「 難波天王寺から四天王寺 」一覧

第1806話 2018/12/20

桂米團治師匠の還暦お祝いパーティー

 今日は大阪中之島のホテルで開催された桂米團治師匠の還暦お祝いパーティーに出席しました。噺家生活40周年のお祝いも兼ねており、とても華やかで楽しい宴でした。わたしは「古田史学の会」代表としてご案内いただいたものです。
 わたしと米團治さんのお付き合いの始まりは古代史が縁でした。上方落語の舞台としても登場する四天王寺について、地名は天王寺なのにお寺の名前は四天王寺ということを予てから不思議に思っておられた米團治さんが、「古田史学の会」HPでこの問題に触れていた「洛中洛外日記」を読まれ、わたしの名前と説(四天王寺は元々は天王寺だった)を御自身のオフィシャルブログに掲載されたのがきっかけでした。
 偶然、米團治さんのそのブログの記事がネット検索でヒットし、わたしは米團治さんの好意的な紹介を読み、お礼の手紙を出しました。その数日後に米團治さんからお電話をいただき、お付き合いが始まりました。始めてお会いし、京都ホテルオークラのレストランで食事をご一緒させていただいたのですが、もちろん話題は古代史、中でも古田説でした。米團治さんは古田先生の著作もよく読んでおられ驚いたのですが、そのときに米團治さんのラジオ番組(「本日、米團治日和り。」KBS京都放送)に古田先生に出演してもらえないだろうかと相談を受けました。先生はご高齢なのでテンポの速いラジオのトーク番組は無理ではないかと言ったところ、「古賀さんも一緒に出ていただき、先生をサポートするということでどうですか」とのことでしたので、古田先生と二人で米團治さんの番組に出ることになったものです。このときの内容を『古田武彦は死なず』(古田史学の会編、明石書店)に収録しましたのでご覧ください。
 収録は2015年8月に2時間にわたって行われ、9月に三週にわたってオンエアされました。そしてその翌10月の14日に古田先生は亡くなられました。米團治さんのラジオ番組が古田先生最後の公の場となりました。ですから、米團治さんには不思議なご縁をいただいたものと感謝しています。
 四〇〇名以上の来客による華やかな還暦パーティーでしたが、来賓のご挨拶などから、今年から米朝事務所の社長に就任された米團治さんのご苦労も忍ばれました。パーティーの様子はわたしのFACEBOOKに写真を掲載していますので、ご覧ください。テレビでしか拝見したことのない有名人もたくさん見えられていました。それは米團治さんの人望の高さや人脈の広さを感じさせるものでした。何よりも米團治さんが大勢の来客の中からわたしを見つけられ、ご挨拶いただいたことにも感激した一夕でした。


第1774話 2018/10/19

創建四天王寺の4度西偏

 「洛中洛外日記」1073話(2015/10/11)「四天王寺伽藍方位の西偏」で紹介したように、難波京の条坊はかなり正確に中心線が正方位に一致していますが、その難波京内にある現・四天王寺の主要伽藍の南北軸が真北より5度程度西に振れています(目視による)。この西偏が創建時まで遡るのか、その後の何度かの再建時に発生したものか、ずっと気になっていました。そのことについて、1073話「四天王寺伽藍方位の西偏」では次のように考えていました。

【以下、転載】
 (前略)四天王寺(天王寺)が創建された倭京二年(619年、『二中歴』による)にはまだ条坊はできていませんから、天王寺は最初から「西偏」して造営されたのではないでしょうか。その「西偏」が現在までの再建にあたり、踏襲され続けてきたという可能性です。
 もし、そうであれば九州王朝の「聖徳」が難波に天王寺を創建したときは、南北軸を真北から「西偏」させるという設計思想を採用し、その後の白雉元年(652年)に前期難波宮と条坊を造営したときは真北方位を採用したということになります。この設計思想の変化が何によるものかは不明です(後略)
【転載終わり】

 この疑問を解明するために、先日、大阪歴博を訪問し、学芸員の方に創建四天王寺の図面を見せていただきました。閉架の書庫に保管されていた昭和42年発行の分厚い書籍『四天王寺』(文化財保護委員会編、吉川弘文館)に収録されている創建四天王寺の平面図を懇切丁寧に解説していただきました。その概要は次のようなものでした。

