2016年11月一覧

第1301話 2016/11/29

太宰府防衛の「羅城」跡が発見される

 今日は大阪市で開催の繊維応用技術研究会に出席しています。大阪府立産業技術総合研究所の山下怜子さんの講演「ニオイ可視化への検討:色素によるにおいのセンシングとその評価方法」の座長を仰せつかっています。色素の応用技術に関する研究報告ということもあって、楽しみな発表です。

 お昼休みに正木裕さん(古田史学の会・事務局長)のfacebookを見ると、太宰府を防衛する巨大土塁が筑紫野市から発見されたという本日朝刊の記事が紹介されていました。これはすごい遺跡が発見されたとスマホで関連ニュースを検索しています。
 熊本県和水町と福岡市で、太宰府を「日本最古の条坊都市」とする講演をしたばかりですから、このタイミングに不思議な縁を感じました。
 WEBニュースによれば、発見されたのは大宰府政庁の南東約7kmに位置する前畑遺跡で、南北に走る約500mの土塁とのこと。地図で見ると、東からの侵入に対して太宰府を防衛する位置にあり、ニュースでは白村江戦(663年)の敗北後に防衛施設として造営されたと説明されていますが、北の唐や新羅からの防衛施設とするには位置が不自然です。やはり九州王朝の都、太宰府条坊都市を取り囲む羅城の一部と思われます。
 今日は夜遅くまで学会の懇親会が予定されていますが、なるべく早く帰宅して、今回の発見について情報収集したいと思います。


第1300話 2016/11/27

和水町講演会で古代寺院調査を要請

 昨日の熊本県和水町での講演会は70名近くの町民の皆さんにご参加をいただき、盛況でした(主催:菊水史談会、平田稔会長)。久留米地名研究会の荒川恒光会長も見えておられ、旧交を温めました。
 正木裕さん(古田史学の会・事務局長)は、最初に九州王朝説の概要を話され、邪馬壹国の所在地が博多湾岸であること、倭人伝に記された傍国に肥後にあった国々が含まれるという仮説を発表されました。
 わたしからは九州王朝における肥後の役割として、古代の鉄や馬の産地であったこと、隋使がわざわざ肥後(阿蘇山)まで訪問していることから、九州王朝の天子・多利思北孤に次ぐ有力者(肥後の君、弟か)がいたことを説明しました。その上で、太宰府が日本最古の条坊都市であること、7世紀中頃には難波に副都(前期難波宮)を造営するに至ったことなどを解説しました。
 最後に、肥後には6世紀末から7世紀初頭の古代寺院があったとする伝承が残されており、地元の皆様で調査していただきたいと協力要請しました。
 肥後の古代寺院・神社について、史料に次の記録がありますのでご紹介します。
○山鹿郡中村手永 久原村の一目神社
 「当社ハ継体帝善記四年十一月四日高天山ノ神主祭之」(善記四年:525年)
○山鹿の日輪寺
「俗説ニ当寺ハ敏達天皇ノ御宇、鏡常三年百済国日羅大士来朝ノ時、当国ニ七伽藍ヲ建立スル其一ニテ、初メ小峰山日羅寺ト称シ法相宗ナリ」(鏡常三年:583年。『二中歴』では「鏡當」)
○上益城郡鯰手永 小池村の項
 「常楽寺飯田山大聖院  ・・・。寺記ニ云。推古帝ノ御宇、吉貴年中、聖徳太子ノ建立ト云伝ヘ・・・」(吉貴年中:594〜600年。『二中歴』では「告貴」)
○下益城郡砥用手永 甲佐平村の項
 「福成寺亀甲山  ・・・。推古帝ノ御宇吉貴元年、湛西上人ノ開基。」(吉貴元年:594年。『二中歴』では「告貴」)


第1299話 2016/11/19

天武朝(天武14年)国分寺創建説

 本日の「古田史学の会」関西例会はいつも以上にエキサイティングな一日となりました。中でも正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の発表で、天武朝(天武14年)国分寺創建説なるものがあったことを初めて知りました。正木さんの見解では『日本書紀』天武14年条に見える「諸国の家ごとに仏舎を造営せよ」という記事は、34年遡った九州王朝の記事とのことでした。国分寺のなかには創建軒丸瓦が複弁蓮華紋のケースもあり、その場合は天武期の創建とすると瓦の編年ではうまく整合するので、天武期(白鳳時代)における九州王朝の国分寺創建の例もあるのではないかと思いました。なお、正木さんの発表を多元的「国分寺」研究サークルのホームページに投稿するよう要請しました。

 茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集委員)の発表は、水城の軍事上の機能として、単に土塁と堀による受け身的な防衛施設にとどまらないとするものでした。このテーマについては茂山さんとのメールや直接の意見交換を交わしてきたこともあり、水城と交差する御笠川をせき止めることが、当時の土木技術で可能だったのか否かという質疑応答が続きました。来月も後編の発表を予定されているとのことで、わたしとは異なる見解ですが、刺激的で勉強になるものでした。

