「 2019年11月01日 」一覧

第2031話 2019/11/01

難波京朱雀大路から大型建物と石組溝が出土

 前期難波宮九州王朝複都説に反対する論者からは、七世紀中頃の難波宮の存在を否定したり、上町台地上の日本列島内最大級の遺構(古墳時代〜前期難波宮時代)を矮小化する見解が未だに見られるのですが、そうした見解に対して考古学的出土事実は〝ノー〟を示し続けています。その新たな発見が『葦火』195号(2019年10月、大阪市文化財協会編集)に掲載されましたので紹介します。
 『葦火』195号で「難波京朱雀大路跡で古代の大型建物と石組み遺構を発見」という記事が発表されました。今回の出土地点は前期難波宮朱雀門(南門)から南へ約800mのところ(天王寺区城南寺町)で、豊臣秀吉が城下町として整備した古い寺町が残っているため、これまであまり発掘調査が進んでいない地域です。そこから、掘立柱建物1棟と南北方向の石組み溝が発見されました。建物の全体の規模は不明ですが、柱の規模から一般の建物としては大型のものとされています。
 石組みは、建物の西側を通る朱雀大路の(幅32.7m)よりも東側にあるため、朱雀大路の側溝ではなく、建物敷地内の溝と思われます。石組み溝内や柱抜き取り穴から七世紀中〜後葉の時期の須恵器や土師器、遺物が出土しており、溝と建物は前期難波宮の時期のものと考えられます。石組に使用された石材は前期難波宮の北西官衙の水利施設の暗渠に使用されたものと共通する、六甲や播磨地域を含む山陽帯の花崗岩が用いられていました。
 更にもう一つ大きな発見がありました。同遺構の前期難波宮造営時期かそれ以前に遡る可能性のある層位から、「奉」と推定される文字が刻まれた「陶硯」が出土したのです。土器に記された「奉」の文字としては、日本では最も古い事例になりそうとのことです。新羅でも陶器に「奉」の文字を刻む例があることから、新羅から伝わった祭祀文物とみる説もあるそうです。そして、次のように指摘されています。

 「硯の出土は、文書を扱う人が周辺で活動していたことを物語ります。今回見つかった建物が建てられる以前に、周辺に重要な施設があった可能性も想定する必要がありそうです。」(大庭重信・協会学芸員)

 わたしが前期難波宮九州王朝複都説を発表して以来、この十年間も前期難波宮や難波京が国内最大規模の王都・王宮であることを支持する出土が続いています。この考古学的事実を九州王朝説ではどのように説明できるのかという考究を続けた末の結論が、前期難波宮九州王朝複都説であることを是非ご理解いただきたいと願っています。


第2030話 2019/11/01

首里城焼亡を悼む

 沖縄県の象徴的建造物であり文化遺産の首里城が火災により失われたことをニュースで知りました。沖縄県民や首里城を愛しておられる皆様のお嘆きはいかばかりか。心より同情申し上げます。

 今回の首里城焼亡の様子をテレビで見ていて、巨大木造建築物に一旦火がつくと、その火の手の速さが想像以上であったことに驚きを禁じ得ませんでした。
 古代史研究においても『日本書紀』に記された著名な火災記事として、法隆寺(天智九年・670年)と難波宮(天武紀朱鳥元年・686年)の焼亡があります。特に難波宮(前期難波宮)は瓦葺きではないことから、外部の火災であってもその火の粉により類焼しやすいことと思われますし、上町台地上という立地条件により、消火のための「水利施設」が十分にあったとも考えられません。従って、その延焼速度は今回の首里城よりも速かったのではないでしょうか。
 『日本書紀』天武紀朱鳥元年正月条には難波宮焼亡が次のように記されています。

 「乙卯(十六日)の酉のとき(午後六時頃・日没時)に、難波の大蔵省失火して、宮室悉(ことごと)く焚(や)けぬ。或いは曰く、阿斗連薬が家の失火、引(ほびこ)りて宮室に及べりという。唯(ただ)し兵庫職のみは焚けず。」

 この記事によれば、大蔵省か阿斗連薬の家で発生した火災により、宮殿が全焼したことになります。しかも「酉のとき」日没の時間帯ですから、瀬戸内海方面に沈む夕日に照らされる中、当時、日本列島内最大規模の難波宮(前期難波宮)が紅蓮の炎の中に焼亡する様子を、難波の都人たちは為す術もなく眺めていたことでしょう。
 現代も古代も、このような火災は痛ましいものです。難波宮跡からはこの火災により焼けた焼土層が検出されており、それにより整地層上に重層的に建設された前期難波宮と後期難波宮の遺構を区別することが可能な場所もあります。あるいは、瓦葺きだった後期難波宮の遺構層位からはその瓦が出土しますから、このことによっても前期難波宮と後期難波宮の遺構の区別が可能です。
 また、前期難波宮焼土層からは白い漆喰も多数出土しており、前期難波宮の主要施設は漆喰で加工されていたと推定されています。しかし、その漆喰も火災を止めることはできませんでした。
 白い漆喰により表面が加工されていた前期難波宮は、恐らく現在の改修後の姫路城のように白い宮殿だったのではないでしょうか。その完成間近の前期難波宮で白雉改元の儀式が執り行われています(九州年号「白雉元年」652年。『日本書紀』には二年ずらされて650年を「白雉元年」とし、その二月に大々的な白雉改元儀式記事が挿入されています。拙稿「白雉改元の史料批判」をご参照下さい。『「九州年号」の研究』に再録)。
 姫路城が「白鷺城」の異名を持つように、前期難波宮も「白雉宮」と呼ばれていたのではないかと、わたしは想像しています。「白雉元年(652)」九月に完成したという、九州年号の「白雉」と白い漆喰の出土しか、今のところ根拠がない作業仮説ですが、いかがでしょうか。