「 神籠石山城 」一覧

第1262話 2016/08/24

「阿志岐城跡」調査報告書を読む

 今朝は東京に向かう新幹線車中で『阿志岐城跡』確認調査報告書(筑紫野市教育委員会、2008年)を読みました。小林嘉朗さん(古田史学の会・副代表)からいただいたものです。小林さんは考古学に詳しく、全国の主要遺跡や有名古墳はほとんど実見されており、「古田史学の会・関西」では「古墳の小林」と呼ばれています。わたしも古墳についてわからないことがあれば、小林さんから教えていただいています。
 「阿志岐城跡」調査報告書はカラー写真や地図が収録されており、同遺跡の全体像や太宰府・大野城・水城・基肄城との位置関係がよくわかります。説明では「阿志岐城」山頂から、北は太宰府や水城・大野城、南は基肄城・高良山神籠石山城が見えるとのこと。防衛に適した位置にあることもよくわかります。
 神籠石山城には城内に谷などの水源を有しており、多くの人の長期に及ぶ「籠城戦」を想定して造営されています。唐や新羅の軍隊に水城を突破され、太宰府が陥落した場合、大野城や神籠石山城に住民も含めて籠城し、眼下の敵陣に「夜討ち朝駆け」を続け、延びきった兵站を寸断し、侵略軍を殲滅するという持久戦を想定したものと思われます。隋や唐による侵略の恐怖にさらされた倭国では、首都の住民も守るという設計思想の山城を築城したのですから、住民の協力も得やすかったのではないでしょうか。
 ここの神籠石列石は高良山神籠石のような直方体の一段列石ではなく、四角に整形された積石による列石のようです。しかも耐震強度を高めるために「切り欠き加工」が施されています(わたしのfacebookに写真を掲載していますので、ご参照ください)。素人判断では高良山神籠石よりも技術的に高度であり、時代も新しいように思われました。
 この「阿志岐山城」について、「洛中洛外日記」で触れたことがあります。以下、再録します。

古賀達也の洛中洛外日記
第815話 2014/11/01
三山鎮護の都、太宰府

 大和三山(耳成山・畝傍山・天香具山)など、全国に「○○三山」というセットが多数ありますが、古代史では都を鎮護する「三山鎮護」の思想が知られています。たとえば平城遷都に向けての元明天皇の詔勅でも次のように記されています。

 「まさに今、平城の地、四禽図に叶ひ、三山鎮(しづめ)を作(な)し、亀筮(きぜい)並びに従ふ。」『続日本紀』和銅元年二月条

 平城京の三山とは東の春日山、北の奈良山、西の生駒山とされていますが、軍事的防衛施設というよりも、古代思想上の精神文化や信仰に基づく「三山鎮護」のようです。藤原京の三山(耳成山・畝傍山・天香具山)など、まず防衛の役には立ちそうにありません。しかし、大和朝廷にとって、「三山」に囲まれた地に都を造営したいという意志は元明天皇の詔勅からも明白です。
 この三山鎮護という首都鎮護の思想は現実的な防衛上の観点ではなく、風水思想からきたものと理解されているようですが、他方、百済や新羅には首都防衛の三つの山城が知られており、まさに「三山鎮護」が実用的な意味において使用されています。日本列島においても実用的な意味での「三山鎮護」の都が一つだけあります。それが九州王朝の首都、太宰府なのです。
 実はわたしはこのことに今日気づきました。赤司さんの論文「筑紫の古代山城と大宰府の成立について -朝倉橘廣庭宮の記憶-」『古代文化』(2010年、VOL.61 4号)に、平成11年に発見された太宰府の東側(筑紫野市)に位置する神籠石山城の阿志岐城の地図が掲載されており、太宰府条坊都市が三山に鎮護されていることに気づいたのです。その三山とは東の阿志岐城(宮地岳、339m)、北の大野城(四王寺山、410m)、南の基肄城(基山、404m)です。
 九州王朝の首都、太宰府にとって「三山鎮護」とは精神的な鎮護にとどまらず、現実的な防衛施設と機能を有す文字通りの「三山(山城)で首都を鎮護」なのです。当時の九州王朝にとって強力な外敵(隋・唐・新羅)の存在が現実的な脅威としてあったため、「三山鎮護」も現実的な防衛思想・施設であったのも当然のことだったのです。逆の視点から見れば、大和朝廷には現実的な脅威が存在しなかったため(唐・新羅と敵対しなかった)、九州王朝の「三山鎮護」を精神的なものとしてのみ受け継いだのではないでしょうか。なお付言すれば、九州王朝の首都、太宰府を防衛したのは「三山(山城)」と複数の「水城」でした。
 これだけの巨大防衛施設で守られた太宰府条坊都市を赤司さんが「核心的存在に相応しい権力の発現」と表現されたのも、現地の考古学者としては当然の認識なのです。あとはそれを大和朝廷の「王都」とするか、九州王朝の首都とするかの一線を越えられるかどうかなのですが、この一線を最初に越えた大和朝廷一元史観の学者は研究史に名前を残すことでしょう。その最初の一人になる勇気ある学者の出現をわたしたちは待ち望み、熱烈に支持したいと思います。


