「 多利思北孤 」一覧

第1201話 2016/06/05

鞠智城出土炭化米のC14測定年代

 「洛中洛外日記」1200話で、鞠智城創建時期は7世紀初頭の多利思北孤の時代まで遡るのではないかと述べましたが、Facebook での読者(西野さん)から鞠智城出土炭化米の炭素同位体年代測定がなされており、7世紀よりも古いという測定結果が出されているとのご教示をいただきました。こうしたリアルタイムでの応答や情報交換ができることはFacebook などの強みで、「古田史学の会・WEB例会」を構築したいという、わたしの希望の良き先例となりそうです。
 西野さんからご紹介された『鞠智城 第13次発掘調査報告』(平成4年3月、熊本県教育委員会)の「第七節 出土炭化物について」(p.51)によると「平成3年度の第13次調査で炭化米が出土したので、カーボンの年代測定を京都産業大学理学部の山田治教授に依頼した。結果は下記の通りであるが、若干の補足説明を行う。」として、次のように記されています。

①山田教授によれば、一年生植物である炭化米の測定年代は、年輪を有する木材等と違い、試料自体に原因を持つ誤差は生じないという。
②南側八角形建築址の堀形埋土を切る柱穴より出土した炭化米の年代は1000±15BPで、これは西暦950±15年に該当するが、この値は更に細かく考察すると第21表の14C年代と年輪年代との対照表では、標準偏差2倍、信頼度95%でAD(西暦)1000〜1020年になる。しかるに、文献上から鞠智城が消える年代が879年(『三代実録』による)なのでカーボン測定値と文献資料の年代は大体一致する事になる。
③17調査区の北東隅から検出された炭化米の年代測定結果は1450±15BPとなり、これは西暦500±15年という事になる。同じく、第21表によりAD590〜640年(6世紀後半〜7世紀中葉)という事になる。この年代は大きな問題である。そもそも文献上に鞠智城が現れるのは西暦698年(『続日本紀』による)であるので、年代が若干、遡ることになる。平成2年度に鞠智城の第9次調査(昭和62年度調査)で長者山より出土した炭化米を同教授のもとで測定した所、西暦650±30年(第21表によりAD660〜770年)という文献記録と照合しても妥当な線がでているが、今回はその年代よりも70〜130年程以前のものとなってしまう。この件に関し、鞠智城の築造年代にもかかわってくる問題なので(これまでの調査結果では城内から検出される竪穴住居址の最終年題が6世紀後半であるので、それ以前に鞠智城の築造年代が遡る事は考えられない。炭化米の年代はギリギリの線である)、今回は山田教授の結果報告のみの掲載に留める事にする。

 以上のように、この炭化米の測定年代の取り扱いに困っているのですが、わたしの多利思北孤の時代に創建されたとする説にはよく対応しており、自説に自信を深めました。この報告書の存在をご教示いただいた西野さんに感謝申し上げます。


第1154話 2016/03/23

「長良川うかいミュージアム」訪問

 今日は岐阜市の金華山(岐阜城)を望む長良川岸に仕事で行きました。ちょっと空き時間がありましたので、近くの「長良川うかいミュージアム」を見学しました。
 大きなスクリーンに映し出された長良川の鵜飼の歴史や展示はとても勉強になりました。『隋書』「イ妥国伝」に記された鵜飼の記事の紹介や、大宝二年の美濃国戸籍に「鵜養部」が見えることなどが紹介されていました。現在は六軒の鵜匠により鵜飼が伝承されており、その六軒は宮内庁式部職の職員とのこと。
 鵜飼の鵜は二羽セットで飼育されており、その二羽はとても仲がよいとのことなので、雄と雌のペアであれば『隋書』「イ妥国伝」の表記「ろ・じ」※(鵜の雄と雌、※=「盧」+「鳥」、「茲」+「鳥」)に対応していると思いましたが、同ミュージアムの売店の方にお聞きしたところ、鵜は外観からは雄と雌の区別はつかず、二羽セットも雄同士や雌同士の可能性もあり、雄と雌のペアとは限らないとのことでした。そして、長良川の鵜飼では大きな鵜が好まれることもあって、海鵜(茨城県の海岸の海鵜)を捕獲するときも大きな雄が選ばれるので、結果として長良川の鵜飼の鵜は雄がかなり多いのではないかとのこと。雄同士や雌同士のペアでも仲がよいのかとお聞きすると、よいとのことでした。
 『隋書』の記述とは異なる点として、『隋書』では鵜の首に小環がつけられているとされていますが、長良川では紐で首や体がくくられています。その首のくくり加減が重要で、小さな鮎は飲み込まれ、大きな鮎だけが首にとどまるようにするとのことでした。
 鵜飼の風景をビデオで見ますと、船の先端に吊された篝火を鵜は全く恐れていないことに気づきました。動物は火を恐れるものと考えていたのですが、鵜飼の鵜たちは篝火や火の粉を全く気にすることもなく鮎を捕っているのです。こうしたことも現地に行かなければ気づかないことでした。本当に勉強になりました。皆さんにも「長良川うかいミュージアム」はお勧めです。入館料は500円で、駐車場もあります。なお、5月から10月までは鵜飼のシーズンとなりますので、今の季節が空いているのではないでしょうか。


