2017年12月一覧

第1563話 2017/12/31

「天武朝」に律令はあったのか(補)

 前期難波宮が律令制下の宮殿・官衙であり、九州王朝律令による「大蔵省」「兵庫職」や大蔵省配下の「漆部司」がその宮域に存在した痕跡や史料について説明してきました。こうした史料は九州王朝律令の復元研究に役立つものと思います。
 前期難波宮にあった「難波朝廷」でどのような律令が施行されていたのか、いつ施行されたのかなど、わからないことばかりです。おそらくは大和朝廷の大宝律令に内容的に近いのではないかと推定しています。というのも、王朝交代したばかりの近畿天皇家にとって、九州王朝律令は国内では唯一のお手本でもあり、おそらくは九州王朝の官僚群の一部は大和朝廷に徴用されたり、新王朝設立に参画したと思われますので、この推定はそれほど荒唐無稽ではないと考えています。
 その施行時期についても一つの試案があります。それは九州年号「常色」年間(647〜651)ではないかとするものです。九州年号研究の初期段階では、九州年号に仏教に関する文字が多いことから、この「常色」も仏教に関係する「用語」ではないかと考えていました。ところが正木裕さんの研究により、この常色年間に九州王朝(倭国)で様々な制度改革や政治的事績の痕跡が諸史料に見られることから、「常色」の「常」は「のり。典法」のことであり、法律や制度を意味するという説が有力となりました。
 評制(行政区画「国・評・里(五十戸)」制)が全国で開始(天下立評)されたのも、現在の研究では「常色」年間頃とされていますし、常色6年は改元されて白雉元年(652)となり、この年には国内初の朝堂院様式の巨大宮殿である前期難波宮が完成しています。こうした一連の国家的事業とともに常色年間に九州王朝(倭国)は新たな律令「常色律令」を施行したのではないかと考えています。これはまだ作業仮説(思いつき)の域を出ませんが、有力な視点ではないでしょうか。引き続き、研究を深めたいと思います。


第1562話 2017/12/28

「天武朝」に律令はあったのか(5)

 前期難波宮の規模や様式が、律令官制に基づく全国統治機能を持った宮殿・官衙であり、大蔵省下の漆部司などの考古学的痕跡が発見されていることなどを紹介してきましたが、前期難波宮に大蔵省があった史料根拠(痕跡)もあります。その史料とは他ならぬ『日本書紀』です。前期難波宮が失火により焼失した次の記事が天武紀に見えます。

 「乙卯の酉の時に、難波の大蔵省に失火して、宮室悉に焚(や)けぬ。或は曰く『阿斗連薬が家の失火、引(ほびこり)て宮室に及べり』といふ。唯し兵庫職のみは焚(や)けず。」『日本書紀』天武紀朱鳥元年(686)正月条

 岩波『日本書紀』の頭注では、この「大蔵省」や「兵庫職」を次のように解説し、『日本書紀』編纂時の追記などとしています。

〔大蔵省〕後の大蔵省に相当する官司の倉庫で、難波にあったもの。省は追記であろう。
〔兵庫職〕大宝・養老令制の左右兵庫・内兵庫に相当する官司。朝廷における武器の管理・出納のことにあたった。ここはおそらく兵庫職に所属する倉庫の意で、やはり難波にあったもの。

 このように一元史観の通説による解釈では、律令官制に基づく「大蔵省」「兵庫職」のことではなく、律令以前の難波にあった「役所」の「倉庫」のこととしています。
 しかし、前期難波宮に大蔵省配下の「漆部司」の存在をうかがわせる考古学的痕跡が出土していることから、朱鳥元年条に見える「大蔵省」「兵庫職」は九州王朝律令に基づく官司と理解することができます。もしこれらが『日本書紀』編纂時の追記・脚色であれば、この前期難波宮焼失記事中に突然このような律令官制に基づく「大蔵省」「兵庫職」という表記が現れる理由の説明が困難です。ところが前期難波宮九州王朝副都説に立ってみると、初めて考古学的出土事実と『日本書紀』の史料事実とが九州王朝律令によるものとする合理的理解が可能となるのです。(了)


第1561話 2017/12/27

「天武朝」に律令はあったのか(4)

 前期難波宮が律令官制による統治機構を有していたとする考古学的痕跡について、更に説明を加えます。
 2017年1月に大阪府文化財センターの江浦洋さんの講演会を「古田史学の会」で開催したのですが、そこで前期難波宮の西方官衙の北側にある「谷2」(13層)から大量の漆容器が出土していたことを説明されました。その出土層位は「戊申年」(648年)木簡が出土した「谷1」(16層)に対応するもので、前期難波宮存続期間に相当する堆積地層です。この漆容器は各地から前期難波宮に納められたと思われ、その数は三千個にも及んでいます。
 江浦さんが特に着目されたのが、その出土位置でした。前期難波宮の北西に位置する出土地(谷2)は前期難波宮の宮域に接しており、ゴミ捨て場として利用されたと推定されています。前期難波宮の周囲にはいくつもの谷筋が入り込んでいますが、宮域北西の谷に漆容器が大量廃棄されていることから、その付近に漆を取り扱う「役所」が存在していたと考えられます。
 江浦洋さんの論文「難波宮出土の漆容器に関する予察」(『大阪城址Ⅲ』大阪府文化財センター、2006年3月)によれば、漆部司について次のように説明されています。