①昭和42年当時の発掘調査平面図は「磁北」が採用されており、方位を判断する際は注意が必要である。
②創建四天王寺図面(図版136)の方位表示には、遺構の中心線が磁北から3度東偏していることが記されている。
③調査当時の磁北は約7度西偏していることから、創建四天王寺の中心線は正方位より約4度西偏していることになる。
④四天王寺は再建が繰り返され現在の伽藍に至っているが、現在も西偏していることから、創建四天王寺の4度西偏した遺構の上にそのまま再建されたこととなる。
⑤前期難波宮の中心線(正方位との差は0度40分)には及ばないが、四天王寺は正方位を意識して造営されたと考えられる。前期難波宮に付属する建物(西方官衙)にも正方位からややずれたものもある。
⑥前期難波宮以前の上町台地にあった建物遺構は正方位とは大きく離れているが、それらに比べると四天王寺は正方位を意識した造営がなされたと考えられる。

 以上、考古学者らしく発掘調査事実に基づいた慎重な説明で、『四天王寺』に記された遺構の解説とも矛盾していませんでした。同書には創建時の伽藍図面の他にも、平安時代と江戸時代(慶長・元和)の「中心伽藍復元模式図」が掲載されており、いずれも西偏した創建四天王寺の真上に同じ中心線がとられています。そのことから、現在の四天王寺が創建時の西偏を踏襲しているとしたわたしの推測は当たっていたことがわかりました。
 このような考古学的事実から推測できることは、「倭京二年」(619、『二中歴』年代歴)に「難波天王寺」(四天王寺)を創建した九州王朝は正方位を意識しながらもなぜか約4度西偏した中心線を採用し、白雉元年(652、『日本書紀』の白雉三年)に造営した前期難波宮に至り、正方位に一致した中心線を採用したことになります。この変化が、方位測定技術の向上の結果として発生したのか、「4度西偏」に何かしらの意味(設計思想)があったのかは不明ですが、この点は研究課題として留意しておきたいと思います。
 なお、学問的厳密性保持のために両遺構の編年について改めて説明しておきます。まず、『二中歴』年代歴の記事を根拠に四天王寺創建を倭京二年(619)とすることは、出土した創建軒丸瓦の考古学編年の「620年頃」と一致し、文献史学と考古学のクロスチェックが成立しており信頼性が高いと思われます。
 次いで、その創建瓦と同笵の瓦が前期難波宮整地層から出土しており、倭京二年(619)創建の四天王寺よりも前期難波宮造営が新しいことを示唆しています。更に前期難波宮の水利施設から大量に出土した須恵器杯Gの編年が七世紀前半から中頃とされており、出土木材の年輪年代測定などからも考古学的には前期難波宮の創建は七世紀中頃とされています。「戊申年」(648)木簡の出土や巨大な前期難波宮完成に対応する記事が『日本書紀』孝徳紀白雉三年(652、九州年号の白雉元年)記事に見えることから、ここでも文献史学と考古学のクロスチェックが成立しています。
 このようにクロスチェックによる安定した編年が確定している創建四天王寺や前期難波宮遺構の中心線方位に基づき、九州王朝の寺院や宮殿の設計思想の変遷を推定することが学問の方法からも重要と考えています。


第1771話 2018/10/11

土器と瓦による遺構編年の難しさ(7)

 『日本書紀』の記事にリンクして暦年を推定した創建法隆寺(若草伽藍)のケースとは異なり、『日本書紀』の記事を採用せずに見事な編年に成功した事例があります。それは大阪歴博による四天王寺創建瓦(素弁蓮華文軒丸瓦)による編年です。
 若草伽藍以上に長期間存続し、再建も繰り返された四天王寺からは七世紀初頭の創建瓦を筆頭に戦国時代に至るまでの多種類の瓦が出土しています。『日本書紀』によれば四天王寺の創建は六世紀末とされていますが、出土した創建瓦を大阪歴博の考古学者たちは七世紀前半(620-630)と編年し、次のような展示がされていました。
 それは「素弁蓮華文軒丸瓦」と呼ばれる三個の瓦で、一つは四天王寺の創建瓦、二つ目は枚方市・八幡市の楠葉平野山瓦窯出土のもの、三つ目が大阪城下町跡下層(大阪市中央区北浜)出土のもので、いずれも同じ木型から造られた同范瓦です。時代も7世紀前葉とされており、四天王寺創建年代との関連などから620〜630年代頃と編年されています(展示説明文による)。大阪歴博のホームページによれば、これら以外にも同様の軒丸瓦が前期難波宮整地層等(歴博近隣、天王寺区細工谷遺跡、他)から出土しており、上町台地は前期難波宮造営以前から、四天王寺だけではなく『日本書紀』にも記されていない複数の寺院が建立されていたようです。
 この展示の編年に驚いたわたしは、大阪歴博の考古学者で古代建築専門家の李陽浩さんに編年の根拠をお聞きしました。李さんの見解は次のようなものでした。

