2020年05月一覧

第2165話 2020/05/31

造籍年間隔のずれと王朝交替(3)

 「白雉元年籍」(652)と「庚午年籍」(670)との間隔は18年であり、ちょうど六年で割り切れるため、九州王朝も6年ごとに造籍していたのではないかとしました。このことを確認するため『日本書紀』を調べたところ、孝徳紀に次の記事がありました。

 「東国等の国司に拜(め)す。よりて国司等に曰はく、(中略)皆戸籍を作り、また田畝を校(かむが)へよ。」大化元年(645)八月五日条(東国国司詔)
 「甲申(19日)に、使者を諸国に遣わして、民の元数を録(しる)す。」大化元年(645)九月条
 「初めて戸籍・計帳・班田収授之法を造れ。」大化二年(646)正月条(改新詔)

 このように大化二年(646)に初めて造籍法を造れとの詔が出されています。その前年の八月には「皆戸籍を作」れと東国の国司に命じ、九月には諸国の「民の元数」を記録したと記されており、このとき初めての造籍があったことがうかがえます。この大化二年(646)は先に指摘した「白雉元年籍」(652)造籍の6年前です。従って、この大化元年・二年の記事も6年ごとの造籍が行われたことを示しているのではないでしょうか。
 もしこの記事が九州王朝系史書によるものであれば、九州王朝は「大化二年(646)」(九州年号の命長七年)に初めての造籍を行い、その6年後の白雉元年(652)に2回目の造籍を実施し、その後も6年ごとに造籍し、白鳳十年(670)の「庚午年籍」まで造籍が行われたと推察できます。もしかすると、白鳳四年(664)については白村江戦敗北の翌年であり、敗戦の混乱により造籍が行われなかったかもしれません。というのも、この年の造籍を示す記事が『日本書紀』や後代史料に見えないからです。
 「庚午年籍」(670)の造籍後も、「庚寅年籍」(690)まで造籍の史料痕跡が見えないことから、「庚午年籍」は九州王朝にとって最後の造籍であり、近畿天皇家にとってもその後の造籍作業のための基本戸籍であるため、『大宝律令』『養老律令』で「庚午年籍」の永久保存を命じたものと思われます。恐らく、672年の「壬申の乱」など、九州王朝から大和朝廷への王朝交替に至る混乱で造籍が滞り、持統4年(690)に至ってようやく「庚寅年籍」が造籍されたものと思われます。この頃、近畿天皇家は国内最大規模の藤原宮(藤原京)の造営を開始しており、大宝元年(701)の王朝交替に向けて、着々と体制固めを進めていたことがわかります。
 以上の考察の結果、6年ごとの造籍が律令で規定されたにもかかわらず、「庚午年籍」(670)と「庚寅年籍」(690)の間で造籍年間隔にずれが生じているのは、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交替があったことによるものと思われるのです。


第2164話 2020/05/31

造籍年間隔のずれと王朝交替(2)

 「九州王朝律令」が現存しませんから、九州王朝における造籍年間隔は不明ですが、推定のためのいくつかの手がかりはあります。もちろんその代表は「庚午年籍」(670)です。この庚午年(670)を定点として、その他の造籍年がわかれば、間隔を推定する根拠になります。これまでの九州王朝史研究の成果により、『日本書紀』に九州王朝による造籍があったと考えてもよい記事があります。孝徳紀白雉三年(652)正月条に見える次の記事です。

 「正月よりこの月に至るまでに、班田すること既におわりぬ。」『日本書紀』孝徳紀白雉三年正月条

 この記事は正月条でありながら、「正月よりこの月に至るまでに」とあり、不審とされてきました。わたしはこの記事を根拠に、直前にあった二月に行われた白雉改元の儀式記事が切り取られ、孝徳紀白雉元年(650)二月条に貼り付けられたとする説を発表しました(「白雉改元の史料批判」『「九州年号」の研究』所収)。ちなみに、九州年号の白雉元年は壬子(652)に当たり、孝徳紀の白雉改元記事は九州王朝史書の白雉元年(652)二月条から二年ずらされて孝徳紀白雉元年(650)二月条に移動されたともの考えられます。
 こうした史料批判の結果、「正月よりこの月に至るまでに、班田すること既におわりぬ。」の記事も九州王朝史書からの転用と考えられ、この年に班田したのも九州王朝となります。そして、班田のためには直近に造籍した戸籍が必要であり、その造籍年も九州年号の白雉元年(652)と理解するのが穏当です。そして、この「白雉元年籍」(652)と「庚午年籍」(670)の間隔は18年であり、ちょうど六年で割り切れます。この理解が正しければ、「九州王朝律令」戸令にも『養老律令』と同様に「凡戸籍六年一造」のような6年ごとの造籍規定があり、大和朝廷は「九州王朝律令」の造籍規定を受けついだことになります。(つづく)


第2163話 2020/05/30

造籍年間隔のずれと王朝交替(1)