第1216話 2016/06/26

阿志岐山神籠石の列石は折れ線構造

 一昨日、九州出張から帰宅すると、八王子市の前田嘉彦さんから郵送物が届いており、その中に筑紫野市教育委員会発行の「ちくしの散歩 国指定史跡 阿志岐山城跡」という説明書がありました。前田さんは、わたしの久留米大学での講演などにも遠くから参加される熱心な研究者です。
 阿志岐山城跡とは平成11年に発見された、太宰府の東南に位置する神籠石山城(宮地岳)で、山頂部(標高338m)付近は列石が見あたらず未完成とのことです。いただいた説明書によれば、その列石は直線に並べた列石線を連続させていく「折れ構造」であり、北部九州の他の神籠石の「曲線構造」とは異なっており、瀬戸内地方にある神籠石に類似しているとのこと(瀬戸内型)。また、列石の積み上げ技術も石材の一部を切り欠く「切り欠き技法」という高度な技術が採用されているそうです。
 こうした形状や年代、そして神籠石内部の建築物遺構や土器の発見と調査が期待されます。なお、大野城・基肄城・阿志岐山城を太宰府鎮護の三山と理解する仮説「三山鎮護の都、太宰府」(「洛中洛外日記」第815話 2014/11/01)を発表していますので、ご覧ください。前田さんからいただいた説明書はFacebookに掲載しています。


第1207話 2016/06/09

鞠智城7世紀前半造営開始説の登場

 歴史公園鞠智城・温故創生館の木村龍生さんからご紹介いただいたのが『鞠智城東京シンポジウム2015成果報告書「律令国家と西の護り、鞠智城』(熊本県教育委員会、2016年3月31日)です。同書に収録された鞠智城東京シンポジウム(明治大学)の基調講演「鞠智城と古代日本東西の城・柵」(国立歴史民俗博物館名誉教授・岡田茂弘さん)に次のような注目すべき発言が記されていました。要点部分のみ抜き出しました。

 「鞠智城から出た瓦は単弁八葉の蓮華文瓦です。これと類似する瓦は大野城跡の主城原で出土しています。(中略)これは大野城でも一番古いタイプです。鞠智城でも、この瓦に伴う、丸瓦、平瓦は一番古いタイプだということが判っています。そうすると大野城のこの瓦と、鞠智城の瓦葺の建物はほぼ同じくらいの時期に造られたということがいえます。この辺は文献に出てこない鞠智城が大野城とほぼ近いということがいえる証拠になります。」(p.40)

 「鞠智城内には六世紀代の古代集落があり、それに伴った土器もあります。ところが七世紀の第1四半期、第2四半期、第3四半期、第4四半期という形で、第3四半期から急激に量が増えてくるという状態が分かると思います。この第3四半期から第4四半期はまさに大野城や基肄城が造られた時期です。」(p.40)

 「考えてみますと。古い土器が出てくるということに注目しますと、鞠智城の台地の部分は実は改変されていまして、層位が攪乱されているから、きちんと分かる状態ではないのです。しかし貯水池の場合は低地ですから、出土層位が残っています。特に貯木場の周辺では、瓦のでる、つまり大野城の創建期と同じ時期の瓦の出る包含層の下から、須恵器だけ出る包含層が知られています。これは鞠智城が大野城などよりも古くに造られた可能性を秘めているわけです。」(p.41)

 「大化の改新の直後に、南九州に対する施策があったにもかかわらず、それは『日本書紀』には書かれていません。なぜか消えてしまったということを示しています。鞠智城はその段階で、まさに南に対する前線本拠地として造られたのだと私は考えています。」(p.42)

 「同時に鞠智城については、いつ造られたのか、築城についての記載がありません。なぜないのかというと、一番合理的な解釈は、大野城や基肄城のより前に造られていたからです。南に対する防衛の拠点として、前に造られていたから、既にある城として大野城や基肄城とともに整備はされたが、既にあるから、新たに山城を造ったとは書かれていないと解釈すれば合理的です。結局、鞠智城は大野城や基肄城よりも、一段古く造られたのです。」(p.43)

 「鞠智城というのは七世紀の中葉に、東北の越国に造られた城柵に対応するように、南九州の熊襲・隼人に対する根拠地として建設された西日本の最初の城柵です。」(p.46)

