短里一覧

第861話 2015/01/28

『三国志』のフィロロギー

「『後漢書』倭伝の短里」

 『後漢書』はその複雑な史料性格から、長里で編纂されているにもかかわらず、『後漢書』成立時期よりも早い魏・西晋朝で成立した短里史料、たとえば『三国志』の短里記事が混在する可能性について説明してきました。今回はその具体例について紹介します。
 『後漢書』倭伝に「楽浪郡はその国を去る万二千里、その西北界拘邪韓国を去ること七千余里」と「邪馬台国」への距離が記されています。これは『三国志』倭人伝の次の記事の改訂引用となっています。

「その北岸狗邪韓国に到る七千余里」
「郡より女王国に至る万二千余里」

 このように『三国志』倭人伝の短里記事の里程「七千余里」「万二千里」を転載採用していることがわかります。従って、范曄は『三国志』倭人伝の里程情報(短里による距離)を採用しているのですが、その理由としては倭人伝よりも信頼のおける倭国への里程情報を范曄は有していなかったことが推定されます。すなわち、後漢代における長里による倭国への里程情報が『後漢書』編纂時代(南朝宋)には無かったと考えざるを得ません。もしあったのなら范曄はそちらを採用したはずですから。
 さらに言えば、范曄は『三国志』倭人伝の里単位(短里)を認識したうえで使用したのか、短里の認識がないまま使用したのかという興味深い問題がありますが、今のところわたしには判断がつきません。おそらく、短里の認識がないまま使用したと推測していますが、今後の課題です。
 このように『後漢書』倭伝に短里が混在しているのですが、『後漢書』全体では他にも短里が混在している可能性がありますが、これも今後の研究課題であり、その場合も『三国志』のときと同様に、個別にその検証を行い、混在した事情(范曄の認識、編纂方針)についても判断するべきであることは当然です。(つづく)


第860話 2015/01/26

『三国志』のフィロロギー

「『後漢書』の短里混在」

 漢代では長里が採用されており、魏・西晋朝になって周代の短里(注)が復活採用されたという里単位の歴史的変遷があったため、『三国志』は短里で編纂されたにもかかわらず、前代の長里が混在しうる可能性について考察を続けてきましたが、同様の方法で『後漢書』の里単位についても「思考実験」として考えてみたいと思います。
 『後漢書』はその時代を生きた人間が編纂した『三国志』のような同時代史料ではありません。中国では、ある王朝の歴史(正史)を編纂するのは、その後の別の王朝です。その点、近畿天皇家が自らの大義名分(自己利益)に基づいて編纂した『日本書紀』などとはその史料性格が大きく異なります。このように誰が何の目的で編纂した史料なのかという視点は、文献史学における史料批判という基礎的で重要な作業です。
 この史料批判の観点からすると、『後漢書』は複雑な史料性格を有しています。それは編纂時期の問題です。後漢(25〜220)の歴史を記録した『後漢書』は南朝宋(420〜479)の范曄(はんよう、398〜445)により編纂されていますから、『三国志』(魏、220〜265)よりも前の王朝の正史でありながら、その成立は西晋(265〜316)で編纂された『三国志』(著者:陳寿、233〜297)よりも遅れるのです。このような歴史的変遷を経て、『後漢書』は成立していますから、今回のように里単位を問題とするとき、次のような論理的可能性を考えなければなりません。

