「 不改常典 」一覧

第1168話 2016/04/13

近江朝と「不改常典」

 九州王朝を継ぐ天智・大友の「近江朝」という正木裕さんが提起された新概念は、九州王朝説にとって年号や造籍だけではなく、様々な重要課題を惹起します。今回は「不改常典」との関係について考察します。
 わたしは「不改常典」について「洛中洛外日記」584話「天智天皇の年号「中元」?」で次のように記しました。

【以下引用】
 『続日本紀』の天皇即位の宣命中に見える「不改常典」は、内容の詳細については諸説があり、未だ明確にはなっていませんが、近畿天皇家にとって自らの権威の根拠が天智天皇が発した「不改常典」にあると主張しているのは確かです。そうすると、天智天皇は近江大津宮でそうした「建国宣言」のようなものを発したと考えられますが、それなら何故九州王朝に代わって自らの年号を建元しなかったのかという疑問があるとわたしは考えていました。ところが、竹村さんが指摘された天智の年号「中元」が江戸時代の諸史料(『和漢年契』『古代年号』『衝口発』他)に見えていますので、従来のように無批判に「誤記誤伝」として退けるのではなく、「中元」年号を記した諸史料の史料批判も含めて、再考しなければならないと考えています。ちなみに「中元」元年は天智天皇即位年(668)で、天智の没年(671)までの4年間続いていたとされています。
 もちろんこの場合、「中元」は九州年号ではなく、いわば「近江年号」とでも仮称すべきものとなります。「中元」年号について先入観にとらわれることなく再検討したいと思います。
【引用終わり】

 このようにわたしは、「中元」の年号を持つ近江朝を近畿天皇家の天智によるものと理解し、天智による九州王朝の権力簒奪は成功しなかったと考えてきました。ところが、正木説によれば近江朝は九州王朝系であり、「中元」年号は「建元」ではなく、九州年号「白鳳」を引き継ぐ「改元」ということになります。
 この理解が正しければ、天智は九州王朝を引き継ぐ「改元」を行い、その権威継承として「不改常典」を制定したと考えることができます。従って、『続日本紀』の元明天皇即位の詔勅などに見える近江大津宮の天智が制定した「不改常典」とは、九州王朝の権威を継承する「常典」ということになります。
 正木説の当否はこれからの論争や検証作業を待ちたいと思いますが、もし妥当であれば、この先様々な問題を惹起する仮説となりそうです。(つづく)


第584話 2013/08/20

天智天皇の年号「中元」?

 わたしは第580話「近江遷都と王朝交代」に おいて「天智の時代の九州年号は「白鳳」で、白鳳年間(661~683)に天智の称制即位(662)から没年(671)までが入っていますが、即位年も没年も、新王朝の創立者として「建元」もされず、九州王朝の継承者としての「改元」もされていません。」と記したのですが、先日の関西例会の質疑応答のとき に、竹村順弘さん(古田史学の会・全国世話人)から、天智天皇の年号「中元」について関西例会で報告したことがあるとの御指摘がありました。
 確かに2011年5月の関西例会で竹村さんはそのことを発表されていました。そのときの発表を、わたしは失念していますので、恐らく「中元」を九州年号ではなく誤記誤伝の類と判断したのだと思います。しかし、現在では研究や認識が進んできたこともあり、この竹村さんの指摘には大変驚きました。
 『続日本紀』の天皇即位の宣命中に見える「不改常典」は、内容の詳細については諸説があり、未だ明確にはなっていませんが、近畿天皇家にとって自らの権威の根拠が天智天皇が発した「不改常典」にあると主張しているのは確かです。そうすると、天智天皇は近江大津宮でそうした「建国宣言」のようなものを発し たと考えられますが、それなら何故九州王朝に代わって自らの年号を建元しなかったのかという疑問があるとわたしは考えていました。ところが、竹村さんが指摘された天智の年号「中元」が江戸時代の諸史料(『和漢年契』『古代年号』『衝口発』他)に見えていますので、従来のように無批判に「誤記誤伝」として退けるのではなく、「中元」年号を記した諸史料の史料批判も含めて、再考しなければならないと考えています。ちなみに「中元」元年は天智天皇即位年 (668)で、天智の没年(671)までの4年間続いていたとされています。
 もちろんこの場合、「中元」は九州年号ではなく、いわば「近江年号」とでも仮称すべきものとなります。「中元」年号について先入観にとらわれることなく再検討したいと思います。
 それにしても、こうした予想外の御指摘をいただけるのも「古田史学の会」関西例会ならではと、竹村さんや参加者の皆さんに感謝しています。


