「 倭人伝 」一覧

第1541話 2017/11/18

倭人伝「周旋五千餘里」大論争

 本日、「古田史学の会」関西例会がドーンセンターで開催されました。12月、来年1月もドーンセンターです。2月は福島区民センターで、関西例会としては初めて使用する会場です。お間違えなきよう。
 今回は倭人伝の「周旋五千餘里」について大論争となりました。「周旋五千餘里」を狗邪韓国から侏儒国までの陸地行程の合計とする野田説に対して、藤田さんは、「周旋」には「端から端までという意味はない」と批判され、「五千餘里」は倭国内陸地行程の合計ではなく、別の情報に基づくものとされました。正木さんは、狗邪韓国から邪馬壹国までの部分里程の合計とする従来の理解が妥当であるとされました。この三説に対して参加者から賛否の意見が出され、大論争となったものです。もちろん結論は出ませんが、初めて関西例会に参加された方からは、これほどの論争がなされるとは思わなかったとの驚きの声も聞かれました。この「周旋五千餘里」論争はまだまだ続きそうです。
 11月例会の発表は次の通りでした。このところ参加者が増加していますので、発表者はレジュメを40部作成してくださるようお願いいたします。また、発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレスへ)か電話で発表申請を行ってください。

〔11月度関西例会の内容〕
①藤原不比等による歴史改ざん説の修正と補足(茨木市・満田正賢)
②近畿は「住吉神社」を設置した時点から九州王朝の治世下にあった(奈良市・原幸子)
③十七条憲法についての追加考察(八尾市・服部静尚)
④七〇一年以降の「倭」史料について(神戸市・谷本茂)
⑤出野正氏の所説への疑問と批評(神戸市・谷本茂)
⑥三国志の「接」の用法(姫路市・野田利郎)
⑦「周旋五千餘里」を考える(宝塚市・藤田敦)
⑧フィロロギーと古田史学【その6】(吹田市・茂山憲史)
⑨「周旋五千餘里」従来の理解(川西市・正木裕)
⑩栄山江流域における前方後円墳の出現過程(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 水野顧問の病状報告・例会初参加者のご挨拶・大津市歴史博物館企画展(大津の都と白鳳寺院)のご案内・狭山池博物館特別展(蓮華の花咲く風景 仏教伝来期の河内と大和)のご案内・兵庫県立博物館特別展(青銅の鐸と武器 弥生時代の交流)のご案内・『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』出版記念松本市講演会(11/14)の報告(邪馬壹国研究会・松本と共催)・新入会員報告・会費入金状況・「古田史学の会」関西例会の会場、12月、1月(ドーンセンター)、2月(福島区民センター)・1/21「古田史学の会」新春講演会(i-siteなんば)・『古代に真実を求めて』21集の編集状況・筑前町から弥生時代の硯発見の報告・「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)の報告と案内(11/24「大宰府に来ていたペルシャの姫」正木裕さん)・その他