 1.長里を使用していた後漢の史料をそのまま引用・使用した場合は長里となる。
 2.編纂時期の南朝宋も長里を採用していたから、漢代史料の長里記録に対して、「矛盾」や「問題」は発生しない。ただし、漢代の長里(約435m)と南朝宋の長里が全く同じ距離かどうかは別途検討が必要。
 3.従って、『後漢書』は後漢と南朝宋の公認里単位の長里により編纂されたと考えるのが基本である。
 4.ところが、後漢と南朝宋の間に存在した魏・西晋朝では短里が復活採用されており、その短里に基づいた『三国志』が既に成立している。
 5.その結果、『三国志』や魏・西晋朝で成立した記録を『後漢書』に引用・使用した場合、短里が混在する可能性が発生する。
 6.そこで問題となるのが、『後漢書』の編纂時代の南朝宋において、「魏・西晋朝の短里」という認識が残っていのたか、忘れ去られていたのかである。
 7.著者范曄の短里認識の有無を『後漢書』などから明らかにできるかどうかが、史料批判上のキーポイントとなる。
 8.もし范曄が魏・西晋朝の短里を知っていたとすれば、その短里記事をそのまま採用したのか、長里に換算したのかが問題となり、知らなければ「無意識の混在」あるいは「おかしいなと思いながらも、他に有力な情報がないため短里記事をそのまま転用(せざるを得ない)」という史料状況を示すことが推定できる。

 以上のような論理的視点を踏まえて『後漢書』の里単位を論じるのが学問的・論理的な姿勢ですが、『三国志』長里論者の諸論に、このような厳密な学問的方法に基づいて論じられたものをわたしは知りません。「洛中洛外日記」本シリーズ冒頭の851話で、「その内容が20年前当時から本質的に進展していないものも見受けられました」と述べたのは、このような実態があったからなのです。(つづく)

(注)本シリーズ執筆を契機に、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)と短里の淵源などについて、メールで意見交換を続けています。その中で、短里の淵源は殷代に遡るのではないかとの仮説が浮上しました。論証が成立したら『古田史学会報』に発表されるよう御願いしています。


第859話 2015/01/25

『三国志』のフィロロギー

  「短里混在の無理」

 『三国志』の倭人伝や韓伝のみを、あるいは東夷伝のみを「短里」とする論者がいます。いわば「短里混在」説ともいうべき立場です。『三国志』は長里で編纂されており、どういうわけか「短里」が混在するという立場ですが、これは学問的論理的に突き詰めると成立困難であることを説明します。
 『三国志』に直前の漢代に採用されていた長里が混在する論理的可能性については説明してきたところですが、これとは逆のケース、すなわち長里で編纂された『三国志』に短里が混在するとしたい場合は、直前の漢代で短里が採用されており、魏・西晋朝になって長里が採用されたとしなければなりません。そうでなければ長里の史書に短里が混在することの説明ができないからです(「千里の馬」などの永く使われてきた成語は別です)。しかし、どの立場に立つ論者も漢代は長里であるとしており、そうであれば『三国志』において「短里混在」は論理上の問題として成立できないのです。
 このように『三国志』「短里混在」説に立つ論者には肝心要の「短里が混在」した理由が学問的論理的に説明できないのです。したがって、『三国志』はオール長里とする立場(短里を認めない)に固執せざるを得ません。あるいは、倭人伝や韓伝のみ短里とか、6倍に誇張されているとする「古代中国人はいいかげんで信用できない」説という非学問的な立場におちいってしまうのです。
 自説に不都合なことや自説では説明つかないことを「どこかの誰かが間違ったのだろう。だから無視する。好きなように原文改訂する。」という姿勢は非学問的であり、古田史学・フィロロギーとは正反対の立場なのです。(つづく)