 なお、このテーマについて茂山説に賛成する服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)とわたしとで例会後の二次会・三次会で「場外乱闘」のような論争が続きました。知らない他人が見たら二人がケンカしているのではと心配されたかもしれませんが、関西例会ではよくあることですので、心配ご無用です。
11月例会の発表は次の通りでした。

〔11月度関西例会の内容〕
①「淡海」から「近江」そして「大津」は何時かわったのか(堺市・国沢)
②倭国・日本国考 八世紀初頭の造作(八尾市・服部静尚)
③「水城は水攻めの攻撃装置である」という作業仮説について(上)(吹田市・茂山憲史)
④藤原京下層瀬田遺跡の円形周溝暮(径30m)の調査報告について(川西市・正木裕)
⑤天武の「国分寺創建詔」はなかった -『書紀』天武十四年の「仏舎造営・礼拝供養」記事について-(川西市・正木裕)
⑥『二中歴』細注の「兵乱海賊始起又安居始行」と「阡陌町収始又方始」(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
大阪府立大学「古田史学コーナー」の移転(二階に)・パリ在住会員奥中清三さん寄贈の絵画(「壹」の字をデザイン)を「古田史学コーナー」に展示・千歳市の「まちライブラリー」(国内最大規模の「まちライブラリー」)で「古田史学コーナー」設置の協力・11/26和水町で古代史講演会の案内・11/27『邪馬壹国の歴史学』出版記念福岡講演会の案内(久留米大学福岡サテライト)・2017.01.22 古田史学の会「新春古代史講演会」の案内・「古代史セッション」(森ノ宮)の報告と案内・会費未納者への督促・『古代に真実を求めて』20集「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」の編集について・藤原京下層瀬田遺跡の円形周溝暮(径30m)の調査報告について・その他


第1298話 2016/11/16

権力者「出身地名」の広域化

 古代において、中国でも日本でも権力者の出身地(発生地)の地名が、その権力範囲の拡大に伴って広域化するという現象があります。
 たとえば近畿天皇家の場合は地方名称「大和(やまと)」が、そのまま日本国の別称となり。それから派生した「大和魂」とか「大和なでしこ」という言葉も作られました。もちろん「奈良県の魂」「奈良県の女性」という意味ではなく、「日本の魂」「日本の女性」を意味するわけです。
 それは九州王朝においても同様だったと思われます。九州内の地方権力者「生葉(浮羽)の臣」の場合でも、その出身地「うきは」は現在の福岡県うきは市ですが、「うきは」地名の淵源はうきは市の中の小領域「大字浮羽」です。このことを知ったのはわたしの本籍が以前は「浮羽郡浮羽町大字浮羽」だったからです。そこには古賀家墓地があり、父やご先祖様が眠っています。
 これが九州王朝の天子の場合はどうでしょうか。筑紫君磐井などに見られるように、九州王朝の天子・国王は「筑紫」という地名を冠しています。今の福岡県にほぼ相当する地域で、6世紀末頃には筑前と筑後に分国されています。これが『日本書紀』編纂の時代になると「九州島」を「筑紫」とする表記例が現れます。この傾向は中世にも引き継がれ、「筑紫」地名が広域化します。
 逆に「筑紫」地名の淵源をたどりますと、現在の筑紫野市に「大字筑紫」「字筑紫」がありますので、権力者「出身地名」が広域化するという現象からすれば、九州王朝の淵源の地がこの「字筑紫」だったということになります。当地の近隣には筑紫神社(筑紫野市原田)もありますから、まさに「筑紫の中の筑紫」という地域です。
 その観点からすれば、古田説では九州王朝は天国領域(壱岐・対馬など)から天孫降臨で糸島半島に侵攻した勢力ですから、その淵源は天国領域か、せめて九州島内では糸島博多湾岸の地こそ「出身地」と称すべきです。ところが「筑紫君」を自称していますから、糸島博多湾岸よりも内陸部に位置する「筑紫」を淵源とすることを主張しています。この不思議な現象について、その理由はまだよくわかりませんが、おそらくは九州王朝発展史にその理由があることでしょう。九州王朝はどうしても「筑紫」を名乗りたかった、そう考えるほかありません。近世でも尾張出身の秀吉が一時期「羽柴筑前守」を名乗ったように。この小領域「筑紫」の謎は今後の研究テーマです。


第1297話 2016/11/13

『九州倭国通信』に「条坊都市の多元史観」掲載

 今年から機関紙交流を始めた「九州古代史の会」から『九州倭国通信』No.183が送られてきました。5ページにわたり、拙稿「条坊都市の多元史観」を掲載していただきました。
 一元史観の文献史学研究者よりも、一元史観の考古学者の研究論文に九州王朝説を支持する考古学的事実が発表され始めたことを紹介し、中でも井上信正さんの太宰府条坊都市研究の論理性と画期性を解説したものです。
 今月26日(和水町)と27日(福岡市)で行う古代史講演会で、「日本最古の条坊都市 太宰府から難波京へ」というテーマでも詳しくお話ししたいと思います。特に九州の皆さんのご参加をお待ちしています。