 以上のように、岡田さんは鞠智城創建時期が7世紀中葉とする考えを述べられたのですが、その根拠は大野城出土瓦よりも古い土器が鞠智城から出土していることと、『日本書紀』の「大化改新」直後に南九州施策が記されていないということのようです。従来説よりも一歩前進した仮説と思いますが、学問的に論証が成立しているとは言い難く、まだ「作業仮説(思いつき)」程度の位置づけが妥当の様に思われます。
 その理由は次のような点です。

1.大野城の造営年代が従来説に依っている。瓦が大野城と鞠智城と同時期とする意見は考古学的出土事実の比較に基づかれているので、学問の方法論として問題ありません。しかし「土器」の比較は大野城出土「土器」となされるべきです。

2.鞠智城から出土する古い土器に注目されているにもかかわらず、7世紀第1四半期の土器の位置づけをスルーされています。7世紀第1四半期の土器の存在は鞠智城創建とは無関係とされるのなら、その考古学的理由を示されるべきでしょう。自説に都合の悪い土器(データ)を無視して、都合のよい土器(データ)だけで「論」を立てるのは学問的にアンフェアです。理系の論文や学会発表で同様のことを行ったら、「研究不正」と見なされ、即アウトでしょう。

3.近畿天皇家一元史観に依っておられるため、『日本書紀』の史料批判が不十分です。特に「大化改新詔」については一元史観の学会内でも見解が分かれています。九州王朝説に立てば、『日本書紀』「改新詔」の記事が九州年号「大化(695〜702)」の頃の事績か7世紀中葉の事績か、個別に検討が必要です。

4.南九州勢力の服属時期には、九州王朝への服属と大和朝廷への服属という多元史観的課題がありますが、一元史観の限界により、そうした検討・考察がなされていません。

5.「熊襲」と「隼人」の定義や位置づけが、現地の最新研究に基づいていない。この点、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)の指摘があります。

 以上のような課題や論理的脆弱さは見られるのですが、一元史観内においても鞠智城創建年代を古く見る岡田説が出現したことは貴重な動向と思います。(つづく)


第1182話 2016/05/05

「鎮護国家の伽藍配置」の明暗(1)

 多元的「国分寺」研究サークルの肥沼孝治さん(古田史学の会・会員)からご紹介いただき、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)からコピーを送っていただいた貞清世里・高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」(『日本考古学』30号(2010)所収)を何度も読み返しました。大和朝廷一元史観に依ってはいますが、なかなかの好論文でした。考古学論文は出土事実という科学的基礎データに基づいていますから、文献史学ほど支離滅裂とはなりにくい(「邪馬台国」畿内説のような史料改竄・無視という「研究不正」がしにくい)ということもあって、勉強になることが多々あります。
 今回の貞清さん高倉さんの論文は二つの考古学的事実に基づいてその意義付けを行うというもので、その二つの考古学事実の紹介と切り口は見事でした。それは古代における観世音寺式伽藍配置の寺院が日本列島に12箇所発見されていること、その古いものは西日本に多くあり、大宰・総領の支配地域や古代山城の分布と多くが重なっていることです。
 まず観世音寺式伽藍配置の特徴とは回廊内の西側に金堂があり、東側に塔があるというもので、しかも金堂は東向きであり、これは仏教信仰形態(阿弥陀信仰)の影響を受けているとされています。その代表的寺院として太宰府の観世音寺があることから、「観世音寺式」と称されています。わたしもこの観世音寺式伽藍配置に注目していたこともあって、蝦夷国の多賀城にあった多賀城廃寺やその南の郡山廃寺、そして近江の崇福寺や飛鳥の川原寺が同様・類似の伽藍配置を持つことから、九州王朝や近畿天皇家、蝦夷国が国家中枢地域に観世音寺式寺院を共通して建立していたことに触れたことがありました(「よみがえる倭京(太宰府) -観世音寺と水城の証言-」(『古田史学会報』50号、2002年)。
 そして同論文において最も光彩を放つ考古学的指摘が、7世紀における大宰や総領がおかれた地域に古代山城と観世音寺式寺院がセットで存在するという視点です。このアイデアは貞清さんが以前から論文発表されてきたもので、今回は『日本考古学』という権威のある学会誌に発表するため、高名な考古学者の高倉さんとの共同執筆(ラストオーサーは高倉さん)という形態をとられたのではないでしょうか。同論文で貞清さんは次のように記されています。