第858話 2015/01/25

『三国志』のフィロロギー「短里説無視の理由」

 本テーマから少し外れますが、なぜ古代史学界は『三国志』短里説を認めようとしないのかという質問が、1月の関西例会で姫路市から熱心に参加されている野田利郎さん(古田史学の会・会員)から出されました。学問の本質にもかかわる鋭く基本的な質問と思い、わたしは次のように説明しました。
 短里説を認めると「邪馬台国」畿内説が全く成立しないから、「古代中国人の里数や記録などいいかげんであり信用しなくてもよい。だから倭人伝の原文を好きなように改訂してよい」という非学問的な立場に立たざるを得ないのです、と。
 「洛中洛外日記」の「『邪馬台国』畿内説は学説に非ず」で説明しましたように、『三国志』倭人伝には帯方郡(今のソウル付近)から邪馬壹国までの距離を一万二千餘里と記されており、長里(約435m)では太平洋の彼方までいってしまうので、畿内説論者は倭人伝の里数は6倍ほど誇張されていると解して、里数に意味はないと無視してきたのです。このように長里では一万二千餘里は非常識な距離となり、無視するしかないのですが、短里(約78m)だと博多湾岸付近となり、邪馬壹国の位置が明確となるのです。ですから、畿内説論者は絶対に短里説(の存在)を認めるわけにはいかないのです。
 他方、北部九州説の論者の場合、短里を認めることに問題はないのですが、古田先生のように『三国志』短里説に立つ論者とは別に、倭人伝や韓伝のみを、あるいは東夷伝のみを「短里」とする論者がいます。後者は『三国志』は長里で編纂されており、どういうわけか「短里」が混在するという立場ですが、これは学問的論理的に突き詰めると成立困難な立場なのです。(つづく)


第857話 2015/01/24

『三国志』のフィロロギー

 「長里への原文改訂」

 『三国志』に長里が混在する論理性とその理由についてフィロロギーの視点や学問の方法について縷々説明してきましたが、今回はちょっと息抜きに現代中国における『三国志』の「長里への原文改訂」についてご紹介します。
 『三国志』が短里で編纂されていることは動かないものの、長里が混在する可能性やその論理性について、15年ほど前から古田先生と検討を進めていまし た。そのときのエピソードですが、『三国志』の次の記事は長里ではないかと古田先生に報告しました。
 『三国志』ほう統伝(注)中の裴松之注に「駑牛一日行三十里」とあり、短里では1日に約2.4kmとなり、牛が荷を引く距離としても短すぎるので、これ は長里の例(約13km)ではないかと考えました。このことを古田先生に報告したところ、先生は怪訝な顔をされ、その記事は「三十里」ではなく、「三百里」ではないかと言われたのです。再度わたしが持っている『三国志』(中華書局本。1982年第2版・2001年10月北京第15次印刷)を確認したのですが、やはり「三十里」とありました。ところが古田先生の所有する同書局本1959年第1版では「駑牛一日行三百里」とあるのです。最も優れた『三国志』 版本である南宋紹煕本(百衲本二四史所収)でも「三百里」でした。なんと、中華書局本は何の説明もなく「三十里」へと第2版で原文改訂していたのでした。
 この現象は、現代中国には「短里」の認識が無いこと、そして長里の「三百里」では約130kmとなり、牛の1日の走行距離として不可能と判断したことが うかがえます。その結果、何の説明もなく「三百里」を「三十里」に原文改訂したのです。こうした編集方針の中華書局本を学問研究のテキストとして使用することが危険であることを痛感したものです。同時に、「駑牛一日行三百里」が『三国志』が短里で編纂されている一例であることも判明したのでした。
 この例を含めて『三国志』等に混在した「長里」「短里」について考察した次の拙稿が本ホームページに収録されていますので、ご参照下さい。(つづく)
 古賀達也「短里と長里の史料批判 —  『三国志』中華書局本の原文改定」(『古田史学会報』No.47、2001年12月)
 ※(注)ほう統伝のホウは、广編に龍。


第856話 2015/01/22

『三国志』のフィロロギー

   「上表文の長里」

 魏・西晋朝で採用された短里により『三国志』を編纂するという困難な任務を陳寿が行うにあたり、おそらく大きな問題の一つが、直前の漢代まで使用されていた長里により記録された史料をそのまま引用するか、短里に換算するべきかを考え抜いたことと思います。『三国志』のように里単位変更の前後を含む時代の正史編纂にはこうした課題は避けられません(里単位以外にも暦法や度量衡でも同様の問題が発生します)。
 前話までは短里で編纂された『三国志』に、長里が混在する可能性とその考えうるケースを論理の視点から解説しました。そこで、今回はそうした論理性に基づいて、『三国志』の長里記事の有無を具体例を挙げて解説します。
 1月の関西例会で正木裕さんから「魏・西晋朝短里」は揺るがないとする発表があり、その中で『三国志』の中の長里ではないかと考えられる記事と、なぜ長里が混在したのかという考察が報告されました。そして次の記事について長里ではないかとされました。

