武蔵国分寺跡で最も古い「塔1」の造営年代は聖武天皇の国分寺建立命令(天平13年、741年)が出された7世紀中頃で、金堂などのその他の主要伽藍は10年ほど遅れて造営されたとのことでした。この10年ほど遅れたとする根拠も、天平19年(747)に出された、国分寺建設を3年以内に完成させろという命令でした。いずれも『続日本紀』を史料根拠とした造営年の判断ですが、出土瓦からも「塔1」の方が金堂のものよりも古い様式を持つという相対編年に依られているようです。
 「塔1」と主要伽藍の先後関係については、わたしも賛成なのですが、「塔1」を『続日本紀』を根拠に8世紀中頃とする判断には疑問を持っています。「洛中洛外日記」1045話で指摘しましたように、「単弁蓮華文」軒丸瓦はもう少し古く見ても良いよう思いますし、第一の疑念はたった10年ほどの年代差で主軸が7度も振れる設計を同一寺院内の建造物で行うものでしょうか。また、10年後なら「塔1」を設計造営した人たちはまだ健在であり、造営主体が同一の権力者であれば、このような不細工な「設計変更」をするでしょうか。この疑問を中道さんにぶつけたのですが、返答に困っておられたようでした。
 更に、考古学者は出土事物に基づいて編年すべきであり、文献に編年が引きずられるというのはいかがなものかと、遠回しに「苦言」を呈したのですが、真剣に受け止めていただきました。その応答や態度から、とても誠実な考古学者との印象を受けました。大和朝廷一元史観の宿痾は、現場でまじめに発掘調査されている若い考古学者も苦しめているのだなあ、と思いました。
 なお、わたしが難波宮についていろいろと教えていただいている大阪歴博の考古学者は、考古学は発掘事実に基づいて編年すべきで、史料に影響を受けてはいけないと言われていたことを思い出しました。一つの見識を示したものと思いますが、考古学と文献史学のあり方や関係性は学問的に重要な問題ですので、この問題についても考えを述べてみたいと思います。(つづく)


第1046話 2015/09/08

「武蔵国分寺跡」主要伽藍調査報告書の方位

 今朝は新幹線で東京へ「とんぼ返り」です。月曜日は勤務先の定例会議がありますので、どうしても京都に帰らなければなりません。また今日から金曜日までは関東・新潟出張が連泊で続きます。

 武蔵国分寺跡資料館などでいただいた資料を精査していますと、面白いことに気づきました。国分寺市教育委員会発行のパンフレット「武蔵国分寺跡調査のあゆみと成果 -僧寺金銅跡-」(平成26年3月)によりますと、表紙に描かれた「武蔵国分寺跡の主要遺構」では、金堂などの主要伽藍の南北軸は真北より7度西偏しているのですが、別のページに記載された明治36年の図面(『古蹟』武蔵国分寺礎石配列図)では金堂の礎石配列が南北方位印と平行しており、西偏していないのです。同様に掲載されている大正12年発行『東京府史蹟勝地調査報告書』第一冊収録の「金堂址礎石配置図」も南北方位印に平行しており、西偏していません(調査が実施されたのは大正11年)。更に昭和31年の発掘調査の図面も西偏していません。平成21〜24年の最新調査の説明文に付された金堂礎石配置図も西偏していません。
 この国分寺市教育委員会発行のパンフレットを精査して、わたしの頭か眼がおかしくなったのかと不安にかられてしまいました。そこで今度は恐らく最新版パンフレットと思われる平成27年3月に国分寺市教育委員会ふるさと文化財課発行の「武蔵国分寺跡の整備」を見ますと、最も精密な測量図が掲載されており、金堂・講堂・鐘楼・南門などすべてが7度西偏していました。これでようやく「武蔵国分寺」主要伽藍が「塔1」を除いて7度西偏していることが確認されました。もちろん、9月5日の現地調査でも西偏を確認しています(茂山憲史さんのご協力による)。
 それではなぜ明治や大正、昭和31年の測量図面では伽藍主軸方位が真北として作図されていたのでしょうか。これは推定ですが、恐らくそれらの測量図作成において「磁北」が「方位印」として採用されたのではないでしょうか。ということは、明治時代から現在までこの地域の磁北は真北から「7度西偏」していたことになり、そうであればこれらの測量図がうまく説明できます。「磁北」が時期や地域によりどのくらい振れるのかは知りませんが、この地域では明治から現在まで「7度西偏」としてよさそうです。たぶん、明治時代以後であれば「磁北」についての科学的測定データが残されているのではないでしょうか。
 それにしても、行政が発行しているパンフレットや昔の報告書も用心して取り扱わなければならないということを改めて実感しました。よい経験となりました。(つづく)