 「奈良時代には令制官司の一つとして『漆部司』の存在が知られている。漆部司は大蔵省の被官であり、漆塗り全般を担当している。」522頁
 「今回の調査地から本町通を挟んだ南側の市立中央体育館の跡地では、(財)大阪市文化財協会による数次の発掘調査が行われている。この一連の調査では、前期難波宮段階に帰属する建物群が検出されている。建物群は塀によって区画されており、その中から整然と配置された総柱の堀立柱建物群が検出されている。
 この一画は内裏西方倉庫群、内裏西方官衙と仮称されており、すでに多くの研究者が注目し、呂大防の『長安城図』の対応する位置に『大倉』という記載とともに描かれた建物群との関連が注目され、『大蔵』に関連する施設である可能性が指摘されている。」524頁
 「また、これも後の史料であるが、『陽明文庫』の平安京宮城図には宮城の北西隅に『漆室』と書かれた区画がある(図329)。これをそのまま対応させることには異論があろうが、今回の調査地が難波宮の北西隅近くに該当することは明らかであり、ここに漆を保管する『漆室』との記載がある点は看過しがたい事実であるといえる。」525頁

 このように前期難波宮宮域北西隅の谷から大量出土した漆容器と、律令官制の大蔵省下にある漆部司、そして唐の長安城図の「大倉」や平安京宮城図の「漆室」との位置の一致は、前期難波宮が律令官制による宮殿・官衙とする有力な考古学的事実・史料事実なのです。(つづく)


第1560話 2017/12/26

「天武朝」に律令はあったのか(3)

 近畿天皇家が「天武朝」のときには自前の律令を持っていなかったことを説明しましたが、前期難波宮が律令官制による統治機構を有していたとする論理性と考古学的痕跡について説明します。
 まず大枠の論理として、平城宮・藤原宮と前期難波宮の規模・様式の対応という視点があります。王朝交代後の平城宮や藤原宮が、大宝律令・養老律令により全国統治した大和朝廷の王宮・官衙遺構であることは論を待たないと思います。そうであれば、律令官制による全国統治に必要な規模と様式を備えていたのが平城宮と藤原宮であったと理解できます。このことにも反対意見は出ないでしょう。したがって、平城宮・藤原宮とほぼ同じ規模で同じ朝堂院様式を持つ前期難波宮も「律令官制による全国統治が可能」な宮殿・官衙遺構と見なしうるということになります。
 もしこの論理性に反対されるのであれば、その反対論は「律令も持たず、全国統治もしていなかった近畿天皇家が、必要もなくなぜか突然に列島内最大規模の王宮を造営した」ということになります。更に言えば、日本列島の代表王朝であった九州王朝(倭国)は自らの王宮(太宰府)よりも大規模な前期難波宮を近畿天皇家が造営することを咎めることもなく、また造営にあたり各地から「番匠」「工人」を徴用したことも許したということになります。このような歴史解釈は、古田先生の九州王朝説を是とするわたしには到底理解も賛成もできません。(つづく)


第1559話 2017/12/25

「天武朝」に律令はあったのか(2)

 701年以前の近畿天皇家には律令がなかったとする古田説ですが、その根拠の一つに次の金石文の存在があります。
 それは「金銅威奈大村骨蔵器」(国宝)です。江戸時代の明和年間(1764〜1772)に現在の奈良県香芝市から発見されたもので、甕を伏せた下からこの骨蔵器が出土したと伝えられています。球形の容器で、蓋と身が半球形に分かれる特殊な形です。同骨蔵器は蓋に319字におよぶ銘が刻まれています。これには、威奈大村が宣化天皇の子孫にあたり、「後清原聖朝(持統朝か)」のときに任官、「藤原聖朝(文武朝か)」で少納言、大宝律令制定とともに従五位に列せられ、慶雲2年(705)に越後守に任ぜられるが、同4年(707)に任地で歿し、大和の葛城下郡山君里、今の香芝市穴虫の地に葬ったことなどが記されています。
 このようにこの骨蔵器は九州王朝から大和朝廷への王朝交代直後に製造された同時代金石文で第一級史料です。その銘文に「以大宝元年律令初定」と、大宝元年(701)に成立した大宝律令が大和朝廷として初めて制定した律令である旨が記されています。大宝律令を制定した文武朝の高級官僚(少納言)だった威奈大村の骨蔵器に記されているのですから、大和朝廷としての最初の律令は大宝律令であり、それ以前の九州王朝の時代には自前の律令は持っていなかったことを意味します。すなわち九州王朝説に立てば、700年以前の九州王朝の時代には、近畿天皇家も含む九州王朝(倭国)支配領域内は「九州王朝(倭国)律令」に基づいて統治されていたということになるのです。
 したがって、「天武朝」は律令を持っていなかったこととなり、前期難波宮が仮に「天武朝」の宮殿であったとしても、律令制に対応した朝堂院様式の官庁や東西の官衙は、近畿天皇家以外の権力者(九州王朝)が制定した律令により官僚群が政務に就いていたと理解せざるを得ません。ですから前期難波宮を「九州王朝(倭国)律令」に基づいて全国統治していた官僚群がいた九州王朝の宮殿・官衙と理解する九州王朝副都説は有力な仮説なのです。
 7世紀中頃における九州王朝の勢力を過小に見積もり、近畿天皇家が九州王朝よりも優勢であったかのような論調が古田学派内でも見られますが、そうした方々は本稿で紹介したような史料根拠に基づく論理的な歴史理解の方法、すなわち論証をもっと重視されるべきです。「学問は実証よりも論証を重んずる(村岡典嗣先生)」「論理の導くところへ行こう。たとえそれが何処へ至ろうとも(岡田甫先生)」「論証は学問の命(古田武彦先生)」という言葉を、古田学派の皆さんに繰り返しわたしは訴えたいと思います。(つづく)