 ①若草伽藍の創建瓦「素弁蓮華文軒丸瓦」と四天王寺の創建瓦、前期難波宮下層出土瓦は同笵瓦であり、それらの文様のくずれ具合から判断すれば、前期難波宮下層出土瓦よりも四天王寺瓦の方が笵型の劣化が少なく、古いと判断できる。
 ②この点、法隆寺若草伽藍出土の同笵瓦は文様が更に鮮明で、もっとも早く造営されたことがわかる。
 ③しかしながら、用心深く判断するのであれば、三者とも「7世紀前半」という時代区分に入り、笵型劣化の誤差という問題もあり、文様劣化の程度によりどの程度厳密に先後関係を判定できるのかは「不明」とするのが学問的により正確な態度と思われる。
 ④史料に「創建年」などの記載があると、その史料に引っ張られることがあるが、考古学的には出土品そのものから判断しなければならない。

 おおよそ以上のような解説がなされました。わたしは誠実な考古学者らしい判断と思いました。ちなみに、大阪歴博の展示解説では法隆寺若草伽藍を607年(『日本書紀』による)、四天王寺を620年頃の創建とされています。四天王寺創建年は『日本書紀』の記事ではなく、瓦の編年に基づいたと記されていました。『二中歴』の倭京二年(619)難波天王寺創建記事とほぼ一致していることから、大阪歴博によるこの時代のこの地域の瓦の編年精度が高いことがうかがわれました。
 このように四天王寺(天王寺)創建瓦の編年は考古学と文献(『二中歴』九州年号史料)の一致というクロスチェックが成立した見事な事例ではないでしょうか。(つづく)


第1618話 2018/03/01

九州王朝の難波大道(2)

 二月の「誰も知らなかった古代史」(正木裕さん主宰)での質疑応答のとき、わたしは安村俊史さんに次の質問を行いました。
 「レジュメ記載の古地図によれば、四天王寺周辺の南北直線道路は正方位ではなく、東へ10度ほどぶれているが、それは何故か。創建四天王寺も同様に東偏していたのか。難波京条坊は四天王寺付近までは広がっていないのか。」
 この質問に対して、安村さんの回答は次のようでした。
 「創建四天王寺の中心軸は正方位である。周辺の道路が東偏しているのは、上町台地の最も高い場所を走った結果によると思われる。正方位の条坊跡は四天王寺付近でも発見されており、条坊はそこまで広がっていたと推定できる。」
 この安村さんの説明にわたしは一応納得できたのですが、四天王寺周辺の直線道路が東偏している理由がやはり気になっています。四天王寺は『二中歴』「年代歴」の記事(二年難波天王寺聖徳造)にあるように、九州年号の倭京二年(619年)に難波「天王寺」として創建されたと考えられますが、そのとき九州王朝は「天王寺」を正方位で造営しておいて、周囲の直線道路は上町台地の地勢に合わせて東偏させたのでしょうか。あるいは既に存在していた道路は東偏のままにしておき、「天王寺」は正方位に造営したのでしょうか。または東偏している道路は正方位の条坊とは無関係に、後代になって造営されたのでしょうか。今のところよくわかりませんので、引き続き考古学者の見解を尋ねてみたいと思います。
 いずれにしましても、7世紀初頭(倭京元年か)に造営されたと考えられる太宰府条坊や同じく倭京二年に創建された難波「天王寺」が正方位であることから、7世紀の九州王朝(倭国)が正方位を重視した都市計画思想を持った王朝であることは疑えません。(つづく)


第1391話 2017/05/11

『二中歴』研究の思い出(4)

