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第1714話 2018/07/28

7世紀における九州王朝の勢力範囲

 多元的古代研究会主催の「万葉集と漢文を読む会」に参加させていただく機会があり、様々なテーマでディスカッションさせていただきました。そのとき7世紀における九州王朝の勢力範囲について意見交換したのですが、7世紀中頃には九州王朝は九州島と山口県程度までになっているとする見解があることを知りました。その根拠や論証内容については知りませんが、わたしの認識とはかなり異なっており、驚きました。
 九州王朝は7世紀初頭の天子多利思北孤の時代から評制を施行した中頃までは最盛期であり、黄金時代とわたしは考えています。663年の白村江戦の敗北により、急速に国力を低下させたと思われますが、それでも九州年号が筑紫から関東まで広範囲に使用されていた痕跡があり、列島の代表王朝としての権威は保っていたようです。たとえば7世紀後半の次の同時代九州年号史料の存在が知られています。

○芦屋市三条九ノ坪遺跡出土「(白雉)元壬子年(六五二)」木簡
○福岡市出土「白鳳壬申年(六七二)」骨蔵器(江戸時代出土、行方不明)
○滋賀県日野町「朱鳥三年戊子(六八八)」鬼室集斯墓碑
○茨城県岩井市出土「大化五子年(六九九)」土器

 このように白雉元年から九州王朝最末期の大化五年まで、筑紫から関西・関東まで広範囲で九州年号が使用されている事実は重要です。白村江敗戦以後も九州王朝の権威(九州年号の公布と使用)が保たれていたと考えられます。
 他方、藤原宮や飛鳥宮からの出土木簡などからは、7世紀後半頃(天武期以後)になると近畿天皇家も実力的には九州王朝を凌ぎつつあると推定できます。王朝交代時の複雑な状況については史料根拠に基づいた丁寧な理解と研究が必要です。