 「(観世音寺式伽藍配置の寺院遺跡)12のなかで創建年代の先行する西日本の9寺院の分布における共通点(図6)として、総領(大宰)のおかれた国ないし地域に多くが分布していること、そして総領(大宰)が管轄したとされる西日本地域に分布する古代山城の分布とも類似していることが挙げられる。その典型が大宰府の付属寺院である観世音寺にみられる。(中略)つまり、国家にとって特に重要とされた地には、総領(大宰)がおかれ、軍事的要衝地でもあるために後に山城が築かれたということである(表3)。そして、そこに観世音寺式をとる寺院(観世音寺)が建立されたということになる。」(p.34)

 このように指摘され、図6にはその分布図が示されています。この観世音寺式寺院・総領(大宰)・古代山城の三点セットに「鎮護国家」という意義付けを見いだされたわけで、この点は素晴らしい視点だと思いました。まさに同論文の「明」にあたります。しかし残念かな、同時に「暗」もくっきりと浮かび上がっているのです。すなわち、その「鎮護国家」の重要な三点セットが畿内(奈良・大阪)には無いという考古学事実です。福岡県(筑紫)と岡山県(吉備)には濃密に分布・プロットされていることとは対照的に、畿内はほぼ「空白」なのです。
 従って、先入観を廃してこの三点セットの論理性により、作成された考古学的分布図を読みとるなら、「鎮護国家」の中枢領域は筑紫であり、次いで吉備ということになり、「鎮護」されるべき最高「国家」権力者は最濃密分布を持つ筑紫(太宰府)にいた、と理解されるべきなのです。せっかくここまで優れた視点と分布図を作成しながら、大和朝廷一元史観の呪縛から考古学者(貞清さんら九州の考古学者でさえも)は逃れられないのです。「残念」というほかありません。(つづく)

※(図6)はわたしのFACEBOOKに掲載していますので、ご覧ください。あるいは次のサイトで同論文の閲覧が可能です。
http://seinanmi.seinan-gu.ac.jp/insei/kojin/sadakiyo/sada2010-10.pdf


第1179話 2016/05/03

観世音寺の創建年と瓦の相対編年

 多元的「国分寺」研究サークルの肥沼孝治さん(古田史学の会・会員)から紹介いただいた貞清世里・高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」(『日本考古学』30号(2010)所収)ですが、京都市立図書館や府立総合資料館になかったため、研究仲間にメールで協力を求めたところ、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)から香川県立図書館にあるのでコピーして送りますと、ただちに返事がありました。ありがたいことです。そして本日、速達でその論文コピーが届きました。
 この論文を読みたかった理由の一つが、ネットに掲載された「要旨」によると、観世音寺を天智期の創建としていたことです。観世音寺は天智天皇の発願により造営が開始され、8世紀初頭に完成したとするのが通説でしたから、何か新たな根拠や研究によって創建年を天智期にされたのではないかと思ったからです。わたしは『二中歴』などの複数の史料が観世音寺創建年を白鳳年間あるいは白鳳10年(670)としていることと、創建瓦が老司1式であり、7世紀中頃の創建とされる奈良の川原寺とほぼ同時期、少なくとも藤原宮よりも古く編年できることから、観世音寺白鳳10年創建説は揺るがないと考えてきました。そこでこの論文も天智期創建説に立っているようでしたので興味を持った次第です。
 そこで同論文を一読しましたが、一元史観に立ってはいるものの大変興味深い好論文でした。そのことについては別に詳述しますが、観世音寺の創建年について、天智天皇の発願により670年頃から造営開始され684年にはひととおり完成していたとする高倉洋彰さんの説に依っていることがわかりました。従って、新知見に基づいたものではありませんでした。この高倉さんの説が学界でどのように受け止められているのかは知りませんが、少なくとも通説ではないと思います。
 『本朝世紀』や筑前の地誌によると、観世音寺の本尊は百済から贈られた阿弥陀如来像とされており、戦国時代に島津の軍勢により鋳つぶされたと記されています。観世音寺の金堂は東に向いていることから、阿弥陀信仰(西方浄土思想)に基づいているとする説(菱田哲郎氏の説)ともよく対応しています。ですから、百済から阿弥陀如来像がもたらされたとすれば、その時期は百済滅亡の660年よりも以前となりますから、白鳳10年創建とする史料とよく整合するのです。本尊は百済から660年よりも以前に届いているのに、斉明天皇没後(661年)以降に天智天皇の発願により造営が開始されたとする通説では年代が全くあわないのです。
 九州王朝説に立てば、文献・現地伝承や創建瓦(老司1式)などの編年とも矛盾しない、白村江戦(663)以前に造営が開始され、白村江戦後の白鳳10年(670)に完成したとする理解が可能です。この理解を文献と考古学編年と現地伝承が一致して支持しているのです。そうしますと、九州の瓦編年の基準の一つとなっている老司式瓦の編年は、少なくとも通説よりも20年ほど古くなり、それに基づいて編年された九州の他の寺院や遺跡の編年も軒並み古くなる可能性が高いのです。
 なお、わたしの観世音寺創建年研究については「よみがえる倭京(太宰府) -観世音寺と水城の証言-」(『古田史学会報』50号、2002年6月)か『古代に真実を求めて』12集(2009年)収録の同論文をご参照ください。