第1125話 2016/01/21

合田洋一さんが愛媛大学で講演

 1月20日(水)に「古田史学の会」全国世話人(古田史学の会・四国 事務局長)の合田洋一さん(松山市)が愛媛大学に招かれ、学生に対し「古代に真実を求めてー聖徳太子を事例として」と題し講演を行なわれました。
 講演では、「一元史観」と「多元史観」という視点から、神武天皇に始まる大和の天皇家が日本列島を連綿と統治していたとする「一元史観」と、古代には日本列島各地に王国・王朝があったとする「多元史観」のどちらが真実なのかについて、志賀島の「漠委奴国王」の金印や『三国志』「魏志倭人伝」の邪馬壹国と女王・卑弥呼、「日出ずる処の天子」と「聖徳太子」、『旧唐書』に別国と記される「倭国」「日本国」などを例にあげ、「古田史学」が追及してきた問題を解りやすく解説しました。工学部など理系の学生(2回生)が中心でしたが約110人が熱心に聴講されたとのことです。
 古田先生はご逝去されましたが、追悼講演会が大阪府立大学で盛大に開催され、その直後に国立愛媛大学でも古田史学に基づく講演が開催されたことは、多元史観にもとづく古代史学のうねりを感じます。今後も、各地の会員の皆さん、友好団体の方々のご協力を得て、講演活動を積極的に展開し、古田武彦先生の切り開かれた多元史観の発展に努めていきたいと思います。


第1079話 2015/10/21

『新唐書』日本国伝の新理解

 先日の「古田史学の会」関西例会で服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から『新唐書』日本伝についての研究が発表されました。そのときの討論を経て、興味深いことに気づきましたのでご紹介します。
 ご存じのように『旧唐書』(945年成立)には倭国伝(九州王朝)と日本国伝(大和朝廷)とが併記されており、多元史観・九州王朝説を直接的に証明する史料として古田史学では重視されてきました。その後に編纂された『新唐書』(1060年成立)では日本伝のみであり大和朝廷のみの記述となっていることから、大和朝廷一元史観の学界では「同じ国である倭国と日本国を別国として表記した『旧唐書』は信頼性が劣る」とされ、日本伝に統一した『新唐書』こそ正しいとして重視する姿勢をとってきました。
 しかし、今回の服部さんの研究報告に触発され、『新唐書』を改めて読んでみると、『新唐書』編者は九州王朝と大和朝廷両国の存在を認識しており、その内の日本伝のみを記述していた可能性があることがわかりました。日本伝は日本側史料や歴代中国正史を参考にしてその歴史を記述しているのですが、具体的には『後漢書』の倭(委)奴国の時代から記述し、天御中主や神武頃からは「自らいう」として日本側の情報によっており、それまでは「筑紫城」に居住し、神武のときに「天皇」を名乗り「大和州」へ移ったとしています。いわゆる「神武東征」を史実として採用しています。
 他方、その日本国の歴史には「志賀島の金印」も「邪馬壹国の卑弥呼・壹与」「倭の五王」も一切登場しません。意図的に避けていると思われるのです。歴代中国史書に登場する倭国の有名人や金印授与などの歴史的事件が見事にカットされているのです。これらを偶然とすることは考えにくく、やはりその主体が異なると『新唐書』編者は認識していたのではないでしょうか。
 そうした九州王朝の有名人や重要事件がカットされた日本伝なのですが、不思議な記述がありました。それは「目多利思比孤」です。『隋書』イ妥国伝の「阿毎多利思北孤」と関係することは一目瞭然なのですが、「目」の意味が不明でしたし、九州王朝の多利思北(比)孤がなぜ近畿天皇家の歴代の天皇と並んで記されているのかが不審とされてきました。

