2017年12月15日一覧

第1554話 2017/12/15

飛鳥池の「冨本銭」と難波の「富本銭」

 久冨直子さん(古田史学の会・会員、京都市)からお借りしている『大津の都と白鳳寺院』(大津市歴史博物館)を読んでいて気づいたのですが、飛鳥宮から出土した無文銀銭について、次のような紹介記事がありました。

 「3の無文銀銭については、飛鳥では飛鳥宮跡出土のこの一点のほか、飛鳥池遺跡、石神遺跡、河原寺跡などからも出土しています。
 『日本書紀』の天武天皇一二年(六八三)四月一五日条に「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」(原漢文)という詔があり、ここに記されている使用禁止となった銀銭が無文銀銭であると考えられています。富本銭よりも古い、日本列島最古の金属貨幣といえます。ちなみに、近江は、崇福寺跡から舎利容器とともに出土した一二枚のほか、唐橋遺跡の橋脚遺構からの出土例などがあり、大和に次いで無文銀銭の出土が多い場所です。」(9頁)

 飛鳥宮跡から出土した無文銀銭の写真とともに、このように紹介されています。崇福寺出土の無文銀銭十二枚は有名ですが、唐橋遺跡の銀銭のことは知りませんでした。この記事では近江が「大和に次いで無文銀銭の出土が多い場所」とされていますが、これは不正確な記事です。わたしの知る限りでは難波の四天王寺近郊から百枚に及ぶ無文銀銭が江戸時代に出土していたことが知られ、その内の一枚が現存しており大阪歴博にはレプリカが展示されています(ほとんどが鋳つぶされたとのこと)。ですから、無文銀銭の最多出土地は大和ではなく摂津難波なのです。この点、前期難波宮九州王朝副都説や難波天王寺九州王朝創建説との関係が注目されます。
 こうした記事に触発されて、以前から気になっていた大阪市細工谷遺跡から出土した冨本銭について、大阪歴博で関連の発掘調査報告書を閲覧しました。それらによると、細工谷出土の冨本銭の文字は「ウカンムリ」の「富」で、飛鳥池出土の冨本銭は「ワカンムリ」の「冨」とのこと。写真でも確認しましたが、細工谷出土のものは「富本銭」で飛鳥池出土は「冨本銭」なのです。また、重量も細工谷出土「富本銭」は飛鳥池のものの半分とのこと。この文字や重量の違いが何を意味するのか検討中です。
 古田先生は冨本銭は九州王朝の貨幣ではなかったかと考えておられましたが、前期難波宮九州王朝副都説や正木裕さんの九州王朝系近江朝説も視野に入れて、無文銀銭や冨本銭の位置づけを再検討しなければならないと考えています。