第1058話 2015/09/21

鞠智城7世紀中葉造営の理由

 鞠智城造営を白村江戦以後の665年としてきた従来説に対して、岡田茂弘さん(国立歴史民俗博物館名誉教授)が大化改新後の7世紀中葉造営説を発表されました。わたしも鞠智城の従来編年が不適切であり、造営時期を少なくとも20〜30年遡らせるべきと指摘していました。ですから、岡田さんの新説には基本的に賛成なのですが、その造営理由を南九州の対隼人経営のためとされたことには賛成できません。
 岡田さんは7世紀中葉において、『日本書紀』などに対隼人経営に関する史料根拠が皆無であることを認められており、記事が無い理由を「鞠智城創建は白村江敗戦後の防衛対策のために史書の記載から漏れた故と考えたい。」とされているのですが、いかにも苦しい言い訳としか聞こえません。ここに大和朝廷一元史観の宿痾と限界を見るのです。
 それでは鞠智城7世紀中葉造営の理由を古田史学(多元史観・九州王朝説)の立場からはどのような理解が可能となるでしょうか。まず7世紀中頃の九州王朝の大事業として「評制」の開始と難波副都(前期難波宮)の造営があげられます。唐や新羅の軍事的圧力に対抗するため、全国に中央集権的行政組織「評制」を施行し、その長官の「評督」や「助督」を任命しました。それと「副都詔」を発布し、まず難波に副都を造営しました。宮殿(前期難波宮)の完成は九州年号の白雉元年(652)です。
 またこの時期に北方の蝦夷国との戦いやその準備(柵の造営)も同時に行っています。その記録として『赤淵神社縁起』(兵庫県朝来市)も発見されました(「洛中洛外日記」604話・606話・608話・610話・611話・613話・614話・615話・618話・690話を参照、「赤淵神社」として一括掲載)。こうした九州王朝の状況から推測しますと、鞠智城造営の目的として次のことが考えられます。

1.唐・新羅の軍事的脅威に対応した太宰府の後方拠点(首都陥落に備えた臨時副都的性格)の確立。
2.九州中南部の評制施行の一環としての行政拠点の確立。

 これ以外にも目的があったかもしれませんが、多元史観・九州王朝説に立てばこのような仮説が考えられます。従って、こうした九州王朝の大事業が『日本書紀』に記されていないのも当然かもしれません。
 ちなみに、「隼人」は親九州王朝勢力ですから、対隼人経営のための鞠智城築城説は成立しません。『続日本紀』に見えるような、九州王朝末期(701年前後頃)に「隼人」が大和朝廷と激しく戦っていることも、九州王朝残存勢力が南九州で抵抗した痕跡であり、南九州が九州王朝にとって安定した支持勢力領域であったことの証拠に他ならないのです。ですから、鞠智城には「隼人」との戦闘に備えるような巨大防御施設(神籠石山城・水城など)が併設されていないのです。この点、大野城や水城・神籠石山城などの巨大防御施設で守られている太宰府とは地理的政治的条件が異なっていると言えるでしょう。