第1296話 2016/11/12

パリの画家、奥中清三さんとの邂逅

 今日は四年ぶりに帰国されたパリの画家、奥中清三さん(古田史学の会・会員)と大阪でお会いしました。四年前は京都でお会いし、京都御所や相国寺、同志社大学をご案内したのですが、今回はI-siteなんばの図書館の古田武彦コーナーを正木裕さん(古田史学の会・事務局長)とご案内しました。
 奥中さんは44年前にパリに行かれ、モンマルトルでパリ市公認の画家として活躍されています。古くからの古田先生のファンで、邪馬壹国の「壹」の字をモチーフとした作品を数多く手がけられています。その中の一枚をお土産としていただきましたので、I-siteなんばの古田武彦コーナーに飾らせていただきました。わたしのfacebookにその写真などを掲載していますので、ぜひご覧ください。
 その後、大阪歴博や紅葉が美しい大阪城、難波宮址をご案内しました。古田先生没後の古田学派の状況や最新の研究動向についてもご説明し、長時間歓談しました。再会を約束し、固い握手を交わしてお別れしました。「朋あり、遠方より来る。また楽しからずや」の快晴に恵まれた秋の一日でした。


第1295話 2016/11/04

井上信正説と観世音寺創建年の齟齬

 今朝は新幹線で豊橋市方面に向かっています。今日は蒲郡地区の顧客訪問を行い、明日は豊橋技術科学大学で開催される中部地区の化学関連学会で招待講演を行います。講演テーマは機能性色素の概要と金属錯体化学の歴史と展望(用途開発)などについてです。化学系学会等の講演はこれが年内最後となり、その後は今月26〜27日の熊本県和水町と福岡市での古代史講演に向けて準備を始めます。一昨日も京都市産業技術研究所で講演したのですが、今年は講演回数がちょっと多すぎたように感じますので、来年はもう少し落ち着いたペースに戻したいと思っています。

 拙稿「多元的『信州』研究の新展開」を掲載していただいた『多元』136号(多元的古代研究会)を新幹線車内で精読していますが、大墨伸明さん(鎌倉市)の「大宰府の政治思想」に太宰府条坊に関する井上信正説が紹介され、自説に援用されていることに注目しました。わたしも以前から井上信正さんの太宰府条坊の編年研究に関心を寄せてきましたので、古田学派の研究者に井上説が注目されだしたことは喜ぶべきことです。
 井上説の核心は太宰府条坊の北側にある政庁や観世音寺の区画と条坊都市の規格(小尺と大尺)が異なっており(そのため観世音寺の南北中心軸は条坊道路と大きくずれている)、政庁・観世音寺よりも条坊都市の方が先に造営されていることを考古学的に明らかにされたことです。その上で、井上さんは政庁2期の成立時期を通説通り8世紀初頭(和銅年間頃)、条坊都市の成立はそれよりも早い7世紀末とされました。その結果、太宰府条坊都市と藤原京(新益京)とは同時期の造営とされました。
 この井上説は大和朝廷一元史観にとっては「致命傷」になりかねないもので、わが国初の大和朝廷による条坊都市とされている藤原京と地方都市に過ぎない太宰府条坊都市が同時期に造営された理由を説明しにくいのです。ですから井上説は多元史観・九州王朝説にとって刮目すべきものです。
 政庁や観世音寺よりも条坊都市の成立が早いとする井上説に賛成ですが、その年代については井上説では説明困難な問題があります。それは観世音寺の創建年についてです。『続日本紀』などにも観世音寺は天智天皇が亡くなった斉明天皇のために造営させたという記事があり、どんなに遅くても670年頃には大宰府政庁2期宮殿の位置と共に方格地割を決め、造営を開始していなければなりません。そうすると観世音寺以前に太宰府条坊都市が造営されたとする井上説により、条坊都市造営の年代は更に遡って、遅くても7世紀前半頃となります。その結果、太宰府条坊都市は藤原京よりも早く、わが国最古の条坊都市ということになるのです。この論理的帰結は九州王朝説にとっては当然のことですが、大和朝廷一元史観の学界にとって受け入れ難いものなのです。このような大和朝廷一元史観にとって「致命傷」となる論理性を持つ井上説は学界に受け入れられないのではと、わたしは危惧しています。
 他方、文献史学から観世音寺創建年を見ますと、九州年号の白鳳年間とする『二中歴』や、白鳳10年(670)とする『日本帝皇年代記』『勝山記』があります。観世音寺創建瓦の老司1式瓦の編年も藤原京に先行するとされてきましたから、文献史学と考古学の双方が観世音寺創建年を670年頃と、一致した結論を示しています。その上で井上説の登場により、太宰府条坊都市の造営は7世紀前半頃となり、わが国最古の条坊都市は九州王朝の都、太宰府ということになるのです。井上説が一元史観の学界に受けいれられることを願ってやみません。