第1558話 2017/12/24

「天武朝」に律令はあったのか(1)

 前期難波宮九州王朝副都説への反論が、これまでの論争を通して、ほぼ前期難波宮「天武朝」造営説に収斂してきたように感じています。前期難波宮のような巨大宮殿が白村江戦以前の九州王朝(倭国)の興隆期に、九州王朝の配下である近畿天皇家の孝徳の宮殿と見なすことへの不自然さのためか、前期難波宮造営を天武の時代と見なし、その頃であれば九州王朝よりも近畿天皇家の勢力が優勢と考え、前期難波宮を近畿天皇家(天武天皇)の宮殿と理解することができるという見解です。
 しかし、この「天武朝」造営説には避け難い難問があります。それは「天武朝」に律令があったとするのかという問題です。一元史観の論者であれば、ことは簡単で、「近江令」や「浄御原令」が近畿天皇家には存在したとする通説通りの理解でなんの問題もありません。ところが、わたしたち古田学派は、701年以前の「近江令」「浄御原令」の内実は九州王朝律令であり、近畿天皇家の律令は大宝律令に始まるとする古田説を支持しています。この古田説は前期難波宮「天武朝」造営説と両立できないのです。
 大和朝廷の巨大宮殿、平城宮や藤原宮は朝堂院様式の中央官庁群を有しており、大宝律令・養老律令に基づく数千人(服部静尚さんの計算によれば約八千人)の官僚がそこで政務に就いていたことは古田学派の論者も反対はできないでしょう。とすれば、平城宮・藤原宮と同規模の朝堂院様式の宮殿である前期難波宮でも律令による官僚組織が機能していたと考えざるを得ません。
 したがって、古田学派の論者による前期難波宮を天武の宮殿とする理解では、先の古田説と矛盾してしまいます。ところが、わたしの九州王朝副都説では、九州王朝律令に基づいて前期難波宮で九州王朝の官僚群が政務に就いていたとしますので、古田説と矛盾がないのです。(つづく)


第1557話 2017/12/23

古田先生との論争的対話「都城論」(9)

 前期難波宮に関する一元史観の通説「前期難波宮=難波長柄豊碕宮」とわたしの九州王朝副都説の論理構造について解説しましたので、最後に古田先生が提唱された「難波長柄豊碕宮=博多湾岸」説の論理構造について説明します。
 『日本書紀』には九州王朝(倭国)の事績が盗用(転用)されていることは、『盗まれた神話』などで古田先生が明らかにされてきたところですが、晩年、先生は更にそれを敷衍して、近畿から出土した金石文・木簡や『日本書紀』の記述中に北部九州の類似地名があれば、それは北部九州を舞台にした地名や事績の盗用とする方法論を多用されました。本件の「難波長柄豊碕宮=博多湾岸」もその論理構造に基づかれたものです。
 通説では前期難波宮を難波長柄豊碕宮と理解するのですが、「長柄」や「豊碕」地名は、前期難波宮がある大阪市中央区の法円坂ではなく、北区にあることから、前期難波宮は孝徳紀に見える難波長柄豊碕宮ではないとされました。この点はわたしも同意見で、そうであれば難波長柄豊碕宮は北区の「長柄」「豊崎」にあったのではないかとわたしは考えたのですが、古田先生は博多湾岸にも「名柄」「難波(なんば)」「豊浜」という類似地名があることから、大阪市北区ではなく博多湾岸説に立たれたのです。そして、その理解の延長線上に博多湾岸に「難波朝廷」もあり、その地の宮殿で「天下立評」したとまで仮説を展開されました。
 この論理構造は、大阪市と博多湾岸の両者に類似地名がある場合は、必要にして十分な論証や考古学的実証(7世紀中頃の宮殿遺構の出土)を経ることなく、九州王朝の中枢領域にあったとする理解を優先させるということが特徴的です。この方法を古田先生は晩年に多用されたため、その方法論上の有効性と適用範囲について、わたしと先生との間で様々な論議や論争が行われましたが、このことは別に詳述したいと思います。
 極論すれば、古田先生は近畿出土の金石文や『日本書紀』に見える「地名」を北部九州へと収斂させる方向で七世紀の九州王朝史復元を試みられました。他方、わたしは前期難波宮副都説や九州王朝近江遷都説のように、九州王朝の直轄支配領域を近畿へと拡大させることで七世紀の九州王朝史復元を試みました。すなわち、両者の仮説のベクトルが真反対だったのです。
 ですから、前期難波宮副都説を発表するとき、わたしはこの古田先生とのベクトルの「衝突」を明確に意識し、意見の対立は避け難いのではないかと懸念していました。そしてそれは現実のものとなり、先生との学問的意見対立は10年近くにも及んだのでした。この体験は「弟子」としてはかなりつらいものでしたが、2014年の八王子セミナーにて、それまで反対されてきた副都説に対して「検討しなければならない」と言っていただいたことが、わたしにとってどれだけ嬉しかったことか、ご想像いただけると思います。しかし、検討される間もなく、翌年10月に先生は亡くなられました。(了)