第1004話 2015/07/21

猪垣(ししがき)と神籠石

 今日は久しぶりの北陸出張です。特急サンダーバードの車窓から湖西線沿いに電気柵が設置されているのが見えました。静岡県で鹿除けの電気柵で感電死事故が発生するという痛ましいニュースが流れたばかりでしたので、特に目に付いたのかもしれません。
 湖西線沿線や比叡山付近にはお猿さんが出没し、農作物被害を受けているとの話を聞いたことがあります。日枝神社ではお猿さんを神様の使いとしていますから、周辺住民も駆除しにくいのかもしれません。日本の信仰では動物が神様の使いとされたり、神様の化身とされるケースが少なくなく、たとえば奈良の春日大社の鹿なども有名です。もっとも現在は「神様のお使い」としての役割以上に「観光資源」として鹿さんたちは役立っていますから、少々の被害は目をつぶることになります。また、アイヌの「熊」も同様の例と言えるでしょう。
 現在は電気柵で獣害から農作物を守っていますが、昔は石積みの「猪垣(ししがき)」を巡らしてイノシシによる作物被害を防いでいました。今でも和歌山県熊野地方には長蛇の猪垣が山中や人里に連なっています。以前、古田先生や小林副代表らと熊野山中の猪垣を見学に行ったことがあります。古田先生はこの猪垣を神籠石のような山城の防壁跡ではないかと考えられ、現地見学となったものですが、実際に見てみますと高さも低く、石積みも堅牢とは言い難いもので、これでは敵の侵入を防げるものではないことがわかりました。やはり、ずっと昔から農家が累々とイノシシ除けに築造した「猪垣」だと思われました。小林さんも同意見だったようです。
 猪垣は山から降りてくるイノシシの田畑への侵入防御施設ですから、平地から攻めてくる敵軍の山城への侵入防御を目的としている神籠石とはその構造が全く異なります。すなわち、防御する向きと、「敵」がイノシシなのか武装集団なのかという防御対象も全く異なりますから、その構造が異なるのは当然です。
神籠石は大きな列石とその上に築かれた版築土塁、更にその上には柵が巡らされており、下からの侵入が困難な構造です。対して猪垣は山から降りてくるイノシシが超えられない程度の高さの積石による石垣と、山側にはイノシシを捕まえるための「落とし穴」が設けられています。
 「猪垣」調査のときは私自身の不勉強もあって、その差を十分には理解できていませんでしたが、最近の古代山城の研究により、こうした認識にまでようやくたどり着けました。引き続き、勉強していきたいと思います。なお、小林副代表は「猪垣」調査時点で既にこうした差異に気づかれていたようです。


第985話 2015/06/21

未完成山城「見せる城」説への疑問

 「洛中洛外日記」983話で紹介しました亀田修一さんの好論文「古代山城は完成していたのか」(『鞠智城Ⅱ -論考篇1-』熊本県教育委員会、2014年)に、未完成に終わった神籠石山城について、未完成の理由として当初から街道などから見える部分のみの造営であったとする「見せる城」説なるものが紹介されていました。この「見せる城」説は「駅路からみた山城-見せる山城論序説-」(『月刊地図中心』453、2010年)で向井一雄さんが提唱されたもので、今回はこの説について考察します。
 亀田さんは先の論文で次のような興味深い考察を示されています。

「このように神籠石系山城に未完成のものが多いという意識で古代山城全体を見てみると、以前から検討されてきた築城時期の問題に関しては、朝鮮式山城より古い城で未熟であったため工事が止まったという考えも成立するように思われるし、逆に7世紀末頃に築城が始まり、すぐに城が不必要になったため、工事を停止したとも考えられ、やはり答えは簡単に出そうにない。」(35頁)
「まず、完成した山城の場所はそれぞれの地域の中に重要な場所であることが改めてわかる。そしてやはり記録にもあるように古い段階から築城され始めたのではないかと推測される。
未完成の山城は、意図的な未完成なのか、それとも否応なしの未完成なのか。「見せる城」という意識は当然存在したと思われる。ただ、それによって当初から、たとえば一部しか造ることを考えていなかったのか、それとも工程の関係で停止し、そのままになったのか、などによって築城時の様子が推測できそうである。そしてこれらの「未完成」、途中での停止は単なる偶然ではなく、当時の政治・社会情勢を反映したものと考えられる。」(37頁)