第1507話 2017/09/24

倭人伝の「奴」国名と現代日本の「野」地名

 「洛中洛外日記」1505話「日本列島出土の鍍金鏡」で紹介した、岐阜県揖斐郡大野町の城塚古墳は野古墳群に属しています。わたしはこの「野古墳群」という名称に興味を持ち、地図などで調べたところ当地の字地名が「野(の)」でした。最初は「大野古墳群」の間違いではないかと思ったのですが、「野古墳群」でよかったのです。
 小領域の字地名とはいえ、「野」のような一字地名は珍しく、古代日本語の原初的な意味を持つ地名と思われ、古田先生が提唱された「言素論」の貴重なサンプルではないでしょうか。「野」の他には三重県津市の「津」も同様です。その字義は港でほぼ間違いなく、「野」は一定の面積を有す「平地」のことでしょうか。あるいは、そのことを淵源とした地名接尾語かもしれません。
 『三国志』倭人伝の国名に「奴」の字が使用されるケースが少なくないのですが、「奴国」などはその代表例です。この「奴」こそ、現代日本の地名にも多用される「野」に対応していると考えられます。従来の倭人伝研究では「奴」を「do」「na」と読んだり、中には「to」と読む論者もありました。残念ながら『三国志』時代の中国語音韻の復元はまだなされておらず、「奴」の音はいわゆる中古音に近い「no」か「nu」とする説が比較的有力と見られています。
 他方、日本列島内の地名と倭人伝国名との一致などから、現代日本語地名の読みが『三国志』時代の音韻復元に利用できそうであることを古田先生は指摘されていました。そうした中で、「洛中洛外日記」827話「『言素論』の可能性」でもご紹介した中村通敏さん(古田史学の会・会員、福岡市)の好著『奴国がわかれば「邪馬台国」がわかる』(海鳥社、2014年)が出版され、倭人伝の「奴」は日本の地名に多用される「野(no)」に相当することを論証されました。古代中国語音韻研究の最新成果とも整合しており、この中村説は有力と思います。
 こうした古田学派内の研究成果にわたしは触れていましたので、岐阜県揖斐郡大野町の字地名「野」の存在を知ったとき、これこそ弥生時代まで遡る可能性が高い地名であり、「倭人伝」の「奴国」の「奴」と同義ではないかと思いました。その「野」と呼ばれた地域に「野古墳群」が存在することも、深い歴史的背景を有していたためであり、偶然ではないと思います。ちなみに、当地には「美濃」「大野」など「野(no)」地名が散見され、古代の「奴国」の一つではなかったでしょうか。倭人伝にも複数の「奴国」がありますが、弥生時代も現代も「の」あるいは「○○の」は一般地名化するほど普通に使用されたと思われます。(つづく)


第1446話 2017/07/08

真摯な論争は研究を深化させる

 今朝は山陽新幹線で久留米に向かっています。久留米大学の公開講座で講演するためです。当地ではおりからの豪雨で深刻な被害や亡くなられた方もあり、心配です。
 車中で野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)からいただいた御著書『「邪馬台国」と不弥(ふみ)国の謎』を熟読しました。野田さんは「古田史学の会」関西例会の古くからの常連で、姫路市から大阪市まで参加される熱心な研究者です。今回の著書では倭人伝解読の新説を発表されているのですが、それは関西例会で数年にわたり発表と論争が続けられたテーマです。
 「古田史学の会」関西例会は、おそらく古田学派の研究例会でも最も激しい論争が行われるところです。特に古田説と異なる新説に対しては容赦のない質問や批判が寄せられます。しかし、それは「古田説と異なる」という理由での批判ではありません。古田説や従来説と異なる新説(異説)だからこそ発表するのであり、同じ内容ならそもそも研究も発表も不要です。「古田先生の説と異なるからダメ」というのは学問的批判でも学問的態度でもありません。それは一元史観の学界が古田説・多元史観を「大和朝廷一元史観の通説と異なる」という「理由」で排除したのと同様の態度でもあるのです。
 そうした関西例会での厳しい質問や辛辣な批判に耐えきれず、参加されなくなった方も少なくありませんが、「学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる」とわたしは信じています。ですから、直接口には出しませんが、それほど批判されるのがいやなら発表などしなければよい、いっそのこと研究などやめて「歴史小説」でも書いていれば誰からも批判されないのにと、わたしは思っています。なお、歴史小説を見下しているわけでは決してありませんので、誤解のなきよう。優れた作家による歴史小説は、研究者でも及ばないような生々しい歴史の真実を復元することができるからです。
 そのような関西例会にあって、わたしと最も激しく論争した研究者の一人が野田さんです。今回の著書は、これまでの論争経過を背景に更に自説を強化、満を持して発刊されたもので、読んでいてもその意気込みが伝わります。倭人伝の女王国は不弥国とされ、その場所を佐賀県吉野ヶ里とする仮説は古田説とは異なりますが、他方、要所では古田説も丁寧に紹介されています。
 わたしは野田説よりも古田説がより論証力があり、考古学などの関連諸学との整合性も優れていると考えていますが、それでも同書の中には「なるほど一理ある」「そういう視点も確かにあり得る」と思わせる優れた指摘が随所にあります。たとえば「倭地参問」「周旋五千余里」の新読解です。古田説では総里程一万二千里から韓国内里程七千里を単純に差し引いた五千里としますが、野田説によれば倭国内の狗邪韓国から侏儒国までの陸地の総里程五千里(計算するとピッタリ五千里になります)であり、海上里程は含まないとされました。すなわち、「倭地」を周旋するのだから、海峡を渡る海上は「倭地」ではないとする理解です。
 この説を関西例会で初めて野田さんが発表されたとき、司会の西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)から「古賀さん、この野田さんの新説をどう思う?」と意見を求められ、わたしは思わず考え込み、「古田説の方が単純明快で良いように思うけど、確かに野田さんの計算でも五千里になる。う〜ん。」と曖昧な返事をしてしまいました。それほどインパクトのある研究発表だったのです。以後、この野田説はわたしの中でずっと気にかかっていました。
 その日から数年後、「古田史学の会」で邪馬壹国研究の最新論文集『邪馬壹国の歴史学』(ミネルヴァ書房)を発行するとき、この野田説の収録をわたしは編集会議で提案し、承認されました。たとえ古田説や自分の意見とは異なっていても、「古田史学の会」発行の書籍に掲載し、後世に残すべき論文と評価したからに他なりません。このたびの野田さんの新著『「邪馬台国」と不弥(ふみ)国の謎』を『邪馬壹国の歴史学』とあわせ読まれることを推奨します。なお、同書は一般販売されていませんので、下記の野田さん宛にメールで購入をお申し込みください。
 ここまで書いたら、ちょうど博多駅に到着しました。これから久留米に向かう列車に乗り換えです。外はどんよりと曇っています。

