「 倭人伝 」一覧

第1146話 2016/03/09

三雲・井原遺跡出土「硯」の使用者

 久留米市の歴史研究者、犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員)からメールをいただきました。3月5日に開催された「三雲・井原遺跡番上地区330番地現地説明会」の報告とともに説明会資料(糸島市教育委員会文化課)が添付されていました。弥生後期の硯が出土した遺跡で、貴重な説明会資料です。現地説明会などにはなかなか参加できませんから、こうして資料を送っていただき、ありがたいことです。
 資料によれば、この硯が出土した番上地区は50点以上の「楽浪系土器」が集中して出土するという、他の遺跡には見られない特徴を有していることから、「渡来した楽浪人の集団的な居住(滞在)を示す。」とされています。すなわち、出土した硯は楽浪からの渡来人が使用したとされて、次のように解説されています。

【硯出土の意義】
①これまでも三雲・井原遺跡番上地区には楽浪郡から来た人々が滞在したことが想定されていたが、硯の出土により楽浪郡(中国)との正式な文書のやり取りや、銅鏡など下賜品に対する受領書・返礼書などが作製された可能性が高まった。つまり、楽浪郡からの使者が渡海する目的の一つが伊都国の王都とされる三雲・井原遺跡の訪問にあることが想定される。
②『魏志倭人伝』には伊都国で文書(木簡)を取り扱った記事があるが、今回の硯の出土で記述の信頼性が高まった。
③朝鮮半島南部でも茶戸里遺跡で筆が出土し、半島南岸まで文書(木簡)が使用されていることは出土品から確認されていたが、筆は有機質であるため環境によっては残らないことが多い。今回の硯の出土は日本における文字文化の需要が弥生時代に伊都国で始まった可能性が高いことを示す。

 倭国王都の三雲・井原遺跡を伊都国王都としており、問題のある解説ではありますが、同地で文書行政が行われていたこと、同地から文字受容が始まったとする理解は穏当なものです。すなわち倭国の中心領域が古田説の糸島・博多湾岸であることを支持する解説なのです。「銅鏡など下賜品に対する受領書・返礼書などが作製された」とありますから、受領書や返礼書は受け取った当事者が書くものですから、同遺跡からはるかに離れた邪馬台国畿内説などでは説明不可能です。
 さらに考えれば、楽浪人(中国人)が当地に常駐していたとされていますから、女王国(邪馬壹国)の情報がかなり正確に中国に報告されており、その報告に基づいて記された「倭人伝」の記述も正確であったと言えます。


第1144話 2016/03/06

糸島市出土「硯」の学問的意義

 糸島市から出土した弥生時代の硯は、同地が文字文化受容の先進地域に属していたことを示しています。このことに関する論稿を「洛中洛外日記」744話『「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(7)』で記しました。この『「邪馬台国」畿内説は学説に非ず』はもうすぐ発行予定の『邪馬壹国の歴史学 「邪馬台国」論争を超えて』(古田史学の会編)に収録されます。
 こうした出土物が報告されるたびに、古田先生や古田史学の素晴らしさを何度も実感させられます。古田先生が生きておられれば、この硯の出土をどれほど喜ばれたことでしょう。
 『三国志』倭人伝には次のような記事が見え、この時代既に倭国は文字による外交や政治を行っていたことがうかがえます。

 「文書・賜遣の物を伝送して女王に詣らしめ」
 「詔書して倭の女王に報じていわく、親魏倭王卑弥呼に制詔す。」
 「今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し」
 「銀印青綬を仮し」
 「詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詔をもたらし」
 「倭王、使によって上表し、詔恩を答謝す。」
 「因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄を為(つく)りてこれを告喩す。」
 「檄を以て壹与を告喩す。」

 倭人伝には繰り返し中国から「詔・詔書」が出され、「印綬」が下賜されたことが記され、それに対して倭国からは「上表」文が出されてます。ですから日本列島内で弥生時代の遺跡や遺物から最も「文字」の痕跡が出現する地域が女王国(邪馬壹国)の最有力候補です。そうした地域が北部九州・糸島博多湾岸(筑前中域)で、次のような遺物が出土しています。

