「 2019年10月 」一覧

第2019話 2019/10/23

「評制」時期に関する古田先生の認識(2)

 古田先生が「評制」開始を七世紀中頃とされていたことは、30年にわたるお付き合いから、わたしにとっては自明のことだったのですが、わたしの説明が不十分だったようで、納得していただけない方がおられるようです。そこで、新たなエビデンス(先生の著作)を紹介することにします。
 2015年にミネルヴァ書房から発行された『古田武彦の古代史百問百答』(古田武彦著、古田武彦と古代史を研究する会編)に〝「庚午年籍の保存」について〟という一節があり、その中に大和朝廷により「評」史料が隠されたり廃棄された実例として次の三例が示されていますので、その部分を引用します。

(イ)正倉院文書では「評」の文書がない。
(ロ)『万葉集』にも「評」は出現しない。(「郡」ばかり、九十例)。
(ハ)『日本書紀』でも、六四五〜七〇一の間すべて「郡」とされている。
 (『古田武彦の古代史百問百答』218頁)

 ここに〝(ハ)『日本書紀』でも、六四五〜七〇一の間すべて「郡」とされている。〟と古田先生が記されているように、「評制」の期間が「六四五〜七〇一の間」との認識に立たれていることがわかります。なんとなれば、『日本書紀』には「六四五」より前も「郡」表記がなされており、もし古田先生が「評制開始を六世紀以前」と認識されていたのなら、それこそ「五〇一〜七〇一の間すべて」などと書かれたはずです。しかし、古田先生は「評制」開始を七世紀中頃と考えられていたので、『日本書紀』の中の「評」が「郡」に書き換えられた範囲として「六四五〜七〇一の間」と表現されたのです。そうでなければ、「六四五」という年次を記す理由は全くありません。
 同時に、「六四五」よりも前は「評」ではなく、「県」であると古田先生は考えられていました。このことについてもエビデンス(古田先生の著書)を示します。(つづく)

〔補注〕正確に言えば、「評制」は「七〇〇年」までで、「七〇一年」には「郡制」に変わったことが、出土木簡から判明しています。また、『日本書紀』の記述対象範囲は持統十一年(六九七年)までです。もちろん、本稿の論旨には影響しません。


第2018話 2019/10/22

即位礼正殿の儀の光景(1)
「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」

 本日、執り行われた新天皇の「即位礼正殿の儀」をテレビで拝見いたしました。まるで平安時代の王朝絵巻を見ているようで、感動しました。そして何よりもわたしが着目したのは、やはり職業柄か、両陛下や皇族方の装束の色彩でした。
 わたしの本職は染料化学・染色化学のケミストですので、どうしても衣装の色に目が行ってしまい、古代において使用されたであろう染料の分子構造式と染色技術(草木染めか)、そして衣装の繊維素材は何だろうかと、そうした疑問が頭の中をぐるぐると廻ります。そうやって出した科学的結論を妻に説明しようとすると、「やめてッ!」と言われてしまいました。そこで、「洛中洛外日記」読者の皆さんにさわりだけ説明させていただきますので、ちょっとお付き合い下さい。
 わたしが最も注目したのが天皇しか着ることが許されないという「黄櫨染御袍」でした。高御座の幕が開かれたとき、その色調に驚きました。想像していたよりも赤みが強い茶色だったからです。近代では合成染料が発達して、容易に茶色が出せるようになりましたが、以前は茶色を再現性良く出すことは高度な染色技術が必要とされていました。古代であればなおさらです。
 「黄櫨染御袍」も古代から伝わる染料と染色技術により、あの色相が出されていますので、それはまさに〝匠の技〟と言えます。しかも「黄櫨染御袍」は朝夕と昼間では異なる色調を発します。それは「演色性」という光学現象を利用したもので、太陽光中の光の波長分布が朝夕と昼間では異なって地上に届くという現象により、大きく色調が変化する染料(複数)が使用されていることによります。ですから、テレビを見ていて、「黄櫨染御袍」に使用された染料の推定とその分子構造が瞬時に脳裏を駆け巡ったのです。そのときの、わたしの推論は次のようなものでした。

