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第1724話 2018/08/19

鬼面「鬼瓦」のONライン

 9月9日(日)の大阪市(i-siteなんば)での『発見された倭京』出版記念講演会で、新たにわたしが取り上げるテーマに〝鬼面「鬼瓦」のONライン〟があります。古代において異彩を放つ大宰府政庁出土の鬼面「鬼瓦」(大宰府式鬼瓦)の変遷と近畿天皇家(大和朝廷)の藤原宮・平城宮の「鬼瓦」の変遷に、701年(ONライン)における王朝交代の痕跡が見て取れるというテーマです。
 大宰府式鬼瓦と呼ばれている国内最古の鬼面「鬼瓦」は、その立体的で迫力のある鬼の顔が九州歴史資料館の「展示解説シート」では次のように紹介されています。

 「眉は炎のように吹き上がり、つり上がった大きな眼は飛び出さんばかりで、鼻は眉間にしわを寄せ小鼻を丸くふくらませながら、どっしりと構えていて、咆哮するように開いた口には、鋭い牙と四角い歯が並んでいます。そしてこの忿怒の相においては、骨格や筋肉の動き、皮膚の伸縮までが意識されて、各部分が有機的に連動しながら、ひとつの表情をつくり上げています。この立体感や迫真性は、平面的図案的な同時代の鬼瓦とは異質で、むしろ忿怒形の仏像の面部に通じています。原型の制作には、仏工の関与が想定されます。」

 このように紹介され、「迫力ある大宰府式鬼瓦の造形は、古今東西の鬼瓦の中にあって孤高のものです。」と指摘されています。
 この大宰府式鬼瓦はⅠ式・Ⅱ式・Ⅲ式と区分され、Ⅰ式が最も古く、Ⅲ式が新しいと編年されています。いずれも奈良時代のものとされていますが、Ⅰ式が最もその芸術性が高く、新しくなるに従い次第に洗練が失われていきます(編年については九州王朝説に基づく再検討が必要)。Ⅰ式は主に大宰府政庁や水城・大野城・筑前国分寺・筑前国分尼寺・怡土城などの遺跡から出土しています。大宰府式鬼瓦は北部九州を代表する鬼瓦であり、筑前以外からも出土例があります。
 他方、近畿天皇家の王宮である藤原宮の鬼瓦は鬼面ではなく、曲線の文様があるだけです。平城宮では初期の鬼瓦は鬼の身体全体が平面的に表されており、大宰府式鬼瓦とは比較にならないほど迫力のないものです。その後、時代が下がるにつれて「鬼面」となり、徐々に立体的な表現に発展するのですが、それでも大宰府式鬼瓦ほどの芸術性や迫力は見られません。
 これらの鬼瓦は王朝を代表する宮殿の屋根を飾るものであり、太宰府と大和の鬼瓦の迫力の差は従来の近畿天皇家一元史観では説明が困難です。ところが九州王朝説の視点からこの状況を考えると、次のようなことが言えるのではないでしょうか。

①670年頃に造営された大宰府政庁Ⅱ期の宮殿の鬼瓦は倭国を代表する九州王朝にふさわしい芸術性あふれるものである。当時の太宰府にはそうした王朝文化を体現できる優れた芸術家や瓦職人がいた。
②他方、7世紀末頃には事実上の日本列島ナンバーワンの実力を持つに至った近畿天皇家は、大規模な藤原宮を造営できたが、王朝文化はまだ花開いてはいなかったため、貧素な鬼瓦しか作れなかった。
③王朝交代した701年以降の近畿天皇家は九州王朝文化を徐々に吸収し、「鬼」を表現した鬼瓦を造れるようになったが、その芸術性が高まるのには数十年を要した。
④王朝交代後の太宰府や九州においては、その繁栄に陰りが見え、大宰府式鬼瓦も次第に洗練度が失われていった。

 以上のように九州王朝から大和朝廷への王朝交代という多元史観によれば、鬼面「鬼瓦」の変遷がうまく説明できるのです。このことを講演会ではパワーポイント画像を交えて説明します。多くの皆さんのご参加をお待ちしています。