本年11月に開催される八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー2020)で〝古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「大宝二年籍」「延喜二年籍」の史料批判―〟というテーマで研究発表するにあたり、古代戸籍についての勉強を進めています。そこで、以前から気になっていた問題について記しておくことにします。それは7世紀中頃から8世紀初頭にかけての古代戸籍の造籍年の間隔についてです。
 古代戸籍には基本となる二つの定点があります。一つは現存最古の「大宝二年籍」(702)です。もう一つは、最古の全国的戸籍と考えられている「庚午年籍」(670)です。両戸籍の造籍年は九州王朝と大和朝廷の王朝交替の701年をまたいでおり、その痕跡が各戸籍の造籍年の間隔に現れています。
 古代戸籍は六年間隔で造籍することが『養老律令』などで規定されており、7世紀も基本的には同様と考えられています。通説では、「庚午年籍」(670)と「庚寅年籍」(690)・「持統十年籍」(696)、そして「大宝二年籍」(702)へと続くとされています。なお、「持統十年籍」に対して「持統九年籍」(695)とする説(南部昇『日本古代戸籍の研究』1992年)もあります。

 「凡戸籍六年一造」『養老律令』戸令

 「庚寅年籍」(690)・「持統十年籍」(696)・「大宝二年籍」(702)は六年間隔で造籍されているのですが、最初の「庚午年籍」と「庚寅年籍」とは20年の間隔があり、六年では割り切れません。この現象を多元史観・九州王朝説で説明すれば、「庚午年籍」は九州王朝による造籍、「庚寅年籍」以降は近畿天皇家による造籍であり、王朝交替による混乱の結果、6年ごとの造籍がなされなかったと考えることができます。
 しかし、大和朝廷は自らが滅ぼした前王朝の九州王朝時代の「庚午年籍」を基本戸籍として永久保存を律令に規定し、そのことを全国の国司に命じています。それでは九州王朝の造籍年間隔はどうだったのでしょうか。(つづく)


第2162話 2020/05/29

倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(8)

 『三国志』(中華書局本)本文に見える「都」で、名詞の「みやこ」や動詞の「みやこする」ではなく、「全て」「全ての」という意味で使用されていると考えられる次の例について、訳を検討してみました。

(9)「景初中、受詔作都官考課」(三 619頁、魏書)
《訳案》
①景初(年)中、詔を受けて都(すべて)の官の考課を作る。
②景初(年)中、詔を受けて官を都(す)べる考課を作る。
③景初(年)中、詔を受けて都官(とかん)の考課を作る。

(28)「詔立都講祭酒」(五 1136頁、呉書)
《訳案》
①詔す、都(すべて)の講に祭酒を立てよ。
②詔す、講を都(す)べる祭酒を立てよ。
③詔す、都講(とこう)に祭酒を立てよ。

(33)「身長八尺、儀貌都雅」(五 1216頁、呉書)
《訳案》
①身長は八尺、儀貌(容貌)は都(すべて)雅(みやび)なり。
②身長は八尺、儀貌(容貌)は都雅(とが)なり。

 なお、(9)(28)については、「都官」を「みやこの官僚たち」、「都講」を「みやこの講」と訓めないこともありませんが、〝みやこの「官」や「講」〟という表記は『三国志』中の他には見えませんので採用しませんでした。また、「都(す)べる」と訓む場合は、日本語では「統(す)べる」の表記が通常で、その意味は「統括する」です。『三国志』でも「統括する」の意味には「統」の字がよく使われています。
 他方、『後漢書』や漢和辞典類には「都官」「都講」「都雅」という熟語が見え、「都官:役職名(『後漢書』)」「都講:塾頭」「都雅:みやび」などが見えます。このことを加藤健さん(古田史学の会・会員、交野市)からご教示いただきました。この点を重視すると、「都講」の訓みは「講を統(す)べる」「講を統括する」が適切となります。あるいは、『三国志』編纂時代には「都督」「都尉」などのように、「都講」という役職名が既に成立していたのかもしれません。また、同様に「都雅」という二字で「みやび」という意味が『三国志』の時代に成立していた可能性も考慮する必要がありそうです。
 引き続き検討を進めますが、今回の『三国志』調査においては「全て」「全ての」という意味で「都」の字が使用される確かな例(他の字義では意味が通らないケース)は今のところ見つかっていません。また、わたしの仮説を積極的に支持する、ある数値を「合計して」という確実な用例はみつかりませんでした。現時点での結論としては、「都」の字は、「みやこ(名詞)」「みやことする(動詞)」の意味と、「統べる」「統括する」の意味で使用されていることが確認できました。(つづく)


第2161話 2020/05/28

『万葉集』巻五の清濁音書き分け

 先日、40年来の古田ファンの西村幸三郎さん(伊丹市)から初めてのお便りと電話をいただきました。西村さんは二十代の頃から古田先生のファンで、著作はほとんどすべて購入され読まれているとのこと。ありがたいことに『古代に真実を求めて』も23集まで全て持っておられるそうです。いただいたお便りには、『古代に真実を求めて』について次のような好意的で鋭い感想が記されていました。