①「黄櫨染」というからには、「櫨(はぜ・はじ)」の色素(フラボノール系色素:fustin)が使用されているはず。
②しかも「黄」とあるから、櫨の木の黄色の成分を用いて、アルミ明礬で媒染染色されているはず。
③というのも、金属で媒染染色しなければ草木染めの天然染料は日光堅牢度が劣り、使用に耐えない。
④従って、高堅牢度の黄色に発色させるためにはアルミ明礬か木材(主に椿)の灰に含まれるアルミ成分(+微量のカルシウム成分)の使用が考えられる。古代の染色において、「灰」の使用は『延喜式』などに見える既知の技術。
⑤しかし、「櫨」だけではあの赤みの茶色にはならず、更に青みの赤色染料も使用されているはず。
⑥古代において使用されている青みの赤色染料としては、「茜(あかね)」(アリザリン系色素)と「蘇芳(すおう)」(色素成分はbrazilein)が有名。
⑦「茜」は『万葉集』にも詠まれているように国内に自生しており、入手は容易。他方、「蘇芳」は南方の国(インド、マレーシア)が原産地とされ、〝輸入〟しなければならない。
⑧入手し易さでは「茜」だが、「黄櫨染御袍」のあの深みのある赤みの茶色を出すには「蘇芳」が望ましい。
⑨染色技術的にはどちらもアルミで媒染により赤色が出せるので、どちらを使用したのかは判断し難い。

 概ね以上のような思考が堂々巡りしたため、インターネットで確かめることにしました。その結果、「櫨」と「蘇芳」が「黄櫨染御袍」には使用されているとありましたので、わたしの推論はほぼ当たっていました。それにしても、とても美しく神々しい「黄櫨染御袍」でした。(つづく)


第2017話 2019/10/21

「評制」時期に関する古田先生の認識(1)

 9月16日に開催した『倭国古伝』出版記念東京講演会(文京区民センター、古田史学の会・主催)で、会場の参加者から「評制の開始時期はいつ頃か」という質問をいただき、当日に答えきれなかったことなどについて、「洛中洛外日記」1996〜2005話(2019/09/21〜10/04)〝九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(1)〜(8)〟として連載しました。
 そのときは質問に答えることに集中していたため思い至らなかったのですが、日本古代史研究では「評制」開始時期は七世紀中頃とすることが定説となっており、ほとんど異論を聞きません。それなのになぜこのような質問が出されたのでしょうか。恐らく、古田学派の論者の中には「評制開始は六世紀以前に遡るというのが古田先生の見解」とされる方がおられ、そうした見解が古田ファンの中にも伝わっていたことが背景にあるのではないでしょうか。
 古田先生も「評制」開始を七世紀中頃とされていたことは、30年にわたるお付き合いから、わたしにとっては自明のことだったので、そのことを「洛中洛外日記」や各会の会紙でも発表してきました。それで十分にご理解いただけたはずとわたしは思っていましたが、今回のような質問が出されたこともあり、まだまだ説明が足りなかったのではないかと反省しました。そこで、新たなエビデンス(先生の著作)を紹介して、古田先生が「評制」開始時期を七世紀中頃と考えられていたことを改めて説明したいと思います。(つづく)


