2018年12月一覧

第1799話 2018/12/06

「須恵器坏B」の編年再検討について(4)

 本連載では、佐藤隆さんによる「難波編年」とそれに基づく前期難波宮孝徳期造営説が最有力説としてほとんどの考古学者に支持されていることと、天武期造営説を発表された小森俊寬さんの論法や論証が学問的に成立していないことを縷々説明してきました。その結果、7世紀後半の指標土器とされてきた須恵器坏Bの発生時期についての再検討が必要となったことを明らかにしました。この点について具体的事例により説明します。
 小森俊寬さんが『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 -日本律令的土器様式の成立と展開、7〜19世紀-』で紹介された『難波宮址の研究』(昭和36年大阪市教育委員会1961年)記載の前期難波宮整地層出土須恵器坏Bにより、その発生時期が7世紀中頃以前にまで遡る可能性に気づいたわたしは、大宰府政庁Ⅰ期から出土した須恵器坏Bのことを思い出しました。
 7世紀における九州王朝(倭国)の都がおかれた太宰府には条坊都市の北端に大宰府政庁遺構があります。政庁遺構は3段階にわかれており、最も古い政庁Ⅰ期遺構は比較的小規模な掘っ立て柱建物で、通説では天智期(662〜671年)の造営とされています。Ⅱ期は礎石を持つ瓦葺きの朝堂院様式の宮殿で、通説では『大宝律令』による「大宰府」とされ、8世紀初頭の造営とされています。現在、地表に残されている礎石はⅢ期のもので、平安時代(10世紀)の造営とされています。なお、Ⅰ期は「新・古」の二段階があります。
 政庁Ⅰ期が天智期とさた考古学的根拠はその整地層から出土した須恵器坏Bでした。他方、太宰府市の考古学者、井上信正さんの研究などから太宰府条坊は政庁Ⅰ期の時代(天智期〜8世紀初頭)の造営と見られており、7世紀末頃の藤原京造営と同時期とされました。すなわち、政庁Ⅰ期や条坊都市の造営は7世紀末頃であり、7世紀前半には遡らないというのが考古学者の判断です。
 他方、古田学派内では大宰府政庁や条坊都市を古く考える研究者が多く、わたしも文献史学の分野から太宰府条坊都市の造営開始時期を7世紀前半頃、政庁Ⅱ期の宮殿や観世音寺の創建を670年頃(白鳳年間、661〜684年)とする研究を発表してきました。しかし、この説には出土土器編年と対応していないという弱点がありました。その象徴的土器が政庁Ⅰ期整地層から出土した須恵器坏Bでした。7世紀後半の指標とされてきた須恵器坏Bの存在は自説にとって不都合な出土事実でした。ちなみにその坏Bは藤井巧・亀井明徳著『西都大宰府』(NHKブックス、昭和52年)の出土土器の図(229頁)に紹介されています。(つづく)


第1798話 2018/12/05

「須恵器坏B」の編年再検討について(3)

 著書『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 -日本律令的土器様式の成立と展開、7〜19世紀-』において天武期造営説を提起された小森俊寬さんですが、そこに前期難波宮整地層出土として紹介された須恵器坏Bにわたしは強く関心を抱き、その出典を調査しました。それらは次の報告書とされ、幸いにも大阪歴博の図書室(なにわ歴史塾)にてすべて閲覧することができました(同館担当者の方が親身になって出典を探してくださいました。有り難いことです)。

『難波宮址の研究』昭和36年大阪市教育委員会1961年
『難波宮址の研究』昭和40年大阪市教育委員会1965年
『難波宮址の研究 第七』大阪市文化財協会1981年
『難波宮址の研究 第八』大阪市文化財協会1984年

 収録された図版を中心に調査したのですが、なかなか問題の坏Bが見つかりませんでした。ようやく見つけたのが『難波宮址の研究』(昭和36年大阪市教育委員会1961年)にあった「実測図第十一 整地層下並竪穴内出土遺物実測図(Ⅱ)」の「Ⅱ層(難波宮整地層)出土」と解説されている1個の坏B「35」でした。高台(脚)があり、底部が丸みを帯びている比較的初期の須恵器坏Bでした。念のため、大阪歴博学芸員の寺井誠さん(土器の専門家)にも見ていただいたところ、間違いなく坏Bであり、比較的古いもので奈良時代までは下らないとのことでした。
 この出土事実が正確であれば、先に説明したように7世紀中頃造営の前期難波宮整地層から出土したことになり、これまで7世紀後半の指標土器とされてきた須恵器坏Bの発生時期の見直しが必要となります。もし、坏Bの発生時期が7世紀中頃以前にまで遡ることになれば、坏B出土を根拠に7世紀後半以後と編年されてきた諸遺構の見直しも必要となる可能性があります。(つづく)


第1797話 2018/12/04

「須恵器坏B」の編年再検討について(2)