 「青龍四年(中略)今、宛に屯ず、襄陽を去ること三百餘里、諸軍散屯(後略)」(王昶伝、「魏志」列伝)

 この「三百餘里」が記された部分は王昶(おうちょう)による上表文の引用ですが、正木さんは「これは王昶の『上表文』の転記であり、魏の成立以前(漢代)から仕えていた王昶個人は長里を用いていたことがわかる。」とされました。
 それに対して、わたしは上表文という公式文書に長里が使われるというのは納得できないと批判したのですが、その後、魏ではいつ頃から短里に変更したのかという質問が参加者から出され、西村秀己さんが暦法を変更した明帝からではないかとされたことに触発され、この上表文が短里への変更以前であれば長里の可能性があることに気づいたのです。
 明帝の暦法変更時期について、暦法や中国史に詳しい西村秀己さんに調査を依頼したのですが、わたしも少しだけ調べたところ、明帝は景初元年(237)に「景初暦」を制定したようですので、もしこのときに短里が公認制定されたとすれば、王昶の上表文が出されたのはその直前の青龍四年(236)ですから、「三百餘里」が長里で記載されていても矛盾はありません。もしそうであれば、陳寿は上表文の文面についてはそのまま『三国志』に引用し、短里に換算することはしなかったことになります。もっとも、この「三百餘里」を短里とする理解もありますので、まだ断定すべきではないのかもしれません。
 詳しくは西村さんの研究報告を待ちたいと思いますが、魏を継いだ西晋朝の歴史官僚である陳寿はその上表文(あるいはその写本)を見た上で(見なければ『三国志』に引用できません)、皇帝に提出された上表文の文章は変更することはしないという編纂方針を採用したことになります。このように、短里で編纂された『三国志』に長里が混在する可能性について、具体的に個別に検証し、フィロロギーの方法によってその理由を明らかにしていくこと、これが学問なのです。すなわち、「学問は実証よりも論証を重んじる」(村岡典嗣先生)のです。(つづく)


第855話 2015/01/21

『三国志』のフィロロギー「長里混在の理由」

 『三国志』編纂時代(西晋朝)の公認里単位は短里であっても、漢代の公認里単位である長里が混在しうる論理性については、既に述べた通りですが、それでは『三国志』の中に長里が混在するとしたら、それはどのようなケースでしょうか。今回はこの問題について学問的・論理的に考察したいと思います。なお、ここでわざわざ「学問的・論理的」と断ったのには理由があります。
 「古代の中国人などいいかげんだから、史書に短里や長里が混在しても不思議ではない」として、「『三国志』は里単位など無視・無関心に編纂された」とする「論法」や「理解」で済ませてしまうケースがあるからです。これは倭人伝の「邪馬壹国」は「邪馬台国」の間違い、「南」は「東」の間違いとして、全て古代中国人(陳寿や書写者)のせいにし、自説に都合よく原文改訂をして済ませてきた従来の古代史学界と同じ「論法」であり、学問的ではありません。歴史学は学問ですから、「どこかの誰かが間違えたのだろう」などという非学問的な「論断」ではなく、学問的・論理的に考えて論証しなければなりません。
 ということで、『三国志』にもし長里が混在するとすれば、どのような場合なのかを学問的・論理的に考えてみます。先日の関西例会でも正木裕さんから、同様の問題提起があり、長里が混在する場合の理由についての報告がありました。そのときの正木さんの意見も含めて、次のようなケースが考えられます。