(価格は送料込みで680円。メール nodat@meg.winknet.ne.jp)


第1310話 2016/12/17

『倭人伝』「陸行一月」の計算方法

 本日の「古田史学の会」関西例会はバラエティーに富み、かつ質疑も濃密なものでした。一年を締めくくるにふさわしい内容で、とても勉強になりました。
 満田さんは例会デビューでした。厳しい批判が出されましたがめげることなく引き続き発表を続けられるとのこと。谷本さんからは『日本書紀』応神紀などの年代が信用できないことを詳細に説明されました。その中で、わたしが25年前に書いた論文中の年代判断の甘さも指摘され、冷や汗ものでしたが、久しぶりに読み直した自分の若い頃の論文に懐かしさを覚えました。
 正木さんからは「倭人伝」行程記事の「陸行一月」を陳寿がどのような基準で計算したのかについての研究報告がなされました。『初學記』や『太平御覧』に引用された「漢律」の規定によれば、使者が遠国に派遣される場合、5日働いて1日休む「五日得一休」であることを明らかにされました。その規定に基づいて「倭人伝」の里程を計算すると、どんぴしゃりで30日「陸行一月」になるのです。正木さんの中国古典調査力にはいつも驚かされるのですが、今回も見事な論証でした。『古田史学会報』での発表が待ち遠しいものです。
 12月例会の発表は次の通りでした。

〔12月度関西例会の内容〕
①古事記の中の「倭」と「夜麻登」(八尾市・服部静尚)
②魏志倭人伝の中にある卑弥呼の都(茨木市・満田正賢)
③神功皇后・応神天皇の年代をめぐって(神戸市・谷本茂)
④「四天王寺」、略称「天王寺」(京都市・岡下英男)
⑤「水城は水攻めの攻撃装置である」という作業仮説について(下)(吹田市・茂山憲史)
⑥文武天皇は「軽天皇」(相模原市・冨川ケイ子)
⑦住吉神は九州王朝の軍神であった。そして、当麻寺は九州王朝の官寺(奈良市・原幸子)
⑧太宰府を囲む「巨大土塁」と『書紀』の「田身嶺・多武嶺」・大野城(川西市・正木裕)
⑨『魏志倭人伝』の陸行一月について -陳寿は極めて厳密な史官だった-(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
大阪府立大学「古田史学コーナー」の移転完了(2階)・千歳市の「まちライブラリー」で「古田史学コーナー」設置と12.23「植本祭」で講演(古田史学の会・北海道 今井俊圀さん「邪馬台国はなかった!?〜古代史の謎〜」)・11.26和水町で古代史講演会の報告・11.27『邪馬壹国の歴史学』出版記念福岡講演会の報告(久留米大学福岡サテライト)・2016.11.14東京ダイワハウスで服部静尚さんが講演・12.24東京古田会例会で冨川ケイ子さん講演「河内戦争」・2017.01.22 古田史学の会「新春古代史講演会」の案内・「古代史セッション」(森ノ宮)の報告と案内・会費未納者への督促・『古代に真実を求めて』20集「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」の編集について・「他流試合」の勧め・12.03史跡巡りハイキングの実施報告・その他