第577話 2013/08/05

近江大津宮造営年の論理性

 今朝は仕事で鯖江市に向かっています。JR湖西線を走る特急サンダーバード5号に乗っているのですが、大津京駅を通過す るとき、この付近が大津宮跡(錦織遺跡)だなあと、感慨深く車窓から眺めていました。わたしは25年ほど前に錦織遺跡を訪れたことがあり、発掘残土の中に 白鳳時代の布目瓦片が多数混ざっていることに驚いた記憶があります。
 車中で、琵琶湖と山に挟まれた狭隘なこの地に、なぜ都や宮殿が造営されたのだろうと思索しているうちに、近江大津宮造営年が重要な論理性を持つことに気づきました。『日本書紀』では近江遷都を天智6年(667)のこととされていますが、『海東諸国紀』には九州年号の白鳳元年(661)と記され、6年の差があります。この差に重要な論理的問題を含んでいるのです。
 もし『海東諸国紀』の白鳳元年(661)が正しいとすれば、おそらく造営開始は650年代後半でしょうから、前期難波宮完成年(652)の数年後のこととなります。九州王朝は列島の代表者として健在の時期ですから、その副都と同様式で同じような規模の「北闕型」王宮を近畿天皇家が作ることを九州王朝が認めるはずがないでしょう。従ってこの場合、近江大津宮は九州王朝による造営と考えざるを得ないという論理性を有します。もちろん近隣の豪族(近畿天皇家を含む)らに、九州王朝が命じて造営させたのでしょう。
 次に『日本書紀』の天智6年(667)が正しい場合、その造営は白村江敗戦(663)直後から始められたと思われますから、敗戦で疲弊した九州王朝には困難な事業と考えることもできます。そうすると九州王朝副都の前期難波宮を模倣した王宮を近畿天皇家(おそらくは天智天皇)が造営したことになりますから、近畿天皇家は没落しつつある九州王朝に代わって、列島の代表者になるという自覚と決意があったものと思われます。この見方が正しければ、『続日本紀』 に見える「不改の常典」がよく理解できます。すなわち、「大津宮の天皇が定めた不改常典により、わたしは天皇位につく」という趣旨の宣命は、九州王朝に代わって列島の代表者になったのは天智天皇の不改常典(代表王朝交代の宣言、権威継承の根拠)によると主張している。そのような理解が可能となるからです。
 このように、近江大津宮造営年二説の「6年の差」は古代史理解において、決定的な差を生じさせる論理性を有していることに、わたしは気づいたのです。(つづく)


第47話 2005/11/20

活況!関西例会

 昨日は関西例会がありました。好論目白押しで、気分がよくなり三次会まで付き合い、おかげで今日は朝からバテ気味です。
 水野代表の報告を含めると9人の発表があり、進行役の西村さんは大変だったと思います。特に興味深かった報告をいくつか紹介しますと、竹村さんの九州旅行の報告ではオープンしたばかりの九州歴史博物館の様子がうかがえて、私も行きたくなりました。
 伊東さんの報告は、磐井の後を継いで九州王朝の王になったと思われる葛子の墓、鶴見山古墳よりも同時代の王塚古墳(桂川町、装飾壁画古墳)の方がはるかに立派というもので、この指摘は示唆的でした。九州王朝の王統譜を研究する上で、考古学的知見による比較検討の必要性に気づかせていただきました。
 冨川さんの報告は、六国史に見える「朝廷」「朝庭」の全抽出を行うというベーシックな研究でしたが、その結果は大変興味深いものでした。『日本書紀』で地名+朝廷という表記の初出が天武紀の「近江朝廷」であり、逆に見ると、それまでは大和朝廷内部では自らの宮殿を「朝廷」とは呼んでいなかったということにはならないでしょうか。もしそうだとすれば、大和朝廷の始まりは天智の近江朝廷からということになります。「不改常典」問題とも関連して面白い問題に発展しそうです。
 関西例会はますます活況を帯び、面白くなっています。皆さんも是非ご参加下さい。参加費は500円です。

〔古田史学の会・11月度関西例会の内容〕
○ビデオ鑑賞「シルクロード講座・西陜歴史博物館王世平先生」
○研究発表
シルクロード知ったかぶり(豊中市・木村賢司)
楽しい九州旅行(木津町・竹村順弘)
皇暦について(奈良市・飯田満麿)
鶴見山古墳発見の円体武装石人について(生駒市・伊東義彰)
釈日本紀の九州王朝(向日市・西村秀己)
古層の神名─出雲神話の史料批判─(京都市・古賀達也)
彦島物語─国譲り─(大阪市・西井健一郎)
「大和朝廷」説の始まり(3) (相模原市・冨川ケイ子)
○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・「ギリシア祭文」論・条里制の開始・他