第1556話 2017/12/18

1月21日(日)新春講演会のご案内済み

 「古田史学の会」では恒例の新春講演会を下記の通り開催します。今回は「古田史学の会」関西例会で論議が繰り返され、現在も進展し続けている最新テーマについて服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)と正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が講演されます。
 服部さんからは、九州王朝説に刺さった三本の矢の一つ、7世紀初頭の寺院遺跡の出土分布は北部九州ではなく近畿に濃密分布するという問題に関連して、素弁蓮華文軒丸瓦の出土分布の研究が報告されます。九州王朝説にとって不都合な考古学的事実から逃げず、真実解明に真正面から挑戦されたものです。それが成功しているか否か、九州王朝説論者にとって重要で興味深い講演となるでしょう。
 正木さんからは、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代期の歴史の真相に、九州王朝系近江朝という新仮説で挑まれた、近年の研究の概要が報告されます。更に最新の発見である倭姫王=九州王朝(倭国)大宮姫説を詳述されます。この正木新説が成立すれば、7世紀後半から8世紀初頭の王朝交代の姿が復元できそうです。ぜひ、皆さん自身が参加され、お二人の研究の当否をご判断ください。

2018年「古田史学の会」新春講演会
□日時 1月21日(日)13時開場 13:30開会
□会場 i-siteなんば(大阪府立大学なんばサテライト)2階A会議室
 アクセス:地下鉄御堂筋線・大国町駅から東北東へ徒歩8分。zeppナンバの東隣。
□演題・講師
「古代瓦の変遷と飛鳥寺院の研究」 服部静尚氏
「王朝交代-倭国・近江朝・日本国-」 正木 裕
□参加費 1000円

※講演会終了後、懇親会を開催します。希望者は当日、会場でお申し込みください。
(懇親会参加費は別途)


第1555話 2017/12/16

九州王朝系近江朝説のキーパーソン、倭姫王

 本日、「古田史学の会」関西例会がドーンセンターで開催されました。来年1月もドーンセンターです。2月は福島区民センターで、関西例会としては初めて使用する会場です。お間違えなきよう。
 今回も関西例会らしく優れた研究発表や厳しい討論が行われ、発表者も多いため時間ぎりぎりまで続きました。参加者も増えてきたため、定員40名の会場では足らなくなりそうです。
 今回の発表では、正木さんの九州王朝系近江朝研究の進展が衝撃的でした。『日本書紀』天智紀で、天智が称制から正式に天皇に即位した天智七年に皇后として登場した倭姫王こそ九州王朝(倭国)の姫であり、天智は倭姫王を皇后に迎えたことにより九州王朝(倭国)の権威を継承(不改常典の成立)したのではないかとされました。壬申の乱以後、倭姫王は『日本書紀』から消えますが、鹿児島県の『開聞古事縁起』によれば壬申の乱で都から逃げてきた大宮姫の伝承が記されており、その大宮姫こそ倭姫王ではないかとされました。これは『日本書紀』と地方伝承の対応という面白いテーマです。来年1月21日(日)の「古田史学の会」新春講演会ではもっと詳しく本テーマを講演していただきます。
 12月例会の発表は次の通りでした。このところ参加者が増加していますので、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。また、発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレスへ)か電話で発表申請を行ってください。

〔12月度関西例会の内容〕
①新唐書の目多利思比孤について(茨木市・満田正賢)
②隋書国伝「犬を跨ぐ」について(大山崎町・大原重雄)
③伊都国に常治したのは「一大率」ではない(姫路市・野田利郎)
④九州王朝説による(前期)難波宮造営の理由(八尾市・服部静尚)
⑤前期難波宮と「戊申年」木簡(神戸市・谷本茂)
⑥フィロロギーと古田史学【その7】(吹田市・茂山憲史)
⑦投馬国の里程について(川西市・正木裕)
⑧『日本書紀』天智紀の年次のずれについて(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 『古田史学会報』143号の紹介・会費入金状況・新会員の紹介・「古田史学の会」関西例会の会場、1月(ドーンセンター)、2月(福島区民センター)・1/21「古田史学の会」新春講演会(大阪府立大学i-siteなんば)・『古代に真実を求めて』21集の編集状況・「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)の報告と案内(12/28親睦会)・北朝鮮漁船漂着と出雲王朝の国引き神話・「難波京の実在性が現実に」大阪歴博、文化財研究所・「孝徳朝における難波の諸宮」市大樹氏論文紹介・1/19〜20東京古田会「難波宮跡と古市古墳群を訪ねる旅」・服部静尚さんが「多元の会」で発表・水野顧問の病状報告(竹村順弘事務局次長)・その他


第1554話 2017/12/15

飛鳥池の「冨本銭」と難波の「富本銭」

 久冨直子さん(古田史学の会・会員、京都市)からお借りしている『大津の都と白鳳寺院』(大津市歴史博物館)を読んでいて気づいたのですが、飛鳥宮から出土した無文銀銭について、次のような紹介記事がありました。

 「3の無文銀銭については、飛鳥では飛鳥宮跡出土のこの一点のほか、飛鳥池遺跡、石神遺跡、河原寺跡などからも出土しています。
 『日本書紀』の天武天皇一二年(六八三)四月一五日条に「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」(原漢文)という詔があり、ここに記されている使用禁止となった銀銭が無文銀銭であると考えられています。富本銭よりも古い、日本列島最古の金属貨幣といえます。ちなみに、近江は、崇福寺跡から舎利容器とともに出土した一二枚のほか、唐橋遺跡の橋脚遺構からの出土例などがあり、大和に次いで無文銀銭の出土が多い場所です。」(9頁)

