「 2019年04月 」一覧

第1880話 2019/04/26

『箕面寺秘密縁起』の九州年号

 箕面市平尾の龍安寺が蔵する『箕面寺秘密縁起』には九州年号が記されています。『修験道史料集(Ⅱ)』によれば次のようです。

①舒明天皇御宇、正(聖)徳六年〈甲午〉春正月一日 (甲午:634年)
②孝徳天皇御宇、白雉元年〈庚戌〉歳次壬子冬十月十七日 (庚戌:650年、壬子:652年)
③孝徳天皇御宇、白雉元年〈庚戌〉歳次壬子春三月十七日 (庚戌:650年、壬子:652年)
④孝徳天皇御宇、白雉元年〈庚戌〉歳次季(壬子)夏四月十七日 (庚戌:650年、壬子:652年)
⑤天武天皇御宇、白鳳元年壬申春二月四日己巳 (壬申:672年)
⑥持統天皇御宇、朱鳥八年歳次甲午春正月八日 (甲午:694年)
⑦持統天皇御宇、大化九秊乙未二月十日 (乙未:695年)

 ※〈〉内は二行細注。()内は古賀による注。

 『箕面寺秘密縁起』は箕面寺草創の歴史と役行者について記したもので、江戸時代初期以前の成立と見られています。そこに記された九州年号は「不正確」であり、編纂時に「九州年号」年代記などを参照して改変付記されたものと思われます。
 たとえば⑤の「白鳳元年壬申」は本来の九州年号の白鳳元年(661年)ではなく、天武天皇の元年を「白鳳元年」とした後代改変された「白鳳」です。⑥の「朱鳥八年歳次甲午」も本来の九州年号「朱鳥八年(693年)」とは一年ずれており、持統天皇元年を「朱鳥元年」とした改変型です。『万葉集』に見える「朱鳥」も同様の改変型です。
 ⑦の「大化九秊乙未」は改変型というよりも、本来の九州年号「大化元年乙未」の誤写(元→九)の可能性があります。なお、本稿で示した「本来の九州年号」とは最も史料価値が高い『二中歴』系の九州年号です。
 『箕面寺秘密縁起』の九州年号で最も興味深いのが②③④の「白雉元年〈庚戌〉歳次壬子」という表記です。これでは「白雉元年」が庚戌(650年)なのか、壬子(652年)なのかわかりません。この意味不明な表記に同縁起編者の苦悩の跡が見て取れます。元史料には「白雉元年歳次壬子」(652年)とあったが、『日本書紀』の孝徳紀「白雉元年」は庚戌(650年)であるため、『日本書紀』との「整合性」を保つために細注で「庚戌」と付記したことにより、この意味不明の表記「白雉元年〈庚戌〉歳次壬子」になったのです。このとき、更に「歳次壬子」の部分を削除していれば「白雉元年〈庚戌〉」となり、『日本書紀』と矛盾しないのですが、なぜか編者はそれをしていません。その結果、同縁起に九州年号「白雉元年」の本来の姿(歳次壬子)を留めたわけです。このように、九州年号には本来型と『日本書紀』の内容に整合させるための後代改変型が各史料に散見します(例えば『高良記』の「白鳳」など)。
 この「白雉」年号の二年のずれについては、三十年前にも古田学派内で論争がありました。「市民の古代研究会」時代に、九州年号研究で先駆的研究をされた丸山晋司さんは、本来の九州年号「白雉」が『日本書紀』孝徳紀に二年ずらして転用されたとする立場に立たれていました。わたしもこの意見に賛成です。
 他方、熊本市の平野雅曠さんは、干支が二年ずれた暦法によるもので、共に同年のこととする説を発表され、丸山さんと激しい論争が続きました。その後、平野さんは亡くなられ、丸山さんも「市民の古代研究会」の分裂を機に九州年号研究から離れられ、この論争自体は「未決着」となりました。
 この白雉元年が『二中歴』などの九州年号史料に見える「壬子(652年)」なのか、『日本書紀』孝徳紀の「庚戌(650年)」なのかについて決着をつけたのが芦屋市三条九之坪遺跡から出土した一枚の木簡でした。この木簡について、『木簡研究』には「三壬子年」と発表され、『日本書紀』孝徳紀の「白雉三年(652年)」のことと解説されていました。しかし、この報告に疑問を感じたわたしは、古田先生等と共に兵庫県教育委員会の許可を得て同木簡を精査したところ、「三」と読まれていた文字が「元」であることを確認しました。すなわち、「(白雉)元壬子年(652年)」という九州年号木簡だったのです。調査には光学顕微鏡や赤外線カメラ(大下隆司さん撮影)を持ち込み、二時間にわたりわたしは同木簡を観察し、「元壬子年」と書かれていることを確認しました。
 同木簡は出土当時は紀年銘木簡としては国内最古であり、研究者から注目されました。ところが、わたしや古田先生が九州年号「(白雉)元壬子年」木簡であることを論文や書籍(『「九州年号」の研究』古田史学の会編、ミネルヴァ書房)で発表したとたんに、古代史学界でのこの木簡に対する取り扱いが〝冷淡〟になりました。すなわち、この木簡が九州年号や九州王朝の実在を直接的に示す同時代史料であるため、大和朝廷一元史観の学界はこの木簡の存在に触れることは〝やばい〟と判断したかのようでした。その結果、従来は「三壬子年」と紹介されていたのが、紹介しないか、紹介しても「壬子年」木簡という表記で紹介するようになり、「三」とも「元」とも触れない傾向が今も続いています。
 この「元壬子年」木簡の発見は、「白雉」年号の本来型論争に決着をつけただけではなく、九州年号や九州王朝説についてもそれが真実であったことを白日の下に晒すこととなりました。もし、今回の「令和」改元ブームの中で、マスコミがこの「元壬子年」木簡の存在と意義を広く国民に知らせたなら、日本古代史はパラダイムシフトを起こすことでしょう。しかしながら、権威への忖度を旨とする現代日本のメディアにそれを期待することはできないでしょう。わたしたち古田学派は学問そのものが持つ〝真実を追究する力〟により、パラダイムシフトを起こさなければならないのです。そしてそれは可能です。あのベルリンの壁が壊れたように、人間が造った壁(歴史観)は人間によって変革することもできるのです。わたしはこのことを一瞬たりとも疑ったことはありません。