 『二中歴』九州年号細注記事で考古学編年との対応により、九州王朝史研究に進展をもたらしたケースもありました。それは次の二つの寺院建立記事です。

「倭京」(618〜622年)「二年難波天王寺聖徳造」
「白鳳」(661〜683年)「対馬銀採観世音寺東院造」

 倭京二年(619)に難波天王寺を聖徳が造ったという記事について、当初この天王寺を摂津の四天王寺のことと理解してよいものか、悩んだこともありましたが、「難波」とあるからには摂津の四天王寺のことと理解するのが穏当とするに至りました。次いで、「天王寺」とあるが「四天王寺」としてもよいのかを考えてみました。これも結論は問題なしでした。というよりも、四天王寺が古くは天王寺と呼ばれていた史料や痕跡(出土「天王寺」文字瓦)が多数あったからです。
 ところが『日本書紀』には「四天王寺」の創建を推古元年(593年)と記されており、『二中歴』細注の「倭京二年(619)」とは30年程も異なっていました。こうした差異から、摂津難波の「四天王寺」と細注の「難波天王寺」とは別のお寺だろうかと、長く考え続けていました。この疑問に終止符を打ったのが、大阪歴博の展示でした。わたしが初めて大阪歴史博物館を訪れたとき、「四天王寺創建軒丸瓦」が展示してあり、その説明文に620年頃のものとする記載があったのです。
 大阪歴博の考古学者の方に、『日本書紀』とは異なる620年頃に編年した理由をお聞きしたところ、考古学は出土物に基づいて編年するべきであり、文献にひきずられるべきではないとの説明でした。考古学者として真っ当な考え方であり、深く感心しました。『二中歴』には619年(倭京二年)の造営と記されており、それと考古学編年が一致することを説明しましたが、『二中歴』の細注記事についてはご存じありませんでした。
 その後も大阪歴博の考古学者との面談や意見交換を繰り返してきたのですが、飛鳥編年と比較すると難波編年の方が、『日本書紀』の記述よりも考古学的出土物に依拠して編年がなされており、少なくとも7世紀の難波編年の信頼性が高いことがわかりました。
 こうして、『二中歴』細注の天王寺造営年の記述が考古学編年と見事に対応していることを知り、細注の史料価値が高いことを実感したのでした。(つづく)


第1277話 2016/09/30

四天王寺か天王寺か 四天王寺出土文字瓦

 四天王寺か天王寺かという寺名の変遷は複雑怪奇です。先に紹介した江戸時代の3枚の古地図からは幕末頃に「天王寺」から「四天王寺」に変化したことがうかがわれるのですが、九州年号の倭京2年(619)の建立時から江戸時代までずっと「天王寺」だったわけではありません。
 昭和51年に発行された『重要文化財29 考古Ⅱ』(毎日新聞社発行、文部省文化庁監修)には四天王寺から出土した瓦の写真約290枚が収録されており、次のような時代的変遷がわかります。

〔飛鳥時代〕創建瓦の八弁単葉蓮華文軒丸瓦に始まり、複弁蓮華文軒丸瓦へと続きますが、文字瓦はない。
〔平安時代前期〕文字瓦なし。
〔平安時代後期〕文字瓦が出現。軒丸瓦・軒平瓦に「四天王寺」と記されている。
〔鎌倉時代〕文字瓦なし。
〔南北朝・室町・桃山・江戸時代〕文字瓦が再出現。軒丸瓦・軒平瓦に「天王寺」と記されている。

 史料が昭和51年発刊でやや古く、編年も大ざっぱな分類ですが、上記のような状況です。文字瓦は同時代史料ですから、その時代の寺名の根拠としては優れたものです。この点、文献ですと書写時での書き換えや執筆者の認識を示すものなので、本当にそのときの寺名を表しているのかは史料批判が必要です。
 『重要文化財29 考古Ⅱ』に掲載されている文字瓦が四天王寺出土の全てかどうかわかりませんが、その時代別の変遷の傾向として、創建時から平安時代前期までは文字瓦は見えず、平安時代後期になって文字瓦が出現し、そこには「四天王寺」の文字が記されています。その後、南北朝時代以降には「天王寺」と記されています。
 このように四天王寺は平安時代後期から「四天王寺」になったり「天王寺」になったりしており、その変遷は複雑です。この変遷がどういう事情によるものかは、今のところわかりませんが、創建時の本来の名称「天王寺」を継承しようとする勢力と、『日本書紀』にある「四天王寺」を是とする勢力が長い時代の中で競っていたように思われます。
 これらの瓦の写真をわたしのfacebookに掲載していますので、ご参照ください。


第1276話 2016/09/29

四天王寺か天王寺か

  貞享4年(1687)・文久3年(1863)