 志賀島の金印「漢委奴国王」(57年)
 室見川の銘版「高暘左 王作永宮齊鬲 延光四年五」(125年)
 井原・平原出土の銘文を持つ漢式鏡多数

 これらに加えて、今回の「硯」が出土したのですから、だめ押しともいえる画期的な出土といえます。日本列島内の弥生遺跡中、最も濃厚な「文字」の痕跡を有す糸島博多湾岸(筑前中域)を邪馬壹国に比定せずに、他のどこに文字による外交・政治を行った中心王国があったというのでしょうか。


第1143話 2016/03/05

弥生後期の硯が出土

 昨晩遅く、インフルエンザ?の発熱でふらふらになりながら東京出張から帰宅しました。正木さんからのメールで、糸島市から弥生後期の硯が出土していたことを知りました。これは画期的な出土であり、『三国志』倭人伝にあるように倭国での文字文化を証明するものです。体調が戻ったら調べてみたいと思います。
 2月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルは次の通りです。配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記【号外】」は「古田史学の会」会員限定サービスです。

 2月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル
2016/02/01 大型化する銅鐸と鋳造技術
2016/02/06 『東京古田会ニュース』に投稿
2016/02/09 Facebookでビジュアル「洛中洛外日記」発信
2016/02/10 「九州年号」研究サークル設立の相談
2016/02/11 久留米大学公開講座で講演します
2016/02/28 「古田武彦氏の著作と学説」の目次紹介


第1123話 2016/01/16

倭人伝「その北岸、狗邪韓国」大激論

 新年最初の関西例会が本日開催されました。関西例会らしく、新年早々から大激論となりました。冒頭、正木事務局長から明日に迫った古田先生追悼講演会の入念な打ち合わせがあり、例会参加者の協力を要請しました。
 出野さんから『三国志』倭人伝の「その北岸、狗邪韓国に到る、七千余里」の理解として、韓国の外側を水行した船から見て北側にある「北岸」とされ、古田説の韓国内陸行に反対する説が示されました。それに対して多くの批判が参加者から出され、厳しい論争が続きました。「学問は批判を歓迎する」とわたしは考えていますから、実に関西例会らしい素晴らしい論争でした。
 わたしは出野さんの読解のうち、「郡から倭に到る」とある倭人伝の「倭」が、「倭国の都」ではなく朝鮮半島内の「倭」である狗邪韓国までとする理解に、有力な見解であると賛意を表明しました。出野さんは狗邪韓国を日本列島内の倭国とは別国の朝鮮半島内の「倭」とされているのですが、わたしは倭国は対馬海峡にまたがる海峡国家とする古田説が妥当であり、狗邪韓国がその倭国の「北岸」と考えています。しかし、その「郡から倭に到る」の「倭」とは、倭国との国境(狗邪韓国)までと理解する点については出野さんの読解も成立すると思いました。ちなみに、古田先生は『「邪馬台国」はなかった』では「郡から倭に到る」の「倭」を「倭国の都」(倭国の中心領域)とされています。
 今回の出野さんの発表により気がついたのですが、郡から倭の都まで至ることを示す記事は、行程記事の終わりの方に「郡より女王国に至る、万二千余里」とあります。ここでは倭国の都がある「女王国」に至るという表記となっており、狗邪韓国までの行程を示す「郡より倭に至る」とは目的地表記(「倭」と「女王国」)が異なっているのです。すなわち、到着点(通過点)が倭との国境(狗邪韓国、七千余里)と倭の都(女王国、万二千余里)と書き分けられているのです。この点、古田先生も後の著作で触れておられたように記憶しています。
 韓国内を陸行とするのか水行とするのか、狗邪韓国を倭国の北岸とするのか、朝鮮半島内の別国の「倭」とするのかで、出野さんとは意見が異なりますが、論争により倭人伝行程記事に対する認識が深まりました。まさに「学問は批判を歓迎する」を実感できた論争でした。
 1月例会の発表は次の通りでした。