第2016話 2019/10/19

『隋書』帝紀に「イ妥国」が見えない理由

 本日、「古田史学の会」関西例会がアネックスパル法円坂(大阪市教育会館)で開催されました。11月もアネックスパル法円坂、12月はI-siteなんば、1月はアネックスパル法円坂、2月はI-siteなんばで開催します。
 1月は例会翌日の19日(日)午後に恒例の「新春古代史講演会」(会場:アネックスパル法円坂)も開催します。こちらにも、ぜひご参加下さい。
 今回も優れた発表が続きました。中でも、岡下さんの『隋書』イ妥国伝の「イ妥国」を帝紀に見える「倭国」のこととする論証は見事でした。関西例会ではこれまでも「イ妥国」=「倭国」とする諸仮説が何人かの研究者により発表されてきましたが、今回の岡下さんの仮説は最も骨太で単純明快な論証のように思いました。
 それは、『隋書』イ妥国伝には「新羅・百済、皆イ妥を以て大国と為し」とあり、新羅や百済よりも有力な大国であるとされているのに、『隋書』の帝紀には「イ妥国」は現れず、列伝(イ妥国伝)にのみ記されていること。逆に「倭国」は列伝に「倭国伝」も置かれていないのに、帝紀(煬帝紀)には二回記されていることを指摘され、こうした現象は不自然であり、従って、帝紀の「倭国」と列伝の「イ妥国」は同じ国であり、ある意図を持って列伝では「倭」を「イ妥」と書き換えられたとされました。
 古田説では「イ妥国」を九州王朝、「倭国」を近畿天皇家のこととされていますから、今後の論争や比較検証が期待されます。
 正木さんからは『記紀』に見える隼人記事と『続日本紀』の隼人記事を比較され、『記紀』では隼人は敵対勢力ではなく、『続日本紀』になると敵対勢力として討伐されている点に着目され、古代における隼人の実態に迫られました。また宮中祭祀などで隼人が執り行う「吠声」は神聖な先払いの所作「警蹕(けいひつ)」であることを明らかにされ、今上天皇の即位儀礼でもこの「警蹕(けいひつ)」がなされるであろうとされました。
 隼人の研究は西村秀己さん等の先行研究もあり、今回の正木さんの研究により、隼人の実態解明が更に進むことが予想されます。
 この他にも、谷本さんからは、巨大前方後円墳に関しての北條芳隆さんの「前方後円墳はなぜ巨大化したか」(『考古学講座』ちくま新書、2019年5月)の論点を興味深いものと批判的に紹介されました。近年の考古学者の研究論文の傾向に変化が現れていることを感じさせる発表でした。
 今回の例会発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔10月度関西例会の内容〕
①天をなぜアマ・アメと訓むのか(八尾市・服部静尚)
②神聖なる扇と箒の形の意味すること(大山崎町・大原重雄)
③雄略紀の朝鮮半島記事について(茨木市・満田正賢)
④前方後円墳巨大化の理由をめぐって(神戸市・谷本 茂)
⑤(再)竹斯国とイ妥国の領域 ー隋書イ妥国伝の新解釈ー(姫路市・野田利郎)
⑥『隋書』イ妥国伝を考える(再)(京都市・岡下英男)
⑦『記紀』と『続日本紀』、二つの「隼人」(川西市・正木 裕)

○事務局長報告(川西市・正木 裕)
《会務報告》
◆新入会員情報。(九州王朝の故地、糸島市から入会あり)

◆「古田史学の会」新年古代史講演会
 01/19 13:00〜17:00 会場:アネックスパル法円坂(大阪市教育会館)
 ※講師・テーマは未定ですが、新年号「令和」に関わる『万葉集』をテーマとすることなどを検討しています。

◆「古田史学の会」関西例会(第三土曜日開催) 参加費500円
 11/16 10:00〜17:00 会場:アネックスパル法円坂(大阪市教育会館)
 12/21 10:00〜17:00 会場:I-siteなんば
 01/18 10:00〜17:00 会場:アネックスパル法円坂(大阪市教育会館)
 02/15 10:00〜17:00 会場:I-siteなんば

◆11/09〜10 「古田武彦記念古代史セミナー2019」の案内。主催:公益財団法人大学セミナーハウス。共催:多元的古代研究会、東京古田会、古田史学の会、古田史学の会・東海。

《各講演会・研究会のご案内》
◆「誰も知らなかった古代史」(正木 裕さん主宰。会場:森ノ宮キューズモール) 参加費500円
 10/25 18:30〜20:00 「古墳・史跡を地域の活性化に活かすー百舌鳥・古市古墳群等の世界遺産登録を受けて」講師:正木 裕さん。
 11/22 18:30〜20:00 「盗まれた天皇陵 俾弥呼の墓はどこに」講師:服部静尚さん。

◆10/26(土) 13:30〜16:30 「古代史講演会in八尾」(会場:八尾市文化会館プリズムホール 近鉄八尾駅から徒歩5分) 参加費500円
 ①「九州王朝説とは」②「恩智と玉祖-河内に所領をもらった神様」講師:服部静尚さん。

