2018年12月04日一覧

第1797話 2018/12/04

「須恵器坏B」の編年再検討について(2)

 ほとんどの考古学者が「難波編年」による前期難波宮孝徳期造営説を支持しているのですが、少数の反対意見も出されました。天武期造営説を提起された小森俊寬さん(元・京都市埋蔵文化財研究所)もその一人でした。小森さんは著書『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 -日本律令的土器様式の成立と展開、7〜19世紀-』(京都編集工房、2005年11月)で、次のように述べられています。

 「考古学的方法で、これらの土器類が出土している整地土層の年代を特定するのであれば、量の多少はあっても、土器群では年代の下限を示す新相側の年代観を採用することが原則である。(中略)遺構理解の原則に立脚するならば、新相の土器群を根拠として、整地土層の形成年代は、7世紀後葉頃と位置付けざるをえない。」(92〜93頁)

 これを簡略にまとめると、次のような主張となります。

①遺構から出土した最も新相の土器の編年をその遺構の時代とするのが考古学的原則である。
②前期難波宮整地層から天武期の須恵器坏Bが出土している。
③従って、前期難波宮造営は天武期である。

 しかし、この論が成立するためには、当該須恵器坏Bが天武期より前には存在しないという不存在の証明(悪魔の証明)が必要です。しかし、そのような証明はなされていませんし、そもそもできないでしょう。従って、小森さんの上記の三段論法は論理的に成立していないのです。
 更に指摘するならば、現代の考古学土器編年において採用されている方法は、小森さんの「量の多少はあっても、土器群では年代の下限を示す新相側の年代観を採用することが原則」というような単純なものではありません。服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)も指摘されたことですが、通常、7世紀の遺構からは新旧の様式の土器が併存して出土することが一般的であるため、各様式の土器の「量の多少」によって比較編年する方法が採用されています。しかもこの場合、各土器に「製造年月日」が記されているわけではありませんから、遺構間の相対編年とならざるを得ません。この点について具体例を示して説明します。

 ①前期難波宮整地層から出土する指標となる須恵器坏は古墳時代から続く古いタイプの坏Hとその後に出現した坏Gからなります。小森さんの指摘によっても最新型の坏Bあるいは坏Bの蓋の可能性がある土器の出土は数えるほどしかありません。この各坏の「量の多少」の状況(比率)が前期難波宮整地層(造営時期)の「様相」となります。
 ②次いで前期難波宮完成後のゴミ捨て場の第16層(前期難波宮の時代)の出土土器は坏Hと坏Gと共に坏Bが見られるようになります。この各坏の共伴状況が前期難波宮が存在していた時代(『日本書紀』によれば652〜686年)の「様相」となります。
 ③更に新しい藤原宮整地層からの出土須恵器は坏Bが主流です。同整地層から出土した干支木簡により、その整地時期が天武期(672〜686年)の後半頃(680年代)であることが判明しています。従って、「坏B主流」がその頃の「様相」となります。
 ④このように7世紀の遺構から併存して出土する各須恵器坏の「量の多少」(比率)に着目して各遺構の相対編年を行うのが現在の考古学の原則であり方法です。ちなみに、古田先生は30年ほど前からこの編年方法を採用すべきと主張されていました。
 ⑤小森さんのように「量の多少はあっても、土器群では年代の下限を示す新相側の年代観を採用」するという方法は、今回のケースでは、坏Bの発生が天武期からと確定しており、孝徳期には存在しないという不存在証明(悪魔の証明)が可能であって始めて成立することです。このような証明ができるはずもなく、小森さんの方法とその結果としての前期難波宮天武期造営説は学問的に成立しません。

 しかし、真の問題はここから始まります。それでは須恵器坏Bの発生時期はいつ頃なのか、坏Bの出土を根拠として7世紀後半とされてきた諸遺構の編年は妥当なのかという問題です。(つづく)