「 多利思北孤 」一覧

第1869話 2019/04/03

『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(5)

西村秀己さんに続いて、本連載を読まれた正木裕さん(古田史学の会・事務局長、川西市)からもまたまた鋭いご指摘をいただきましたので、ちょっと寄り道をしてご紹介します。
 拙論では、大和朝廷の人々が天然痘の脅威を九州王朝(倭国)や同じく伝染病で次々と病没した倭国王家の祟りと考え、その魂を沈めるために、病没した上宮法皇(多利思北孤)の命日である天平8年「2月22日」に法隆寺で法会を執り行い、大量の献納品を施入したと指摘しました。その一例として『法隆寺縁起』の次の献納記事を紹介しました。

 「丈六分銀多羅弐口〔一口重九斤 一口九斤二分〕
 右天平八年歳次丙子二月廿二日納賜平城宮
 皇后宮者」(『寧楽遺文』による。〔〕内は細注)

 施主の「平城宮皇后」とは聖武天皇の后で藤原不比等の娘、光明皇后のことで、異父姉無漏王も同日に白銅鏡一面を「丈六分」として施入していることも紹介しました。この「丈六」を法隆寺の釈迦三尊像のこととし、その光背銘に記された上宮法皇の命日「二月廿二日」に施入したと説明したのですが、正木さんよりこの釈迦三尊像は上宮法皇をモデルとした「等身仏」ではないかとの指摘がありました。
  確かに、銘文には「造釋像尺寸王身(尺寸の王身の釈像を造る)」とあり、文字通り上宮法皇と寸分違わず作製された釈迦像と考えざるを得ません。どんなに誤差を想定しても「丈六」(一丈六尺=約4.85m。座像の場合は半分の2.43m)ではありません。言われてみればその通りで、意表を突かれた指摘でした。(つづく)


第1867話 2019/03/31

『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(4)

 「洛中洛外日記」1866話〝『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(3)〟を読まれた西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、『古田史学会報』編集担当、高松市)から重要なご質問メールをいただきました。それは、大宝元年(701)の王朝交替の80年も前に没した「上宮法皇」が大和朝廷に祟ったなどと大和の人々が考えるだろうかという疑問です。まことにもっともな疑問です。これに対して、わたしは次のような理由から、大和朝廷は天然痘の流行を九州王朝やその天子「上宮法皇」(古田説によれば『隋書』に見える阿毎多利思北孤のこと)の祟りと考えたのではないかと思います。

① 天智9年(670)に全焼した法隆寺(若草伽藍)の跡地に、王朝交代後の和銅年間に大和朝廷は多利思北孤の菩提寺ともいうべき寺院(場所や名称は不明。古田学派内でも諸説ある)とその本尊(釈迦三尊像)を移築している(現・法隆寺西院伽藍)。移築の痕跡は米田良三著『法隆寺は移築された』に詳しい。その寺院・仏像を簒奪した〝後ろめたさ〟を大和朝廷は抱いていたものと思われる。
② 光背銘によれば、九州王朝(倭国)王家の人々が相次いで没している。次の通りだ。

 法興31年(621)12月   鬼前太后
法興32年(622)2月21日 干食王后
 法興32年(622)2月22日 上宮法皇

 死因は「上宮法皇、枕病してよからず。干食王后、よりて以て労疾し、並びに床につく。」とあり、病没である。王家の人々が次々と没していることから、おそらく伝染病が倭国王家を襲ったものと思われ、この事実は一大事件として倭国内で伝承されていたことを疑えない。もちろん近畿天皇家にも伝わっていたであろうし、何よりも法隆寺に伝わった光背銘文に記されており、王朝交代後の大和朝廷の人々の目にも触れていた。
 こうした経緯から、同じく伝染病(天然痘)の脅威にさらされた大和朝廷にとって、病没した多利思北孤ら倭国王家の怨念を沈める必要を感じたのではあるまいか。
③ そして何よりも大和朝廷中枢を襲った天然痘が九州(大宰府官内)から発生したものであり、これを自らが滅ぼした「九州王朝の祟り」と考えても不思議ではない。
④ 他方、大和朝廷は未服従の九州王朝残存勢力を「隼人」討伐と称して、養老4年(720)まで南九州への軍事侵攻を続け、九州の人々の恨みをかってきた。