◆「古代大和史研究会」講演会(原 幸子代表) 参加費500円
 11/05 10:00〜17:00 会場:奈良新聞本社西館(奈良市法華寺町2番地4)
    10:00〜11:30 「万葉集Ⅱ〜白村江の戦い(前編)」講師:正木 裕さん。
    11:30〜12:30 《昼食休憩》
    12:30〜14:00 「万葉集Ⅱ〜白村江の戦い(後編)」講師:正木 裕さん。
    14:00〜14:15 「日本古代史報道の問題とマスコミの体質」講師:茂山憲史さん。
    14:30〜15:30 「孔子と弟子の倭人たち」講師:青木英利さん。
    15:30〜16:30 「物部戦争と捕鳥部萬」講師:服部静尚さん。
    16:30〜17:00 パネルディスカッション「史実伝承の断絶」座長:茂山。パネラー:青木・正木・服部。

◆「和泉史談会」講演会(辻野安彦会長。会場:和泉市コミュニティーセンター) 参加費500円
 11/12 14:00〜16:00 「万葉歌に見る壬申の乱」講師:正木 裕さん。

◆「市民古代史の会・京都」講演会(事務局:服部静尚さん・久冨直子さん)。毎月第三火曜日(会場:キャンパスプラザ京都) 参加費500円
11/19 18:30〜20:00 「能楽の中の古代史(1)謡曲「羽衣」に秘められた古代史」講師:服部静尚さん。


第2015話 2019/10/14

被災者へのお見舞い
『古田史学会報』154号のご案内

 このたびの台風19号により被災された皆様へお見舞い申し上げ、亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。また、「古田史学の会」を代表しまして、被災地の会員の皆様のご無事と一日も早い復興をお祈り申し上げます。
                 古田史学の会・代表 古賀達也

 『古田史学会報』154号が発行されました。一面には大原さんの論稿「箸墓古墳の本当の姿について」が掲載されました。箸墓古墳は元来は円墳だったとする見解(方部付加説)とその根拠について肯定的に紹介されたもので、わたしは説得力を感じました。
 満田さんは会報初登場です。持統紀に頻出する〝吉野詣で〟の理由について、古田説とは異なる視点(持統の乗馬趣味)で新仮説を発表されました。
 わたしは、曹操墓から出土した鉄鏡と日田市ダンワラ古墳出土の鉄鏡が類似しているという問題に関連して、ダンワラ古墳から出土したとした梅原末治氏の研究が〝「皇帝の所有物にふさわしい最高級の鏡」がなぜ九州に――。研究者らは首をかしげる。〟と否定的に学者やマスコミから取り上げられている現状を問題とする論稿「曹操墓と日田市から出土した鉄鏡」を発表しました。
 154号に掲載された論稿は次の通りです。この他にも優れた投稿がありましたが、次号以降での掲載となりますので、ご了解下さい。また、投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

『古田史学会報』154号の内容
○箸墓古墳の本当の姿について 京都府大山崎町 大原重雄
○持統の吉野行幸について 茨木市 満田正賢
○飛ぶ鳥のアスカは「安宿」 京都市 岡下英男
○壬申の乱 八尾市 服部静尚
○曹操墓と日田市から出土した鉄鏡 京都市 古賀達也
○「壹」から始める古田史学・二十
 磐井の事績 古田史学の会事務局長 正木 裕
○『古田史学会報』原稿募集
○古田史学の会・関西 史跡めぐりハイキング
○古田史学の会・関西例会のご案内
○各種講演会のお知らせ
○編集後記 西村秀己


第2014話 2019/10/13

九州王朝の「北海道」「北陸道」の終着点(9)

 九州王朝(倭国)の都、太宰府から土佐に向かう7番目の官道として、足摺岬(土佐清水市)から黒潮に乗り、「裸国」「黒歯国」(ペールー、エクアドル)へ向かう「大海道」(仮称)があったとする作業仮説(思いつき)を提起し、次の九州王朝「七道」案を示しました。

【九州王朝(倭国)の七道】(案)
○「東山道」「東海道」→「蝦夷国」(多賀城を中心とする東北地方)
○「北陸道」「北海道」→「粛慎国」(ロシア沿海州と北部日本海域)
○「西海道」→「百済国」(朝鮮半島の西南領域)
○「南海道」→「流求國」(沖縄やトカラ列島・台湾を含めた領域)
○仮称「大海道」→「裸国」「黒歯国」(ペールー、エクアドル)