第1267話 2016/09/05

「三角縁神獣鏡」古田説の変遷(2)

 古田先生の最新刊『鏡が映す真実の古代』によれば、三角縁神獣鏡の成立時期を古田先生は「景初三年(239)・正始元年(240)」前後とされました(「序章」2014年執筆)。当初は4世紀以降の古墳から出土する三角縁神獣鏡は古墳期の成立とされていたのですが、この古田説の変化についてわたしには心当たりがありました。それは1986年11月24日、大阪国労会館で行なわれた「市民の古代研究会」主催の古代史講演会のときで、テーマは「古代王朝と近世の文書 ーそして景初四年鏡をめぐってー」でした。
 この講演録は『市民の古代』九集(1987年)に講演録「景初四年鏡をめぐって」として収録されており、「古田史学の会」ホームページにも掲載しています。当該部分を略載します。なお、この講演録が『鏡が映す真実の古代』に収録されなかった理由は不明です。平松さんにお聞きしようと思います。

〔以下、転載〕
 今、仮に「夷蛮」、この言葉を使わせてもらいます。(中略)いわゆる中国の周辺の国々に、いちいち早馬だか、早船を派遣して全部知らせてまわる人などということはちょっと聞いたことがないわけです。そうするとその場合、どうなるかというと、周辺の国が中国に使いをもたらしていた。それを中国では「朝貢」という上下関係、それでなければ受けつけない。現在で言えば「民族差別」「国家差別」でしょうが、そういう「朝貢」をもっていった時に、年号の改定が伝えられるというのが、正式な伝え方であろうと思うのです。
(中略)そういう時にその布告、「年号が変わった」ということが伝えられることになるわけです。そうしますとそういう国々で金石文をつくりました場合はどうなりますか。要するに中国本土内では存在しない「景初四年何月」という、そういう年号があらわれる可能性がでてくるわけでございます。事実、ここにちゃんとでてきているわけです。そうするとこの鏡は実は中国製ではない。「夷蛮鏡」という言葉を、私のいわんとする概念をはっきりさせるために、使ってみたんです。この年号は「夷蛮鏡」である証拠ではあっても、中国製である証拠とはならない、私は自分なりに確認したわけでございます。
〔転載終わり〕

 この講演を聴いたとき、わたしは驚きました。「景初四年鏡」を景初四年に国内で作られたとされたので、従来の三角縁神獣鏡伝世理論を批判されてきた理由との整合性はどうなるのだろうかとの疑問をいだいたのですが、わたしは「市民の古代研究会」に入会したばかりの初心者の頃でしたから、恐れ多くてとても質問などできないでいました。今、考えると、この頃から古田先生は三角縁神獣鏡の成立時期について見解を新たにされていたのではないかと思います。このことを、わたしよりも古くから先生とおつき合いされていた谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)にお聞きしたところ、わたしと同見解でした。谷本さんも「景初四年鏡」の出現により古田先生は見解を変えられたと思うとのことでした。(つづく)


第1265話 2016/09/01

「三角縁神獣鏡」古田説の変遷(1)

 平松健さん(東京古田会)が編集された古田先生の最新刊『鏡が映す真実の古代』(ミネルヴァ書房)を読んでいますが、三角縁神獣鏡に対する古田先生の見解の進展や変化が読みとれて、あらためてよい本だなあとの思いを強くしています。
 特に驚いたのが、同書冒頭の書き下ろし論文「序章 毎日が新しい発見 -三角縁神獣鏡の真実-」に記された次の一文でした。