 「(前略)次用明、次目多利思比孤、直隋開皇末年始與中国通、次崇峻(後略)」(『新唐書』日本伝)

 「目多利思比孤」は用明(585〜587年)と崇峻(587〜592年)の間の在位とされていますが、こうした人物は『日本書紀』などには当然見えません。従って、『新唐書』編者は別の情報に基づいて上記記事を書いたと思われます。ここで注目されるのが、古田先生が指摘されたように「隋の開皇の末にはじめて中国に通ず」という記事です。『新唐書』日本伝では隋の開皇年間(581〜600年)の末に初めて日本国は中国(隋)と国交開始したと記しているのです。ですから、日本伝に「志賀島の金印」や「邪馬壹国の卑弥呼・壹与」「倭の五王」などの古くからの国交記事が全く記されていないことと整合しています。
 『隋書』イ妥国伝によれば開皇20年に多利思北孤は遣隋使を派遣しています。先の記事はこの遣隋使記事と年代が一致しています。しかし『隋書』によれば倭国(イ妥国)は古くから中国と交流していることが記されていますから、『新唐書』の編者は日本伝の日本国と『隋書』のイ妥国(倭国)は別国と認識していたと考えざるを得ないのです。
 それではこの「目多利思比孤」とは何者でしょうか。古田先生によれば「目」は代理を意味する「目代」(代理人)などと同類の「称号」ではないかとされ、おそらく多利思北孤が派遣した遣隋使に同行した近畿天皇家の使者を「目・多利思比孤」、すなわち多利思北(比)孤の代理人(目)として『新唐書』に記したのではないでしょうか。
 歴史事実がどのようなものであったか、その詳細はまだわかりませんが、『新唐書』編者の認識は、九州王朝の天子・多利思北孤の「目(代理)」として「目多利思比孤」という人物を近畿天皇家(日本国)の代表者として用明と崇峻の間に記録したと考えざるを得ません。
 以上のように、『新唐書』日本伝は多元史観・九州王朝説に立って読んだとき、初めてその成立過程が理解可能となります。近畿天皇家一元史観では「隋の開皇の末にはじめて中国に通ず」という一文を全く説明できないのです。

掲載 歴史ビッグバン 古田武彦
(『新・古代学』第3集 1998年 新泉社)


第1072話 2015/10/09

条坊と摂津国分寺推定寺域のずれ

 摂津国分寺跡から7世紀の古い軒丸瓦が出土していたことをご紹介し、これを7世紀初頭の九州王朝による国分寺建立の痕跡ではないかとしましたが、この他にも同寺院跡が7世紀前半まで遡るとする証拠について説明したいと思います。それは、摂津国分寺の推定寺域が難波京条坊(方格地割)とずれているという問題です。
 『摂津国分寺跡発掘調査報告』(2012.2、大阪文化財研究所)によれば、摂津国分寺跡の西側には難波京の南北の中心線である朱雀大路が走り、更にその西側には四天王寺があり、東側には条坊の痕跡「方格地割」が並んでいます。その方格地割の東隣に摂津国分寺跡があり、その推定寺域は約270m四方とされています(11ページ)。ところがその推定寺域が条坊の痕跡「方格地割」とは数10mずれているのです。いわば、摂津国分寺は難波京内にありながら、その条坊道路とは無関係に造営されているのです。これは何を意味するのでしょうか。
 難波京の条坊がいつ頃造営されたのかについては諸説ありますが、聖武天皇の国分寺建立詔以前であるとすることではほぼ一致しています。わたしは前期難波宮造営(652年、九州年号の白雉元年)に伴って条坊も逐次整備造営されたと考えていますが、いずれにしてもこの条坊とは無関係に摂津国分寺の寺域が設定されていることから、難波京の条坊造営以前に摂津国分寺は創建されたとする理解が最も無理のないものと思われます。もし条坊造営以後の8世紀中頃に摂津国分寺が聖武天皇の命により創建されたのであれば、これほど条坊道路とずらして建立する必要性がないからです。既に紹介した7世紀前半頃と思われる軒丸瓦の出土もこの理解(7世紀前半建立)の正当性を示しています。
 したがって摂津国分寺の推定寺域と条坊とのずれという考古学事実は、摂津国分寺が7世紀初頭における九州王朝の国分寺建立命令に基づくものとする多元的国分寺造営説の証拠と考えられるのです。ちなみに、一元史観のなかには、このずれを根拠に朱雀大路東側の条坊は未完成であったとする論者もあるようです。同報告の「第3章 まとめ」には、そのことが次のように記されています。

