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第1659話 2018/04/28

『論語』二倍年暦説の史料根拠(3)

 わたしは「周代」史料の年齢記事は基本的に二倍年暦で表記されていると考えていますが、同時に後代の編纂時に一倍年暦に書き換えられる可能性もあることを指摘しました。たとえば『春秋左氏伝』などは一倍年暦で編年表記されていると関西例会で述べました。この点は谷本茂さんからも指摘された通りです。そこで、「周代」史料に一倍年暦と二倍年暦のものがあることについて、その史料状況が何を意味するのかについて説明します。
 おおよその目検討ですが、わたしは二倍年暦から一倍年暦への公権力による暦法変更は秦の始皇帝による度量衡の統一の頃に行われたのではないかと推定しています(今のところ史料根拠は見つけられていません)。そのため、「周代」の記録や伝承が一倍年暦の時代の漢代で編纂される際に、暦日記事が書き換えられる可能性があります。
 そうしたことから、漢代成立史料に「百歳」とかの二倍年暦による「長寿」記事が散見されるという史料状況が発生します。逆から言えば、周代における二倍年暦の存在がなければ、そのような史料状況は発生しません。すなわち、もし周代からずっと一倍年暦であれば、漢代に成立した「周代」史料に「百歳」などという長寿記事は空想の産物でもなければ出現できないのです。
 ところが「周代」史料に散見する「百歳」などの超長寿記事は通常の会話(説話)部分にも出現しており、当時の人々の普通の認識として語られています。たとえば、孔子の弟子の曾子の会話として次のような記事が『曾子』に見えます。

 「人の生るるや百歳の中に、疾病あり、老幼あり。」(『曾子』曾子疾病)

 この記事は「曾子曰く」で始まり、曾子が親孝行について述べたもので、その普通の会話中に「人の生るるや百歳の中」という普通の人を対象にした発言です。従って、当時の一般的な人間の二倍年暦による「百歳(一倍年暦の五十歳)」の人生中に「疾病あり、老幼あり。」と記していることからも、孔子の弟子の曾子は二倍年暦により寿命や年齢を認識していたと考えざるをえません。この史料事実から、曾子の師である孔子も二倍年暦により年齢を認識をしていたと考えるのが真っ当な文献理解のあり方なのです。(つづく)