 「日本古代史(周辺・周縁も含めて)探求の広がり・深さ・奥行、それに学問的探求が、どんどん精密・精緻になってきているなあと、毎年読ませていただくたびにこういう感想をもちます。」

 お便りには、寺田透著『万葉の女流歌人』(岩波新書、1975年)のコピーが添えられており、それには『万葉集』巻五の清濁音書き分けについて触れられていました。わたしはこの寺田さんの著書を読んだことがなかったのですが、万葉仮名における清濁音の書き分けの状況や変遷からみて、「『万葉集』巻五風の『万葉仮名』の選定をその頃(奈良朝末期:古賀注)とみる限り、それは天皇家と無関係に行われたものということになる。」とする指摘に驚きました。すなわち、万葉仮名成立の主体が天皇家ではないという主張ですから、多元史観に通じる考え方ではないでしょうか。
 わたしも、「洛中洛外日記」2118話(2020/03/23)〝映画「ちはやふる」での「難波津の歌」〟において、『万葉集』では「ちはやぶる」、『古今和歌集』では「ちはやふる」と詠まれていることにふれました。また、190話(2008/09/28)〝「古賀」と「古閑」〟では万葉仮名の多元的な成立の可能性についてふれました。よい機会ですので、この清濁音問題を本格的に勉強してみようと思います。まずは寺田さんの『万葉の女流歌人』を読んでみます。同著のことをお知らせいただいた西村さんに御礼申し上げます。
 西村さんとお電話でお話したときも、寺田さんについて多くのことを教えていただきました。「古田史学の会」に入会していただきたいとお願いしたところ、ご承諾いただきました。関西例会でお会いできることを楽しみにしています。


第2160話 2020/05/27

【会員の皆様への緊急告知
会員総会中止と代替措置の報告

 古田史学の会・役員会は、例年六月に開催してきた定期会員総会とそれに先立つ全国世話人会の招集を、本年については中止することを決定しましたので会員の皆様にお知らせいたします。
 おりからのコロナ禍による緊急事態宣言発令などの影響を受け、古田史学の会も例会活動や講演会の開催中止を余儀なくされてきました。会員総会についても現時点での開催は困難との認識に立ち、総会に代えて、『古田史学会報』に事業報告・決算報告・新年度予算案・人事案などを掲載することとしました。総会としての審議・決議が行えませんので、新年度の予算案・事業計画などは従来と大差なきよう配慮しました。また、それらについて会員の皆様からのご意見などがあれば、事務局までお手紙などでご連絡いただきたいと存じます。これらの措置をもって会員総会での審議・決議に代えさせていただきたいと存じます。
 会員の皆様にはご迷惑をおかけすることになりますが、コロナ禍という現状において、苦渋の決断であることをご理解いただきますようお願い申し上げます。
 古田史学の会はこれからも会の目的実現のために奮闘してまいります。会員の皆様の変わらぬご支援ご協力を賜りますよう、お願い申し上げます。
     令和二年(二〇二〇)五月二七日
              古田史学の会・代表 古賀達也


第2159話 2020/05/24

正木裕さんが八王子セミナー2020で発表

 本年11月、古田先生の『「邪馬台国」はなかった』発刊50周年記念として開催される八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー2020)で研究発表することを「洛中洛外日記」2154話〝八王子セミナー2020 発表タイトルと要旨〟でお知らせしました(【演題】古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「大宝二年籍」「延喜二年籍」の史料批判―)。
 正木裕さん(古田史学の会・事務局長)も研究発表されることになり、わたしのFACEBOOKにテーマと要旨がコメントされました。下記の通りです。同テーマは関西でも好評の正木さんの〝鉄板〟研究です。とても有意義で面白そうなセミナーになりそうです。

【演題】裏付けられた「邪馬壹国の中心は博多湾岸」

【要旨】故古田武彦氏が唱えられた「邪馬壹国の中心は博多湾岸である」ことの正しさを、様々な考古学上・文献上の「新たな発見・知見」にもとづいて証明する。

※正木さんからの追加コメント
 邪馬「台」国はなかった以降、特に近年、古田氏がふれることが出来なかった様々な考古学的発見や文献の発掘により博多湾岸邪馬壹国説はその信頼度を増しています。セミナーでは、ヤマト一元説が無視・スルーしてきた「新証拠」を紹介し、改めて古田説を裏付けていく予定です。


第2158話 2020/05/23

倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(7)