 「古代における難波朱雀大路の東側の京域整備の状況には、条坊の敷設を積極的に認める説と、これに反対する説があるが、摂津国分寺の推定寺域が、難波京の方格地割とずれていることからも、この問題に話題を投げかけることになった。」(13ページ)

 このように摂津国分寺と条坊とのずれが一元史観では解き難い問題となっているのですが、多元的国分寺造営説によればうまく説明することができます。やはり、この摂津国分寺跡は九州王朝・多利思北孤による7世紀の国分寺と考えてよいのではないでしょうか。


第1071話 2015/10/08

摂津国分寺跡(天王寺区)出土の軒丸瓦

 九州王朝の多利思北孤による7世紀初頭(九州年号の告貴元年、594年)の国分寺(国府寺)建立と8世紀中頃の聖武天皇による国分寺建立という多元的国分寺論のひとつの検証ケースとして、摂津国分寺が二つあるというテーマを「洛中洛外日記」1026話で紹介しましたが、ようやく『摂津国分寺跡発掘調査報告』などを閲覧することができました。
 二つの摂津国分寺とは、ひとつは大阪市北区国分寺にある護国山国分寺で、「長柄の国分寺」とも称されています。もう一つは天王寺区国分町にある国分寺跡です。その発掘調査報告書によると、古代瓦などが出土しており、現地地名も天王寺区国分町であることから、ここに聖武天皇による摂津国分寺があったとする説が有力視されています。ですから、北区に現存する国分寺は摂津国府が平安時代(延暦24年、805年)に上町台地北側の渡辺に移転したことに伴って「国分寺」を担当したとされているようです(『摂津国分寺跡発掘調査報告』2012.2、大阪文化財研究所)。
 今回閲覧した『四天王寺旧境内遺跡発掘調査報告1』(1996.3、大阪市文化財協会)に記された出土軒丸瓦に大変興味深いものがありました。摂津国分寺跡出土瓦の図表にある「素弁蓮華文軒丸瓦」片です(SK90-2出土)。同遺跡からは他に8世紀のものと見られる「複弁六葉蓮華文軒丸瓦」や「重圏文軒丸瓦」が出土しているのですが、この「素弁蓮華文軒丸瓦」だけは7世紀前半のものと思われるのです。
 同報告書にもこの瓦について「ほかに1点だけこれらの瓦より古い瓦が出土しているので、奈良時代にこの地に国分寺が造られる以前にも寺があった可能性も考えなければならない。」(105ページ)と解説しているのです。『大阪市北部遺跡群発掘調査報告』(2015.3、大阪文化財研究所)においても、この瓦のことを「一方で、SK90-2次調査では7世紀代とみられる素弁蓮華文軒丸瓦が出土しており、国分寺以前にこの地に寺のあった可能性も指摘されている。」(160ページ)としています。
 この出土事実から、天王寺区国分町にあった摂津国分寺の創建は7世紀にまで遡り、このことは国分寺多元説、すなわち九州王朝・多利思北孤による国分寺(国府寺)建立説を支持するものではないでしょうか。(つづく)


第1055話 2015/09/16

阿蘇山噴火と古代史

 阿蘇山噴火のニュースに接し、改めて『隋書』の次の記事を反芻しました。

 「阿蘇山があり、その石は故無くして火をおこし天に接す。俗人これを異となし、因って祭祀を執り行う。」『隋書』イ妥(タイ)国伝

 わたしたち古田学派はこの記事などを根拠に九州王朝説を主張しているのですが、大和朝廷一元史観の研究者も『隋書』を「邪馬台国」畿内説や大和朝廷一元史観の根拠としていたことをご存じでしょうか。意外と思われるかもしれませんが、彼らのロジックは次のようなものでした。