 このように亀田さんは未完成山城の「未完成」理由として「見せる城」説を紹介しながら、他方、「そしてこれらの「未完成」、途中での停止は単なる偶然ではなく、当時の政治・社会情勢を反映したものと考えられる。」とのするどい指摘をされています。この亀田さんの指摘に答えたものが、「洛中洛外日記」983話で記した「ONライン(701年)」による未完成とする考えでした。7世紀末に発生した九州王朝から大和朝廷への列島内権力交代が、未完成山城の発生理由としたものです。これこそ、亀田さんが言われるように「7世紀末頃に築城が始まり、すぐに城が不必要になったため、工事を停止した」事情なのです。
 しかし大和朝廷一元史観ではこのような「政治・社会情勢」を想定しない(できない)ため、「見せる城」という「無理筋」の仮説を提起せざるをえないという状況に陥いるのではないでしょうか。
 現在わたしが再読中のクラウゼヴィッツの『戦争論』には、「第六篇 防御」で「山地防御」について次のように考察されています。
 クラウゼヴィッツによれば、山地防御は歩兵火器の進歩などにより経験的に見てもそれほど効果的な防御ではないとのこと。その理由は攻撃側が防御ラインを迂回して攻撃するので、それを防ぐために防御側は防御ラインを横へ横へと広げなければならず、その結果、防御側の兵員が分散配置で手薄になった防御ライン正面に対して、攻撃側が兵力を集中させ一点突破をはかるので、山地の地形を利用した防御ラインもそれぼと効果的ではなくなるとされています。
 そのため、山地防御をより効果的にするために要塞化するという防御思想が形成され、古代山城はまさにその典型と思われます。この要塞化とは攻撃側の迂回攻撃を無意味にするために、山の周囲に防塁を造るわけですが、これこそ神籠石山城や大野城の姿なのです。従って、街道から見えるところだけに「防塁(見せる城)」を造営するというのは、本来の意味での防御の体をなしていません。せいぜい虚仮威しの「防御施設」のようなものでしかないのです。
 このような虚仮威しに屈する侵略者がいるのかどうかは知りませんが、虚仮威しにしては神籠石山城はその巨石の運搬や築城の技術、さらにその上に盛る版築技術など、かなりの労力と高度な築城技術が必要であり、そこまで労力をつぎ込んで防御の役に立たない虚仮威しのための施設(当初から「未完成」を前提とした山城・見せる城)を造る古代権力者を、わたしにはちょっと想像できません。
 こうしたことから、未完成山城の未完成の理由は、やはり亀田さんが言われるように「途中での停止は単なる偶然ではなく、当時の政治・社会情勢を反映したもの」であり、その政治・社会情勢こそ九州王朝から大和朝廷への権力交代政変「701年王朝交代(ONライン)」にあったと考えられるのです。
 なお、わたしは「見せる城」説を提起された向井一雄さんの「駅路からみた山城-見せる山城論序説-」を未見ですので、拝読した上で改めて意見を述べたいと思います(インターネット上に掲載されている向井さんの説は拝見しました)。向井さんは学界を代表する古代山城の専門家にふさわしく、多くの研究論文を発表されており、それらはとても勉強になりますし、刺激も受けています。たとえば、「西日本の古代山城遺跡 -類型化と編年についての試論-」(1991年、『古代学研究』第125号)において、「鞠智城は大宰府陥落後の九州内の拠点として用意されたとみておきたい」との見通しをのべられているとのことです。非常に興味深い視点です。こちらの論文も是非拝読したいと思います。


第983話 2015/06/17

神籠石山城のONライン(701年)

 「洛中洛外日記」981話で鞠智城の8世紀初頭の一時廃絶とその理由について述べましたが、神籠石山城でも似たような現象があることに気づきました。
 鞠智城訪問のおり、木村龍生さん(熊本県立装飾古墳館分館歴史公園鞠智城温故創生館)からいただいた『鞠智城Ⅱ -論考篇1-』(熊本県教育委員会、2014年)に掲載されている亀田修一「古代山城は完成していたのか」によれば、『日本書紀』などの史料に記されている「朝鮮式山城」6遺跡と記録に見えない「神籠石山城」16遺跡中、外壁・城門などが完成しているものは大野城・基肄城・金田城・鞠智城・鬼ノ城・御所ケ谷神籠石の6遺跡で、明確に未完成と見られるものは唐原山城跡・阿志岐城跡・鹿毛馬神籠石・女山神籠石・おつぼ山神籠石・播磨城山城跡など6遺跡以上とのことです。
 いわゆる「朝鮮式山城」に比べて「神籠石山城」の方が未完成のものが多いことがわかります。九州王朝説から見れば、首都太宰府防衛を目的とした主要山城である大野城・基肄城、そして朝鮮半島との中継基地でもある対馬の金田城が完成形であることは当然でもあります。他方、唐との戦いに備えて急いで造営されたと思われる神籠石山城に未完成のものが多いというのも、九州王朝から大和朝廷へ王朝交代したONライン(701年)の存在からすれば、造営主体である九州王朝の滅亡により、完成を待たずして放置されたと考えることができます。すなわち、近畿天皇家という「親唐政権」が列島の代表権力者になったため、神籠石山城の必要性も減少したのではないでしょうか。
 ここで注目されるのが鬼ノ城です。鬼ノ城は神籠石一段列石と積石タイプの石垣とが併用された山城ですが、太宰府から遠く離れているにもかかわらず、完成形の山城です。九州王朝の首都太宰府を防衛する大野城・基肄城と同様に完成した山城ということですので、太宰府に準ずるような防衛すべき都市や重要人物が近隣にいたためではないでしょうか。
 そうした視点で鬼ノ城を見たとき、『日本書紀』天武8年条(679年)に見える「吉備大宰」の石川王の記事が注目されます。九州王朝の高官と同じ「大宰」と称された石川王が吉備にいたのですから、完成した山城の鬼ノ城と無関係とは考えられません。この「吉備大宰」も九州王朝説により研究が必要です。(つづく)


第981話 2015/06/14

鞠智城のONライン(701年)

