2016年12月04日一覧

第1306話 2016/12/04

現地説明会資料に「大宰府都城」の表記

 筑紫野市前畑遺跡で発見された太宰府防衛の土塁(羅城)の現地説明会資料が、犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員、久留米市)から送られてきましたので、解説部分を下記に転載します。
 この解説で驚くべき表現が使用されています。なんと「大宰府都城(とじょう)」と記されているのです。さらに「東アジア古代史上において大きな意味をもち、わが国において類をみない稀有な遺跡」と説明されています。筑紫野市教育委員会による、太宰府を「都城」とするこの表記はほとんど九州王朝説による解説といえます。九州王朝の故地では、考古学的出土事実が当地の考古学者を確実に九州王朝説へと誘っているかのようです。
 さらに土塁の造営を「7世紀後半」と認定し、「大宰府防衛の羅城」と理解されていますが、実はこの理解は大和朝廷一元史観に決定的な一撃を与える論理性を有しています。すなわち、この土塁が防衛すべき「大宰府政庁Ⅱ期」の宮殿も7世紀後半には存在していたことが前提となった防衛施設だからです。従来の8世紀初頭という「大宰府政庁Ⅱ期」の編年が数十年遡るわけですが、ことはこれだけでは終わりません。「大宰府政庁Ⅱ期」よりも太宰府条坊都市の成立が早いという井上信正説がここでも頭をもたげてくるのです。
 井上信正説に従えば、「大宰府政庁Ⅱ期」が7世紀後半成立となることにより、太宰府条坊都市は7世紀前半まで遡り、難波京(652年前期難波宮造営)や藤原京(694年遷都)よりも太宰府がわが国最古の条坊都市となってしまうのです。もちろん九州王朝説に立てば当然の結論です。
 犬塚さんが現地説明会で、この土塁(羅城)が守るべき太宰府の創建時期について質問されたそうですが、筑紫野市教育委員会の担当者が回答できなかったのにはこのような「事情」があったからです。地元の考古学者が井上信正説や九州王朝説を知らないはずがなく、大和朝廷一元史観を否定してしまう今回の発見に、彼らも本当に困っていることと思います。

【現地説明会資料から転載】
    平成28年 12月3日(土曜日)・4日(日曜日)
    筑紫野市教育委員会 文化情報発信課
新発見太宰府を守る土塁
前畑遺跡第13次発掘調査 現地説明会

1.発見された土塁(どるい)
 筑紫駅西口土地区画整理事業に伴い実施している前畑遺跡の発掘調査では、弥生時代前期〜中期の集落、古墳時代後期の集落と古墳群、窯跡、中世の館跡、近世墓などが発見され、遺跡が長期間にわたって形成されてきたことがわかりました。
 今回の丘陵部での調査では、7世紀に造られたと考えられる長さ500メートル規模の土塁が、尾根線上で発見されました。

2.土塁の構造
 土塁は大きく上下2層から成り、上層の外に土壌(どじよう:模式図紫部分)を被せた構造です。上層は層状に種類の異なる土を積み重ねた「版築」(はんちく:模式図緑部分)と呼ばれる工法で造られています。このような工法は特別史跡の水城跡(みずきあと)や大野城跡(おおのじょうあと)の土塁の土壌にも類似しており、7世紀後半に相次いで築造された古代遺跡に共通した要素と言えます。
 ただ、すでに知られている水城や小水城、とうれぎ土塁、関屋(せきや)土塁といった7世紀の土塁は、丘陵と丘陵の間の谷を繋ぎ、敵の侵入を遮断する目的で作られた城壁としての機能が想定されています。
 今回、前畑遺跡で発見された土塁は、宝満川から特別史跡基難城跡(きいじょうあと)に至るルート上に構築されたもので、丘陵尾根上に長く緩やかに構築された、中国の万里の長城のような土塁となっています。
 また、土塁の東側は切り立った斜面になっており、西側はテラス状の平坦面を形成しています。これは東側から攻めてくる敵を想定した構造で、守るべき場所、つまり大宰府を防御する意図を持って築かれたと考えられます。

3,前畑遺跡で発見された土塁の歴史的な背景
 このように都市を防御するために城壁(土塁や石塁)を巡らす方法は、古代の東アジアで中国を中心として発達し、羅城(らじょう)と呼ばれていました。
 日本に最も近い羅城の類例は、韓国で発見された古代百済の首都・涸批(サビ)を守る扶余羅城(プヨナソン、全長8.4Km)があります。扶余羅城は、北と東の谷や丘陵上に土塁を構築し、西を流れる錦江(白馬江)を取り込んで羅城としています。自然の濠ともいうべき、河川をうまく利用して羅城を築いていることになります。
 日本書紀によれば、660年に滅んだ百済の遺臣達によって、この筑紫の地に664年に水城、665年には大野城と基難城が築造されており、脊振山系や宝満山系などの山並みの自然地形を取り込んだ形で大宰府にも羅城があったのではと長く議論されてきました。前畑遺跡の土塁は丘陵尾根上で発見され、丘陵沿いに北へ下ると、低地から宝満川へ至ります。このことから、当初の大宰府の外郭線は、宝満川を取り込んでいた可能性も想定され、古代の東アジア最大となる全長約51Kmにおよぶ大宰府羅城が存在した可能性がにわかに高まってきました。