 この思いつきに至ったとき、わたしは思わず[あっ」と声を発してしまいました。こうやの宮(福岡県みやま市)の上半身裸の「南の国」からの使者と思われる御神像は「流求国」ではなく、倭人伝に記された「裸国」からの使者ではないかと思い至ったのです。
 そもそも、「南の国」からの使者が九州王朝を訪問したとき、上半身裸で倭王に謁見したとは考えられません。だいいち、倭国(筑前・筑後)は夏でも上半身裸でおれるほど暖かくはないと思われますし、倭王に謁見するのに上半身裸は失礼ではないでしょうか。そうすると、御神像が上半身裸として作製されたのは、「南の国」からの使者にふさわしい姿として、実見情報ではなく、別情報によったと考えざるを得ません。その別情報こそ、「裸国」という国名だったのではないでしょうか。九州王朝内で伝わった外交文書中に記されていたであろう「裸国」という国名に基づき、「裸の国」からの使者にふさわしい想像上の人物として、あの上半身裸の御神像が成立したと思われるのです。
 このような理解に立つとき、こうやの宮の四人の使者の出身国は蝦夷国(東)・百済国(西)・裸国(南)・粛慎国(北)となります。更に、「南海道」の最終到着国は「裸国」ではないかというアイデアも出てきますが、これ以上あまり先走りすることなく、慎重に仮説の検証を続けたいと思います。(おわり)

〔謝辞〕本シリーズの論証は、次の方々による古代官道に関する先駆的研究業績に基づいています。お名前を紹介し、感謝の意といたします。
 肥沼孝治さん(古田史学の会・会員、東村山市)、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)、山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)。

 あわせて、「東に向かっているのになぜ北陸道なのか」という疑問をFACEBOOK上で寄せていただいたKさん(コジマ・ヨシオさん)、「流求国」についての知見をご教示いただいた正木裕さんにも御礼申し上げます。Kさんのコメント(疑義)がなければ本シリーズは誕生していなかったといっても過言ではありません。〝学問は批判を歓迎する〟という言葉が真実であることを改めて深く認識することができました。


第2013話 2019/10/13

九州王朝の「北海道」「北陸道」の終着点(8)

 九州王朝(倭国)官道の名称や性格について論じてきた本シリーズもようやく最終局面を迎えました。今回は、わたしに残された二つの疑問に挑戦してみます。一つ目は、大和朝廷は「七道」なのに、なぜ九州王朝は「六道」なのか。二つ目は、山田春廣さん作製マップによれば太宰府から本州方面にむかう「北陸道」「東山道」「東海道」により、ほぼ全ての国がその管轄下におかれるのですが、四国の「土佐」が直接的にはどの官道も通らない〝空白国〟なのはなぜか、という疑問です(土佐国へは「東海道」枝道が通じていたのではないかとのご指摘を西村秀己さんからいただきました)。
 一つ目の疑問は、「たまたま、九州王朝は六道になり、大和朝廷は七道になった」とする地勢上の理由として説明することも可能です。しかし、九州王朝の官道に倣って大和朝廷も「七道」にしたとすれば、九州王朝にはもう一つの「道」があったのではないかと、わたしは考えました。そのように推定したとき、二つ目の疑問〝土佐国の空白〟が、残りの「一道」に関係しているのではないかと思いついたのです。
 それでは古代において、太宰府から土佐に向かう、しかも他の「六道」に匹敵するような重要官道はあったのでしょうか。そのような「重要官道」をわたしは一つだけ知っています。それは魏志倭人伝に記された「裸国」「黒歯国」(南米、古田武彦説)へ向かう太平洋を横断する〝海流の道〟です。倭人伝には次のように記されています。

 「女王國東、渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、黑齒國復在其東南、船行一年可至。」『三国志』魏志倭人伝

 ここに見える「侏儒国」の位置は四国の西南岸部と思われ、その南の足摺岬(土佐清水市)から黒潮に乗り、倭人は「船行一年」(二倍年歴による)かけて「裸国」「黒歯国」(ペールー、エクアドル)へ行っていると記録されているのです。この「裸国」「黒歯国」と九州王朝との往来がいつの時代まで続いていたのかは不明ですが、九州王朝にとっては誇るべき〝国際交流〟であったことを疑えません。
 この太平洋を横断する〝海流の道〟(行きは黒潮に乗る北側ルート。帰りは赤道反流に乗る南側ルート)の名称は不明ですが、仮に「大海道」と名付けたいと思います。もっと良い名称があればご提示下さい。
 もしこの作業仮説(思いつき)も含めれば、九州王朝(倭国)官道は大和朝廷と同じ「七道」とすることができますが、いかがでしょうか。(つづく)