(1)2定点(出発地と到着地の具体的地名)が示されない「里数値」の場合です。陳寿自身もそれが短里による記録なのか、長里による記録なのかが不明な史料に基づいて引用した可能性があり、長里により記された史料を短里に換算せずに『三国志』に使用した場合。
(2)漢代成立の、あるいは魏朝が短里を公認する前の手紙や上表文、会話記録にあった里数値(長里)をそのまま『三国志』に引用した場合(引用せざるを得ない場合)。
(3)長里により成立した「成語」の場合。短里による成語である「千里の馬」(1日に千里走れる名馬)とは逆のケースです。
(4)長里を使用していたと考えられる呉や蜀で成立した記録をそのまま引用せざるを得ない場合。たとえば手紙や会話記録の引用です。
(5)極めて短距離であり、陳寿自身も長里か短里か判断できない記録を引用した場合。

 この他にもあると思いますが、このようなケースにおいては、『三国志』に長里が混在する可能性があります。もちろん、その場合でも陳寿は歴史官僚として公認の短里で『三国志』を編纂するという基本姿勢を貫いたはずです。おそらく長里記事をどのように引用・記載すべきか、天子に進呈する正史にふさわしい編纂方針を考え抜いたことでしょう(短里に換算するべきか、そのまま記載するべきかなど)。正史編纂を任された歴史官僚であれば当然です。このように作者の気持ち(立場)になって、史料を再認識する学問の方法こそ、古田史学の方法でありフィロロギーという学問なのです。(つづく)


第854話 2015/01/18

『三国志』のフィロロギー

  「短里と長里の混在」

 短里と長里の混在という問題について、その論理性という視点から考察してみます。
 短里(約78m)は周の時代の里単位と考えられており、その後(秦の始皇帝か)長里(約435m)が制定され、漢代まで採用されていたと考えられています。従って、漢代では国家公認の長里と共にそれまで使用されていた短里が「混在」する可能性があります。
 その後、魏・西晋朝で短里が公認里単位として復活しますから、ここでは公認の短里とそれまで使用されていた長里が混在する可能性があります。これらは単純な理屈ですから、ご理解いただけるものと思います。
 漢王朝にしても魏・西晋朝においても、それぞれの公認里単位や度量衡で政治・行政が行われ、公的な行政文書に使用されていたはずです。それが国家権力による国家意志というもので、形ややり方は異なっていても古代においても同様と思われます。そしてそれらの王朝の歴史が正史として編纂されますが、その場合に発生する問題として、正史編纂を行った王朝の里単位と、対象となった当該王朝の里単位が異なるケースで、どちらの里単位が公式に正史編纂に採用されるのか、あるいは「混在」してしまうのかという微妙な問題があります。(つづく)