 「洛中洛外日記」1275話で寛文11年(1671)作成の大坂古地図に今の四天王寺が「天王寺」と記されていることを紹介しましたが、大阪歴博に掲示されていた他の2枚の古地図についても紹介します。
 ひとつは寛文11年(1671)大坂古地図とほぼ同時代の貞享4年(1687)、もう一つは幕末の文久3年(1863)のものです。前者には天王寺、後者には四天王寺と寺名が表記されており、貞享4年(1687)と文久3年(1863)の間で寺名が変更されたことがうかがえます。その間に作成された古地図があれば、変更時期をさらに限定できるかもしれません。これら3枚の古地図から、17世紀には天王寺と呼ばれていたが幕末には四天王寺に変更されたと考えてよいと思います。幕末頃の水戸国学の影響により、『日本書紀』に記されている「四天王寺」を是として寺名を天王寺から四天王寺に変更されたのではないでしょうか。ただし地名は頑固に「天王寺村」のままで残り、現在の「天王寺区」に繋がったものと思われます。
 それでは江戸時代末頃に天王寺から四天王寺に変更されるまでは、倭京2年(619年、九州年号)の創建以来「天王寺」だったのでしょうか。実はそれほど単純な変遷ではありません。四天王寺から出土した文字瓦から、その寺名が複雑に変化したことがうかがわれるのです。(つづく)


第1275話 2016/09/28

四天王寺か天王寺か 寛文11年(1671)

大阪の古刹四天王寺は天王寺区にあります。なぜお寺の名前とその地名が異なるのかという問題について、わたしは見解を発表したことがあります。
『二中歴』には「難波天王寺」が九州年号の倭京二年(619)に建てられたと記されていることから、本来の寺名は天王寺であり、地名の天王寺区(明治までは天王寺村)はその本来のお寺の名前に基づいていると考えました。もし四天王寺が本来のお寺の名前だとすれば、地名を勝手に天王寺村と変更できるはずはないからです。また、する必要もありません。
過日、大阪歴博に行ったとき、大坂古地図が3枚掲示してありました。最も古いものが寛文11年(1671)の作成でした。そこには天王寺とありました。このことから17世紀には地名も寺名も天王寺だったことがわかります。
わたしのfacebookにこの古地図を掲載していますので、ご覧ください。


第1237話 2016/07/24

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(13)

 九州王朝が九州から遠く離れた難波になぜ前期難波宮(副都)を造営できたのかという問題について、わたしは九州王朝と摂津難波が何らかの事情で密接な関係があったと考えていました。それは現存最古の九州年号群史料『二中歴』に見える次の記事などが根拠でした。

 「倭京二年、難波天王寺を聖徳が造る。」『二中歴』「年代歴」(古賀訳)

 九州年号の倭京二年(619)に聖徳という人物が難波に天王寺を造ったという記事で、九州年号によって記録されていることから、九州王朝系の記事と考えられます。
 当初わたしはこの記事の「難波」を博多湾岸付近ではないかと考え、7世紀初頭の寺院遺跡や地名を調査したのですが、見つかりませんでした。そこで「難波」「天王寺」とあるのだから摂津難波の四天王寺のこととする理解が妥当と気づき、四天王寺は元来「天王寺」と呼ばれていたことに気づきました(明治時代の地名は天王寺村、「天王寺」銘の瓦も出土)。
 また、当地(大阪歴博)の考古学者による四天王寺の創建年が620年頃とされている事実から、『二中歴』という九州年号史料と考古学編年(軒丸瓦の編年)が一致してることから、『二中歴』に倭京二年に創建されたと記されている難波天王寺は摂津難波の「天王寺」であるという結論に到達したのです。
 倭京二年(619)は九州王朝の天子、多利思北孤の時代ですから、難波天王寺を造営した「聖徳」と記された人物は九州王朝の有力者と考えられます(正木裕さんの説では多利思北孤の息子の利歌彌多弗利)。こうした論理展開により、多利思北孤の時代には難波は九州王朝が寺院を建立できるほどの、いわば直轄支配領域とする認識へと至ったのです。
 他方、九州王朝の天子が九州から瀬戸内海を行き来していたことを、古田先生は『万葉集』の史料批判により明らかにされていましたから、海上交通の要地である難波が九州王朝支配領域としても矛盾はありません。(つづく)


第1223話 2016/07/07

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(3)