 以上のような理由により、大和朝廷の人々が天然痘の脅威を九州王朝や同じく伝染病で次々と病没した倭国王家の祟りと考え、その魂を沈めるために、多利思北孤の命日である天平8年「2月22日」に法隆寺で法会を執り行い、大量の献納品を施入したとする仮説をわたしは発表したのでした。(つづく)


第1866話 2019/03/30

『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(3)

 拙稿「九州王朝鎮魂の寺 -法隆寺天平八年二月二二日法会の真実-」、『古代に真実を求めて』第十五集所収、2012.3)において、『法隆寺縁起并流記資財帳』に記された「丈六仏像」への光明皇后らによる献納が「天平八年歳次丙子二月廿二日」に集中していることを根拠に、法隆寺を前王朝である九州王朝鎮魂の寺とする説を発表しました。
 釈迦三尊像光背銘に記された「上宮法皇」の命日「法興三十二年(622年)」「二月廿二日」は、『日本書紀』に記された「聖徳太子(厩戸皇子)」の命日の推古29年(621)2月5日とは明確に異なり、両者は別人です。他にも、光背銘には母親の名前「鬼前太后」や妻の名前「干食王后」が記されており、「聖徳太子」の母親や妻はこのような名前ではありません。更に、「上宮法皇」の「法皇」とは仏門に入った天子を意味し、「法興」という年号も王朝の最高権力者の天子にしか作れません。しかし、「聖徳太子」はナンバーツーの「摂政」であり天子ではありませんし、「法興」という年号も持っていません。
 以上のように、法隆寺の釈迦三尊像光背銘に記された「上宮法皇」を近畿天皇家の「聖徳太子」とすることは無理というものです。しかも、「聖徳太子」の命日や家族の名前は『日本書紀』に記されており、法隆寺で法会が行われた天平8年(736)は『日本書紀』が成立した720年のわずか16年後であり、『日本書紀』を編纂した大和朝廷の有力者や官僚たちがそのことを誰も知らなかったとは万に一つも考えられないのです。
 したがって、光明皇后らは法隆寺や釈迦三尊像が九州王朝の寺院であり仏像であることをわかったうえで、大宰府官内から流行した天然痘の猛威を、滅び去った前王朝の祟りと思い、その鎮魂のために「上宮法皇」の命日である天平8年の「二月二十二日」に法会を行い、多くの品々を献納したと思われるのです。その大量の施入を記した『法隆寺縁起』に不思議な施入記事があることに、わたしは気づきました。(つづく)


第1865話 2019/03/29

『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(2)

 天平十九年(747)に成立した『法隆寺縁起并流記資財帳』によれば、次のような法隆寺へ献納物が奉納日・奉納者と共に記されています。

 「丈六分銀多羅弐口〔一口重九斤 一口九斤二分〕
 右天平八年歳次丙子二月廿二日納賜平城宮
 皇后宮者」(『寧楽遺文』による。〔〕内は細注)

を筆頭に、「白銅鏡肆面」「香肆種」「白筥二合」「革箱肆号」が施入されています。
 『法隆寺縁起』によれば、光明皇后からの施入が際立って多いのですが、異父姉無漏王も同日に白銅鏡一面を「丈六分」として施入しています。この「丈六」とは丈六の仏像である釈迦三尊像のことと思われますから、ときの大和朝廷の光明皇后らが、九州から発生した伝染病の脅威を沈めるために、九州王朝の天子・多利思北孤の命日「二月廿二日」に、斑鳩に移築した九州王朝の多利思北孤を模した釈迦三尊像を本尊とする「法隆寺」に献納品を施入しているのです。
 この史料事実から、法隆寺を九州王朝の天子・多利思北孤鎮魂のための寺院とする仮説をわたしは発表したことがあります(「九州王朝鎮魂の寺 -法隆寺天平八年二月二二日法会の真実-」、『古代に真実を求めて』第十五集所収、2012.3)。このことを来月十九日開催(奈良県立情報図書館、古代大和史研究会主催・原幸子代表)の講演会で紹介しようと、『法隆寺縁起并流記資財帳』を読み直していたのですが、そこに不思議な記事があることに気づきました。(つづく)