【九州王朝(倭国)の七道】(案)
○「東山道」「東海道」→「蝦夷国」(多賀城を中心とする東北地方)
○「北陸道」「北海道」→「粛慎国」(ロシア沿海州と北部日本海域)
○「西海道」→「百済国」(朝鮮半島の西南領域)
○「南海道」→「流求國」(沖縄やトカラ列島・台湾を含めた領域)


第2012話 2019/10/12

九州王朝の「北海道」「北陸道」の終着点(7)

 九州王朝(倭国)官道の名称や性格について一通り説明可能な仮説が成立しましたので(当否は別として)、次にこの仮説と関連諸史料・諸研究などとの整合性を精査し、必要であれば修正を施し、仮説の精度を向上(ブラッシュアップ)させたいと思います。というのも、下記の九州王朝官道の位置づけについて、わたしにはいくつか気になることがありました。その一つは、「西海道」の終着国がこうやの宮(福岡県みやま市)の御神像と不一致という問題でした。

○「東山道」「東海道」→「蝦夷国」(多賀城を中心とする東北地方)
○「北陸道」「北海道」→「粛慎国」(ロシア沿海州と北部日本海域)
○「西海道」→「隋」「唐」(中国の歴代王朝)
○「南海道」→「流求國」(沖縄やトカラ列島・台湾を含めた領域)

 こうやの宮の五体の御神像は、中央の比較的大きな主神(九州王朝の天子・倭王、玉垂命か)と四方の国からの使者からなるのですが、古田先生の見解によれば、七支刀を持つ人物が百済国(西)からの使者、鏡を持つ人物が近畿天皇家(東)からの使者、厚手のマントを着た人物が高句麗(北)からの使者、そして南洋の原住民のような上半身裸の人物は「南の国」からの使者とされています。
 この中で国名が明確に想定できるのが七支刀を持つ人物で、百済国からの使者です。その他の御神像は推定の域(作業仮説)を出ません。他方、七支刀といえば奈良県の石上神社に伝わる神宝(国宝)であり、その銘文により、泰和四年(369)に百済王から倭王に贈呈されたものであることがわかります。従って、「七支刀」を持つ御神像を百済の官人とされた古田先生の見解にわたしも賛成ですし、これ以外の理解は根拠がなく成立困難です。
 こうやの宮の御神像が、九州王朝の歴史を反映(伝承)したものであれば、九州王朝官道が向かう東西南北の外国は蝦夷国・百済国・流求国・粛慎国となります(東からの使者を近畿天皇家とするのは、他の使者がいずれも国外からであり、東だけが倭国内のしかも九州王朝(倭王)の臣下である近畿天皇家とするのはアンバランスです)。特に、御神像の国として明確な百済国との対応は無視できません。こうやの宮の御神像という〝史料根拠〟に従う限り、「西海道」の終着国を百済国とするのが学問の方法上穏当なのです。この場合、「西海道」のルートは、太宰府を起点として肥前(松浦半島付近)・壱岐・対馬・済州島(タンラ国)・百済国とするのが妥当ではないでしょうか。
 以上の考察結果から、九州王朝官道の位置づけとして次のケースも有力となりました。

○「東山道」「東海道」→「蝦夷国」(多賀城を中心とする東北地方)
○「北陸道」「北海道」→「粛慎国」(ロシア沿海州と北部日本海域)
○「西海道」→「百済国」(朝鮮半島の西南領域)
○「南海道」→「流求國」(沖縄やトカラ列島・台湾を含めた領域)

 なお、時代によって四方の終着国が変わるという可能性はありますが、「軍管区」としての「西海道」の終着点を東アジアの〝上位国〟である唐や隋とするよりも百済国とする方が自然ではないでしょうか。(つづく)


第2011話 2019/10/11

九州王朝の「北海道」「北陸道」の終着点(6)