 鞠智城訪問のおり、木村龍生さん(熊本県立装飾古墳館分館歴史公園鞠智城温故創生館)からいただいた報告集などを精読していますが、次から次へと発見があり、興味が尽きません。今回は鞠智城の編年に関して大きな問題に気づきましたので、ご紹介します。
 現在までの研究によると、鞠智城は築城から廃城まで5期に分けて編年されています。次の通りです。

【Ⅰ期】7世紀第3四半期〜7世紀第4四半期
【Ⅱ期】7世紀末〜8世紀第1四半期前半
【Ⅲ期】8世紀第1四半期後半〜8世紀第3四半期
【Ⅳ期】8世紀第3四半期〜9世紀第3四半期
【Ⅴ期】9世紀第4四半期〜10世紀第3四半期

※貞清世里「肥後地域における鞠智城と古代寺院について」『鞠智城と古代社会 第一号』(熊本県教育委員会、2013年)による。

 貞清さんの解説によれば、Ⅰ期は鞠智城草創期にあたり、663年の白村江の敗戦を契機に築城されたと考えられています。城内には堀立柱建物の倉庫・兵舎を配置していたが、主に外郭線を急速に整備した時期とされています。
 Ⅱ期は隆盛期であり、コの字に配置された「管理棟的建物群」、八角形建物が建てられ、『続日本紀』文武2年(698)条に見える「繕治」(大宰府に大野城・基肄城・鞠智城の修繕を命じた。「鞠智城」の初出記事)の時期とされています。
 Ⅲ期は転換期とされており、堀立柱建物が礎石建物に建て替えられます。しかしこの時期の土器などの出土が皆無に等しいとのことです。
 Ⅳ期では、Ⅱ・Ⅲ期の「管理棟的建物群」が消失しており、城の機能が大きく変容したと考えられています。礎石建物群が大型化しており、食料備蓄施設としての機能が主体になったとされています。
 Ⅴ期は終末期で、場内の建物数が減少しつつ大型礎石建物が建てられ、食料備蓄機能は維持されるが、10世紀第3四半期には城の機能が停止します。
 以上のように鞠智城の変遷が編年されていますが、土器による相対編年の暦年とのリンクが、主には『日本書紀』や『続日本紀』に依っていることがわかります。特に築城を『日本書紀』天智4年(665)条に見える大野城・基肄城築城記事と同時期とみなし、665年頃とされているようです。更に隆盛期のⅡ期を『続日本紀』文武2年(698)条の「繕治」記事の頃とリンクさせています。
 通説とは異なり、大野城築城は白村江戦以前ですし、修理が必要な時期を「隆盛期」とするのもうなづけません。既に何度も指摘してきたところですが、太宰府条坊都市や太宰府政庁Ⅰ・Ⅱ期の造営は通説より30〜50年ほど古いことが、わたしたちの研究や出土木注の年輪年代測定法により判明しています。すなわち須恵器などの7世紀の土器編年が、九州では『日本書紀』の記事などを根拠に新しく編年されているのです。この「誤差」を修正すると、先の鞠智城編年のⅠ・Ⅱ・Ⅲ期は少なくとも四半世紀(20〜30年)は古くなるのです。
 このように理解すると、土器の出土が皆無となるⅢ期は7世紀第4四半期後半から8世紀第2四半期となり、古田先生が指摘されたONライン(701年)の頃にピッタリと一致するのです。すなわち、九州王朝の滅亡により鞠智城は「土器無出土(無人)」の城と化したのです。これは九州王朝説であれば当然のことです。九州王朝の滅亡に伴い九州王朝の鞠智城は「開城」放棄されたのです。一元史観では、この鞠智城の「無土器化(無人化)」の理由を説明できません。
 そしてそのタイミングで大和朝廷は文武2年(698)に放棄された大野城・基肄城・鞠智城の占拠と修理を命じたのです。このように多元史観・九州王朝説による土器編年とのリンクと王朝交代という歴史背景により、鞠智城の謎の「Ⅲ期の無土器化(無人化)」現象がうまく説明できるのです。なお、鞠智城の編年問題については引き続き論じる予定です。

〔参考資料〕鞠智城出土土器数の変化
年代          出土土器個体数
7世紀第2四半期    10
7世紀第3四半期    23(鞠智城の築城)
7世紀第4四半期〜8世紀第1四半期 181
8世紀第2、3四半期   0
8世紀第4四半期    40
9世紀第1四半期     5
9世紀第2四半期     4
9世紀第3四半期    88
9世紀第4四半期    30
10世紀第1四半期    0
10世紀第2四半期    0
10世紀第3四半期    8(鞠智城の終末)

出典:柿沼亮介「朝鮮式山城の外交・防衛上の機能の比較研究からみた鞠智城」『鞠智城と古代社会 第二号』(熊本県教育委員会、2014年)による。