第1325話 2017/01/21

九州年号「継躰」建元の追号説

 本日の「古田史学の会」関西例会では偶然にも九州年号「継躰」建元について二件の研究が報告されました。
 一つは西村さんによるもので、『二中歴』にのみ最初の九州年号「継躰」が見える理由として、九州王朝が梁の冊封から離脱して「善記」という年号を公布したとき、それ以前に「継躰」という年号も遡って「公布」、すなわち追号したとする仮説(アイデア)です。追号という事情により『二中歴』以外の史料には「善記」を「最初の年号」と記されることになったとされました。この仮説の成立や論証過程は西村さんから論文として発表されることと思いますが、単なるアイデアとは思えない説得力もあり、今後の論争が期待されます。
 二つ目は正木さんからの研究報告です。『聖徳太子伝暦』に見える「遷都予言記事」(九州王朝の多利思北孤の記事と思われます)の中に、「聖徳太子」46歳のとき(617年)から100年前(517年)に都を置いたというような記事があるのですが、この517年が九州年号の「継躰」建元の年に一致します。このことから、正木さんは筑後のある場所に筑紫君磐井が遷都し、それを記念して「継躰」建元した史料痕跡ではないかとされました。また、617年の翌年には九州年号が「倭京」と改元されるのですが、この年が太宰府遷都の年とする仮説をわたしは発表したことがあります(「よみがえる倭京(太宰府)」『古田史学会報』50号 2002年、「『太宰府』建都年代に関する考察」『古田史学会報』65号 2004年)。今回の正木さんの報告は「継躰」建元年にも遷都の痕跡を発見されたものです。この『聖徳太子伝暦』の「遷都予言記事」は、九州王朝の遷都関連記事を「聖徳太子」の事績としてまとめて記録したものとする理解が可能となり、とても興味深い発表でした。
 1月例会の発表は次の通りでした。

〔1月度関西例会の内容〕
①『別府の風土と人のあゆみ』の宣伝(奈良市・水野孝夫)
②倭国年号建元を考える(高松市・西村秀己)
③古代九州の国の変遷(茨木市・満田正賢)
④倭国と狗奴国の紛争(相模原市・冨川ケイ子)
⑤出野正・張莉著『倭人とはなにか』-漢字から読み解く日本人の源流-(奈良市・出野正)
⑥洛陽発見の三角縁神獣鏡の銘文から(八尾市・服部静尚)
⑦文字伝来と北朝認識(八尾市・服部静尚)
⑧井上信正氏講演会の報告「大宰府 古代都市と迎賓施設」(京都市・古賀達也)
⑨九州王朝の王都の変遷と筑後勢力(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 01.22 古田史学の会「新春古代史講演会」の準備・02.16 「大阪さくら会」で服部氏が講演・02.25 久留米大学で正木氏、服部氏が講演・7月久留米大学で古賀が講演・「古代史セッション」(森ノ宮)の報告と案内・その他


第1237話 2016/07/24

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(13)

 九州王朝が九州から遠く離れた難波になぜ前期難波宮(副都)を造営できたのかという問題について、わたしは九州王朝と摂津難波が何らかの事情で密接な関係があったと考えていました。それは現存最古の九州年号群史料『二中歴』に見える次の記事などが根拠でした。

 「倭京二年、難波天王寺を聖徳が造る。」『二中歴』「年代歴」(古賀訳)

 九州年号の倭京二年(619)に聖徳という人物が難波に天王寺を造ったという記事で、九州年号によって記録されていることから、九州王朝系の記事と考えられます。
 当初わたしはこの記事の「難波」を博多湾岸付近ではないかと考え、7世紀初頭の寺院遺跡や地名を調査したのですが、見つかりませんでした。そこで「難波」「天王寺」とあるのだから摂津難波の四天王寺のこととする理解が妥当と気づき、四天王寺は元来「天王寺」と呼ばれていたことに気づきました(明治時代の地名は天王寺村、「天王寺」銘の瓦も出土)。
 また、当地(大阪歴博)の考古学者による四天王寺の創建年が620年頃とされている事実から、『二中歴』という九州年号史料と考古学編年(軒丸瓦の編年)が一致してることから、『二中歴』に倭京二年に創建されたと記されている難波天王寺は摂津難波の「天王寺」であるという結論に到達したのです。
 倭京二年(619)は九州王朝の天子、多利思北孤の時代ですから、難波天王寺を造営した「聖徳」と記された人物は九州王朝の有力者と考えられます(正木裕さんの説では多利思北孤の息子の利歌彌多弗利)。こうした論理展開により、多利思北孤の時代には難波は九州王朝が寺院を建立できるほどの、いわば直轄支配領域とする認識へと至ったのです。
 他方、九州王朝の天子が九州から瀬戸内海を行き来していたことを、古田先生は『万葉集』の史料批判により明らかにされていましたから、海上交通の要地である難波が九州王朝支配領域としても矛盾はありません。(つづく)