第1879話 2019/04/20

新元号「令和」に秘められた九州王朝の残影

 本日、「古田史学の会」関西例会が福島区民センターで開催されました。5月・6月はドーンセンター、7月はアネックスパル法円坂で開催します。6月16日はI-siteなんばで「古田史学の会」会員総会です。会員の皆様のご出席をお願いします。当日は大阪文化財研究所長の南秀雄さんをお招きし、「日本列島における五〜七世紀の都市化」という演題で講演していただきます(諸団体共催、後記)。正木裕さん(古田史学の会・事務局長)も「姫たちの古伝承」というテーマで講演されます。一般の方も参加できます(参加費無料)。
 今回の関西例会では、服部静尚さんが『続日本紀』に見える功田記事の分析について発表され、『大宝律令』や『養老律令』の編纂者への功田記事があるのに、「飛鳥浄御原律令」には功田記事がないことを示され、それは「飛鳥浄御原律令」が近畿天皇家による制定ではなかったからとされました。『続日本紀』の功田記事から九州王朝の存在を論じるという新たな研究として注目されます。このところ、服部さんは新発見続きで、絶好調です。『古田史学会報』への投稿が待たれます。
 正木裕さんも、新元号「令和」の出典である『万葉集』「梅花の宴」の「序」に見える唐代の類書『翰苑(かんえん)』(著者:張楚金)に着目され、梅花宴に参加した太宰府や九州各地の役人たちは九州王朝のことを知っており、九州王朝の痕跡があることを指摘されました。新元号「令和」が九州王朝と関係していたとする正木さんのこの新説も画期的な発見です。『古田史学会報』への投稿を要請しました。
 今回の例会発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔4月度関西例会の内容〕
①天武天皇と白鳳年号について(茨木市・満田正賢)
②地上絵の謎の直線(前回の訂正など)(京都府大山崎町・大原重雄)
③天上に浮かぶ舟(京都府大山崎町・大原重雄)
④飛ぶ鳥の「アスカ」は「安宿」(その三)-枕詞-(京都市・岡下英男)
⑤「其の人寿考」の一考察(姫路市・野田利郎)
⑥天平宝字元年の功田記事より(八尾市・服部静尚)
⑦「令和」の万葉歌と失われた倭国(九州王朝)(川西市・正木 裕)
⑧聖武天皇も知っていた失われた古代年号(川西市・正木 裕)

