「 2019年10月24日 」一覧

第2021話 2019/10/24

「評制」時期に関する古田先生の認識(3)

 「評制」の開始時期を七世紀中頃と古田先生は考えておられましたが、それ以前は「県(あがた)」の時代とされていました。このことを示すエビデンス(古田先生の著書)を紹介します。
 『古代は輝いていた3』(一九八五年、朝日新聞社刊)の「第五章 二つの『風土記』」には次のように記されています。

 「九州王朝の行政単位 (中略)
 その上、重大なこと、それは五〜六世紀の倭王(筑紫の王者)のもとの行政単位が「県」であったこと、この一事だ。
 この点、先の『筑後国風土記』で、「上妻県」とある。これは、筑紫の王者(倭王)であった、筑紫の君磐井の治世下の行政単位が「県」であったこと、それを明確に示していたのである。」(七〇頁、ミネルヴァ書房版)

 ここでのテーマは、行政区画名が「県」と「郡」の二種類の風土記について述べたもので、九州王朝による『風土記』が「県」風土記であり、その成立時期について考察されたものです。その中で、「五〜六世紀の倭王(筑紫の王者)のもとの行政単位が『県』であった」「筑紫の君磐井の治世下の行政単位が『県』であった」とされています。すなわち、七世紀中頃の評制開始の前の行政区画を「県制」とされているのです。なお、「県」は「あがた」と訓まれていますが、古田先生はなんと訓むかは不明と、用心深く述べられています。
 また、『古代史の十字路 万葉批判』(東洋書林、二〇〇一年)では次のように記されています。

 「しかも、万葉集の場合、明白な、その証拠を内蔵している。巻一の「五」歌だ。
 『讃岐国安益郡に幸(いでま)しし時、軍王の山を見て作る歌』
 この歌は、『舒明天皇の時代』の歌として配置されている。
 『高市岡本宮に天の下知らしめし天皇の代、息長足日広額天皇』
の項の四番目に位置している。
 舒明天皇は『六二九〜六四一』の治世である。とすれば、明白に『郡制以前』の時代である。七世紀前半だから、『評』に非ずんば『県』などであって、まかりまちがっても『郡』ではありえない時間帯だ。」(二一九頁。ミネルヴァ書房版)

 ここに「七世紀前半だから、『評』に非ずんば『県』などであって」と記されているように、評制開始は七世紀中頃という認識が前提にあって、七世紀前半の行政区画名として「評」かそれ以前の「県」などであるとされているのです。もし評制開始が六世紀にまで遡ると古田先生が考えておられたのであれば、「『評』に非ずんば『県』など」とは書かず、「評の時代」と書かれたはずです。このように、古田先生が評制開始時期を七世紀中頃とされ、それ以前が「県」とされてきたのは明白です。
 最後にお願いがあります。「評制開始を六世紀以前」とする仮説を発表されるのも「学問の自由」であり、それがたとえ古田説と異なっていたとしても「師の説にな、なづみそ」(本居宣長)ですから、全くかまいません。しかし、古田先生ご自身がどのように認識されていたのかを論じられる場合は、せめて事前調査の一つとして、古くから古田先生の下で古代史学を学んできた〝長老〟格の方々に直接確認していただけないでしょうか。たとえば、学生時代(京都大学)から古田先生の謦咳に接してこられた谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)もおられます。
どのような自説の発表も「学問の自由」ですが、「○○の認識はこうだ」とされる場合は、その方に直接確認するか、お亡くなりになっておられるのであれば、その方を最も知る方々に直接確認するというのが、古田先生が示されてきた学問の方法です。たとえば、好太王碑研究において、古田先生は酒匂大尉のご遺族を探しだし、そのご遺族から直接聞き取り調査をされ、最終的には好太王碑の現地調査もされ、碑文改ざんがなかったことを明らかにされました(『失われた九州王朝』)。このことは、古田ファンや古田学派の研究者には周知のことでしょう。
 もし、「古田史学を継承する」といわれる方があれば、口先だけではなく、実践されることを望みます。古田先生は、あの和田家文書偽作キャンペーンと古田バッシングが酸鼻を極め、「市民の古代研究会」が分裂したとき、津軽の地を訪れ、現地での聞き取り調査を実施されました。私も何度も現地に行かせていただきましたが、そうした実践が古田史学を継承し、発展させていくうえで重要だと考えます。


第2020話 2019/10/24

即位礼正殿の儀の光景(2)
「黄櫨染御袍」に使用された蘇芳(すおう)

 新天皇の「即位礼正殿の儀」で着用された「黄櫨染御袍」は、光源の変化により色調が変化することを紹介しました。これにはかなりの技術が必要なのですが、それよりもすごい染色技術が京都の匠(染織家)により発明されています。それは五年ほど前にお会いしたご高齢の匠から見せていただいたもので、「貴婦人」と名付けられたシルクの染色糸です。
 「貴婦人」は「黄櫨染御袍」よりも青みの茶色をしていました。ところが、同じ室内光(蛍光灯)下でも糸束をねじったり角度を変えると、色調が茶色から濃緑色に変化するのです。ここまで変化するシルク糸は初めて見ました(化学繊維であれば機能性色素を用いて簡単にできます)。恐らく「演色性」だけではなく、シルクの成分であるフィブロインやセリシンを複数の染料で染め分けているのではないかと思い、使用した染料をたずねましたが、教えてはいただけませんでした。しかし、その糸束をわけていただくことができ、わたしは勤務先の科学分析機器を駆使して、染料成分分析や繊維構造解析を行いました。恐らく、自らが発明した「貴婦人」の染色技術を次世代の技術者に継がせたいとの思いから、貴重な糸束をわけていただいたものと感謝しています。
 話を「黄櫨染御袍」に戻します。使用された蘇芳は南方の国(インド、マレーシア)が原産地であり、〝輸入〟しなければならないのですが、もしかすると入手はそれほど困難なことではなかったのではないでしょうか。
 「洛中洛外日記」2006〜2014話(2019/10/06〜13)で連載した〝九州王朝の「北海道」「北陸道」の終着点(1)〜(9)〟において、わたしは九州王朝(倭国)の東西南北の「道」の「方面軍」という仮説を発表し、その「南海道」の終着点を今の沖縄・台湾とする説と中南米とする説を提起しました。いずれにしても、強力な海軍力を有してした九州王朝であれば、「南国」の蘇芳を入手することは可能と思われますし、あるいはその「南国」からの使者が九州王朝へお土産として持参した可能性さえあります。「黄櫨染御袍」の製造のため蘇芳を九州王朝が欲しがっていたとすれば、少なくとも「西国」百済から贈呈された七支刀と比べれば、自国に自生している蘇芳の木の贈呈は輸送コストはかかるものの、手間をかけて〝製造〟する必要もない〝お安いご用〟ですから。
 こうした視点を重視しますと、日本列島内を軍事的に展開(侵略)する「東山道」「北陸道」の「方面軍」とは異なり、「海道」の「方面軍」の主目的は「軍事」というよりも「交易」だったのではないかとの考えに至りました(軍事的側面を否定するものではありません)。大型船造船技術と航海技術があれば、大量の物資運搬にも海上郵送は便利です。一つの仮説として検討の俎上に乗せたいと思います。