第1214話 2016/06/21

「須恵器杯B」発生の理由と時期

 今朝は朝一番の新幹線で九州に向かっています。熊本・島原・天草・鹿児島・宮崎・久留米・福岡とハードな行程が代理店により組まれました。熊本や天草は昨日からの大雨で被災している所もあり、やや心配です。

 「古田史学の会」関西例会では西井健一郎さん(古田史学の会・全国世話人)が古代史関係の新聞記事の切り抜きコピー(古田史学の会・関西例会「古代史ニュース」)を配付されておられ、とても参考になります。先日の関西例会でもいただいたのですが、7世紀の土器の変化に関する興味深い記事があり、急遽、そのことに関して発表させていただきました(須恵器杯Bの発生事情と時期)。
 その記事は奈良文化財研究所研究委員の小田裕樹さん(35)へのインタビューコラム「テーブルトーク」(6月1日・朝日新聞夕刊)で、見出しに「土器が語る食卓の『近代化』」とあり、須恵器杯がH・GからBへ変化した理由と時期についてがテーマです。小田さんは7世紀の土器の変化について次のように語られています。

 「推古天皇や聖徳太子が活躍した7世紀前半は、丸底の食器を手に持ち、手づかみで食べる古墳時代以来のスタイル。しかし7世紀後半の天智・天武天皇の時代に、平底から高台つきの食器を机や台に置き、箸やさじで料理を口に運ぶ大陸風のスタイルに変わったようです」

 小田さんのこの発言に続いて、次のように今井邦彦記者は解説しています。

 「そのきっかけは663年に日本の派遣軍が朝鮮半島で唐・新羅連合軍に敗れた『白村江の戦い』だったとみる。日本はその後、唐をモデルにして律令制を導入するなど『近代化』を急速に進めた。それが宮殿での食事のスタイルにも及んだようだ。」

 この記事にある「丸底の食器」とは、古墳時代からある須恵器杯H(蓋につまみがない)と近畿では7世紀前半から中頃に流行する須恵器杯G(蓋につまみがある)のことと思われます。「高台つきの食器」とは底に脚がある須恵器杯Bと思われ、その発生を天智・天武の頃(660〜680年頃)とされています。この編年はいわゆる「飛鳥編年」と呼ばれている土器編年に基づいており、奈良文化財研究所の研究員である小田さんはその立場に立っておられるようです。
 他方、前期難波宮整地層から出土した須恵器杯Bが7世紀中頃以前のものとする大阪歴博の考古学者による「難波編年」とは「飛鳥編年」が微妙に異なっていることから、両者のバトルはまだ続いているのかもしれません。わたしは大阪歴博の考古学者の7世紀の難波の土器(須恵器)や瓦(四天王寺創建瓦:620年頃と展示。『二中歴』にも「倭京二年(619)の創建」と記されており、歴博の展示と一致)の編年は正確であると支持していますが、須恵器杯Bの発生について、九州王朝(北部九州、大宰府政庁1期下層出土など)において7世紀初頭頃と考えています。
 今回の記事でわたしが最も注目したのは、須恵器杯Bの発生理由として、中国(唐)文化の受容によるものとされた点です。確かに机の上に碗を置いてお箸を使って食事するのであれば、丸底丸底(須恵器杯H・G)よりも脚のある安定した須恵器杯Bの方が食べやすいのは当然です。そうした中国の文化を受容したという意見には説得力を感じるのですが、それなら白村江戦(663年)敗北後では遅すぎます。
 『隋書』にあるように7世紀初頭には倭国と隋は親密な交流を行っており、中国文化を真似て机の上で食べやすい須恵器杯Bを造るくらいは簡単なことです。また隋使は倭国(阿蘇山がある北部九州)を訪問しており、その隋使を饗応するさいに、丸底の碗で手づかみで食べろとは言わなかったと思います。国賓にふさわしい容器と豪華な食事でもてなしたはずです。それとも、法隆寺や金銅製の釈迦三尊像は造れても、須恵器杯Bは7世紀後半まで造れなかったとでもいうのでしょうか。わたしにはそのような見解は到底理解できません。
 以上のように、須恵器杯Bの発生理由を中国文化の受容とするのであれば、その時期は白村江戦後ではなく、遅くとも隋と交流した7世紀初頭頃であり、その交流主体であった九州王朝で近畿よりも先に発生したとするわたしの仮説を支持するのです。
 このような論理性と出土事実は九州王朝説とよく整合しますが、大和朝廷一元史観の呪縛から逃れられない真面目な論者は、これからも須恵器杯Bの編年に苦しみ続けることになるのではないでしょうか。