○事務局長報告(川西市・正木 裕)
《会務報告》
◆『倭国古伝』(『古代に真実を求めて』22集)売れ行き好調。
◆『失われた倭国年号-大和朝廷以前』増刷決定
◆新会員報告
◆6/16 13:00〜16:00 古代史講演会 (会場:I-siteなんば。共催:古代大和史研究会、市民古代史の会・京都、古田史学の会、他。参加費無料)
 ①「日本列島における五〜七世紀の都市化」 講師:南秀雄さん(大阪文化財研究所長)
 ②「姫たちの古伝承」 講師:正木裕さん(古田史学の会・事務局長)。
◆6/16 16:00〜17:00 「古田史学の会」会員総会(会場:I-siteなんば)
 総会終了後、希望者で懇親会開催(当日、会場で受け付け)。
◆「古田史学の会」関西例会の会場。5月・6月はドーンセンター、7月はアネックスパル法円坂で開催。
◆11/09〜10 「古田武彦記念古代史セミナー2019」の発表者募集。主催:公益財団法人大学セミナーハウス。
◆その他。

《各講演会・研究会のご案内》
◆4/26 18:45〜20:15 「誰も知らなかった古代史」(会場:アネックスパル法円坂。正木 裕さん主宰)。
 講師:細川隆雄さん(愛媛大学名誉教授)。演題:鯨から日本の古代を探る。
 5/24 18:45〜20:15 講師:高瀬裕太さん(大阪府立弥生文化博物館学芸員)。演題:鏡に施された銭文様。
◆4/24 13:00〜 「水曜研究会」(最終水曜日に開催。会場:豊中倶楽部自治会館)。連絡先:服部静尚さん。
◆5/08 10:00〜12:00 「古代大和史研究会」講演会(原幸子代表。会場:奈良県立情報図書館。会費500円)。
 講師:正木 裕さん。演題:倭国の半島進出 -倭の五王の正体(2)。
◆5/14 「和泉史談会」講演会。(辻野安彦会長。会場:和泉市コミュニティーセンター。参加費300円)。
 講師:正木 裕さん(古田史学の会・事務局長)。演題:失われた古代年号。
◆5/21 13:00〜 五代友厚展での講演(辰野ひらのギャラリー)
 ①講師:服部静尚さん。演題:「盗まれた天皇陵」。
 ②講師:正木 裕さん。演題:「薩摩と南の島々の古代史」。
◆5/21 18:45〜20:15 「市民古代史の会・京都」講演会(事務局:服部静尚さん・久冨直子さん)。毎月第三火曜日(会場:キャンパスプラザ京都。参加費500円)。
 講師:正木 裕さん。演題:徹底解説-邪馬「台」国九州説。


第1878話 2019/04/18

『失われた倭国年号』増刷決定

 山形出張を終え、東京での仕事もすみました。京都に帰る前に東京駅近くの丸善によりました。もちろん『倭国古伝』の売れ行きのチェックが目的です。丸善も八重洲ブックセンターと同様に書棚に「面置き」されており、良い取り扱いでした。
 京都に戻ると、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から吉報メールが届いていました。書店での在庫が無くなっていた『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(古田史学の会編、明石書店、2017年)の増刷が決まったとのこと。おりからの新元号「令和」ブームが出版社の決断を促したようです。「古田史学の会」でも販売協力したいと考えています。


第1877話 2019/04/17

米沢の古代史

 昨晩、山形新幹線で米沢市に到着しました。米沢は初めてでしたので、駅の観光案内所で観光マップをいただき、米沢で最も古い寺社はどこかとたずねたところ、上杉神社と白子(しろこ)神社とのことでした。スマホで調べてみると、白子神社の創建は和銅5年(712)、ご祭神は火産霊命と埴山姫命とありました。
 山形市まで北上すれば羽黒山修験道関連の伝承(「洛中洛外日記」266話「東北の九州年号」を参照)に九州年号「端政」(589〜593年)が見えるのですが、米沢市には九州年号は未発見です。本格的調査ではありませんから断定はできませんが、山形県地方への九州王朝の影響や九州年号の伝播は日本海側ルートだったのかもしれません。そのため、米沢市を経由せずに越後から日本海沿いに山形方面に伝わった可能性があるようです。
 ただ、米沢市内には前方後円墳が散見されますので、遅くとも古墳時代には前方後円墳を築造する勢力や文明が伝わっていたわけですから、この勢力と九州王朝との関係などがこれからの多元的米沢市(置賜地方)古代史研究の課題です。