 『三国志』(中華書局本)に見える「都」には動詞と名詞、そして「全て」の意味を持つ用例がありました。特に三国時代(後漢末期)の遷都記事に関わるものとして、190年の「長安」遷都関連記事(1)(7)(25)、196年の「許」遷都関連記事(2)(3)(4)(6)(10)(11)、呉の遷都記事(26)(27)(30)(31)(30)(39)(41)(42)(43)(45)(46)(47)があり、いずれも「みやこする」(文語的表現)「みやことする」(口語的表現)と訓むのが妥当と思われます。
 他方、注目すべきは倭国と高句麗の次の「都」関連記事です。

(17)「儉遂束馬縣車、以登丸都、屠句麗所都、斬獲首虜以數千」「刊丸都之山」魏書毋丘儉(カンキュウケン)伝(三 762頁)
(20)「南至邪馬壹国、女王之所都、水行十日陸行一月」魏書倭人伝(三 855頁)

 共に「所都」という表記で、丸都が高句麗の都であること、邪馬壹国が女王の都であることを説明する文脈で使用されており、「都」を動詞とする「みやこする所」「みやことする所」の訓みが最も適切で、記事の意味を的確に表しています。なお、倭人伝(20)には「女王之所都」と「之」の字があり、毋丘儉伝(17)「屠句麗所都」にはありません。この差異により文意にどのような影響が出るのか、今のところよくわかりません。(つづく)


第2157話 2020/05/22

倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(6)

 『三国志』(中華書局本)を久しぶりに全巻読み通しました。わたしの好みでもありますが、「蜀書」姜維伝を読むと、なぜか胸が熱くなりました。横山光輝さんの漫画『三国志』に描かれた姜維の印象が強いこともあり、わたしは諸葛孔明と姜維のファンです。
 『三国志』での「都」の字は、「都督」「都尉」などの役職名や行政名称の「京都」、地名の「成都」「陽都」「武都」などに使用される例が多いのですが、今回のテーマに関係しそうな、それ以外の「都」の例を下記に紹介します。見いだした全てを記載はしていませんし、重要な使用例の見落としがあるかもしれません。その場合はご教示下さい。

(1)「(初平元年)二月、卓聞兵起、乃徙天子都長安。卓留屯洛陽、遂焚宮室」(一 7頁、魏書)
(2)「天子都許、拜洪諫議大夫」(一 278頁、魏書)
(3)「太祖議奉迎都許」「太祖遂至洛陽、奉迎天子都許」(二 310頁、魏書)
(4)「太祖迎天子都許」(二 322頁、魏書)
(5)「伍員絶命於呉都」(二 376頁、魏書)
(6)「天子都許、以(日/立)為尚書」(二 428頁、魏書)※(日/立):「日」の下に「立」
(7)「是時董卓遷天子都長安、卓因留洛陽」(二 466頁、魏書)
(8)「趙都賦」「許都」「洛都賦」(三 618頁、魏書)
(9)「景初中、受詔作都官考課」(三 619頁、魏書)
(10)「建安初、太祖迎天子都許」(三 665頁、魏書)
(11)「太祖始迎獻帝都許」(三 668頁、魏書)
(12)「時新都洛陽」(三 678頁、魏書)
(13)「凡帝王徙都立邑」(三 711頁、魏書)
(14)「都城禁衛」「都圻之内」(三 718頁、魏書)
(15)「時都畿樹木成林」(三 744頁、魏書)
(16)「楚王彪長而才、欲迎立彪都許昌」(三 758頁、魏書)
(17)「儉遂束馬縣車、以登丸都、屠句麗所都、斬獲首虜以數千」「刊丸都之山」(三 762頁、魏書)
(18)「積穀干許都以制四方」(三 775頁、魏書)
(19)「都於丸都之下」(三 843頁、魏書)
(20)「南至邪馬壹国、女王之所都、水行十日陸行一月」(三 855頁、魏書)
(21)「興復漢室、還干舊都」(四 920頁、蜀書)
(22)「曹公議徙許都以避其鋭」(四 941頁、蜀書)
(23)「陛下大軍、金鼓以震、當轉都宛、鄧、若二敵不平、軍無還期」(四 993頁、蜀書)
(25)「卓尋徙都西入關、焚燒雒邑」(五 1097頁、呉書)
(26)「權自公安都鄂、改名武昌」(五 1121頁、呉書)
(27)「權遷都建業」(五 1135頁、呉書)
(28)「詔立都講祭酒」(五 1136頁、呉書)
(29)「此都無所損、君意特有所忌故耳」(五 1160頁、呉書)
(30)「從西陵督歩闡表、徙都武昌」(五 1164頁、呉書)
(31)「晧還都建業」(五 1166頁、呉書)
(32)「呉都言掘地得銀」「呉都言臨平湖自漢末草穢壅塞」「楚九州渚、呉九州都、揚州士、作天子、四世治、太平始」(五 1171頁、呉書)
(33)「自權西征、還都武昌」「身長八尺、儀貌都雅」(五 1216頁、呉書)
(34)「自今蔽獄、都下則宜諮顧雍」(五 1239頁、呉書)
(35)「事畢還都」(五 1250頁、呉書)
(36)「後召還都、拜(津)右護軍、曲領辭訟」(五 1287頁、呉書)
(37)「權破羽還、都武昌」(五 1310頁、呉書)
(38)「及還都建業」(五 1311頁、呉書)
(39)「黄龍元年、權遷都建業」(五 1340頁、呉書)
(40)「及求詣都」「葬送東還、詣都謝恩」「太元元年、就都治病」(五 1354頁、呉書)
(41)「權遷都建業」(五 1364頁、呉書)
(42)「又恪有徙都意、使治武昌宮、民間或言欲迎和。及恪被誅、孫峻因此奪和璽綬、徙新都、又遣使者賜死」(五 1370頁、呉書)
(43)「晧徙都武昌」(五 1400頁、呉書)
(44)「非王都安國養民之處」(五 1401頁、呉書)
(45)「既定荊州、都武昌」(五 1411頁、呉書)
(46)「權下都建業」(五 1414頁、呉書)
(47)「初、權黄龍元年遷都建業」(五 1434頁、呉書)
(48)「北方都定之後、操率三十萬衆來向荊州」(五 1436頁、呉書)
(49)「太元元年、權寝疾、詣都」(五 1443頁、呉書)
(50)「而都下諸官、所掌別異」「定送到都」(五 1468頁、呉書)