 今、列車は山口県内を走っています。あと30分ほどで博多駅に到着です。


第1210話 2016/06/17

鞠智城の造営年代の考察

 鞠智城の創建が大野城・基肄城よりも古いとする新説を紹介しましたが、わたしもその結論自体には賛成です。問題は、その年代と根拠や背景が一元史観の論者とは異なることです。これまでの論稿の編年を整理するために、わたしの年代観を再度説明します。
 わたしは『隋書』「イ妥国伝」の記述にあるように、隋使が阿蘇山の噴火が見える肥後の内陸部にまで行っていることを重視し、いわゆる古代官道の西海道を筑後国府(久留米市)からそのまま南下し肥後国府(熊本市付近か)に進んだのではなく、「車路(くるまじ)」と呼ばれている古代幹線道路を通って鞠智城経由で阿蘇山に向かったと考えました。
 また、国賓である隋使一行が無人の荒野で野営したとは考えられず、国賓に応じた宿泊施設を経由しながら阿蘇山へ向かったはずです。その国賓受け入れ宿泊施設の有力候補の一つとして鞠智城に注目したのですが、当地には6世紀の集落跡や7世紀第1四半期、第2四半期の土器が出土しており、考古学的にもわたしの仮説に対応しています。
 このように、『隋書』の史料事実と考古学的出土事実から、九州王朝における鞠智城の造営は6世紀末頃から7世紀初頭にかけて開始され、九州王朝が滅亡する701年頃まで機能していたと思われます。従って、九州王朝滅亡時の7世紀末頃には機能を停止し、無人化(無土器化)したと考えられます。現在の考古学者の編年では、その無人化(無土器化)を8世紀の第2四半期頃とされていますが、この編年はたとえば「須恵器杯B」編年の揺らぎなどから、30〜40年ほど古くなることは、わたしがこれまで論じてきた通りです。
 なお、鞠智城内の各遺構の編年はまだ十分には検討できていませんが、たとえば鼓楼(八角堂)の初期の2塔は前期難波宮の八角殿との類似(共に堀立柱で板葺き)から、7世紀中頃ではないかと、今のところ考えていますが断定するには至っていません。引き続き、勉強しようと思います。(つづく)


第1207話 2016/06/09

鞠智城7世紀前半造営開始説の登場

 歴史公園鞠智城・温故創生館の木村龍生さんからご紹介いただいたのが『鞠智城東京シンポジウム2015成果報告書「律令国家と西の護り、鞠智城』(熊本県教育委員会、2016年3月31日)です。同書に収録された鞠智城東京シンポジウム(明治大学)の基調講演「鞠智城と古代日本東西の城・柵」(国立歴史民俗博物館名誉教授・岡田茂弘さん)に次のような注目すべき発言が記されていました。要点部分のみ抜き出しました。

 「鞠智城から出た瓦は単弁八葉の蓮華文瓦です。これと類似する瓦は大野城跡の主城原で出土しています。(中略)これは大野城でも一番古いタイプです。鞠智城でも、この瓦に伴う、丸瓦、平瓦は一番古いタイプだということが判っています。そうすると大野城のこの瓦と、鞠智城の瓦葺の建物はほぼ同じくらいの時期に造られたということがいえます。この辺は文献に出てこない鞠智城が大野城とほぼ近いということがいえる証拠になります。」(p.40)

 「鞠智城内には六世紀代の古代集落があり、それに伴った土器もあります。ところが七世紀の第1四半期、第2四半期、第3四半期、第4四半期という形で、第3四半期から急激に量が増えてくるという状態が分かると思います。この第3四半期から第4四半期はまさに大野城や基肄城が造られた時期です。」(p.40)

 「考えてみますと。古い土器が出てくるということに注目しますと、鞠智城の台地の部分は実は改変されていまして、層位が攪乱されているから、きちんと分かる状態ではないのです。しかし貯水池の場合は低地ですから、出土層位が残っています。特に貯木場の周辺では、瓦のでる、つまり大野城の創建期と同じ時期の瓦の出る包含層の下から、須恵器だけ出る包含層が知られています。これは鞠智城が大野城などよりも古くに造られた可能性を秘めているわけです。」(p.41)