 ほとんどの考古学者が「難波編年」による前期難波宮孝徳期造営説を支持しているのですが、少数の反対意見も出されました。天武期造営説を提起された小森俊寬さん(元・京都市埋蔵文化財研究所)もその一人でした。小森さんは著書『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 -日本律令的土器様式の成立と展開、7〜19世紀-』(京都編集工房、2005年11月)で、次のように述べられています。

 「考古学的方法で、これらの土器類が出土している整地土層の年代を特定するのであれば、量の多少はあっても、土器群では年代の下限を示す新相側の年代観を採用することが原則である。(中略)遺構理解の原則に立脚するならば、新相の土器群を根拠として、整地土層の形成年代は、7世紀後葉頃と位置付けざるをえない。」(92〜93頁)

 これを簡略にまとめると、次のような主張となります。

①遺構から出土した最も新相の土器の編年をその遺構の時代とするのが考古学的原則である。
②前期難波宮整地層から天武期の須恵器坏Bが出土している。
③従って、前期難波宮造営は天武期である。

 しかし、この論が成立するためには、当該須恵器坏Bが天武期より前には存在しないという不存在の証明(悪魔の証明)が必要です。しかし、そのような証明はなされていませんし、そもそもできないでしょう。従って、小森さんの上記の三段論法は論理的に成立していないのです。
 更に指摘するならば、現代の考古学土器編年において採用されている方法は、小森さんの「量の多少はあっても、土器群では年代の下限を示す新相側の年代観を採用することが原則」というような単純なものではありません。服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)も指摘されたことですが、通常、7世紀の遺構からは新旧の様式の土器が併存して出土することが一般的であるため、各様式の土器の「量の多少」によって比較編年する方法が採用されています。しかもこの場合、各土器に「製造年月日」が記されているわけではありませんから、遺構間の相対編年とならざるを得ません。この点について具体例を示して説明します。

 ①前期難波宮整地層から出土する指標となる須恵器坏は古墳時代から続く古いタイプの坏Hとその後に出現した坏Gからなります。小森さんの指摘によっても最新型の坏Bあるいは坏Bの蓋の可能性がある土器の出土は数えるほどしかありません。この各坏の「量の多少」の状況(比率)が前期難波宮整地層(造営時期)の「様相」となります。
 ②次いで前期難波宮完成後のゴミ捨て場の第16層(前期難波宮の時代)の出土土器は坏Hと坏Gと共に坏Bが見られるようになります。この各坏の共伴状況が前期難波宮が存在していた時代(『日本書紀』によれば652〜686年)の「様相」となります。
 ③更に新しい藤原宮整地層からの出土須恵器は坏Bが主流です。同整地層から出土した干支木簡により、その整地時期が天武期(672〜686年)の後半頃(680年代)であることが判明しています。従って、「坏B主流」がその頃の「様相」となります。
 ④このように7世紀の遺構から併存して出土する各須恵器坏の「量の多少」(比率)に着目して各遺構の相対編年を行うのが現在の考古学の原則であり方法です。ちなみに、古田先生は30年ほど前からこの編年方法を採用すべきと主張されていました。
 ⑤小森さんのように「量の多少はあっても、土器群では年代の下限を示す新相側の年代観を採用」するという方法は、今回のケースでは、坏Bの発生が天武期からと確定しており、孝徳期には存在しないという不存在証明(悪魔の証明)が可能であって始めて成立することです。このような証明ができるはずもなく、小森さんの方法とその結果としての前期難波宮天武期造営説は学問的に成立しません。

 しかし、真の問題はここから始まります。それでは須恵器坏Bの発生時期はいつ頃なのか、坏Bの出土を根拠として7世紀後半とされてきた諸遺構の編年は妥当なのかという問題です。(つづく)


第1796話 2018/12/03

「須恵器坏B」の編年再検討について(1)

 連載した前期難波宮と大宰府政庁出土「須恵器坏B」(1〜3)の結論として、従来7世紀後半の指標とされてきた「須恵器坏B」の編年再検討が必要であり、7世紀中頃か前半頃まで遡る可能性について論究しました。
その説明について、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)より、わかりにくいとのご指摘がありました。読み直して見ると、確かにわかりにくいので、改めてその論理展開の道筋を説明したいと思います。わかりやすいように箇条書きにします。