4.土塁の評価
 前畑遺跡の土塁は、文献史料に記載はないものの、古代大宰府を防衛する意図を持ったものであると考えられ、百済の城域思想を系譜にもつ大宰府都城(とじょう)の外郭線(がいかくせん)に関わる土塁であると推測され、東アジア古代史上において大きな意味をもち、わが国において類をみない稀有な遺跡です。
 このような巨大な都市が建設されるのを契機に、「日本」の国号や「天皇」といった用語が史料に現れ、「律令(りつりょう)」という法治国家の制度が整備され、現在の日本の原形としての古代国家が成立しました。前畑遺跡から見る景色は日本のあけぼのを感じる特別な眺望といえるのではないでしょう。


第1305話 2016/12/04

太宰府防衛土塁の現地説明会報告

 筑紫野市で発見された太宰府防衛の土塁(羅城)の現地説明会が12月3日に開催されたそうで、参加された犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員、久留米市)から報告メールと写真が送られてきました。写真はわたしのfacebookに掲載していますので是非ご覧ください。犬塚さんのご了解をいただきましたので、メールを転載します。

【以下、メールから転載】
本日筑紫野市で発見された土塁の現地説明会がありました。
天候にも恵まれ多くの見学者や報道機関が集まり関心の高さが窺えます
筑紫野市教委の担当者も、これほど反響があるとは思わなかったとのことです。
さて、説明は別添資料に沿って行われましたので読んでいただければと思いますが、
資料にない説明及び質問に答えた部分については以下のとおりです。
 
●土塁の西側(内側)のテラス状になった部分は兵士が移動する道路として使用されていた。烽火がうまくいかなかった場合兵士がこの道路を走って連絡に行ったと思われる。
 
●大宰府羅城推定図にある外郭線が阿志岐山城と繋がっていないのは、阿志岐山城が西側(大宰府側)に向いて築かれていることから、羅城の外城として築かれた可能性が考えられるためである。
 
●この土塁と阿志岐山城の間を流れる宝満川も外郭線としていたと考えられるが、これは扶余羅城が錦江を外郭線としていたのと同じである。
 
●この土塁からは北に大野城や阿志岐山城、西に基肄城がよく見える位置にある。当時は水城も見えたと思われる。軍事上このようなロケーションは非常に重要である。
 
●このような羅城を造るためには、相当な人員とそれを支える住居、食糧補給等が必要だが、どのような体制で造られたか不明。
 
●この土塁が造られた時期が7世紀とする直接の根拠はないが、7世紀と判断した根拠は三つある。
 一つは、土塁のテラス状の道路が8世紀に使用されていたことと土塁の下にある古墳時代の遺跡が6世紀のものであることがわかっており、その間に当該土塁があること。
次に、この土塁は版築という工法で造られており、7世紀に造られた水城などの工法と同じであること。
 最後に、7世紀の東アジアが、このような防御施設が必要とされるような状況にあったこと。
 これらのことから7世紀と判断した。
 
 このような大規模な「大宰府羅城」が造られたとすれば、守るべき太宰府はいつごろできたのかと質問したのですが、はっきりした答えはありませんでした。「白村江の敗戦後に水城だけでも短期間ででできたとは思えない。」とのことでしたので、羅城全体となるとかなりの期間が必要ですが、その前に太宰府が存在する必要があるとするとどのような説明ができるのでしょうか。
 説明資料に太宰府が描かれていないのはそのためでしょうか。
 
 以上現地説明会の報告です。
 
犬塚幹夫


第1304話 2016/12/04

漢風諡号「孝徳」の出典

 『東京古田会ニュース』に『二中歴』関連研究の投稿原稿執筆のため、『二中歴』影印本を読み直したのですが、孔安国による「古文孝経序」が収録されていることに気づきました。孔安国は孔子十一世の子孫(前漢時代の学者。『孔子家語』の作者)とされる人物です。『古文孝経』には孔安国による「序」が付されていますが、その「古文孝経序」が『二中歴』「産所歴」冒頭の「読書」に収録されています。
 『二中歴』所収「古文孝経序」はわたしのfacebookに掲載していますのでご覧ください。その「古文孝経序」に「大化」と「孝徳」という文言があり、『日本書紀』孝徳紀に見える九州年号「大化」と、後に追号された漢風諡号「孝徳」と関係があるのではないかと思いました。「古文孝経序」の当該部分は次の通りです。

「上有明王則大化滂流充塞六合」(上に明王あれば則大化滂流し、六合に充塞す。)
「夫孝徳之本也」(それ孝は徳の本なり。)

 「古文孝経序」や『孝経』の内容や意味については触れませんが、もしこの「大化」「孝徳」の文字が『日本書紀』と偶然の一致でなければ、『日本書紀』に追記された漢風諡号を作成したとされる淡海三船(722〜785)は孔安国の「古文孝経序」を読んでいたことになります。そうであれば、淡海三船は『日本書紀』の「孝徳紀」に見える「大化」という年号と「古文孝経序」に見える「大化」を意識して、漢風諡号も「古文孝経序」にある「孝徳」を選んだということになります。
 以上、わたしの思いつきに過ぎませんが、『日本書紀』の漢風諡号の成立経緯や出典を考える上で、ヒントになるかもしれません。なお、この思いつきについて先行説があるかもしれません。ご存じの方はご教示ください。