 次に、わたしのかつての「立論」のあやまりを明白に記したい。三角縁神獣鏡に対して「四〜六世紀の古墳から出土する」ことから、「三世紀から四世紀末」の間の「出現」と考えた。魏朝と西晋朝の間である。
 いいかえれば、魏朝(二二〇〜二六五)と西晋朝(二六五〜三一六)の間をその「成立の可能性」と見なしていたのだ。だがこれは「あやまり」だった。「景初三年・正始元年頃」の成立なのである。この三十年間、「正始二年以降」の年号鏡(紀年鏡)は出現していない。すなわち、三角縁神獣鏡はこの時間帯前後の「成立」なのである。 (同書10ページ、2014年執筆)

 古田先生は三角縁神獣鏡の成立時期を「景初三年(二三九)・正始元年(二四〇)」前後とされているのです。すなわち、「景初三年鏡」や「正始元年鏡」という三角縁神獣鏡(金石文)を根拠に弥生時代の成立とされたのです。古くからの古田ファンや古田学派研究者はよくご存じのことですが、古田先生は三角縁神獣鏡は国産鏡であり、俾弥呼が魏からもらった鏡ではないとされ、次のように繰り返し主張されてきました。

 以上、古鏡の問題は、従来、「邪馬台国」近畿大和説のバックボーンをなすものと思われてきた。しかし、意外にも、それらの鏡群(三角縁神獣鏡。古賀注)は、三世紀とは別の時代の太陽を反射して、この世に生まれたようである。 (同書37ページ、初出『失われた九州王朝』1973年刊)

 最後に問題の三角縁神獣鏡の史的性格について、二・三の問題点をのべておこう。
(一)当鏡が四〜六世紀の古墳から出土している以上、その時代(古墳期)の文明の所産と見るべきであること。  (同書313ページ、初出『多元的古代の成立(下)』1983年刊)

 やはりすべてが古墳から出土する出土物は、これを古墳期の産物と考えるほかはない。これが縦軸の論理だ。
 以上の横と縦の「両軸の論理」からすれば、“三角縁神獣鏡は、古墳期における、日本列島内の産物である”--わたしにはこのように理解するほかなかったのである。  (同書327ページ、初出『よみがえる九州王朝』1987年刊)

 以上のように少なくとも1987年頃までは、古田先生は一貫して三角縁神獣鏡古墳期成立の立場をとっておられました。その理由も単純明瞭で、弥生時代の遺跡からは一面も出土せず、古墳期の遺跡から出土するのであるから、その成立を古墳期と見なさざるを得ないというものでした。これは三角縁神獣鏡を俾弥呼がもらった鏡だが、弥生時代には埋納されず、全面伝世し、古墳時代になって埋納されたという従来説(伝世理論)への批判として主張されたものです。(つづく)


第1245話 2016/08/05

「論証と実証」論の古田論文

 7月の「古田史学の会」関西例会での大下隆司さんからの「学問は実証よりも論証を重んじる」に関する発表を受けて、茂山憲史さん(古田史学の会・編集委員)も8月の関西例会で同問題について報告されることになりました。
 わたしはこの「学問は実証よりも論証を重んじる」という村岡典嗣先生の言葉は学問の金言と理解していますが、古田先生から直接詳しい説明をお聞きしたことはありませんでした。ところが、「古田史学の会」会員で多元的「国分寺」研究サークルの肥沼さんが同サークルのホームページに、古田先生による解説文を転載されました。古田先生の「学問的遺言」とも言うべきものですので、ここに転載させていただき、ご紹介いたします(転載にあたり、若干の編集を行いました)。

多元的「国分寺」研究ホームページより転載

2016年7月29日 (金)
「論証と実証」論(古田論文を収録!)

 もしかしたら,「学問は実証より論証を重んじる」について,以下のところに書いていないでしょうか?「新古代学の扉」サイトを眺めていて,そう思いました。筑紫舞のことが載っている『よみがえる九州王朝』の復刻版で,ミネルヴァ書房のものです。
 以下,古田武彦著『よみがえる九州王朝』(ミネルヴァ書房)より