1.「魏より斉、梁に至るが、代々中国と相通じた。」とあるから、『三国志』の時代の「邪馬台国」から隋の時代の7世紀まで同一王朝である。
2.7世紀に遣隋使を大和朝廷が派遣したことは『日本書紀』に記されており、7世紀の倭国の代表王朝は大和朝廷である。
3.『隋書』にある通り、7世紀の大和朝廷も3世紀の「邪馬台国」も連綿と続いた同一王朝である。
4.従って、「邪馬台国」の所在地は大和である。
5.だから、『隋書』に見える多利思北孤は大和朝廷の聖徳太子として問題ない。隋使が聖徳太子を倭国の天子と勘違いしただけである。

 およそこのようなロジックにより、「邪馬台国」畿内説や大和朝廷一元史観の根拠として『隋書』を利用してきました。しかしこのロジックにはいくつもの学問的誤りがあります。たとえば次の通りです。

A.大和朝廷が自らの「歴史」を自ら編纂した『日本書紀』の記述を無批判に信用している。『日本書紀』がどの程度正しいかという史料批判がなされていない。犯罪捜査で言えば、容疑者の「俺は無実だ」という証言を無批判に信用するというレベルで、まともな裁判官・検察ならこのようなことはしません。
B.『隋書』に記されたイ妥国の人物名が『日本書紀』には一人として記されていない。犯罪捜査で言えば、名前や性別(多利思北孤は男性。妻も子供もいる。推古天皇は女性。)も異なる別人を逮捕するという冤罪そのものです。
C.『隋書』に記された「阿蘇山」や「竹斯」といった九州の地名は無視し、近畿地方の地名など一切記されていないのに、「舞台は奈良県だ」と主張する。

 他にもありますが、このレベルの話しが大和朝廷一元史観の学者によれば、「邪馬台国」畿内説や大和朝廷一元史観の「根拠」「論証」とされてしまうのですから、日本古代史学界は摩訶不思議な世界です。こんなことだから「阿蘇山が怒って噴火する」と言いたくもなります。


第1053話 2015/09/13

瓦の編年と大越論文の意義

 「洛中洛外日記」1014話『九州王朝説への「一撃」』で、わたしは九州王朝説がかかえている課題として次のような指摘をしました。

 「九州王朝の天子、多利思北孤が仏教を崇拝していたことは『隋書』の記事などから明らかですが、その活躍した7世紀初頭において、寺院遺跡が北部九州にはほとんど見られず、近畿に多数見られるという現象があります。このことは現存寺院や遺跡などから明確なのですが、これは九州王朝説を否定する一つの学問的根拠となりうるのです。まさに九州王朝説への「一撃」なのです。
 7世紀後半の白鳳時代になると太宰府の観世音寺(「白鳳10年」670年創建)を始め、北部九州にも各地に寺院の痕跡があるのですが、いわゆる6世紀末から7世紀初頭の「飛鳥時代」には、近畿ほどの寺院の痕跡が発見されていません。これを瓦などの編年が間違っているのではないかとする考えもありますが、それにしてもその差は歴然としています。」

 軒丸瓦の基本的編年として、6世紀末から7世紀初頭に現れる「単弁蓮華文」から、7世紀後半頃から現れる「複弁蓮華文」が著名ですが、こうした編年観から九州には7世紀前半以前の寺院が見られないとされてきたのです。
 この九州王朝説にとって課題とされているテーマに挑戦された優れた論文があります。『Tokyo古田会News』(古田武彦と古代史を研究する会)94号(2004年1月)に掲載された大越邦生さんの「コスモスとヒマワリ 〜古代瓦の編年的尺度批判〜」です。同論文で大越さんは軒丸瓦の編年観に対して次のように疑義を示されました。

 「白鳳期以前の九州から、複弁蓮華文(ヒマワリ型)は本当に出土しないのだろうか、の問いである。白鳳期以前の複弁蓮華文(ヒマワリ型)は九州に存在する。それどころか、九州を淵源とした文様の可能性すらある。その事例を挙げよう。」とされ、「石塚一号墳(佐賀県佐賀郡諸富町)出土の装飾品」を次のように紹介されています。

 「筑後川河口近くの石塚一号墳は六世紀後半の古墳といわれる。ここから華麗な馬具や蓮華文をほどこした装飾品が出土している。金銅製の装飾品は蓮華文がタガネで打ち出されており、掛甲の胴部にも同じく蓮華文がほどこされている。」