 ※『三国志』中華書局本(2000年北京第15次印刷)

 以上のような「都」の用例が見られました。(20)「南至邪馬壹国、女王之所都、水行十日陸行一月」が今回のテーマである倭人伝の記事です。なお、『三国志』本文中で夷蛮の諸国に「都(みやこ)」記事があるのは、毋丘儉(カンキュウケン)伝(17)「儉遂束馬縣車、以登丸都、屠句麗所都」と倭人伝(20)と高句麗伝(19)だけです。このことを検討会で古田先生が指摘されたのを懐かしく思い出しました。(つづく)


第2156話 2020/05/21

九州王朝の現地説明動画がすごい

 「古田史学の会」事務局次長の竹村順弘さんから、素晴らしいYouTube動画のご紹介メールが届きました。九州王朝説を太宰府都府楼跡や大野城・水城の現地で説明するという動画で、とてもわかりやすく、初心者向けの優れた編集でした。「古田史学の会」ホームページの存在にも触れていただいています。
 竹村さんからのメールを転載します。皆さんもぜひご覧になって下さい。そして、多くの方にご紹介いただければ幸いです。

〔以下、竹村さんからのメール〕

前略。毎度、お世話になっております。
昨日の参加者の皆様、お疲れさまでした。
WEBで面白い記事を見かけました。
下記にURLを記します。
第4話のコメント欄に、服部さんのクラウド講演会も紹介しておきました。

竹村順弘

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【古代史探索の旅Ⅱ】第1話 失われた歴史/九州王朝(前編) 大宰府と古代山城
@21,927 回視聴@2019/09/08
https://www.youtube.com/watch?v=qO6BXpiOOtk

【古代史探索の旅Ⅱ】第2話 失われた歴史/九州王朝(後編) 根拠となる史跡・資料をまとめています@12,770 回視聴@2019/10/05
https://www.youtube.com/watch?v=xvElxYBjXls

【古代史探索の旅Ⅱ】第3話 卑弥呼は九州にいた/邪馬台国が北部九州にあったことを結論付けることができました@47,482 回視聴@2020/01/14
https://www.youtube.com/watch?v=8ycasej7InU

【古代史探索の旅Ⅱ】第4話 邪馬台国の所在地を最も正しい(と思う)方法で推定しました@14,630 回視聴@2020/05/12
https://www.youtube.com/watch?v=CG-mNL-6d8g
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〔以下、動画への竹村さんのコメント〕

第1話から第4話までの素晴らしい作品を見させて頂きました。
コロナ禍で取材が続行できないとのこと、残念です。
私たちも、同様にコロナ禍で、勉強会や研究会が開催できずにおります。
そこで、私たちも動画を作ってみました。
【古代史探索の旅Ⅱ】のような凝った編集はできませんが、手作り感満載です。
ご視聴いただければ幸甚です。


第2155話 2020/05/20

倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(5)

 

 話題を「南至邪馬壹国女王之所都」の「都」の字義に戻します。

 わたしの仮説が成立するのかどうかを古田先生と検討したときのことを紹介します。「南、至る邪馬壹国。女王之所。(そこへの行程は)都(す)べて水行十日陸行一月」と訓む私案について、最大の問題となったのが、「女王之所」をどう訓むのかということでした。

 たとえば、「之」の字義に「行く」という意味もあり、そのような他の字義での訓みや理解について古田先生と検討を続けました。しかし、結論としては妥当な訓みが成立しそうもなく、わたしの仮説はペンディングとなり、とりあえずは通説の訓み「南、至る邪馬壹国。女王之都する所」でよいということになりました。