日本の生きた歴史(十八)
 第一 「論証と実証」論

          一

 わたしの恩師、村岡典嗣先生の言葉があります。
「実証より論証の方が重要です。」と。
 けれども、わたし自身は先生から直接お聞きしたことはありません。昭和二十年(一九四五)の四月下旬から六月上旬に至る、実質一カ月半の短期間だったからです。
 「広島滞在」の期間のあと、翌年四月から東北大学日本思想史科を卒業するまで「亡師孤独」の学生生活となりました。その間に、先輩の原田隆吉さんから何回もお聞きしたのが、右の言葉でした。
 助手の梅沢伊勢三さんも、「そう言っておられましたよ。」と“裏付け”られたのですが、お二方とも、その「真意」については、「判りません。」とのこと。“突っこんで”確かめるチャンスがなかったようです。

          二

 今のわたしから見ると、これは「大切な言葉」です。ここで先生が「実証」と呼んでおられたのは、「これこれの文献に、こう書いてあるから」という形の“直接引用”の証拠のことです。
 これに対して「論証」の方は、人間の理性、そして論理によって導かれるべき、“必然の帰結”です。わたしが旧制広島高校時代に、岡田甫先生から「ソクラテスの言葉」として教えられた、
「論理の導くところへ行こうではないか、たとえそれがいかなるところへ到ろうとも」(趣意)こそ、本当の「論証」です。
 一例をあげましょう。
 三国志の魏志倭人伝には,直接「南米」そのものをしめす文面はありません。その点、狭い意味での「実証」では、「南米問題」は出てこないのです。
 しかし、倭人伝には次の文面があります。

①「(侏儒国)その南にあり。人の長三、四尺、女王を去る四千余里」
②「(裸国・黒歯国)あり。またその南東にあり。船行一年にして至るべし」

 わたしが『「邪馬台国」はなかった』で論証したように、倭人伝は、「短里」(七十五〜九十メートル。七十五メートルに近い)で記されているという立場からすれば、

(その一)「侏儒国」は足摺岬(高知県)近辺である。
(その二)「裸国・黒歯国」は南米のエクアドル近辺である。

 という、二つの命題に至らざるをえません。右の(その一)は「黒潮と日本列島の接点」であり、(その二)は「黒潮とフンボルト大寒流の接点」と対応しているのです。

 幸いに、わたしの「論証」は、“裏付け”られました。

(α)マラウージョ(一九八〇年)・フェレイラ(一九八三、八八年)の論文によって、化石ならびにミイラを通して日本列島側との交流が報告された(『「邪馬台国」はなかった』「補章 二十余年の応答」。ミネルヴァ書房版では三六六ページ)。

 さらに、

(β)南米の「インディオ」のウィルスと遺伝子が日本列島(太平洋側)の住民と「同一型」であることが証明された(田島和雄氏)。
(γ)南米の地名中の「スペイン語・ポルトガル語以外の地名」に「原初日本語」の存在が「発見」された(「トリ」「ハタ」「マナビ」等)。さらに有名な南米最大の湖「チチカカ湖」は、「チ(神の古名)」と「カ(神聖な水)」のダブリ言語(日本語では、チチブ山脈など)であり、「太陽の神の作りたもうた神聖な湖」(「アイマラ語」インカ語以前の諸言語)の意義であることが判明した(藤沢徹氏の報告による)。

 ここでも、日本語と南米の「原初語(地名)」がまさに“共通”していたのです。
 やはり、村岡先生の言われたように、学問にとって重要なのは、「論証」、この二文字だったようです。


第1233話 2016/07/16

投馬国五万戸の領域

 いつもの大阪府立大学なんばキャンパスが使用できなかったので、大阪歴史博物館の会議室で開催した本日の「古田史学の会」関西例会では、古田史学の方法論に関する大下さんの発表など刺激的な報告が続きました。評制施行時期に関する谷本さんの発表では、わたしと谷本さんとで論争となり、懇親会で服部静尚さん(古田史学の会・編集長)から感情的になりすぎるとお叱りをうけました。論争になるとついつい声が大きくなるという欠点は、還暦を過ぎてもなかなかなおりません。ごめんなさい。
 出野さんの発表で、倭人伝の投馬国を薩摩とする古田説に対して、筑前・筑後・肥前に広がる邪馬壹国の七万戸と比較して、薩摩で五万戸は無理とする出野さんからの指摘に、なるほどと思いました。懇親会でもこのことが話題となり、出野さんや大下さんと検討した結果、投馬国は薩摩だけではなく肥後も含まれていたのではないかという意見にまとまりました。最近、わたしが研究を進めている肥後の古代の見直しを、倭人伝の時代にまで遡って研究する必要を感じました。懇親会も有意義な関西例会に是非ご参加ください。
 7月例会の発表は次の通りでした。