 飛鳥宮跡から出土した無文銀銭の写真とともに、このように紹介されています。崇福寺出土の無文銀銭十二枚は有名ですが、唐橋遺跡の銀銭のことは知りませんでした。この記事では近江が「大和に次いで無文銀銭の出土が多い場所」とされていますが、これは不正確な記事です。わたしの知る限りでは難波の四天王寺近郊から百枚に及ぶ無文銀銭が江戸時代に出土していたことが知られ、その内の一枚が現存しており大阪歴博にはレプリカが展示されています(ほとんどが鋳つぶされたとのこと)。ですから、無文銀銭の最多出土地は大和ではなく摂津難波なのです。この点、前期難波宮九州王朝副都説や難波天王寺九州王朝創建説との関係が注目されます。
 こうした記事に触発されて、以前から気になっていた大阪市細工谷遺跡から出土した冨本銭について、大阪歴博で関連の発掘調査報告書を閲覧しました。それらによると、細工谷出土の冨本銭の文字は「ウカンムリ」の「富」で、飛鳥池出土の冨本銭は「ワカンムリ」の「冨」とのこと。写真でも確認しましたが、細工谷出土のものは「富本銭」で飛鳥池出土は「冨本銭」なのです。また、重量も細工谷出土「富本銭」は飛鳥池のものの半分とのこと。この文字や重量の違いが何を意味するのか検討中です。
 古田先生は冨本銭は九州王朝の貨幣ではなかったかと考えておられましたが、前期難波宮九州王朝副都説や正木裕さんの九州王朝系近江朝説も視野に入れて、無文銀銭や冨本銭の位置づけを再検討しなければならないと考えています。


第1553話 2017/12/13

難波京朱雀大路の新展開

 難波京朱雀大路についてはこれまでも論じてきました。最近では「古賀達也の洛中洛外日記【号外】」2017/10/05「難波京の朱雀大路発見について」で、大阪歴史博物館・杉本厚保典さんの論稿を次の通り紹介しました。

※『大阪の歴史を掘る2015』より転載。
平成26年度 大阪市内の発掘調査
   大阪歴史博物館 杉本厚保典
 (前略)
古代の上町台地
難波宮跡での新発見

 前期難波宮の宮城南門(朱雀門)140m南で行った調査⑦(中央区上町1丁目)では、幅1.5〜2.9m、深さ0.3〜0.7mの南北方向の溝が見つかりました(fig,6〜9)。この溝は前期難波宮中心線から西に16.35mのところで中心線に平行して延びていることから、難波京朱雀大路の西側溝と推定されています。中心線で折り返すと道路幅は32.7mに復元され、奈良盆地の横大路(32〜35m)の規模に相当し、古代の道路の中では最大級です。さらにこの溝の東側には小石が分布していました。難波宮の宮域内では1〜5cmの礫による小石敷が見つかっており、道路面にも小石を敷いていた可能性があります。今回の発見は難波宮のメインストリートを復元するための重要な手がかりです。(後略、転載終わり)

 あれだけ大規模な中国風の宮殿を造営した権力者が、その宮殿南門から南に延びる朱雀大路を造らなかったとする見解には納得できなかったのですが、他方、上町台地にはいくつもの谷筋が入り込んでおり、朱雀大路も大きな谷筋で「寸断」されていたのかもしれないと理解していました。
 ところが、先日、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が拙宅に見えられて、二人で古代史談義をしていたのですが、正木さんから朱雀大路を通すために谷を埋め立てた整地層が出土していることを教えていただいたのです。それは大阪歴博『大阪の歴史を掘る2017』の村元健一さんの「平成28年度 大阪市内の発掘調査」5頁に報告されていました。同パンフレットはわたしも持っており、読んだはずですが失念していたようです。当該部分を転載します。

【転載】
 難波宮の周囲に広がる難波京でも大きな成果がありました。難波京では平成26年度の調査で朱雀大路の西側溝と思われる南北溝が見つかりました。この溝を難波宮の中軸線で折り返すと道路幅は32.7mに復元できます。昨年度の調査でも朱雀大路に関わり大きな成果がありました。調査地は天王寺区石ヶ辻町で、想定朱雀大路の上にあたります。東側の細工谷遺跡では平成18年度の調査で西から東に開く谷(五合谷)が見つかり、この谷が奈良時代でも埋められていないことが明らかになりました。谷の状況から考えて谷は朱雀大路を超えて西までのびており、谷が埋められていなければ、道路の敷設は困難だと考えられます。この調査成果が難波京朱雀大路非存在説の有力な根拠となっていました。今回の調査では想定どおり朱雀大路西側で五合谷の谷頭が確認できたのですが、古代に遡る可能性のある整地層も見つかりました。整地層は7世紀前半の地層を覆っていることから、それ以降のものであることが分かります。残念ながら、整地層そのものの時期を絞りこむことはできませんでしたが、今回の調査により、谷の朱雀大路にかかる部分を限定的に整地していた可能性が出てきました。
【転載終わり】