〔1月度関西例会の内容〕
○明日の「古田先生追悼講演会」の打ち合わせ(正木事務局長)

①狗邪韓国についての再考察(奈良市・出野正)
②代始改元と九州年号(八尾市・服部静尚)
③「名太子為利」の訓みの疑問(高松市・西村秀己)
④『日本書紀』宣化紀に盗用された磐井と「磐井の乱」記事の実際(川西市・正木裕)

○水野顧問報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生追悼文(森嶋瑤子様)・堂門冬二著『楠木正成』を読む・寄手塚味方塚訪問の想い出・室伏志畔著『薬師寺の向こう側』贈呈受・その他


第1110話 2015/12/23

教科書に古田説(韓国内陸行)採用

 先日の「古田史学の会」関西例会で『三国志』倭人伝の行程について論争が行われました。帯方郡(ソウル付近)から狗邪韓国(釜山付近)まで、陸行か水行かが争点でした。従来説では韓半島の西と南の海を水行するというものでしたが、古田説では一部水行した後、あとは韓半島内を陸行したとされています。
 ところが中学の歴史教科書(帝国書院「社会科 中学生の歴史」)に古田説の「韓国内陸行」が採用されていると、八王子市の前田嘉彦さんからその教科書が送られてきました。同書23ページにある「邪馬台国」という小さな図面ですが、確かに行程を示す赤いラインが韓国内は陸行を示しているのです。基本的に歴史教科書は「通説」「多数説」に基づいて編纂されますから、日本古代史学界は知らないうちに「韓国内陸行」という古田説を認めているようです。
 このように、気づかれないように古田説を部分的に取り込みながら、「通説」は古田説にすり寄っているのかもしれませんね。この件、引き続き調査したいと思います。
 ちなみに、同教科書巻末には次のように記されていました。
 「平成23年3月30日 文部科学省 検定済
  平成27年1月10日 印刷
  平成27年1月20日 発行」


第1098話 2015/11/28

『邪馬壹国の歴史学』のゲラ校正

 本日、「古田史学の会」編集(編集長:服部静尚さん)の『邪馬壹国の歴史学 -「邪馬台国」論争を超えて-』の初校用ゲラがミネルヴァ書房から送られてきました。
 同書は古田先生が亡くなられて最初に「古田史学の会」が発行する本となりました。先生が亡くなられる前に執筆していた「はじめに」を急遽書き換えて、追悼の言葉を入れました。また、巻頭には古田先生の遺影を掲載することにしました。先生からもご寄稿いただきましたが、それは「古田史学の会」として先生からの最後の原稿となりました。
 わたしの論稿からは次のものが収録されますが、中でも「『三国志』のフィロロギー -「短里」と「長里」混在理由の考察-」は先生からお褒めいただいた自信作です。

○はじめに --追悼の辞
○『三国志』のフィロロギー -「短里」と「長里」混在理由の考察-
○『三国志』中華書局本の原文改訂
○纒向遺跡は卑弥呼の宮殿ではない
○「邪馬台国」畿内説は学説に非ず

 わたしが論文を発表するとき、いつも第一読者として古田先生を意識してきました。先生から褒められた論文はそれほど多くはありませんが、これからは先生から褒められることもお叱りをうけることもなく、亡師孤独の研究の日々が続きます。
 『邪馬壹国の歴史学 -「邪馬台国」論争を超えて-』の内容は古田先生から高い評価をいただいたもので、わたしたち「古田史学の会」の総力を結集して作り上げた一冊です。来年1月17日の「古田武彦先生追悼講演会」に発刊を間に合わせたいと願っています。そして、謹んで先生の御霊前に進呈したいと思います。