〔7月度関西例会の内容〕
①暁鐘成(あかつきかねなる)の証言-大仁村にあった石棺(八尾市・服部静尚)
②難波宮の羅城 -暁鐘成の証言2(八尾市・服部静尚)
③「古田史学」の基本は実証主義 “学問は実証よりも論証を重んじる”について(豊中市・大下隆司)
④『住吉大社神代記』にあった「国宰」(奈良市・原幸子)
⑤古田先生は孔穎達をどう訓んでいたか(奈良市・水野孝夫)
⑥帯方郡から狗邪韓国の行程は水行か陸行か(奈良市・出野正)
⑦トリ氏出で埋められた神代巻-天照大神とその後の時代-(大阪市・西井健一郎)
⑧「評」史料の再検討(神戸市・谷本茂)
⑨実在した「イワレヒコ(神武)」-神話・伝承はある事実の反映だった-(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 7/23 「古田史学の会」東京講演会シンポジウム(正木さん・服部さん・古賀)の案内・9/03 狭山池博物館 西川寿勝さん講演の案内・「九州古代史の会」との交流開始・7/02 四国の会講演会(正木さん)の報告・8/31 NHK文化センター特別講座(谷本茂さん)の案内・「古代史セッション」(森ノ宮)の案内・その他


第1158話 2016/03/31

『邪馬一国への道標』が復刻

 古田先生の追悼会で、わたしは先生の代表的著作21冊を紹介しながら、そこに展開された学説や学問の方法、研究史上の位置づけなどについて紹介させていただきました。その概要は『古田武彦は死なず』に略載していますので、ご参照ください。
 3冊ずつ7項目に分けて紹介したのですが、時間的制約などのため紹介できなかった著作も少なくありませんでした。もし、あと一冊だけ紹介できるとしたら、躊躇なく『邪馬一国への道標』を上げるでしょう。その『邪馬一国への道標』が本年1月にミネルヴァ書房から復刻されました。喜びにたえません。
 同書には全編が口語体の柔らかい表現で読者に語りかけるように歴史研究の醍醐味や新発見が綴られています。巻末には小松左京さんとの対談録も収録されています。わたしが同書の中で最も感銘を受けたのが『三国志』の著者陳寿の生涯や人となりを紹介された第二章でした。『晋書』陳寿伝に記された陳寿の性格「質直」について、古田先生は次のように翻訳・解説されています。

 「(陳寿は)文章のもつ、つややかさは、司馬相如には劣りますが、“質直”つまり、その文章がズハリ、誰にも気がねせず真実をあらわす、その一点においては、あの司馬相如以上です。そこで漢の武帝の先例にならい、彼の家に埋もれている『三国志』を天子の認定による“正史”に加えられますように」(『晋書』陳寿伝中の上表文)

 この中にある「質直」について、古田先生は次のように解説されました。すなわち、「質直」とは「飾り気がなく、ストレートに事実をのべて他にはばかることがない」ということで、『論語』顔淵編の次の一文を出典として紹介されました。

 「『達』とは質直にして義を好み、言を察し、色を観(み)、慮(おもんばか)りて以て人に下るなり」

 この文を古田先生は次のように解説されています。

 「あくまで真実をストレートにのべて虚飾を排し、正義を好む。そして人々の表面の“言葉”や表面の“現象”(色)の中から、深い内面の真実をくみとる。そして深い思慮をもち、高位を求めず、他に対してへりくだっている」

 この古田先生の解説を読み、わたしは初めて自分の名前「達也」の出典が『論語』にあったことを知ったのです。「達とは質直にして義を好む」この一文を知り、以来、わたしは自らの名に恥じぬよう、「質直」を人生の指針としました。残念ながらとても陳寿のような立派な人物になれそうもありませんが、陳寿を尊敬することはできます。こうして古田先生の名著『邪馬一国への道標』は、わたしにとって忘れ得ぬ一冊となったのでした。