 以上のように、近年の発掘調査により次々と発見される朱雀大路や条坊の痕跡により、巨大な難波京の姿が明らかになりつつあります。


第1552話 2017/12/12

『古田史学会報』143号のご案内

 『古田史学会報』143号が発行されましたので、ご紹介します。このところ採用稿の掲載待ちが続いていましたので、増頁して遅れを取り戻すことにしました。優れた原稿が多く、中には半年待ちのものもあります。採用稿は必ず掲載しますので、申し訳ありませんがお待ちください。
 今号では阿部さんによる『令集解』の研究が一面を飾りましたが、わたしの記憶によれば、古田学派で『令集解』を研究対象とした論稿は初ではないでしょうか。更なる研究の進展が期待されます。
 合田さんからは前方後円墳から出土の「折り曲げ鉄器」についての紹介と九州王朝説による考察がなされました。考古学分野での多元史観による研究は十分とは言えませんので、こうした研究は貴重です。
 西村さんからは、古田先生が提唱された「中国風一字名称」に対する問題点の指摘がなされました。西村さんが関西例会などで以前から指摘されていた問題であり、わたしも含めて、古田学派の研究者はこの西村論稿を避けては通れないでしょう。
 多摩市の岩本さんは会報初登場です。東京講演会のお手伝いをしていただきました。ありがとうございます。
 今号に掲載された論稿は次の通りです。

『古田史学会報』143号の内容
○「古記」と「番匠」と「難波宮」 札幌市 阿部周一
○『令集解』所引「古記」雑感 京都市 古賀達也
○九州王朝説に朗報! 古期前方後円墳の葬送儀礼「折り曲げ鉄器」は九州北部起源-大和にはない 松山市 合田洋一
○九州王朝(倭国)の四世紀〜六世紀初頭にかけての半島進出 川西市 正木裕
○「中国風一字名称」の再考 高松市 西村秀己
○古田史学論集『古代に真実を求めて』第二十集
 「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」について(2の下) 瀬戸市 林伸禧
○講演会報告 深志の三悪筆 -松本市での講演会と懇親会- 古田史学の会・代表 古賀達也
○「壱」から始める古田史学(13)
 古田説を踏まえた卑弥呼のエピソードの解釈② 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○受付から見た講演会 多摩市 岩本純一
○硯出土の報告 筑前町で出土していた弥生時代の「硯」 久留米市 犬塚幹夫
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」セッション
○新春古代史講演会のお知らせ(1月21日、i-siteなんば)
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集
○岩波『日本書紀』の「覩貨邏国」注釈 事務局長 正木 裕
○2017年度会費納入のお願い
○編集後記 西村秀己


第1551話 2017/12/09

古田先生との論争的対話「都城論」(8)

 一元史観における「前期難波宮=難波長柄豊碕宮」に次いで、わたしの前期難波宮九州王朝副都説の論理構造について解説します。
 まず、一元史観による「前期難波宮=難波長柄豊碕宮」の論理構造と下記の①〜④までは同じです。

 ①律令による全国統治に必要な王宮の規模として、大規模な朝堂院様式の平城宮や藤原宮という出土例(考古学的事実)がある。
 ②その例に匹敵する巨大宮殿遺構が大阪市法円坂から出土(考古学的事実)し、「前期難波宮」と命名された。
 ③前期難波宮の創建年代について、孝徳期か天武期かで永く論争が続いた。
 ④「戊申年」(648年)木簡や整地層から7世紀中頃の土器の大量出土(考古学的事実)、水利施設木枠等の年輪年代測定(測定事実)により、孝徳期創建説が通説となった。

 ここまでは考古学的事実に基づいており、一元史観であれ多元史観であれ、考古学的事実を認める限り、それほど大きな意見の差はありません。④の後に一元史観では次のような実証が展開されます。
 「⑤そうした考古学的事実に対応する『日本書紀』孝徳紀に見える『難波長柄豊碕宮』(史料事実)が前期難波宮であるとした。」
 わたしは古田史学・九州王朝説に立っていますから、『日本書紀』の記述を無批判に採用することはできません。そこで①〜④の考古学的事実に対して、九州王朝説を是とする立場から次のように論理展開しました。

 ⑤7世紀中頃に九州王朝(倭国)が施行した評制により全国統治が可能な宮殿・官衙は国内最大規模の前期難波宮だけであることから、前期難波宮は九州王朝の宮殿と見なさざるを得ない。その際、九州王朝(倭国)は当時としては最新の中国風王宮の様式「朝堂院様式」を採用した。
 ⑥九州王朝はその前期難波宮にて、九州年号「白雉」改元の大規模な儀式を行った。そのことが『日本書紀』孝徳紀白雉元年条に記載(盗用)された。

 以上のようにわたしの副都説は、考古学的事実に基づく実証と、九州王朝説を根拠(前提)とする論証との逢着により成立しています。従って、古田先生による九州王朝実在の論証が成立していなければ、わたしの副都説も成立しないという論理構造を有しています。(つづく)


