「 船越 」一覧

第1940話 2019/07/15

糸島水道はなかった

 縄文海進時の博多湾岸の海岸線について上村正康先生からご教示いただいたのですが、糸島水道についての論稿「『糸島水道』は存在しなかった -最近の地質学研究論文・遺跡調査報告書の紹介-」もいただきました。それは古田先生が主催されたシンポジウム「邪馬台国」徹底論争(1991年8月、昭和薬科大学諏訪校舎)で発表されたものでした。同シンポジウムにわたしは実行委員会メンバーとして参加していたのですが、この上村論稿のことを失念していました。
 物理学者らしい本格的な理系論文形式の論稿で、その論理展開やエビデンスは明快です。冒頭の「概要」部分を転載します。

【以下、転載】
概要:
 歴史上重要な遺跡・出土物の宝庫である糸島平野には、かつて加布里湾と今津湾を結ぶ「糸島水道(海峡)」が存在していた(約1000年前まで)--このことは、今まで通説のようになっていた。しかし、その存在を明記した歴史文献は無い。また、その存在の科学的根拠として使われていた1950年代の認識--「福岡の縄文時代における最高海水面は現在より10mも高かった」は、その後の、「縄文海進」の地質学研究の進歩により、高さを相当に過大評価したものであったことが判明した(実際は満潮時で2.2m程度)。
 1986年、下山等(文献1)は、「糸島水道」地帯の地下ボーリング試料を調べ、貝化石を含む縄文期の海成層を追跡したところ、この層が「水道」最狭部において東西幅1km余りに亘って断たれていることを確認した。このことは、その地区が「縄文時代およびそれ以後も海ではなかった」ことを示している。しかも、その地区内にある農地(50m×50m)の発掘調査(文献2)で、弥生・古墳時代の住居跡がそれぞれ6棟ずつ発見された。これらにより、「糸島水道」の存在は明瞭に否定されたと言えよう。既に、当地の糸島郡前原町教育委員会発行の「前原町文化財調査書」(年平均3回発行)では、「糸島水道」という言葉の使用を止め、「古加布里湾、古今津湾」という表現を採用し、糸島平野を貫く水道(海峡)は無かったという見解を示している(文献3、11)。
【転載終わり】

〔紹介文献〕
文献1)下山正一、佐藤喜男、野井英明「糸島低地帯の完新統および貝化石集団」『九州大学理学部 研究報告(地質)』14巻(1986、142-162)
文献2)前原町教育委員会「前原町文化財調査書」第10集(1983)
文献3)前原町教育委員会「前原町文化財調査書」第33集(1990)
文献11)前原町教育委員会「前原町文化財調査書」第16集(1984)、第20集(1985)、第23集(1986)、第24集(1986)、第28集(1988)、第34集(1990)。


第11話 2005/07/11

信州のお祭り・お船

 松本市での講演会の前日、同市の中央図書館に行き、以前から気になっていた諏訪大社の御柱祭について調査しました。同祭の写真集などを見ていると、御柱を出迎える「お船」が道路上を曳かれている光景がありました。こんなところにも「お船」が登場するのかとちょっと驚きました。
 信州のお祭で有名なものに、穂高神社(南安曇郡穂高町)のお船祭がありますが、安曇という地名からも想像できるように、海人(あま)族のお祭ですからお船と呼ばれる山車が登場するは、よく理解できるのです。しかし、諏訪大社の御柱祭にまで主役ではないようですがお船が登場することに、その由緒が単純なものではないなと感じたわけです。
 祇園山鉾や博多山笠の山車が、古代の船越に淵源するのではないかという古川さんの説を洛中洛外日記第7話で紹介しましたが、今回の調査の際、『隋書』倭国伝(原文はイ妥国伝)の次の記事の存在に気づき、新たな仮説を考えました。

 『隋書』には倭国の葬儀の風習として次のように記録しています。

「葬に及んで屍を船上に置き、陸地之を牽くに、或いは小輿*(よ)を以てす。」

輿*(よ)は、輿の同字で、輿の下に車 [輿/車]。

 倭国では葬儀で死者を運ぶのに陸地でも船を使用していたことが記されているのです。そうすると、山車の淵源は海人族の葬儀風習にあったと考えてもよいのではないでしょうか。祇園山鉾や博多山笠の「ヤマ」が古代の邪馬台国(『三国志』原文は邪馬壹国)と関係するのではないかという、わたしのカンも当たっているかもしれませんね


第7話 2005/06/28

祇園祭と船越

 わたしは勤務先へ自転車で通っている「チャリ通族」です。夏場は暑くて大変ですが、それでも祇園祭が近づくとウキウキしてきます。と言うのも、自宅の上京区から会社のある南区までの道に、山鉾が立つからです。いつもは油小路通を走りますが、その間、山鉾が二つ立ちます。別の道、例えば室町通や新町通を利用すると、更に多くの鉾を見ることができます。祭の一週間ほど前から組立が始まり、三日ほど前には飾り付けも終わり、ほぼ完成します。こうした組立の様子やお囃子の練習などを朝夕の通勤時に見ることができるのですから、京都ならではのうらやましい自転車通勤かもしれません。
 この祇園祭の山鉾ですが、その淵源は古代まで遡るのではないか。山鉾や博多山笠の「山」は邪馬壹国のヤマと何か関係はないか、と以前から思っていたのですが、山鉾は古代の「船越」の様子を表現したものとする説が、最近出されました。
 ホームページ「有明海・諫早湾干拓リポートIII」に掲載された古川清久さんの論文「船越」に次のように述べられています。
 「全国の船越地名の分布と、祭りで山車(ダンジリ、ヤマ)を使う地域がかなり重なることから、もしかしたら、祭りの山車は、車の付いた台車で“船越”を行なっていた時代からの伝承ではないか」※「古田史学会報」No.  68に転載。
 そう言えば、松本市の須々岐水神社のお祭り「お船祭り」では、「お船」と呼ばれる山車が繰り出されますが、これなど「船越」そのもの。古川さんの新説は意外と正解かもしれませんね。