信州のお祭り一覧

第12話 2005/07/17

信州のお祭り・御柱

 古代日本列島において文明の衝突・興亡の痕跡が随所に見られます。著名な例では、弥生時代の銅矛文明圏と銅鐸文明圏の衝突、そして銅鐸文明の消滅という考古学的事実があります。この二大青銅器文明圏の衝突と興亡という列島内大事件が神話として残っています。一つは、『古事記』にある大国主の国譲り神話です。
 天国(あまくに)の神々が出雲の主神である大国主に国を譲れと武力介入した神話です。出雲には荒神谷遺跡などから銅鐸を含む大量の青銅器が出土していますが、この神話は銅矛文明圏(天国、壱岐対馬)による銅鐸文明圏の出雲への侵略が「国譲り」という表現で語られているのです。この侵略に最後まで抵抗した神が建御名方神(たけみなかた)です。彼は戦いに敗れ信州の諏訪湖まで逃げます。そして、その地から出ないことを条件に許されます。
 天国の軍隊は、銅鐸文明圏の中枢領域である近畿にも突入を繰り返します。近畿から破壊された銅鐸が出土していますが、これもこの侵略の痕跡でしょう。天国の軍隊は神聖なる祭器である銅鐸を破壊し、銅鐸文明の神々(人々)は東へ東へと逃亡したのです。その様子を「伊勢国風土記」では次のように記されています。天日別命(あまのひわけのみこと)が率いる天国の軍隊が伊勢の国を侵略し、伊勢の王である伊勢津彦は東へと逃げ、彼もまた信濃の国へ住んだと。
建御名方神や伊勢津彦はなぜ信州に逃げたのでしょうか。そして、なぜ天国の軍隊は信州に逃げた彼らを捕らえなかったのでしょうか。ここに、信州が持つ不思議な歴史の謎があります。
 他方、これと共通する風習が中世ドイツにもありました。追われた犯罪者が四本の柱で囲まれた場所に逃げ込めば、役人も手出しができなかったと言われています(阿部謹也『中世の星の下で』ちくま文庫)。四本の柱の中は神聖な地、歴史学でアジールと呼ばれる空間なのでした。これは諏訪大社の御柱とそっくりです。 古代信州は軍隊と言えども侵すことのできない神聖な地、アジールだったのです。だから、追われた銅鐸文明の神々は信州へと逃げた、そう考えざるを得ません。そして、この考えが正しければ、諏訪大社の御柱祭は弥生時代以前にまで遡ることができます。古代日本での文明の衝突を考えるとき、信州のもつこの神聖性はキーポイントとなるのではないでょうか。


第11話 2005/07/11

信州のお祭り・お船

 松本市での講演会の前日、同市の中央図書館に行き、以前から気になっていた諏訪大社の御柱祭について調査しました。同祭の写真集などを見ていると、御柱を出迎える「お船」が道路上を曳かれている光景がありました。こんなところにも「お船」が登場するのかとちょっと驚きました。
 信州のお祭で有名なものに、穂高神社(南安曇郡穂高町)のお船祭がありますが、安曇という地名からも想像できるように、海人(あま)族のお祭ですからお船と呼ばれる山車が登場するは、よく理解できるのです。しかし、諏訪大社の御柱祭にまで主役ではないようですがお船が登場することに、その由緒が単純なものではないなと感じたわけです。
 祇園山鉾や博多山笠の山車が、古代の船越に淵源するのではないかという古川さんの説を洛中洛外日記第7話で紹介しましたが、今回の調査の際、『隋書』倭国伝(原文はイ妥国伝)の次の記事の存在に気づき、新たな仮説を考えました。

 『隋書』には倭国の葬儀の風習として次のように記録しています。

「葬に及んで屍を船上に置き、陸地之を牽くに、或いは小輿*(よ)を以てす。」

輿*(よ)は、輿の同字で、輿の下に車 [輿/車]。

 倭国では葬儀で死者を運ぶのに陸地でも船を使用していたことが記されているのです。そうすると、山車の淵源は海人族の葬儀風習にあったと考えてもよいのではないでしょうか。祇園山鉾や博多山笠の「ヤマ」が古代の邪馬台国(『三国志』原文は邪馬壹国)と関係するのではないかという、わたしのカンも当たっているかもしれませんね


第10話 2005/07/11

信州のお祭り・縄張り

 松本市での講演会も盛況の内に終わりました。毎回のことながら「古田史学の会・まつもと」の皆様には大変お世話になりました。御礼申し上げます。
 今回、松本に行って気が付いたのですが、当地では神社のお祭りの際には、氏子の家など神社周辺一帯に白い御幣を垂らした縄を張り巡らすのです。行きの列車の窓からもこの光景を目にしましたし、松本神社周辺でもかなり広い範囲に縄が張られていました。最初は何のことか判らずに、「古田史学の会・まつもと」の木村さん(同会会計)や北村さん(同会副会長)にお聞きしたところ、信州ではお祭りの時に、このように御幣を垂らした縄を張り巡らせるとのことでした。そして、日本中どこでもお祭りではこうするものだと思っておられました。わたしが、京都や郷土の久留米市では見たことがないと言うと、驚いておられたのが印象的でした。それくらい、信州ではこの習慣が根付いているのでしょう。
 思うに、この「縄張り」はお祭りに当たっての「結界」のようなもので、神聖な場所、すなわち「アジール」を示すものではなかったか、と推測しています。こうした風習は他の地域でもあるのでしょうか。興味深いところです。
 柳田国男が「日本の祭」で信州の穂高神社の例として、祭の際に「境立て」として四方十町ほどの境の端に榊の木を立てることを記していますが、縄を家々の回りに延々と張るのと同様の神事かもしれません。ある意味では、より徹底した神聖な場の囲い込みではないでしょうか。