第1550話 2017/12/08

九州王朝の都鳥

 昨日、東京からの帰りの新幹線グリーン車に備えてある雑誌『ひととき』(2017年12月)を読んでいると、「都鳥」という記事が目に留まりました。片柳草生さんによる文と鈴木一彦さんの写真からなるもので、興味深く拝読しました。
 同記事では隅田川を飛ぶユリカモメの写真などが掲載され、ユリカモメのことを都鳥というと紹介されていました。わたしはいつから都鳥をユリカモメのこととするようになったのだろうと不思議に思い調べてみると、古典(伊勢物語・万葉集)などに見える都鳥はユリカモメとするのが有力説であり、ミヤコドリ科のミヤコドリのこととする説は少数とのこと。そして、なぜ都鳥と呼ばれるようになったのかも不明とされているようなのです。
 今から30年ほど昔のことですが、わたしは「市民の古代研究会・九州」(当時)の灰塚照明さんらから、冬になるとシベリア方面から都鳥(ミヤコドリ科)が博多湾岸に飛来するということを教えていただいたことがあり、博多湾岸に九州王朝の都があったから都鳥と呼ばれるようになったのではないかと考えていました。このミヤコドリ科の都鳥はほとんどが博多湾など北部九州にしか飛来しないことから、九州王朝説に立たなければ都鳥という名称の説明がつきません。ですから、都鳥こそ九州王朝説の傍証ともいえる渡り鳥なのです。
 このようにわたしは理解していましたので、いつのまにかユリカモメが都鳥とされてしまい、おまけに東京都がユリカモメを「東京都の鳥」に指定したとのことで、話がややこしくなったようです。そこで提案ですが、ミヤコドリ科の本物の都鳥を福岡市か太宰府市の「市の鳥」に認定してはどうでしょうか。あるいは福岡県の鳥でもよいと思います。古田史学・九州王朝説を地元に広めるためにも、ユリカモメに負けることなく、「都鳥(ミヤコドリ科)=九州王朝の都の鳥」説を提唱したいと思います。

《追記》念のため調べたところ、福岡県の鳥は鴬。そしてなんと福岡市の鳥(海鳥部門)はゆりかもめとのこと。ゆりかもめ、恐るべし。


第1549話 2017/12/06

渤海国書の「日本」

 今朝は久しぶりの東京出張で、新幹線車中で書いています。天候も良く、冠雪した富士山を見たくて窓側のE席を何とか予約できました。

 「洛中洛外日記」1537話の「百済禰軍墓誌の『日本』再考(1)」でも書いたように、「日本」表記に関する先行研究論文を読んでいます。そして、それらにもよく引用されている、『続日本紀』掲載の渤海国王からの国書に見える「日本」について考察を深めています。この渤海国の国書には以前から興味を持っていたのですが、今回、改めて読んでみると面白いことに気づきました。当該国書の一部を引用します。

 「武藝、啓(もう)す。(中略)伏して惟(おもひ)みれば、大王天朝命を受けて、日本、基を開き、奕葉(えきよう)光を重ねて、本枝百世なり。(後略)」聖武天皇 神亀五年正月条(728年)

 渤海国王(このときは渤海郡王)の武藝から聖武天皇に出された国書ですが、「啓す」という、共に唐の冊封を受けている対等な国の間で使用される字を用いていることから、渤海国は日本国とは対等であるとの立場に立った国書とされています。
 この国書記事がある神亀五年(728年)は『日本書紀』成立(720年)以後ですが、『日本書紀』に記された「天皇」という称号ではなく、「大王」と表記していることから、この時点では渤海国は『日本書紀』を入手していなかったと思われます。あるいは、唐の天子(高宗)が「天皇」を称していたことがあるため、それと同じ称号使用を避けたのかもしれません。
 国書では、日本国の成立について大王の天朝が命を受けて、日本を開基したとあり、この「天朝」という表記も意味深です。天朝が日本を開基する前は、その天朝の国名は何だったと理解しているのでしょうか。また、誰からの命を受けたというのでしょうか。一つの試案(作業仮説)として、唐の命を受けた天朝が日本を開基したという理解はいかがでしょうか。唐の冊封を受けている国が日本という国を開基したのですから、唐の命以外に誰からの命を受けたとできるのでしょうか。
 次に注目されるのが「奕葉光を重ねて、本枝百世なり」という日本国の歴史に関する表現です。倭国(九州王朝)と戦った高句麗の後継でもある渤海国は、701年に日本国が倭国(九州王朝)に替わって日本列島の代表者になったことを知っていたと思われますから、その天朝が日本を開基してから「百世」を経ていないことも理解しているはずです。そのため「本枝百世」という表現にしたのではないでしょうか。すなわち、倭国(本)と日本国(枝)を併せて「百世」と認識していたのではないでしょうか。
 倭国と日本国の関係を「本枝」という表現に例えたのは、多元史観・九州王朝説からすれば見事な歴史認識表記と思われるのです。そうだとすれば、倭国から日本国への王朝交代は所謂「放伐」てはなく、遠戚関係にあった権力者間による交代と、渤海国は認識していたと言えるようです。
 以上のように、728年に日本国にもたらされた渤海国からの国書は多元史観・九州王朝説に整合すると思われるのです。引き続き、国書文面の精査と、日本を開基した大王とは誰か、その時期はいつかについて研究したいと思います。

 ここまで書いたところで、新横浜駅に着きました。東京まであと少しです。


第1548話 2017/12/03

前期難波宮と近江大津宮の比較

 「古田史学の会」の福岡市や大阪市での講演会の運営にご協力していただいた久冨直子さん(古田史学の会・会員、京都市)から、『大津の都と白鳳寺院』という本をお借りして精読しています。同書は大津市歴史博物館で開催された「大津京遷都一三五〇年記念 企画展 大津の都と白鳳寺院」の図録で、久冨さんが同企画展を見学され、購入されたものです。
 同書を繰り返し読んでいますが、わたしが最も知りたかった最新の近江大津宮遺跡の規模についての記述があり、以前から気になっていた前期難波宮との規模の比較を行っています。近江大津宮(錦織遺跡)は周辺の宅地化が進んでおり、発掘調査が不十分です。特に朝堂院に相当する部分は北辺の一部のみが明らかとなっており、全容は不明です。そこで、比較的発掘が進んでいる内裏正殿と同南門の規模を前期難波宮と比較しました。次のようです。