第1045話 2015/09/07

「武蔵国分寺」七重塔創建瓦の編年

 「洛中洛外日記」1044話の「武蔵国分寺」現地調査緊急報告で書きましたように、「塔1」(七重塔)の造営年代は8世紀中頃とされていますが、その根拠は『続日本紀』の聖武天皇の国分寺建立詔に基づくものであり、出土瓦などによる考古学的事実によるものではないことがわかりました。
 出土瓦だけからは編年が難しいのかもしれませんが、同遺跡の「塔1」創建瓦として展示されているものは「単弁八葉蓮華文」であり、7世紀後半によく見られる「複弁」ではありません。むしろ7世紀初頭や前半の瓦に似ているように思われ、どこかで見たような記憶がありましたので、持参していた『一瓦一説』(森郁夫著)に記載されている瓦と見比べたところ、7世紀前半頃とされる法輪寺(奈良県生駒郡斑鳩町)の軒丸瓦・軒平瓦の文様によく似ていました。もちろん、全く同じではありませんし、編年には地域性もありますから、断定するものではありません。
 また、武蔵国分寺跡資料館の発掘担当者の中道さんの説明によれば、『一瓦一説』に掲載されているような「(この地域では)きれいなものは見たことがない」とのことで、確かに展示されていた瓦は近畿の博物館などで見るような整った瓦はありませんでした。「複弁蓮華文」の軒丸瓦も、この地方ではほとんど出土していないと説明されていましたので、畿内の瓦の様式編年をそのまま適用するには用心が必要なようです。
 しかしながら、それでも「武蔵国分寺」の「塔1」の編年が、考古学的出土物よりも『続日本紀』の聖武天皇の国分寺建立命令の詔勅(天平13年、741年)を根拠に8世紀中頃以後とされているのは、大和朝廷一元史観の宿痾と言わざるを得ません。やはり多元史観による「九州王朝の国分寺建立」という視点で、各地の国分寺遺跡の編年見直しが必要と思われます。(つづく)

 報告は、肥さんの夢ブログ(中社)内の

古田史学に再掲載。


第1044話 2015/09/05

「武蔵国分寺」現地調査緊急報告

 肥沼孝治さん(古田史学の会・会員)のご案内で、「東山道武蔵路」「武蔵国分寺」「武蔵国分尼寺」などの現地地調査を行いました。総勢8名で3時間ほどかけて、しっかりと見学できました。そして、予想を上回る成果をあげることができました。考察はこれからですが、取り急ぎ事実関係を中心に緊急報告を行います。
 武蔵国分寺跡資料館などで次の知見、説明を得ました。これらの持つ意味については、順次「洛中洛外日記」で考察します。

1.七重塔の造営年代は8世紀中頃とされていますが、その根拠は『続日本紀』の聖武天皇の国分寺建立詔に基づくものであり、出土瓦などによる考古学的事実によるものではない。瓦からは編年が難しいとされているようでした。
2.真北に主軸を持つと思っていた「塔2」の発掘図面を精査すると、東に約5度ほど振れており(茂山憲史さんの指摘・測定による)、真北に主軸を持つ「塔1」(七重塔)とは造営年代や造営主体が異なると思われる。
3.「武蔵国分尼寺」の主軸も、内部の伽藍により異なっていた。尼坊とその他の伽藍(金銅・講堂など)の主軸にはずれがありました。
4.同地域には7世紀の遺跡がないとされており、従って「塔1」の編年も8世紀中頃とする根拠の一つにされていた。