 今回、わたしは久しぶりに『三国志』(中華書局本ですが)を全巻読破し、「都」の用例調査を改めて行い、特に「都」の「合計する」「全て」という使用例を探しました。(つづく)


第2154話 2020/05/16

八王子セミナー2020 発表タイトルと要旨

 本年11月に開催される八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー2020)の発表タイトルと要旨を提出するようにと、冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人)から荻上実行委員長名による要請書が届きました。冨川さんには「古田史学の会」を代表して同セミナーの実行委員会に参加していただいています。
 本年のセミナーは、古田先生の『「邪馬台国」はなかった』発刊50周年記念として開催されるので、同書で提唱された「二倍年暦」についての発表要請をいただきました。そこで、「洛中洛外日記」で連載中の最新テーマである古代戸籍への「二倍年暦」の影響と痕跡について発表することにしました。そのタイトルと要旨を紹介します。多くの皆様のご参加をお願いします。

【演題】
古代戸籍に見える二倍年暦の影響
―「大宝二年籍」「延喜二年籍」の史料批判―
【要旨】
 古田武彦氏は、倭人伝に見える倭人の長寿記事(八十~百歳)等を根拠に、二倍年暦の存在を提唱された。二倍年暦による年齢計算の影響が古代戸籍に及んでおり、それが庚午年籍(670年)に遡る可能性を論じる。


第2153話 2020/05/15

倭人伝「南至邪馬壹国女王之処都」の異論異説(4)

 『海東諸国紀』「日本国紀」の「道路里数」の里程表現が『三国志』倭人伝の行程記事に似ており、著者の申淑舟は倭人伝の表記を模倣したのではないかと、わたしは考えています。もちろん、〝偶然の一致〟あるいは行程を記載する場合の〝一般的な様式〟という可能性についても検討しましたが、やはり申淑舟は倭人伝を読んでおり、その影響を受けているという結論に至りました。
 『海東諸国紀』の冒頭には日本国や九州島、壱岐、対馬の地図が掲載されており、当時(15世紀)の朝鮮国が日本列島の位置や地形をどのように捉えていたのかがうかがえます。その中でわたしは、壱岐・対馬・九州島の形がほぼ四角に、または四角の枠内に描かれていることに注目しました。特に対馬に至っては強引に折り曲げて四角の枠内に描かれています。当初は本に掲載するために無理矢理に四角形のスペースに押し込めて描いたのかと思っていましたが、「道路里数」が倭人伝の里程記事を模倣していることに気づき、この強引で不格好な「四角形」の壱岐・対馬・九州の描き方は、倭人伝や『旧唐書』の次の表記の影響を受けたと考えるに至りました。

 「(対海国)方四百余里ばかり」「(一大国)方三百里ばかり」『三国志』倭人伝
 「四面に小島、五十余国あり」『旧唐書』倭国伝

 倭人伝では対海国(対馬)と一大国(壱岐)の大きさを「方」という面積表記方法、すなわち「四百余里」「三百里」の四角形に内接する面積表現(方法)が採用されており、申淑舟はこの「方」表記を意識して、『海東諸国紀』の「日本国一岐島の図」「日本国対馬島の図」として、四角の枠内に押し込めるように描いたのではないでしょうか。
 『旧唐書』では倭国を「四面」と表現しており、そのため「日本国西海道九州の図」には九州島がほぼ四角形に、その北・西・南の三面に小島が描かれています。なお、東面には島が描かれていませんが、別の「日本本国の図」に「四国島」が描かれており、四角形に描かれた「九州島」の四面に小島があることを示しています。
 このように、申淑舟は『海東諸国紀』の編纂にあたり、『三国志』倭人伝や『旧唐書』倭国伝を参考にしたことをわたしは疑えないのです。(つづく)


第2152話 2020/05/13

倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(3)

 『海東諸国紀』「日本国紀」の「道路里数」には、朝鮮国慶尚道から日本国の王城(京都)までの里程が次のように記されています。

 「我が慶尚道東莱県の冨山浦より対馬島の都伊沙只に至るまで四十八里。○都伊沙只より船越浦に至るまで十九里。○船越より一岐島風本浦に至るまで四十八里。○風本より筑前州の博多に至るまで三十八里。○博多より長門州の赤間関に至るまで三十里。《風本より直ちに赤間関を指せば則ち四十六里》○赤間より竈戸関に至るまで三十五里。○竈戸より尾路関に至るまで三十五里。○尾路より兵庫関に至るまで七十里。《並に水路》○兵庫より王城に至るまで十八里。《陸路》○都計、水路三百二十三里。陸路十八里なり。《我が国の里数を以て計らば則ち水路三千二百三十里、陸路百八十里なり。》」(120頁)※《》内は二行細注