〔内裏正殿(前期難波宮は前殿)の規模〕
前期難波宮 東西37m 南北19m
近江大津宮 東西21m 南北10m

〔内裏南門の規模〕
前期難波宮 東西33m 南北12m
近江大津宮 東西21m 南北 6m

 このように652年に創建された前期難波宮に比べて、『日本書紀』では667年に天智が遷都したとされる近江大津宮は一回り小規模なのです。大規模な前期難波宮があるのに、なぜ近江大津宮に遷都したのかが一元史観でも説明しにくく、白村江戦を控えて、より安全な近江に遷都したとする考えもあります。しかしながら、一元史観では内陸部の飛鳥宮から同じく内陸部の近江大津宮に遷都したことになり、それほど安全性が高くなるとは思われません。
 他方、前期難波宮を九州王朝の副都と考えたとき、海岸部の摂津難波よりは近江大津の方がはるかに安全です。ですから、前期難波宮と近江大津宮が共に九州王朝の宮殿であれば、摂津難波からより安全な近江大津への遷都は穏当なものとなりそうです。その場合、近江大津宮の方が小規模となった理由の説明が必要ですが、十数年で二つの王宮・王都の造営ということになりますから、近江大津宮造営が白村江戦を控えての緊急避難が目的と考えれば、小規模とならざるを得なかったのかもしれません。引き続き、この問題について検討したいと思います。


第1547話 2017/12/02

11月に配信した「洛中洛外日記【号外】」

 11月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。
 配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記」「同【号外】」のメール配信は「古田史学の会」会員限定サービスです。

《11月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル》
2017/11/06 九州年号「白鳳」と天朝
2017/11/09 『多元』142号のご紹介
2017/11/16 筑前町で出土していた弥生時代の「硯」
2017/11/19 『古代に真実を求めて』21集の編集会議
2017/11/25 『九州倭国通信』No.188のご紹介


第1546話 2017/12/01

古田先生との論争的対話「都城論」(7)

 一元史観における「前期難波宮=難波長柄豊碕宮」説成立の基本的な論理構造が、考古学的出土事実と『日本書紀』や『続日本紀』の史料事実の対応という、いわば「シュリーマンの法則」に合致した強固なものであることにわたしが気づいたのは約20年ほど前のことでした。以来、九州王朝説に立つわたしはこの問題に悩まされてきました。それは次のような点でした。

 ①前期難波宮の巨大な規模(国内最大)は、7世紀中頃から後半の律令時代にふさわしい全国支配のための王宮と見なさざるを得ない。
 ②7世紀中頃に評制が全国に施行された。その主体は九州王朝(倭国)とするのが古田説だが、その評制支配された側の近畿天皇家の孝徳天皇の宮殿(前期難波宮)の方が、九州王朝の王宮と考えられていた大宰府政庁Ⅱ期宮殿遺構よりも10倍近く巨大というのは、九州王朝説にとって不都合な考古学的事実である。
 ③前期難波宮の特徴はその規模だけではなく、当時としては最新の中国風王宮の様式「朝堂院様式」である。この最新の様式が九州王朝の中枢領域ではなく、近畿(摂津難波)に最初に取り入れられたことも、九州王朝説にとって不都合な考古学的事実である。
 ④「天子」を自称した7世紀初頭の多利思北孤の時代から白村江戦以前の7世紀中頃までは九州王朝(倭国)が最も興隆した時代と思われる(唐と一戦を交えられる国力を有していた)。しかし、その宮殿は配下の近畿天皇家(前期難波宮)の方がはるかに巨大であることは、九州王朝説では合理的な説明ができない。

 こうしたことが九州王朝説にとって深刻な問題であることに気づいたわたしは何年も悩み続けました。
 一元史観との論争(他流試合)を経験された方であれば理解していただけると思いますが、わたしがある著名な理系の研究者に古田説・九州王朝説を説明したところ、邪馬壹国が博多湾岸にあったことには賛意を示してくれたのですが、6〜7世紀時点では大和朝廷が列島の代表者と考える方が考古学的諸事実や『日本書紀』の記事と整合しているとの実証的反論を受け、約2時間論争しましたが、ついにその研究者を説得できませんでした。
 彼は理系の研究者らしく、「あなた(古賀)も理系の人間なら、解釈ではなく、近畿よりも九州に権力中心があったとするエビデンスを示せ」と、わたしに迫ったのです。すなわち、中国史書の倭国伝などを史料根拠としての論理的帰結(論証)による九州王朝説を、彼は「一つの解釈にすぎない」として認めず、具体的なエビデンス(考古学的証拠)に基づく「実証」を求めたのでした。この論法は「戦後実証史学」に見られる古田説・九州王朝説批判の典型的なものでもあります。なお付言しますと、彼は真摯な研究者であり、一元史観にこだわるという頑固な姿勢ではなく、九州王朝説にも深い関心を持たれていました。
 今回の問題についても、前期難波宮を近畿天皇家の宮殿と理解する限り、それは“7世紀中頃には既に九州王朝はなかった”という新たな一元史観(修正一元史観)を支持するエビデンス(証拠)として「戦後実証史学」にからめ取られてしまうのです。(つづく)