第1054話 2015/09/13

「空白の4世紀」? 読売新聞の不勉強

 出張先の長岡市のホテルで読んだ読売新聞(9月9日朝刊)に「大和王権『空白の4世紀』に光」という見出しで、奈良県御所市の中西、秋津両遺跡の橿原考古学研究所による「古墳時代前期で最大規模の建物群」の発表が紹介されていました。読売新聞社大阪本社編集委員・関口和哉さんによる署名記事ですが、「空白の4世紀」という表現に、読売新聞と言えども不勉強だな、との感想を持ちました。
 同記事冒頭のリードには次のように解説されています。

 「女王・卑弥呼が君臨した邪馬台国(2〜3世紀)と、中国に使者を送った「倭の五王」(5世紀)の時代の間は、大和王権が発展した重要な時期だが、中国の史書に倭国を巡る記述がなく、〈空白の4世紀〉と呼ばれている。」

 4世紀の倭国のことを記した中国の史書がないとあり、おそらくはこれは大和朝廷一元史観の学者の受け売り記事と思われますが、古田先生は「四世紀は『謎』ではない」とする論考を1978年に『邪馬一国への道標』(講談社)で発表されています(228ページ)。同書にて四世紀の倭国のことを記した同時代史書『広志』(晋の郭義恭による)の存在をあげられているのです。『広志』はその本全体は残念ながら現存していないのですが、いろいろな本に引用されています。たとえば『翰苑』の倭国の項の注に次のように引用されています。(『翰苑』は唐の張楚金により書かれたあと、雍公叡により注が付けられています。その注に『広志』や『魏略』などの散逸した史料が引用されており、貴重です。)

 「倭国。東南陸行、五百里にして伊都国に到る。又南、邪馬嘉国に至る。百女国以北、其の戸数道里は、略載する得可し。次に斯馬国、次に巴百支国、次に伊邪国。安(案)ずるに、倭の西南、海行一日にして伊邪分国有り。布帛無し。革を以て衣と為す。」(古田武彦訳)

 『広志』の成立は古田先生の研究によれば4世紀初頭とされ、『三国志』を編纂した陳寿の没後(290年)間もなくの頃です。従って、『広志』を書いた郭義恭は『三国志』を読んで、それを参考にしています。ですから、『広志』には『三国志』以後に得られた倭国の情報が記されています。たとえば『三国志』では邪馬壹国の南方向にある投馬国(薩摩地方)の存在が記されていますが、筑後地方の南の肥後地方については記されていませんでした。ところが『広志』では邪馬嘉国(山鹿)、百女国(八女)、伊邪分国(屋久島か)などが記されており、4世紀段階の倭国に関する情報が記録されているのです。従って、「空白の4世紀」などと平気で書くのは自らの不勉強を露呈するようなものです。もっとも読売新聞の記者を責めるのも酷です。日本古代史学界の不勉強であり宿痾(古田説無視・大和朝廷一元史観)が真の原因なのですから。
 このように4世紀の倭国は「謎」でも「空白」でもありません。博多湾岸にあった邪馬壹国を都として、更に九州の西南端や屋久島について記した『広志』があり、従って、これら史料を無視しない限り「邪馬台国」東遷説など「仮説」としてさえも成立しないのです。畿内説に至っては学説でさえもないことは既に「洛中洛外日記」(「邪馬台国」畿内説は学説に非ず)で繰り返し説明してきたとおりです。
 投馬国の範囲について、昨日、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)と意見交換したのですが、邪馬壹国が「七万余戸」で、投馬国は「五万余戸」とあることから、投馬国は薩摩地方だけでは収まりきれず、大隅や日向も含んでいるのではないかとの考えを正木さんは示されました。なるほど、そうかもしれないと思いました。
 『広志』に記された「邪馬嘉国(山鹿)」ですが、わざわざ記されたことを考えると倭国内の重要な国であると考えられますから、山鹿市にある鞠智城との関係に興味をひかれます。鞠智城の成立が4世紀まで遡るとは考えにくいのですが、もともと重要な拠点都市であったことから、その地に鞠智城が造営されたのではないでしょうか。この点も、これからの楽しみな研究課題です。