 『隋書』に見える「流求國」(沖縄やトカラ列島・台湾を含めた領域)を「南海道」の終着点の国とする正木さんのご意見を採用すると、九州王朝官道の各終着点は次のようになります。いずれも起点は九州王朝(倭国)の都、太宰府です。

○「東山道」「東海道」→「蝦夷国」(多賀城を中心とする東北地方)
○「北陸道」「北海道」→「粛慎国」(ロシア沿海州と北部日本海域)
○「西海道」→「隋」「唐」(中国の歴代王朝)
○「南海道」→「流求國」(沖縄やトカラ列島・台湾を含めた領域)

 従来の大和朝廷一元史観の「五畿七道」の「七道」は、日本国内限定の「国道」か「高速道路網」のようなイメージで捉えられていた側面が大きかったのですが、今回の九州王朝(倭国)官道の名称の論理的検証の結果、それは四至(東西南北)にある外国へ至るルート、そしてその方面軍が展開する「軍管区」(山田春廣説)とする壮大なスケールの仮説が成立しました。
 九州王朝官道には「東西南北」の「海道」があることから、四方面に展開できる強力な水軍を九州王朝(倭国)は擁していたと思われますが、その倭国艦隊は白村江戦の大敗北により壊滅したようです。というのも、701年の王朝交替後の大和朝廷(日本国)には水軍を持っていた痕跡がありません。たとえば『養老律令』「軍防令」に水軍に関する規定が見えないからです。
 そのため、大和朝廷の「七道」の一つ「西海道」は九州島(大宰管内)とその官道のこととされており、「東海道」「南海道」も海岸沿いの官道とその沿道の諸国を意味しており、九州王朝時代の〝方面軍が展開する「軍管区」〟といった意味合いは少ないように思われます。「多賀城碑」などに見える「東山道節度使」「按察使鎮守将軍」にその痕跡がうかがわれますが、これは701年以後に発生した日本国と蝦夷国との戦争により、「東山道」にはそうした「方面軍」名称が存続したのでしょう。(つづく)


第2010話 2019/10/10

九州王朝の「北海道」「北陸道」の終着点(5)

 正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の見解をうかがったところ、『隋書』に見える「流求國」や台湾を〝「南」の大国〟としてはどうかというものでした。東の「蝦夷国」・北の「粛慎国」・西の「唐」のように、『日本書紀』に記載されている大国という点にわたしはこだわったのですが、七世紀(656年)に成立した九州王朝と同時代史料である『隋書』を史料根拠とすることは、学問的に見ても穏当ではあります。しかし、わたしは「流求國」や台湾よりももっと南方の国ではないかという思いがあり、正木さんとの質疑応答は続きました。
 九州王朝官道が東西南北の大国へ向かっており、そのことを意味する官道名になっているとの仮説に到達したとき、わたしの脳裏に浮かんだのが「七支刀を持つ御祭神」で有名なこうやの宮(福岡県みやま市)でした。小さな祠に祀られている木造の五体の御神像です。その中央の比較的大きめの主神(九州王朝の天子、玉垂命か)と東西南北の国からの使者と思われる御神像なのですが、この四体の御神像の国こそ、九州王朝官道が向かう四つの大国と対応しているのではないかと、わたしは考えました。
 古田説では七支刀を持つ人物が百済国(西)からの使者、鏡を持つ人物が近畿天皇家(東)からの使者、厚手のマントを着た人物が高句麗(北)からの使者、そして南洋の原住民のような上半身裸の人物は「南の国」からの使者とされています。わたしはこの上半身裸の人物像が「南」の大国の風俗を表現していると思っていましたので、沖縄や台湾よりももっと南方の、たとえばフィリピンやボルネオのほうがふさわしいのではないかと正木さんに反論し、正木さんに再検討と調査を要請しました。
 その日の夜、正木さんからメールが届き、人形の写真が添付されていました。台湾のアミ族(古代)の風俗を表したものとのことで、高野の宮に祀られている南国からの使者と同様に衣装を腰に巻き付けた姿や全体の雰囲気が似ています。そして、正木さんの結論は、「南海道」が目指す「南」の大国として、『隋書』に見える「流求國」(沖縄やトカラ列島・台湾を含めた領域)と考えてはどうかというものでした。送られてきた写真を見て、この正木さんの見解も有力と感じました。(つづく)