 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」の《二の矢》について解説します。

《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。

 6〜7世紀における九州王朝で仏教が崇敬されていたことは、『隋書』に記された多利思北孤の記事や、九州年号に仏教色の強い漢字(僧要・僧聴・和僧・法清・仁王、他)が用いられていることからもうかがえます。このことはほとんどの九州王朝説論者が賛成するところでしょう。したがって、九州王朝説が正しければ、日本列島を代表する九州王朝の中心領域である北部九州に仏教寺院などの痕跡が日本列島中最多であるはずです。ところが考古学的出土事実は「6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿」なのです。これが九州王朝説に突き刺さった《二の矢》です。
 わたしがこの問題の深刻性にはっきりと気づいたのは、ある聖徳太子研究者のブログ中のやりとりで、九州王朝説支持者からの批判に対して、この《二の矢》の考古学的事実をもって九州王朝説に反論されている記事を読んだときでした。この九州王朝説反対論に対する九州王朝説側からの有効な再反論をわたしはまだ知りません。すなわち、この問題に関して九州王朝説側は大和朝廷一元史観との論争において「敗北」しているというよりも、まともな論争にさえなっていない「不戦敗」を喫しているとしても過言ではないのです。
 この《二の矢》については古田先生も問題意識を持っておられましたし、少数ですが検討を試みた研究者もありました。わたしの見るところ、それは次のようなアプローチでした。

1.北部九州の寺院遺跡の編年を50年ほど古く編年する。たとえば太宰府の観世音寺を7世紀初頭の創建と見なす。

2.近畿の古い寺院を北部九州から移築されたものと見なし、それにより、北部九州に古い寺院遺跡がないことの理由とする。

 主にこの二点を主張する論者がありました。しかし、この主張の前提には「北部九州には6世紀末から7世紀前半にかけての寺院の痕跡が無い」という考古学的事実を認めざるを得ないという「事実」認識があります。そして結論から言えば、これら二点のアプローチは成功していません。それは次の理由からも明らかです。

1.観世音寺の創建が白鳳時代(7世紀後半)であることは、史料事実(『二中歴』『勝山記』『日本帝皇年代記』に白鳳期あるいは白鳳10年〔670〕の創建とある)と考古学的出土事実(創建瓦が老司1式)からみても動きません。7世紀初頭創建説の論者からはこのような史料根拠や論証の明示がなく、「自分がこう思うからこうだ」あるいは「九州王朝説にとって不都合な事実は間違っているはずだから解釈変更によって否定してもよい」とする「思いつきや願望の強要」の域を出ていません。

2.現・法隆寺は別の寺院を移築したものとする見解にはわたしも賛成なのですが、それが北部九州から移築されたとする考古学的・文献史学的根拠が示されていません。その説明は史料事実の誤認・曲解や、論証を経ていない「どうとでも言える」程度の「思いつき」の域を出ていません。

 九州王朝説論者からはこの程度の「解釈」しか提示できていなかったため、大和朝廷一元史観論者を説得することもできず、彼らの「6〜7世紀を通じて日本列島内で最も仏教文化の痕跡が濃密に残っているのは近畿であり、その事実は当時の倭国の代表者は大和朝廷であることを示しており、九州王朝など存在しない」という頑固で強力な反論が「成立」しているのです。わたしたち古田学派が大和朝廷一元史観論者との「他流試合」で勝つためにはこの頑固で強力な《二の矢》から逃げることはできません。
 この《二の矢》に対する学問的反論の検討は主に「古田史学の会」関西例会の研究者により続けられてきました。たとえば難波天王寺(四天王寺)を九州王朝による創建とする見解を、わたしや服部静尚さん正木裕さんが発表してきましたし、難波や河内が6世紀末頃から九州王朝の直轄支配領域になったとする研究も報告されてきました。
 また別の角度からの研究として、従来は8世紀中頃に聖武天皇の命令により造営されたとする各地の国分寺ですが、その中に九州王朝により7世紀に創建された「国府寺」があるとする多元的「国分寺」研究が関東の肥沼孝治さんらにより精力的に進められています。多元的「国分寺」研究サークルのホームページにはこの調査報告が大量に記されています。
 こうした研究は、ようやくその研究成果が現れ始めた段階です。このテーマは7世紀における土器編年の再検討という問題にも発展しており、古田学派にとって考古学も避けては通れない重要な研究テーマとなっているのです。(つづく)