第1012話 2015/08/02

『「邪馬台国」論争を超えて』(仮称)の

「はじめに」

 昨日、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)と服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)が見えられ、9月6日に開催する『盗まれた「聖徳太子」伝承』出版記念東京講演会(東京家政学院大学千代田キャンパス)の打ち合わせなどを行いました。
また、ミネルヴァ書房から発行が予定されている『「邪馬台国」論争を超えて -邪馬壹国の歴史学-』(仮称)の編集についても検討を進めました。当初予定していた論稿に加えて、野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)の論文を新たに収録することも確認しました。
 巻頭に掲載する「はじめに」をわたしが書くことになっていましたので、昨日急いで書き上げ、服部さんに提出しました。今後、修正するかもしれませんが、ここに「はじめて」をご紹介します。年内の出版を目指していますが、会員には割引価格で提供することを検討しています。
 古田先生の講演録をはじめ、会員による論文などを収録しています。なかなかよい本になっていますので、ご期待ください。

 

はじめに

   古田史学の会・代表 古賀達也

 昭和四六年(一九七一)十一月、日本古代史学は「学問の夜明け」を迎えた。古田武彦著『「邪馬台国」はなかった 解明された倭人伝の謎』が朝日新聞社より上梓されたのである。この歴史的名著はそれまでの恣意的で非学問的な「邪馬台国」論争の風景と空気を一変させ、学問的レベルをまさに異次元の高みへと押し上げた。
 それまでの「邪馬台国」論争における全論者は『三国志』倭人伝原文の「邪馬壹国」を「邪馬台国」と論証抜きで原文改訂(研究不正)してきた。邪馬壹国ではヤマトとは読めないから「邪馬台国」と原文改訂し、延々と「邪馬台国」探しを続けてきたのである。それに対して、古田氏は原文通り「邪馬壹国」が正しいとされ、古代史学界の宿痾ともいえる、自説の都合にあわせた論証抜きの原文改訂(研究不正)を厳しく批判されたのである。
 また、帯方郡(ソウル付近)から女王国(邪馬壹国)までの距離が倭人伝には「万二千余里」とあり、一里が何メートルかがわかれば、その位置は自ずと明らかになる。そこで古田氏は『三国志』の記述から実証的に当時の一里が七五〜八〇メートル(魏・西晋朝短里説の提唱)であることを導きだし、その結果、「万二千余里」では博多湾岸までしか到達せず、およそ奈良県などには届かないことを明らかにされた。
 さらには倭人伝の記述から、倭人が南米(ペルー・エクアドル)にまで航海していたという驚くべき地点へと到達された。その後の自然科学的研究や南米から出土した縄文式土器の研究などから、この古田氏の指摘が正しかったことが幾重にも証明され、今日に至っている。
 こうした古田氏の画期的な邪馬壹国博多湾岸説は大きな反響を呼び、『「邪馬台国」はなかった』は版を重ね、洛陽の紙価を高からしめた。その後、古田氏の学説(九州王朝説など)は古田史学・多元史観と称され、多くの読者と後継の研究者を陸続と生み出し、今日の古田学派が形成されるに至ったのである。
本年、古田氏は八九歳になられ、今なお旺盛な研究と執筆活動を続けておられる。名著『「邪馬台国」はなかった』が世に出て既に四四年の歳月を迎えたのであるが、その邪馬壹国論の新段階の集大成として、本書は古田氏の講演録・論文とともに、氏の学問を支持する古田学派研究者による最先端研究論文を収録した。『「邪馬台国」はなかった』の「続編」として、百年後も未来の古田学派の青年により本書は読み継がれるであろう。
 最後に『「邪馬台国」はなかった』の掉尾を飾った次の一文を転載し、本書を全ての古田ファンと古田学派に送るものである。(二〇一五年八月一日)