第853話 2015/01/17

久しぶりの『三国志』

     短里論争

 本日の関西例会では服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)から、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)やわたしから批判されていた「関」と「畿内」の設立についての自説の訂正と反論が行われました。
 討議では、『日本書紀』が九州年号「大化」を何故5年間だけ盗用し、九州年号「白雉」を2年ずらして、これも5年間だけ盗用したのかという疑問について意見が交わされました。合計を10年にしたのは孝徳即位期間の10年にあわせたためと思われますが、『日本書紀』が「大化5年+白雉5年」にした理由がよくわかりません。「大化7年+白雉3年」であれば、白雉元年を2年ずらさずにすむのに、不思議です(九州年号「白雉元年」は652年。『日本書紀』の「白雉元年」は650年)。
 また、『日本書紀』大化2年(646)の改新詔は九州年号の大化2年(696)に藤原宮で出されたとする説と、7世紀中頃とする服部説とで論争が続きましたが、両者相譲らず、結論は今回も持ち越されました。
 正木さん(古田史学の会・全国世話人)からは、「古田の短里説は『魏志』においてさえも成立不能」とする寺坂国之著『よみがえる古代 短里・長里問題の解決』に対して、地図を示し具体的にその誤りを批判されました。また『三国志』に長里が混在した場合、なぜそうなったかの個別の検討が必要とされました。
 魏朝ではいつから短里を公認制定したのかという質問が出され、西村秀己さんから、暦法を周制に変更した明帝ではないかとする見解が示されました。関西例会も久しぶりの『三国志』短里問題で盛り上がりました。
 出野さんからは稲荷山古墳出土鉄剣銘や江田船山古墳出土大刀銘の訓みについての研究が発表されました。稲荷山鉄剣銘に見える「斯鬼」をシキと訓むことについて疑問を呈され、「鬼」を記紀や万葉集・推古朝遺文の万葉仮名で「キ」と訓んだ例はないとされました(百済人の人名「鬼室」は万葉仮名ではない)。万葉仮名(万葉集)では「鬼」を「マ」と訓まれており、「魔」の省略体と紹介されました。そして「斯鬼」を「シマ」あるいは「シクィ」「シクワィ」(二重母音)と訓む可能性を示唆されたのです。少なくとも「シキ」と断定的に訓むべきではないとされました。
 わたしにはまだ出野説の当否はわかりませんが、根拠を提示しての新説ですし、「鬼」は万葉仮名で「キ」と訓まれていないという指摘には、虚を突かれた気持ちです。
 稲荷山古墳出土鉄剣銘や江田船山古墳出土大刀銘の文意や被葬者の位置づけについても興味深い見解を発表されました。『古田史学会報』への投稿を要請しました。
 いずれも素晴らしい発表で、新年も快調な滑り出しとなりました。1月例会の発表は次の通りでした。

〔1月度関西例会の内容〕
1). 「関」と「畿内」と「改新の詔」の検証2(八尾市・服部静尚)
2). 「魏・西晋朝短里」は揺るがない(川西市・正木裕)
3). 稲荷山古墳出土鉄剣銘、江田船山古墳出土大刀銘についての解釈(奈良市・出野正)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況(新年賀詞交換会 2015.1.10、ギリシア旅行 2015.4.1〜4.8 33人参加)・古田先生購入依頼図書(『真宗聖教全書』昭和15年版掲載の「教行信証」には「主上」の二字が消されている)購入・春日大社に初詣・塚本青史『煬帝』を読む・2月22日「難波宮シンポ」開催・帝塚山大学考古研市民講座「奈良時代の製塩土器」・その他


第852話 2015/01/15

『三国志』のフィロロギー

    「陳寿の認識」

 魏王朝が周の時代の古制を王朝の大義名分として引き継ぎ、その里単位として周代の短里(約78m)を漢代の長里(約435m)に替えて公認したことが古田先生の研究で明らかとなっています。従って、『三国志』の著者陳寿自身は青年時代を「長里の時代の蜀地方」で過ごしているようですが、その後、『三国志』の編纂にあたっては魏・西晋朝の大義名分にそって正史に短里を採用するのは当然です。
 また、長里から短里への変更という歴史時間帯を生きてきたことから、正史に記載する里単位に無関心であったとは到底考えられません。作者(陳寿)の立場(気持ち)になってその史料を再認識するというフィロロギーの学問の方法論をご理解いただいている読者であれば、このことに御賛同いただけることと思います。これは学問の方法論の基礎的な問題でもありますから。(つづく)


