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第1730話 2018/08/24

那須国造碑「永昌元年」の論理(6)

 「直大弐」(11番目)の冠位が記された「釆女氏榮域碑」には次の表記があり、わたしは以前から注目してきました。それは「飛鳥浄原大朝庭」という王朝名が7世紀末(己丑年、689年)の「評制」の時代に存在していたことです。
 この「飛鳥浄原大朝庭」と記された「釆女氏榮域碑」について、古田先生は実物が存在しないことなどを理由に懐疑的でした。おそらく「飛鳥浄御原」を福岡県小郡市付近とする古田説にとって、河内から出土した「釆女氏榮域碑」に「飛鳥浄原大朝庭」とあることは納得できなかったものと思われます。しかし、江戸時代の拓本が現存することから、自説に都合がよくないという理由で無視することはできませんので、古田先生もこの碑文の扱いに苦慮されていたのではないでしょうか。
 「飛鳥浄原大朝庭」という表記に苦慮していたのはわたしも同様でした。この「飛鳥浄原」が奈良の飛鳥であろうと、筑紫の飛鳥であろうと、「大朝庭」と表現するにふさわしい宮殿遺構が発見されていないからです。「大朝庭」というからには「朝庭」を有す朝堂院様式の宮殿であり、「大」がつくほどの規模が必要です。しかし、奈良の飛鳥宮(飛鳥浄御原宮)は朝堂院様式ではありませんし、それほど大規模でもありません。「筑紫の飛鳥」に至っては遺跡そのものが未発見です。
 藤原宮であれば「飛鳥」の「大朝庭」にふさわしいのですが、「釆女氏榮域碑」に記されている年次「己丑年」(689年)時点では『日本書紀』に記された持統天皇の藤原宮遷都(694年)よりも前ですから、藤原宮を「大朝廷」の候補とすることができません。また、藤原宮が「飛鳥浄原」と呼ばれていた史料的痕跡もありません。
 しかし、采女氏(采女竹良)は「飛鳥浄原大朝庭大弁官」と記されており、「飛鳥浄原大朝庭」から「直大弐」を叙位されたと考えざるを得ません。従って、この「飛鳥浄原大朝庭」と那須直韋堤に「追大壹」を叙位した「飛鳥浄御原大宮」は同じと考えるのが真っ当な史料理解でしょう。そうするとこの「飛鳥浄御原」とは、「釆女氏榮域碑」が出土した河内の隣国である「大和の飛鳥」の方が遠く離れた「筑紫の飛鳥」よりも有力ということになります。
 このように、わたしの「思考実験」は堂々巡りをしながらも、那須直韋堤に「追大壹」を叙位したのは「大和の飛鳥」にいた権力者という結論に近づいてきました。(つづく)