 他にも現地でなければわからない知見が次から次へと得られました。「歴史は脚にて知るべきものなり(秋田孝季)」という言葉を実感しました。懇切丁寧に説明していただいた武蔵国分寺跡資料館の中道さん石井さん、そして下見やご案内をしていただいた肥沼さんに感謝いたします。(つづく)

多元的「武蔵国分寺」現地調査

 報告は、肥さんの夢ブログ(中社)とリンクしています。


第1043話 2015/09/05

「九州顔」の女性たち

 今朝は東京に向かう新幹線の車中で綴っています。午後からは国分寺市で「武蔵国分寺」の現地調査を行います。今回の「洛中洛外日記」は、あまり学問的ではないが、経験的に間違いないという話題です。
 九州出身(福岡県久留米市)のわたしは、二十歳のとき就職で京都に来ました。その後、帰省の度に九州には典型的な女性の顔があることに気づきました。九州にいるときは当たり前すぎて、しかも九州以外の人と比較するという機会もなかったので気づかなかったのですが、九州人の典型的な顔があるのです。特に女性はその特徴から、見た瞬間に「九州顔」ではと思い、ご当人やそのご両親の出身地を調べるとかなりの確率で九州出身であることが多いのです。最近はお化粧の技術もアップしましたので、わかりにくくはなりましたが、やはり特徴的な「九州顔」の人はわかります。
 皆さんもよくご存じの芸能人でいえば、田中麗奈さん(久留米市出身)、家入レオさん(久留米市出身)、黒木瞳さん(八女郡出身)、吉田羊さん(久留米市出身)などはその代表的な女性で、いずれも眼に特徴が現れています。わたしの母親はそれほどでもありませんが、祖母や叔母さんたちの何人かは「九州顔」でした。
 この「九州顔」の特徴は南に行くほど顕著ですから、元々は南九州人の特徴だったのかもしれません。おそらく、邪馬壹国の卑弥呼や壹与も「九州顔」だったのではと、かなりの確信を持っているのですが、いかがでしょうか。


第1042話 2015/09/03

JR武生駅の「花筐(はながたみ)」像

 今日は仕事で福井県越前市に来ています。JR武生駅で降りたのですが、構内に「花筐(はながたみ)」像があることに気づきました。説明によると「継躰大王」と后が主人公の謡曲「花筐(はながたみ)」の像とのことで、「継躰大王」と后の「照日の前(てるひのまえ)」の小さなブロンズ像です。この地域には「継躰大王」伝承が多数残っているとも記されていました。当地の「味真野(あじまの)」が継躰天皇の出身地とされているようです。
 「花筐」という謡曲があることは知っていましたが、この字が「はながたみ」と訓むことや、継躰天皇と后が主人公ということは、恥ずかしながら今日初めて知りました。この謡曲「花筐」は世阿弥の作とされていますが、大和に上った継躰天皇を「照日の前」が凶女となって追うというあらすじです。この「照日の前」は后となったということですから、後の安閑天皇を産んだことになります。
 この物語が世阿弥による全くの創作なのか、継躰天皇に関する史実の反映なのか、それとも越前にいた別の権力者の伝承を世阿弥が転用したのか、気になるところです。幸い、「古田史学の会」には謡曲にめっぽう詳しい正木裕さん(古田史学の会・事務局長)がおられますので、お会いしたら教えていただこうと思います。
 なお、越前市は武生市などが合併により誕生した行政区ですが、JR武生駅付近の地名が「府中」「国府」ですから、越前国府があった場所です。ちなみに近くに国分寺もありました。現存寺院の方位は真北よりやや西偏しているようでした。