 このように、倭人伝の行程記事と類似した書き方で里程を綴り、最後に水路と陸路の合計里数を「都計(すべて)」として記していることから、倭人伝の「南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月」という記事を「南、至る邪馬壹国。女王之所。(そこへの行程は)都(す)べて水行十日陸行一月」と理解した上で、『海東諸国紀』の読者が誤解しようのないように、「計」という字も加えて、「都計」という明確な表記にしたのではないでしょうか。
 この『海東諸国紀』の「都計、水路三百二十三里。陸路十八里なり。」を知り、わたしは国も時代も異なる知己を得たような気がしたものです。なお、同書の「琉球国記(ママ)」の里程記事も同様の表記「都計、五百四十三里なり。」を採用しています。(つづく)


第2151話 2020/05/12

倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(2)

 倭人伝に見える「南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月」の記事を「南、至る邪馬壹国。女王之所。(そこへの行程は)都(す)べて水行十日陸行一月」と訓む私案ですが、わたしのこの訓みと同じようにとらえた先人がいます。李氏朝鮮の最高の知識人とも評される『海東諸国紀』(1471年成立)の著者、申淑舟(1417-1475)です。
 『海東諸国紀』は「九州年号」史料としても著名で、近畿天皇家の天皇の記録が九州年号(善化~大長。※「善化」は「善記」の誤伝)と共に記されています。従って、申淑舟は九州年号が九州王朝の年号であることや九州王朝の存在そのものを認識していなかったことがわかります。他方、同書は李王朝の公的な史料として編纂されていますから、当時の李王朝による日本国や琉球国に関する情報や認識を推し量る上で貴重な史料でもあります。
 あるとき、わたしが九州年号の調査研究のため『海東諸国紀』(岩波文庫、田中健夫訳注、1991年)を読んでいたところ、朝鮮国慶尚道から日本国の京都までの行程が記された「道路里数」の記事を見て、その文章が『三国志』倭人伝を模倣していることに気づいたのです。(つづく)


第2150話 2020/05/11

倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(1)

 わたしのFACEBOOKの〝ともだち〟のSさんから、『三国志』倭人伝の訓みについてコメントが寄せられました。それは邪馬壹国という国名が記された次の記事についてです。

 「南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月」

 古田説では「南、邪馬壹国に至る。女王の都(みやこ)するところ。水行十日陸行一月。」と訓み、通説でも「南、邪馬臺(台)国に至る。女王の都(みやこ)するところ。水行十日陸行一月。」と、国名を原文改定(邪馬壹国→邪馬臺国)するものの、共に「女王の都(みやこ)するところ」と訓まれてきました。この訓みに対して、「都(みやこ)する」と訓むのは異様ではないかとSさんは指摘され、「都(す)べるところ」と訓む仮説を提起されたのです。
 「都」という字には、「合計する」や「統率する・統括する」という意味もあり、その場合は「都(す)べる」と訓むケースがあります(通常、「統べる」の字が使われます)。しかし、「女王の都(す)べる所」と訓んでも、「女王の都(みやこ)する所」と訓んでも意味的に大差は無いようにも思います。いずれの訓み(理解)でも、女王が邪馬壹国に君臨し、そこで「統率・統括する」とするのですから、そこを「都(みやこ)とする」と実態は同じです。
 実はこの記事の「都」をどのように理解すべきかについて、昔、古田先生に私見を述べたことがあります。それは「南至邪馬壹国。女王之所。都水行十日陸行一月」と区切り、「南、至る邪馬壹国。女王之所。(そこへの行程は)都(す)べて水行十日陸行一月」と訓み、「都」を〝合計して〟の意味に理解するというものです。
 この訓み(理解)に対して、古田先生も一定の理解を示され、通説の「都(みやこ)する」とわたしの仮説「都(す)べて水行十日陸行一月」がよいのか、二人で検討しました。しかし、結論は出ませんでした。そのため、とりあえず通説の訓み「都(みやこ)する」でよいと判断し、今日に至っています。すなわち、「都(す)べて水行十日陸行一月」が通説よりも妥当と他者を納得させられるだけの根拠(『三国志』中での同様の用例)や証明(自説に賛成しない他者を納得させることができる、根拠を明示した明解な説明)が提示できないため、通説に従うことにしたのでした。(つづく)


第2149話 2020/05/10

「大宝二年籍」への西涼・両魏戸籍の影響

 わたしが古代戸籍の研究をしていた三十年ほど昔に集めた先行論文のファイルを整理していたら、横山妙子さん(当時、市民の古代研究会・会員)からのお手紙(1991.12.01付)が出てきました。それには、『市民の古代・九州ニュース』No.18(1991年9月)に掲載された拙稿「『大宝二年、西海道戸籍』と『和名抄』に九州王朝の痕跡を見る」を読まれた増田修さん(同上)からのご依頼により、古代戸籍に関する論文コピーを進呈すると書かれていました(拙稿は「九州古代史の会」HPに収録されており、閲覧可能)。申し訳ないことに、この論文コピー入手の経緯をわたしはすっかり失念していました。
 その論文とは曾我部靜雄「西涼及び両魏の戸籍と我が古代戸籍との關係 ―附、課役問題の現狀―」(『法制史研究 7』1956年)という古い研究論文です。古代戸籍における中国から日本への影響関係を論じた専門性の高い論文で、いただいた当時(36歳)のわたしの学力では同論文の意義を深く理解できていなかったと思われます。今、読み直してみて、増田さんがわたしに提供された意味(同論文の重要性)がよくわかりました。
 同論文によれば、「大宝二年籍」の西海道戸籍と御野国戸籍には差異があり、御野国戸籍は西涼(五胡十六国時代、5世紀頃)の戸籍に似ており、西海道戸籍はその後の両魏(北魏が東西両魏に分かれた時代、6世紀頃)の戸籍に似ていることを指摘され、大宝二年(702年)当時の唐の戸籍の影響は受けていないと、次のように記されています。