 ①大規模な水利施設が難波宮の西側の谷から出土し、井戸がない難波宮のための水利施設とされた。
 ②同水利施設整地層や造営時の層位から大量の須恵器が出土し、それは坏Hと坏Gであり、7世紀後半と編年される坏Bは出土しなかった。
 ③その出土須恵器の編年と全体的な様相(GとHの出土量の割合など)から、水利施設の造営は従来の土器編年によって7世紀中頃とされた。
 ④それらの土器は兵庫県芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した「白雉元(三)壬子年(652)」木簡に共伴した土器と同段階である。このことにより土器と暦年がリンクでき、7世紀中頃造営説は説得力を増した。
 ⑤水利施設から出土した木枠(桶)の年輪年代測定値により、伐採年が634年とされ、出土土器の編年と一致した。このことも土器と暦年とのリンクを支持し、7世紀中頃造営説は更に説得力を増した。
 ⑥これら水利施設の出土事実と暦年とのリンクにより、前期難波宮の造営時期も7世紀中頃とされた。
 ⑦前期難波宮完成後のゴミ捨て場として使用された北側の谷から「戊申年(648)」木簡が出土した。この干支木簡の出土により、前期難波宮の造営が7世紀中頃であり、完成後に同木簡が廃棄されたと理解された。「戊申年(648)」は天武期(672〜686年)とは20年以上離れており、どこかで20年以上保管されていた「戊申年(648)」木簡が天武期になって廃棄されたとしなければならない天武期造営説では説明しにくく、同木簡の出土は孝徳期造営説に有利である。
 ⑧その後、前期難波宮北側から出土した柱の最外層の年輪セルロース酸素同位体年代測定値(583年、612年)が7世紀前半造営説に有利であることも判明した。これら理化学的年代測定はいずれも7世中頃造営を支持し、理化学的年代測定による7世紀後半(天武期)とする遺物は今日に到るまで出土していない。
 ⑨こうして考古学的に確立した前期難波宮7世紀中頃造営説に対応する文献事実として、『日本書紀』孝徳紀白雉三年条に見える「巨大宮殿」完成記事と前期難波宮を結びつけることが可能となった。通説ではこれを「難波長柄豊碕宮」のこととする。
 ⑩こうした経緯から、ほとんどの考古学者が「難波編年」とそれに基づく前期難波宮孝徳期造営説を支持するに到った。

 以上のような緻密な考古学的・理化学的知見の積み上げにより、前期難波宮孝徳期造営説が成立しました。この説が『日本書紀』孝徳紀白雉三年の造営記事を無批判に「是」として、その立場から出発したものではないことが、「難波編年」の最大の強みだとわたしは理解しています。(つづく)


第1795話 2018/12/01

前期難波宮と大宰府政庁出土「須恵器坏B」(3)

 小森俊寬さんが『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 -日本律令的土器様式の成立と展開、7〜19世紀-』に記された前期難波宮整地層出土土器の図38(91頁)に見える須恵器坏Bが『難波宮址の研究』(昭和36年大阪市教育委員会1961年)に掲載されていることを確認したわたしは、その須恵器坏Bが7世紀後半に編年されてきたものであることに驚くとともに、それとよく似た須恵器が大宰府政庁Ⅰ期整地層から出土していたことを思い出しました。
 藤井巧・亀井明徳著『西都大宰府』(NHKブックス、昭和52年)に掲載されている出土土器の図(229頁)によれば、大宰府政庁Ⅰ期古段階の整地層から須恵器坏Bが出土しています。この土器が前期難波宮整地層出土とされた『難波宮址の研究』記載の土器とよく似ているのです。この前期難波宮整地層出土須恵器坏Bにより、坏Bの発生が7世紀中頃か前半にまで遡ることになるのですが、大宰府政庁Ⅰ期古段階の整地層から出土した坏Bがそれによく似ていることから、従来は7世紀第3四半期頃とされていた大宰府政庁Ⅰ期古段階が第2四半期頃まで遡るかもしれないのです。
 大宰府政庁遺構は三期に分かれており、最も古い掘立て柱建物からなる政庁Ⅰ期は天智期(7世紀第3四半期)、礎石造りの朝堂院様式のⅡ期は8世紀初頭の造営とされてきました。その上で、観世音寺や政庁Ⅱ期よりも条坊都市の成立が早いとする井上信正説の登場により、条坊の造営は藤原京と同時期の七世紀末頃となりました。
 文献史学によるわたしの研究では、太宰府条坊都市の成立は7世紀前半頃なのですが、出土する土器は古くても7世紀後半のものでした。ですから、文献史学による7世紀前半説と考古学による7世紀後半とする出土事実が対応していないという問題がありました。ところが、前期難波宮整地層から出土した坏Bの存在により、整地層から同類の坏Bが出土した大宰府政庁Ⅰ期古段階を7世紀前半にできる可能性が生まれたのです。この大宰府政庁Ⅰ期は条坊と同時期の造営とする井上信正説によれば、条坊成立も7世紀前半とできる可能性があることになります。
 須恵器坏Bの発生時期をどこまで遡らせることができるのか、現時点では不明ですが、従来、7世紀の第3四半期頃の発生とされてきた坏Bが第2四半期まで遡ることは、7世紀の須恵器編年の見直しが必要であることを意味します。とても重要な問題ですので、結論を急がず、引き続き調査検討することにします。