第1876話 2019/04/16

『倭国古伝』のマーケットリサーチ

 今朝は東京に向かう新幹線車中で書いています。今年初めての東京・山形出張です。わたしが開発した、ナイロン繊維染色の新技術のプレゼンを各地で行います。
 専門的になりますが、この新技術はナイロンポリマーの非結晶領域内で色素と複数の金属をキレート(配位結合による金属錯体化)させるというもので、それにより世界最高水準の湿潤堅牢度(高性能液体洗剤で洗濯しても色落ちしない)が発現します。また、同時に複数の金属の配位結合比をコントロールすることにより、染色色相を赤味から緑味まで意図的に変化させたり、更には太陽光発熱機能を持たせたり、逆に太陽光中の近赤外線の反射率を高めることが容易にできるという優れものです。
 昨年から有名フィットネスインナーや女性用タイツに採用されていますが、おそらくこの新技術開発が、ケミストとしてのわたしの最後の仕事になると思います。もっと若ければ、この技術を応用して消臭・抗菌機能も発現させる技術を開発できたかもしれませんが、もう時間がありません。来年夏にはリタイアしますので、それからは古代史研究に専念できます。今から楽しみにしています。

 東京駅でのランチタイムを利用して、八重洲ブックセンターの古代史コーナーをのぞいてみました。もちろん、先月発行した『倭国古伝』(古田史学の会編・明石書店)の取り扱い状況のチェックが目的です。エスカレーターで4階の古代史コーナーに上がると、なんと平積み台の一番端(売れ筋の本が置かれる〝特等席〟です)に平積みにされていました。結構売れているようで三冊しか残っていませんでした。また、目に入りやすい高さである書棚の最上段には古田先生のコーナーがおかれ、そこにも『倭国古伝』が並んでいました。というわけで、八重洲ブックセンターの取り扱いはかなり良いものでした。
 「古田史学の会」発行の他の本を探すと、「邪馬台国」コーナーには『邪馬壹国の歴史学』(ミネルヴァ書房)があり、これは狙い通りです。残念ながら「聖徳太子」コーナーには『盗まれた「聖徳太子」伝承』(明石書店)は並んでいませんでした。また、『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房)は「古代九州」のコーナーに置かれており、「地方史」扱いでした。おかれてないよりはましですが、本のネーミングとしては〝失敗〟と言わざるを得ません。新元号「令和」ブームで「年号」コーナーが特設されているにもかかわらず九州年号関連の本は一冊も置かれていません。この点、対策が必要です。
 以上、八重洲ブックセンターでのマーケットリサーチでした。これから代理店との面談で、その後は米沢市に向かいます。


第1875話 2019/04/14

『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(7)

 『法隆寺縁起』に記された献納品に付記された「丈六分」や「佛分」について、加藤健さん(古田史学の会・会員、交野市)から貴重なご意見をいただきました。それは次のような内容でした。

① 「丈六分」とあるからには、高さが丈六の佛像と考えるべきで、釈迦三尊像では寸法があわない。丈六佛が当時は存在していたのではないか。
② 経典に釈迦のことを「佛」と記す例は多く、「佛分」とあるのが釈迦三尊像を指すのではないか。
③ 光明皇后による「二月廿二日」の施入の目的や法隆寺の性格は古賀説(多利思北孤鎮魂の寺)でよい。