 「我がこれ等の大寶や養老の戸籍を中国のものと比較するに、御野のものは西涼のものに似、筑前や下総のものは両魏のものに類することが直ちに判るのである。唐のものは戸口數の集計が記載されたものは一通もなく、西涼のものと両魏のものとはこれがあり、而もその記載の方法は西涼は御野に似、両魏は筑前や下総に類してゐる。(中略)我が大寶や養老の戸籍の源流は唐には無くて、それ以前の中国の制度にあることを示して居るのである。」(74頁)
 「我が大寶及び養老の戸籍に二つの異った形式が見られるのは、唐以前の中國の編籍制度が唐以前に既に我が國に流入し、我が國では大化以前からそれ等の制度に従って編籍が行はれ、大化改新によって唐制を採用するやうになっても、編籍の形式は従来のままで改正しなかったことを現はしてゐるのであらう。而もその編籍制度の流入は一度だけではなかったことは、西涼式も両魏式も存在することによって窺はれるであらう。西涼式の根源は西晋にある可く、両魏式の根源は北魏にある可く、従って我が古代の戸籍には西晋型と北魏型とがあると謂ひ得るであらう。(中略)従って御野式のものが我が國の最も古い戸籍の様式であり、筑前等の式のものはそれよりも後のものである。」(75~76頁)

 この曾我部靜雄さんの論文は六十年以上も昔のものであり、現在の戸籍研究水準においても有効かどうかは調べなければなりませんが、もし有効であれば、九州王朝時代の庚午年籍(670年)は、より古い西涼様式の影響を受けていた可能性が高く、その西涼の戸籍制度が中国南朝の西晋の制度を淵源としていたとする見解はとても興味深いものです。九州王朝は中国南朝の影響を受けていた時代があり、後に仏教伝来等と共に北魏の影響も受けたと考えてもよいように思われます。これらは九州王朝の造籍開始時期を研究する上でも重要な視点です。
 増田さんからいただいた論文コピーが三十年後の今になって役立つとは、学問の面白さであり、不思議さでもあります。


第2148話 2020/05/08

「大宝二年籍」断簡の史料批判(16)

 本シリーズも16回目になって、ようやくテーマの〝「大宝二年籍」断簡の史料批判〟に入ることができました。ですから、今までは〝前説〟であり、今回からが本番です。気持ちを引き締めて論じます。
 「大宝二年籍」とは国内では現存最古の戸籍で、大宝二年(702年)に造籍されたものです。その前年に成立した『大宝律令』「戸令」に基づき、九州王朝(倭国)から王朝交替したばかりの大和朝廷(日本国)により、全国的に造籍されたものです。残念ながらほとんどが失われ、残っているのは西海道戸籍(筑前国、豊前国、豊後国)と御野国(美濃国)戸籍の一部(断簡)だけですが、古代の戸籍や家族制度を知る上で貴重な史料(重要文化財)です。なお、今回の調査は『寧楽遺文』上巻(昭和37年版)によりました。
 先行研究によれば、「大宝二年籍」において西海道戸籍と御野国戸籍には大きな差異が認められ、西海道戸籍は様式や用語が高度に統一されています。通説では西海道戸籍は『大宝律令』に基づき大宰府により統一的に管理され、御野国戸籍は古い「浄御原律令」に基づいて造籍されたためと考えられています。西海道戸籍は九州王朝による造籍の伝統と優れた地方官僚組織を引き継いだため、高度で統一性を持った造籍が可能だったとわたしは推測しています。いずれにしましても、この西海道戸籍と御野国戸籍の差異は史料批判上留意すべき点です。
 ちなみに、2012年に太宰府市国分松本遺跡から出土した7世紀後半頃(「評」の時代)の「戸籍」木簡の記述様式は、どちらかというと御野国戸籍に似ており、この点について「洛中洛外日記」445話(2012/07/21)〝太宰府「戸籍」木簡の「政丁」〟で少し触れました。更に、『古田史学会報』112号(2012/10)の拙稿〝太宰府「戸籍」木簡の考察 ―付・飛鳥出土木簡の考察―〟でも詳述しましたのでご参照下さい。(つづく)