 次いで、福岡県の長安寺廃寺の造営を「欽明二三(五六二)年に長安寺は存在していた」と理解され、「長安寺廃寺はすでに発掘調査が行われている。その調査報告にもある通り、長安寺の創建瓦は複弁蓮華文(ヒマワリ型)軒丸瓦であり、五六二年頃の瓦であった可能性があるのである。」と6世紀後半に複弁蓮華文があったのではないかとされました。
 更に、「法隆寺釈迦三尊像光背の蓮華文」についても言及され、複弁蓮華文の意匠が7世紀前半に九州王朝では成立していたと次のように指摘されました。

 「光背の銘文により、法隆寺の釈迦三尊像は六二三年に制作されたことが知られている。この光背に複弁蓮華文(ヒマワリ型)が描かれている。」

 この大越論文は九州王朝説への「一撃」に対する「反撃」ともいうべきもので、10年以上も前に出されています。当時、わたしはこの論文の持つ意義について、充分に理解できていませんでした。今回、改めて読み直し、その意義を認識しました。
 大越さんの軒丸瓦の編年観については同意できませんが、「一撃」に対して古田学派から出された最初の「反撃」という意義は重要です。同論文は「東京古田会」のホームページに掲載されています。なお、大越さんには「法隆寺は観世音寺の移築か」という論文もあります。大変優れた内容で、わたしも同意見です。


第1016話 2015/08/05

九州王朝の「国分寺」建立

 最近、服部静尚さんが熱心に研究されている「最勝会」問題に関連して、先日、正木裕さんと服部静尚さんが見えられたとき、九州王朝の「国分寺」建立問題について検討しました。
 国分寺は聖武天皇の命により8世紀に諸国に建立されたものですが、それ以前に九州王朝が「国分寺」を建立したとする説が、わたしの記憶では20年以上前に提起されていたと思います。国家鎮護の法会を営むために諸国に「国分寺」が建立されたと、わたしも考えるのですが、その時期はいつ頃だろうかと正木さんにたずねたところ、「九州王朝により66ヶ国に分国された頃ではないか。分国された諸国の寺だから国分寺という名称になったのではないか。」との見解を述べられました。まことにもっともな意見です。したがって、九州王朝の「国分寺」建立は多利思北孤の時代と考えてもよさそうです。
 各地に「聖徳太子」創建伝承を持つ寺院がありますから、それらを九州王朝「国分寺」の候補として、今後調査研究してみたいと思います。たとえば東近江の石馬寺なども創建当時のものとされる扁額が残っていますから、科学的年代測定が可能です。まずは各地の「聖徳太子」創建伝承寺院の分布図作りから始めてはどうかと思います。どなたか研究していただければ、ありがたいのですが。


第998話 2015/07/10

祇園山鉾、昔は66基

 京都の町も祇園祭の準備が本格的に始まり、鉾町では鉾の組立が進められています。今日乗ったMKタクシーのドライバーの方は観光課所属とのことで、祇園祭についてかなり詳しく解説していただきました。さすがは京都を代表するタクシー会社らしく、博学な方でした。
 そのお話しによれば、現在の山鉾は33基ですが、本来は66基とのこと。そこで、わたしは「66基とは日本国内の国の数ですか」とたずねると、「その通りです」とのご返事。「聖徳太子」が分国して66国になったとする論文「『聖徳太子』による九州の分国」(『盗まれた「聖徳太子」伝承』収録)で、九州王朝の天子、多利思北孤が66国に分国したと書きましたので、それが京都の祇園祭にも影響を及ぼしていたことを知り、感慨深く思いました。
 祇園祭のクライマックス「山鉾巡行」は毎年7月17日に執り行われますが、鉾町に転居した新参者が商売の売り上げが増えるよう、土日に開催してはどうかと意見したところ、「祇園祭の伝統を何と心得る」と厳しい叱責を受けたとのエピソードもあったそうです。伝統文化を護る京都らしい話しです。
 なお、山鉾巡行が最も有名な行事ですが、一番重要な行事は御神体を乗せた3基の御神輿による八坂神社から御旅所への往復です。スサノオの命と奥さんと子供を乗せた3基の御神輿が祇園祭の「主人公」なのです。この御神輿の行列には厳しいしきたりがあり、少なくとも三年は参加しないと、担がせてもらえないと聞いたことがあります。
 祇園祭が終わると京都も梅雨明けします。そして本格的な夏を迎えるのですが、体調管理に気を付けて、今年も乗り切りたいと思います。