 この加藤さんのご意見は有力で、わたしも同様の可能性について考えました。しかし『法隆寺縁起』の他、当時の史料から法隆寺に丈六佛があったとする痕跡が見つからないことと、伝染病(天然痘)の猛威という国家的災難に対して、「二月廿二日」に施入していることから、法興32年(622)「二月廿二日」に崩御した上宮法皇をモデルとした「等身佛(尺寸の王身)」との銘文を持つ釈迦三尊像こそ施入対象の冒頭に記された「丈六分」と解さざるを得ないと考えたからです。
 そこで問題となるのが、加藤さんも指摘されたように「丈六」という仏像の高さを示す表記をどのように考えるのかということでした。当初、わたしは「丈六」というのは釈迦の身長を意味し、「丈六」という言葉そのものに「釈迦像」という意味を有していたと考えました。ところが、正木さんから釈迦三尊像は「丈六佛」ではなく「等身佛」であるとのご指摘を受けて深く考え、改めて調査したところ、同釈迦像は「周半丈六佛」であることに気づきました。
 佛像の大きさの基準として、仏典に見える釈迦の身長「丈六」(1丈6尺:約4.8m、座像の場合は約2.4m)と同じ佛像は丈六佛と呼ばれ、その半分の高さの佛像は「半丈六」とされます。更にその4分の3の尺度である「周尺」に基づいた佛像を「周丈六」(1丈6尺:約3.6m、座像の場合は約1.8m)と呼ばれ、その半分の「周半丈六」の座像は約0.9mとなります。法隆寺釈迦三尊像の釈迦像の身長(座像高)は0.875mですから、ほぼ一致します。ですから、この「周半丈六」を「丈六」と当時の法隆寺では呼ばれていたのではないでしょうか。
 以上のようにわたしは考えていますが、この場合、「周半丈六」という言葉や概念が7世紀前半頃に存在していたことを証明しなければなりませんが、今のところ史料根拠を発見できていません。ですから、このわたしの仮説は不安定なものです。先の加藤さんのご意見とどちらが良いのか、あるいはもっと優れた仮説があるのかを考えたいと思います。なお、同釈迦像を「周丈六像」とする見解を山田春廣さん(古田史学の会・会員)が同氏のホームページ「sanmaoの暦歴徒然草」(2019.04.12)で詳しく発表しておられましたので、意を強くしました。(つづく)


第1874話 2019/04/13

「令和」と「ラフランス」と「利歌彌多弗利」

 新元号「令和」は国民の評判も良いようですし、わたしもラ行で始まる新元号が気に入っています。マーケティングの視点でも、新商品や新店舗のネーミングを柔らかい響きを持つラ行で始まる言葉にするのは、特に女性に好意的に受けとめられることが知られています。
 たとえば、人気のフルーツ「ラフランス」も本来の名前は「みだぐなす」でしたが、これは「見た目よくなし」という意味の産地の山形弁で、ネガティブな名前でした。明治時代にフランスからもたらされた洋なしの一種でしたが、全く売れませんでした。こんなに美味しいのになぜ売れないのだろうと、地元の農家が悩んだ末に相談した専門のマーケターの助言により名称を「ラフランス」に変えたとたん爆発的にヒットし、〝フルーツの王様〟の地位を占めた話は、わたしたちプロのマーケターの間では有名です。
 ところで、古代日本語(倭語)にはラ行で始まる言葉は無かったことが知られています。倭人にはラ行で始まる言葉は言いにくかったことがその理由かも知れません。中国から入った漢語には、たとえば「蘭(らん)」や「猟師(りょうし)」などのラ行で始まる言葉はあるのですが、本来の倭語には見当たりません。この事実に基づいて古田先生がある仮説を発表されたことをご存じでしょうか。
 『隋書』イ妥国伝にはイ妥国王・多利思北孤の太子の名前が「利歌彌多弗利」と記されており、これはどう考えても「リカミタフツリ」あるいは「リカミタフリ」のようにラ行で始まる名前です。従って、通説では最初の「利」は「和」の誤りとして、「ワカンタフリ」と訓むとされてきました。しかし『隋書』の原文は「利」であり、「和」ではありません。そこで古田先生は「利歌彌多弗利」を「利、上塔(カミトウ)の利」とする訓みを提起されました。すなわち、「利」を倭語ではなく、中国風一字名称と理解されたのです。中国風一字名称であればラ行で始まっても不思議ではないからです。
 この古田説が正しいという証明は簡単ではありませんが、古代の倭語にラ行で始まる言葉がない以上、このような古田先生の理解しか成立できません。通説のように「和」の間違いとするのは原文改訂であり、安易に用いるべきではありませんから、相対的に古田説が有力となるわけです。
 以上のようなことを、新元号「令和」の発表で思い出しましたので、ご紹介します。