 「大化の改新の直後に、南九州に対する施策があったにもかかわらず、それは『日本書紀』には書かれていません。なぜか消えてしまったということを示しています。鞠智城はその段階で、まさに南に対する前線本拠地として造られたのだと私は考えています。」(p.42)

 「同時に鞠智城については、いつ造られたのか、築城についての記載がありません。なぜないのかというと、一番合理的な解釈は、大野城や基肄城のより前に造られていたからです。南に対する防衛の拠点として、前に造られていたから、既にある城として大野城や基肄城とともに整備はされたが、既にあるから、新たに山城を造ったとは書かれていないと解釈すれば合理的です。結局、鞠智城は大野城や基肄城よりも、一段古く造られたのです。」(p.43)

 「鞠智城というのは七世紀の中葉に、東北の越国に造られた城柵に対応するように、南九州の熊襲・隼人に対する根拠地として建設された西日本の最初の城柵です。」(p.46)

 以上のように、岡田さんは鞠智城創建時期が7世紀中葉とする考えを述べられたのですが、その根拠は大野城出土瓦よりも古い土器が鞠智城から出土していることと、『日本書紀』の「大化改新」直後に南九州施策が記されていないということのようです。従来説よりも一歩前進した仮説と思いますが、学問的に論証が成立しているとは言い難く、まだ「作業仮説(思いつき)」程度の位置づけが妥当の様に思われます。
 その理由は次のような点です。

1.大野城の造営年代が従来説に依っている。瓦が大野城と鞠智城と同時期とする意見は考古学的出土事実の比較に基づかれているので、学問の方法論として問題ありません。しかし「土器」の比較は大野城出土「土器」となされるべきです。

2.鞠智城から出土する古い土器に注目されているにもかかわらず、7世紀第1四半期の土器の位置づけをスルーされています。7世紀第1四半期の土器の存在は鞠智城創建とは無関係とされるのなら、その考古学的理由を示されるべきでしょう。自説に都合の悪い土器(データ)を無視して、都合のよい土器(データ)だけで「論」を立てるのは学問的にアンフェアです。理系の論文や学会発表で同様のことを行ったら、「研究不正」と見なされ、即アウトでしょう。

3.近畿天皇家一元史観に依っておられるため、『日本書紀』の史料批判が不十分です。特に「大化改新詔」については一元史観の学会内でも見解が分かれています。九州王朝説に立てば、『日本書紀』「改新詔」の記事が九州年号「大化(695〜702)」の頃の事績か7世紀中葉の事績か、個別に検討が必要です。

4.南九州勢力の服属時期には、九州王朝への服属と大和朝廷への服属という多元史観的課題がありますが、一元史観の限界により、そうした検討・考察がなされていません。

5.「熊襲」と「隼人」の定義や位置づけが、現地の最新研究に基づいていない。この点、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)の指摘があります。

 以上のような課題や論理的脆弱さは見られるのですが、一元史観内においても鞠智城創建年代を古く見る岡田説が出現したことは貴重な動向と思います。(つづく)


第1206話 2016/06/08

大野城・基肄城よりも早い鞠智城造営

 従来説では鞠智城の造営時期は大野城や基肄城と同じ7世紀の第3四半期から第4四半期頃とされていました。近年では大野城出土木柱の年輪年代測定により、白村江戦(663年)よりも前ではないかという説が有力になりつつあるようです。文献には鞠智城創建記事が見えないのですが、さしたる有力な根拠もないまま、鞠智城も大野城・基肄城と同じ頃に造営されたと考えられてきたのです。
 他方、わたしは近年の「聖徳太子(多利思北孤)」研究の進展により、『隋書』「イ妥国伝」に記されているように、隋使は肥後まで行き阿蘇山の噴火を見ていることから、その隋使を迎える宿泊施設があったはずで、その有力候補が鞠智城ではないかと考えました。肥後国府(熊本市付近か)では阿蘇山の噴煙は見えても噴火は見えませんから、やはり内陸部の鞠智城が有力なのです。この推察が正しければ鞠智城からは7世紀初頭の住居跡が出土するはずですし、同時期の土器も出土するはずです。
 このように、わたしは鞠智城6世紀後半〜7世紀初頭造営説に到着しつつあり、そのことを久留米大学での公開講座(5月28日)や和水町での講演(5月29日)で発表しました。そしてその翌日(5月30日)に訪れた歴史公園鞠智城・温故創生館で木村龍生さんから、近年、鞠智城の造営時期は従来説よりも早いとする説が出されていることを教えていただいたのです。