2018年06月03日一覧

第1683話 2018/06/03

『論衡』の「二倍年齢」(3)

 後漢時代の人の一般的寿命を推定できそうな次の記事が『論衡』に見えます。

 「正命は百に至って死す。随命は五十にして死す。遭命は初めて気を稟(う)くる時、凶悪に遭ふなり」(「命義第六」『論衡』上巻、100頁)

 この記事は先に紹介しましたが、ここに見える「随命は五十にして死す」にわたしは注目しました。この「正命」や「随命」に関して次のような説明が続きます。

 「亦、三性有り、正有り、随有り、遭有り。正は五常の性を稟くるものなり。随は父母の性に随(したが)ふものなり、遭は悪物の象に遭得するもの故なり。」(「命義第六」『論衡』上、100頁)

 新釈漢文大系の説明によれば、「五常」とは「仁義礼智信の常に行うべき五つの道」で、「正命(百歳)」を得るのはこうした性質を受けた者であり、父母に従った性質は随であり、その「随命」は五十歳とされています。「遭命」は生まれながらの疾患や不慮の事故による夭折と説明されています。
 この理解に立てば、普通に父母の性を継いでいれば「随命(五十歳)」ですから、後漢時代の普通の人の一般的な寿命が五十歳であることを前提にした理解と思われます。従って、後漢時代の人の一般的寿命は五十歳(随命)と認識されていたと考えられます。
 この五十歳は二倍年暦の「百歳」に相当しますから、周代でも後漢代でも人の一般的な寿命は一倍年暦の五十歳と認識されていたことになります。その上で、王充は周代史料に見える二倍年暦による「二倍年齢」表記の「百歳」を、そのまま一倍年暦の「百歳」と誤認してしまったために、当時の一般的な人の寿命である五十歳を「随命」と定義し、到底あり得ない「百歳」を「正命」と定義したものと思われます。すなわち、後漢代の王充は周代の「二倍年暦」やそれに基づいた「二倍年齢」という概念を知らなかったと思われるのです。(つづく)


第1682話 2018/06/03

『論衡』の「二倍年齢」(2)

 とうてい百歳まで生きられる人はいなかったと思われる後漢時代の王充が、なぜ人の寿命を「百歳」と理解していたのでしょうか。『論衡』を精査した結果、王充は同時代の人間の寿命を根拠に実証的に「百歳」という寿命を主張したのではなく、古典などに伝えられた説話や伝承を根拠に、人間の本来の寿命(正命)を「百歳」と定義づけていたことがわかりました。それを示しているのが『論衡』の次の記事です。

 「何を以て人の年は百を以て寿となすを明らかにするや。世間に有ればなり。儒者の説に曰く、太平の時、人民は※(イ同)長にして百歳左右なるは、気和の生ずる所なり、と。」(「気寿第四」『論衡』上、74頁)
 ※「(イ同)長」とは丈(身長)が長いの意味。(イ同)は人偏に「同」。

 以下、堯の寿命が九八歳、舜は百歳、周の文王は九七歳、武王は九三歳、周公は百歳前後、周公の兄の邵公は百歳前後の例を並べ、さらには老子は二百余歳、邵公は百八十歳、殷の高宗や周の穆王は百三十・百四十歳以上とする伝承をあげています。このように、王充は後漢時代の人々の寿命ではなく、二倍年暦などで伝承された周代やそれ以前の「二倍年齢」記事などを根拠に人の本来の寿命(正命)を「百歳」と主張していたのでした。
 それでは後漢時代の人の一般的寿命は何歳と王充は認識していたのでしょうか。直接的には記していませんが、そのことを推測できる記事が『論衡』にはありました。(つづく)