第1873話 2019/04/12

条坊都市「難波京」7世紀第3四半期造営説

 前期難波宮が7世紀中頃の造営とする説は考古学界では通説となり、文献史学との整合からそれは孝徳紀白雉3年(652年、九州年号の白雉元年)とする理解が最有力とされています。
 他方、その難波京が条坊都市であったのかどうかについて、当初は条坊はなかったと考えられてきました。その後、上町台地の方角地割りの痕跡が地図上に復元できることから、聖武天皇の後期難波宮の頃には条坊が存在していたとする説が有力となりました。そして近年では発掘調査が進み、条坊の痕跡が複数出土したことにより、難波京が条坊を有していたことは決定的となりました。ところが、その条坊の造営年代については積山洋さん(大阪歴博)らの発掘調査報告では天武朝の頃、すなわち7世紀第4四半期とする説が考古学者の間では有力説とされてきました。
 わたしは文献史学に基づく論理的解釈の結果、前期難波宮は条坊を持つ宮殿であり、その成立を前期難波宮造営時期の頃からとする説を発表してきました(「洛中洛外日記」684話 条坊都市「難波京」の論理)。その理由は次のような論理性によるものでした。

1.7世紀初頭(九州年号の倭京元年、618年)には九州王朝の首都・太宰府(倭京)が条坊都市として存在し、「条坊制」という王都にふさわしい都市形態の存在が倭国(九州王朝)内では知られていたことを疑えない。各地の豪族が首都である条坊都市太宰府を知らなかったとは考えにくいし、少なくとも伝聞情報としては入手していたと思われる。

2.従って7世紀中頃、難波に前期難波宮を造営した権力者も当然のこととして、太宰府や条坊制のことは知っていた。

3.上町台地法円坂に列島内最大規模で初めての左右対称の見事な朝堂院様式(14朝堂)の前期難波宮を造営した権力者が、宮殿の外部の都市計画(道路の位置や方向など)に無関心であったとは考えられない。

4.以上の論理的帰結として、前期難波宮には太宰府と同様に条坊が存在したと考えるのが、もっとも穏当な理解である。

 このような理由により前期難波宮は条坊を持った九州王朝の副都(複都)であり、前期難波宮造営と同時期に条坊も造営を開始されていたと考えてきました。ところが、このわたしの仮説を支持するような考古学論文が難波編年を提案された考古学者、佐藤隆さん(大阪歴博)から本年3月に発表されていたのです。それは「古代難波地域における開発の諸様相 -難波津および難波京の再検討-」(『大阪歴史博物館 研究紀要』第17号、平成31年3月)です。
 同論文冒頭に記された「要旨」には次のように記されています。

 「(前略)難波遷都の後、難波京の地割が成立する時期は天武朝(7世紀第4四半期)とこれまで考えられてきた。それに対して、本論は7世紀第3四半期に遡る可能性を指摘するとともに、遷都前に見られた都市化の影響を受けながらさまざまなかたちの開発によって地割が形成され、それらが中世につながっていく流れを考察した。」(7頁)

 最後の「むすびにかえて」では、次のように結論づけられています。

 「一方、難波京として認識できる地割は、前期難波宮が造営されてその求心力を保っていた難波Ⅲ新段階(7世紀第3四半期)には設計されており、一部では竣工も行われていたことを今回明らかにできたが、難波Ⅳ古・新段階(7世紀第4四半期〜8世紀第1四半期)にはその地割の一部は居住区の区画ではなく新たに拓いた耕作地への灌漑に用いられた可能性がある。」(21頁)

 このように、今回発表された佐藤論文は、考古学分野の研究成果により、前期難波宮の条坊(地割)が前期難波宮造営直後から設計・一部竣工していたとするもので、わたしの仮説と整合しています。文献史学に基づくわたしの論理展開(論証)が、考古学的事実(実証)により支持されたと言えるのではないでしょうか。