第1148話 2016/03/12

『邪馬壹国の歴史学』ついに刊行

 『邪馬壹国の歴史学 「邪馬台国」論争を超えて』がついに刊行されました。先日、ミネルヴァ書房から『邪馬壹国の歴史学 「邪馬台国」論争を超えて』が届いていました。古田先生の追悼も兼ねた渾身の一冊です。
 収録論文には古田先生の遺稿も含まれ、「古田史学の会」会員の論文は『三国志』倭人伝の最先端研究を収録しました。論文採否に当たっては、一切の妥協を排し、完全に納得したものだけを編集部で選びぬきました。古田先生の古代史処女作『「邪馬台国」はなかった』の後継論文集と自負しています。古田先生からも御生前にお褒めいただいた力作です。ご協力いただいた皆様や執筆者の方々に心から感謝申し上げます。
 この一冊を古田武彦先生に捧げます。

【目次】
はじめに -追悼の辞- 古田史学の会・代表 古賀達也
「短里」と「長里」の史料批判 -フィロロギー- 古田武彦
序 「邪馬台国」から「邪馬壹国」へ 古田武彦

Ⅰ 短里で書かれた『三国志』
1 「邪馬壹国」はどこか -博多湾岸にある- 古田武彦
2 『倭人伝』の里程は正しかった -「水行一日五百里・陸行一刻百里、一日三百里」と換算- 正木 裕
3 中国内も倭国内も短里 古田武彦
4 「倭地、周旋五千余里」の解明 -倭国の全領域を歩いた帯方郡使- 野田利郎
5 『三国志』のフィロロギー -「短里」と「長里」混在理由の考察- 古賀達也
6 短里と景初 -誰がいつ短里制度を布いたのか- 西村秀己
7 古代の竹簡が証明する魏・西晋朝短里 -「張家山漢簡・居延新簡」と「駑牛一日行三百里」- 正木 裕
8 「短里」の成立と漢字の起源 -「短里」の成立は殷代に遡る- 正木 裕
9 『三国志』中華書局本の原文改訂 古賀達也

Ⅱ 「邪馬壹国」の文物
1 女王国はどこか -矛の論証- 古田武彦
2 銅鐸問題 古田武彦
3 「卑弥呼の鏡」特注説 古田武彦
4 絹の問題 古田武彦
5 鉄の歴史と「邪馬壹国」 服部静尚
6 三十国の使いと「生口」 古田武彦

Ⅲ 二倍年暦
1 陳寿が知らなかった二倍年暦 古田武彦
2 盤古の二倍年暦 西村秀己

Ⅳ 倭人も太平洋を渡った
1 裸国・黒歯国の真相 古田武彦
2 エクアドルの遺跡問題 古田武彦
3 エクアドルの大型甕棺 -「倭国南海を極むる也、光武以って印綬を賜う」- 大下隆司

Ⅴ 『三国志』のハイライトは倭人伝だった
1 『三国志』の歴史目的 古田武彦
2 『三国志序文』の発見 古田武彦

Ⅵ 「邪馬壹国」と文字
1 「卑弥呼」と「壹」の由来 古田武彦
2 『魏志倭人伝』の「都市牛利」 古田武彦
3 北朝認識と南朝認識 -文字の伝来- 古田武彦
4 『魏志倭人伝』の国名 古田武彦
5 官職名から邪馬壹国を考える 正木 裕
6 『魏志倭人伝』伊都国・奴国の官名の起源-「泄謨觚・柄渠觚・※馬觚」は周王朝との交流に淵源を持つ- 正木 裕
 (※=「凹」の下に「儿」)

Ⅶ 全ての史学者・考古学者に問う
1 纒向は卑弥呼の墓ではない 古賀達也
2 邪馬台国畿内説と古田説がすれ違う理由 服部静尚
3 庄内式土器の真相 -古式土師器の交流からみた邪馬壹国時代の国々- 米田敏幸
4 「邪馬台国」畿内説は学説に非ず 古賀達也

編集後記 服部静尚
巻末史料1 倭人伝(紹煕本三国志)原本
巻末史料2 倭人伝(紹煕本三国志)読み下し文 古田武彦
事項索引
人名索引