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第2220話 2020/09/01

文武天皇「即位の宣命」の考察(5)

 「天皇」と「朝庭」以外にも、文武天皇「即位の宣命」中には興味深い言葉が使用されています。例えば次の記事に見える「国法」もその一つです。

 「是を以ちて、天皇が朝庭の敷き賜ひ行ひ賜へる百官人等、四方の食国を治め奉れと任(ま)け賜へる国々の宰等に至るまでに、国法を過ち犯す事なく、明(あか)き浄き直き誠の心にて、御称称(みはかりはか)りて緩(ゆる)び怠る事なく、務め結(しま)りて仕(つか)へ奉れと詔りたまふ大命を、諸聞こし食さへと詔る。」

 「法」という言葉は『続日本紀』の他の宣命中にも見え、律令や仏法などの意味で使用されています。文武天皇「即位の宣命」の場合はその文脈から、朝廷(朝庭)の中央官僚(百官人)や諸国の国宰が遵守すべき「食国を治め」る「法」のことと理解せざるを得ません。しかしながら、このとき『大宝律令』はまだできていませんから、この「国法」を近畿天皇家の律令と見なすことはできません。一元史観の通説では、「近江令」や「浄御原令」とすることが可能ですが、九州王朝説の立場からは、文武天皇が「即位の宣命」で九州王朝律令を「国法」として、中央官僚や諸国の国宰に〝過ち犯す事なく務めよ〟と命じたとするのも不自然に思われます。それではこの「国法」とは何を指しているのでしょうか。わたしの見るところ、一つだけ「国法」に値するものがあります。それは『日本書紀』孝徳紀大化二年(646年)正月条の「改新之詔」です。
 九州王朝研究によれば、『日本書紀』大化二年(646年)の改新詔には九州年号の大化二年(696年)から五〇年遡らせて転用されたものがあると考えられています(注①)。そうであれば、九州年号の大化二年の翌年(697年)に文武天皇「即位の宣命」が発せられたこととなり、そこで述べられた「国法」とは、その前年(696年、持統十年)に出された九州年号「大化二年の改新詔」とすることができるのです。
 『日本書紀』大化二年条には詔がいくつか記されていますが、同年正月に発せられた「改新之詔」には、四条からなる行政指針(政治改革の大綱)が含まれており、近畿天皇家が王朝交替後の新国家体制を目指した、「国法」と呼ぶにふさわしい内容となっています。その概要は次の通りです。

〔第一条〕私地・私民の廃止。
〔第二条〕地方制度・軍事制度・駅制の制定。
〔第三条〕戸籍・計帳と班田法、租税の制定。
〔第四条〕調・官馬・兵器・仕丁・采女の制定。

 この第二条には「郡(大郡・中郡・小郡)」の制定記事が含まれており、これこそが九州年号「大化二年」(696年)の「廃評建郡」の詔勅であるとする説をわたしは発表したことがあります(注②)。
 以上の様に、文武天皇「即位の宣命」中に見える「国法」は、『日本書紀』大化二年正月条に五〇年遡らせて転用された、九州王朝から大和朝廷への王朝交替を準備した「改新之詔」ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」一九六話(2007/11/16)〝「大化改新詔」五〇年移動の理由〟
 正木 裕「『藤原宮』と大化改新についてⅠ 移された藤原宮記事」『古田史学会報』87号(2008年8月)
 正木 裕「『藤原宮』と大化改新についてⅢ なぜ『大化』は五〇年ずらされたのか」『古田史学会報』89号(2008年12月)
 正木 裕「九州王朝から近畿天皇家へ 『公地公民』と『昔在の天皇』」『古田史学会報』99号(2010年8月)
②古賀達也「大化二年改新詔の考察」『古田史学会報』89号(2008年12月)
 古賀達也「洛中洛外日記」一八九話(2008/09/14)〝「大化二年」改新詔の真実〟
 古賀達也「洛中洛外日記」一九二話(2008/10/11)〝評から郡への移行〟