第1872話 2019/04/10

前期難波宮南面〝宮の大垣〟が出土

 本年4月に発行された『葦火』193号(大阪文化財研究所発行)に、前期難波宮の南限を示す前期難波宮南面「宮の大垣」出土の報告が掲載されていました。高橋工さんによる「前期難波宮南面〝宮の大垣〟を発見」という記事です。
 前期難波宮は1993年に「朱雀門」が発見され、その位置が南限と推定されていました。その後、1997年には朱雀門の真西295mの位置から掘立柱塀が出土し、今回はその中間地点から東西に並んだ6個の柱穴が出土しました。その柱穴は新旧3個ずつのセットですが、古い柱穴3個の間隔は2.92mであり、前期難波宮造営尺の1尺(0.292m)の10尺に相当することも判明しました。従って、前期難波宮の宮域を囲む塀が正確な間隔で造営されていたことがうかがえます。
 今回の発見により前期難波宮宮域の西面と南面は塀(柱穴)の出土により確定できたのですが、北と東はまだ確定できていません。しかし、前期難波宮宮域の東西幅は600mを超えることとなりました。大阪城築城によるお堀の掘削のため、内裏や宮域北限は不明ですが、今後の東方官衙の発掘調査により東面の塀の出土が期待されます。
 なお、この「宮域」という概念ですが、各都城の「宮域図」を見ますと、統一されていないようです。最も雑なものに太宰府宮域図があります。大宰府政庁を中心に東西に長い長方形の線で「宮域」と紹介する図面があるのですが、その中には丘や谷が含まれており、前期難波宮のような宮殿や官衙・倉庫群を含む「平地」ではありませんし、ましてや宮域をとり囲む塀や柵の出土を意味する「線」でもありません。ですから、都城の規模などを比較するとき、各「宮域」の面積比較として、丘や谷を含む大宰府政庁の「宮域」と称される〝誰かが地図上に引いた線で囲まれた面積〟を使用するのは学問的に無意味であり、はっきり言って誤りです。極端な例ですが、東京タワーと東京スカイツリーの規模を比較するのに、それぞれが立地する港区と墨田区の面積で比較するようなものだからです。
 都城や宮殿の規模の比較には、同じ概念どうしでの比較が当然のことです。たとえば前期難波宮のように出土事実に基づく塀(柱穴)で囲まれた「宮域」か、出土事実に基づく回廊で囲まれた朝堂院や正殿・内裏の面積で比較するのが恣意性が少なく学問的です。この点、大宰府政庁を九州王朝の王宮と見なす古田学派の研究者には特に留意を促しておきたいと思います。


第1871話 2019/04/09

『古田史学会報』151号のご案内

 『古田史学会報』151号が発行されました。冒頭の西村論文を筆頭に、古田学派内で論争や異見が出されてきたテーマの論稿が掲載されており、読者は最先端研究の現況に触れることができるでしょう。
 たとえば西村稿は古代中国における二倍年暦の存在を示す暦法上の史料痕跡を発見したというもので、二倍年暦の是非に関わるものです。古田先生やわたしは周代において二倍年暦が採用されていたとする立場ですが、古田学派の中にはそれに反対される方もおられます。その論争に終止符を打つ可能性を感じさせるのが今回の西村稿です。
 服部稿は、関西例会で激論が続いている大化改新の年代がテーマです。大化改新を『日本書紀』の通り七世紀中頃とする説と七世紀末の九州年号の大化年間のこととする説とで論争が続いているのですが、服部稿では過去に発表された西村稿(七世紀末説)へのハイレベルの批判が展開されています。当然、西村さんからの反論が次号でなされることでしょう。この両者のバトルをわたしも注目しています。
 正木稿は、古田説の中でも最も揺れている「磐井の乱」の是非についての経緯を解説されたものです。古田先生御自身が当初の「継体の反乱」説から「継体の反乱も磐井の乱もなかった」とする新説に変わっておられるほど重要で興味深いテーマです。正木さんの見解もいずれ示されることでしょう。
 わたしの論稿は、前期難波宮九州王朝副都説への批判の根拠となっている「天武朝造営説」を批判したもので、「天武朝造営説」が須恵器坏Bの出土事実の誤認に基づく誤論であることを明らかにしました。
 このように今号は、学問論争におけるダイナミズムを感じ取れる内容となっています。掲載された論稿は次の通りです。

『古田史学会報』151号の内容
○五歳再閏 高松市 西村秀己
○盗まれた氏姓改革と律令制定(下) 川西市 正木裕
○前期難波宮「天武朝造営」説の虚構
 -整地層出土「坏B」の真相- 京都市 古賀達也
○乙巳の変は六四五年
 -天平宝字元年の功田記事- 八尾市 服部静尚
○複数の名を持つ天智天皇 日野市 橘高 修
○「壹」から始める古田史学・十七
 「磐井の乱」とは何か(1) 古田史学の会事務局長 正木 裕
○古田史学の会 会員総会と記念講演会
○各種講演会のお知らせ
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集
○二〇一九年度 会費納入のお願い
○『古代に真実を求めて』バックナンバー 廉価販売のお知らせ
○編集後記 西村秀己