第851話 2015/01/14

 『三国志』のフィロロギー

     「短里の論理」

 賀詞交換会において古田先生が『三国志』の短里や行程について触れられました ので、近年の短里に関する諸論稿にざっと目を通しました。すべての論稿を読んだわけではありませんが、その内容が20年前当時から本質的に進展していないものも見受けられました。そこで、わたし自身の認識の整理見直しも含めて、『三国志』の短里問題について、フィロロギーの視点から見解を述べてみます。
 まず文献史学における研究の手続きとして、史料批判や史料性格の分析が不可欠ですが、『三国志』は古田先生が繰り返し指摘されてきたように、魏王朝の歴史を綴った「正史」であり、かつ三国時代の呉や蜀の歴史も綴られています。『三国志』と命名されたゆえんです。しかも魏を継いだ次王朝の西晋により編纂さ れており、同時代史料とみなされ、信頼性の高い史書です。著者の陳寿も歴史官僚としての高い能力や品性の持ち主であったことが、古田先生により紹介されて います。
 王朝にとって度量衡の統一や施行は、収税や調達、他国との交渉・戦争などにとっても不可欠な行政課題です。ですから魏王朝も当然のこととして、長里であれ短里であれ「里単位」を決定し、その使用を国内(国家官僚・地方役人)に指示したはずです。『三国志』にそうした「里単位」の制定記事がないことをもっ て、里単位の制定・統一はされなかったとする論者もおられるようですが、こうした理解は王朝(権力者)の支配意志を軽視したものであり、学問の方法論上でも誤りがあります。
 すなわち、史料などに「ある事物」の記載があれば、史料事実としてその事物が「存在した」とする根拠に使えますが、不記載・無記載をもって、「存在しない」という根拠には使えないのです。「存在」証明は史料中に一つでも証拠(記載)があればとりあえず可能ですが、「不存在」証明はよほど好条件に恵まれない限りできません。この理屈は自然科学でも同様です。これは学問の基本的な考え方なのです。
 従って、『三国志』に「里単位の制定」記事がないことをもって、魏王朝が統一した里単位を公認制定しなかったとは論理の問題としてできないのです。どうしても存在しなかったことにしたい論者は、「史料に記載が無いことはその時代に存在しなかった」という証明が必要です。逆から言えば、三国時代に存在した制度や事物は全て『三国志』に記載されている、という証明が要求されるのですが、そのようなことがあるはずがなく、証明できるとも思われません。むしろ、王朝(国家権力者)である以上、里単位の公認制定を行ったと考えるのが、国家や歴史に対する真っ当な理解なのです。くりかえしますが、たとえば現代の百科事典に記載されていない事物は現在の世界に存在しない、などという理屈は通用せず、そのような主張は学問的ではありません。(つづく)


第502話 2012/12/08

『万葉集』の中の短里

 古田先生の『よみがえる卑弥呼』(ミネルヴァ書房より復刻)には『万葉集』の中の短里についても紹介されています。

 「筑前国怡土郡深江の村子負(こふ)の原に臨める丘の上に二つの石あり。(中略)深江の駅家(うまや)を去ること二十余里にして、路の頭(ほとり)に近く在り。」(『万葉集』巻第五、八一三、序詞。天平元=七二九年~天平二年の間)

 「二つ石」(鎮懐石八幡神社)と深江の駅家との距離を二十余里とする記事なのですが、実測値は1500~2000mの距離であり、短里(77m×20~25里=1540~1925m)でぴったりです。これが八世紀の長里(535m)であれば、短里の約7倍ですから全く当てはまりません。
 八世紀の天平年間に至っても北部九州(福岡県糸島半島)では短里表記が残存していた例として、この『万葉集』巻第五、八一三番歌の序詞は貴重です。
 『三国志』倭人伝の短里の時代(二世紀)から八世紀初頭まで同じ短里が日本列島内で使用されていたわけですから、まさに九州王朝は「短里の王朝」といえるでしょう。それが、八世紀に入ると長里に変更されていくわけですから、この史料事実こそ九州王朝から大和朝廷への列島内最高権力者の交代という、古田先生の多元史観・九州王朝説の正しさをも証明している一事例(里程論、里単位の変遷)なのです。
 他方、大和朝廷一元史観の旧説論者はこれら歴史的史料事実を学問的論理的に全く説明できていません。岩波の『日本書紀』『風土記』『万葉集』の当該箇所「解説注」を読んでみれば、このことは明白なのです。