今、わたしは願っている。
古い「常識」への無知を恥とせず、真実への直面をおそれぬ単純な心、わたしの研究をもさらにのり越えてやまぬ探求心。--そのような魂にめぐりあうことを。
それは、わたしの手を離れたこの本の出会う、もっともよき運命であろう。


第997話 2015/07/09

老松堂の韓国内陸行

 先日、名古屋で「古田史学の会・東海」の竹内会長らと懇談したとき、倭人伝の行程記事における「韓国内陸行」が話題に上りました。そのおり、後代史料ですが朝鮮通信使の記録『老松堂日本行録』を紹介し、その通信使節が韓国内を陸行していることを説明しました。
 わたしが岩波文庫から出されている『老松堂日本行録 朝鮮通信使が見た中世日本』を読んだのは25年ほど昔のことですが、同書は李氏朝鮮の文官「宋希環(老松堂)」が通信使として来日したときの記録で、1420年、朝鮮の首都漢城(今のソウル)を出発した通信使節団が日本に来るとき、朝鮮半島内は内陸部を斜めに縦断(陸行)していたことが、その記録(地名)からわかります。古代も中世も国家使節団は半島内を斜めに陸行しているのです。現在の地図で確認してもその行程が韓国内の幹線道路とほぼ重なっていますし、わたしも韓国出張のとき、同様のルートを高速道路で移動した経験がありますので、よく納得できます。
 逆に、朝鮮半島の西岸を「水行」するのは、大勢の犠牲者を出したフェリーの沈没事故などを見てもわかるように、古代も現代もリスクが大きいルートではないでしょうか。
 このようなことを竹内会長や林さん、石田さんと夕食をご一緒しながら懇談させていただきました。各地に「古田史学の会」の組織や会員がおられますから、これからも機会があれば懇談を続けたいと願っています。


第954話 2015/05/17

倭人伝「周旋可五千余里」の新理解

昨日の関西例会で興味深い報告が野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)からなされました。「『三国志』と朝鮮半島の「倭」について」という研究報告の中で、『三国志』倭人伝に見える「倭地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或は絶え或は連なること、周旋五千余里ばかり。」の「五千余里」を倭人伝に記された倭国内の陸地の合計距離とされ、下記の行程里数を示されました。

1,対海国の陸行           800里
2,一大国の陸行           600里
3,末廬国から女王国         600里
4,女王国(九州)から侏儒国(四国)3000余里
合計              5000余里

「周旋五千余里」記事は、女王国から侏儒国への行程記事や裸国・黒歯国記事の直後にあり、対海国から侏儒国への倭国内陸地行程の合計5000余里と偶然の一致とは思われない里数値です。なお、4の3000余里は女王国から侏儒国への「四千余里」から渡海里数の「女王国東渡海千余里」を引いた里数値です。
発表後の質疑応答のとき、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)から、この野田説に対してどう思うかと突然聞かれたのですが、わたしも野田さんのこの倭国内陸地里数合計値に注目していましたので、あたっているかどうかはわからないが、陳寿の認識(「周旋五千余里」を導き出した計算方法)をたどる上で興味深いと、やや曖昧な返事をしました。
この野田説は例会後の懇親会でも取り上げられ、もしかすると有力な仮説かもしれないと思うようになりました。この野田説は何年か前に野田さんから例会発表されていたことを西村さんから指摘されたのですが、わたしは失念していたようです。『三国志』での「参問」や「周旋」の使用例を調べると、野田説の当否を確認できるかもしれません。
従来は、倭人伝の記事から次のように「周旋五千余里」を理解していました。

1.帯方郡から倭の北岸の狗邪韓国まで「七千余里」
2.帯方郡から女王国まで「万二千余里」
3.倭地参問が「周旋五千余里」

このように、「七千余里」と「周旋五千余里」の合計が帯方郡から女王国までの総里程「万二千余里」に一致し、「周旋五千余里」には狗邪韓国から女王国までの海を渡る水行距離も含まれていると理解されてきました。
この従来説と野田新説のどちらが妥当(陳寿の認識)なのか、今後の研究の進展が期待されます。