古層の神名一覧

第1217話 2016/06/30

愛知県一宮市馬見塚出土の甕棺墓

 図書館で『尾張史料の新研究』(森徳一郎著、昭和12年発行、昭和63年復刻)を閲覧したのですが、その中にある「尾張馬見塚甕棺群の真相(1)」によれば、愛知県一宮市馬見塚から大量の甕棺が出土していたことが記されていました(facebookに写真掲載)。
 甕棺墓と言えば北部九州の弥生時代の代表的墓制で、吉野ヶ里遺跡からも大量に出土しています。それと酷似した甕棺群が一宮市から出土していたとのことで、北部九州以外の地からこれほどの量の甕棺が出土するのは珍しいのではないでしょうか。
 説明によれば、金属器は出土しておらず、石器が一緒に出土しており、土器も弥生と縄文の中間の様相を示しているとのことですから、北部九州の甕棺墓よりも時代が古いのかもしれません。北部九州の甕棺墓と偶然の一致なのか、両者に何らかの関係があるのかはわかりませんが、とても興味深く思われました。おそらく、私が勉強不足で知らないだけで、他の地域からも同様の甕棺墓が発見されているかもしれません。引き続き、勉強したいと思います。詳しい方がおられれば、ご教示ください。


第1191話 2016/05/19

古層の魚名(思いつき編)

 長岡出張も今日で終わり、午後からは東京で仕事です。長岡は日本酒がおいしいので、ついつい飲み過ぎてしまいます。お魚もおいしく、とても良いところです。そんな魚料理を食べながら、古田先生との鮭に関する会話を思い出しました。
 それは魚を神として祀る文化や風習についてでした。糸島の高祖神社の御祭神は「あらがみ」様とも呼ばれていることと、九州では大魚のクエのことを「あら」と呼んでいることもあって、「あら」という魚と荒神は関連があるのではないかというテーマでした。記紀神話で活躍する夫婦の神様、イザナギ・イザナミの名前も鯨の古名「いざな」と共通しており、海洋民族の信仰に基づくものではと古田先生は考えておられました。そして、筑豊地方に鮭を祀る神社(鮭神社。福岡県嘉麻市)があるとのことでしたので、鮭(さけ・しゃけ)の「け」は古い時代の神様を意味する「け」ではないかと申し上げたところ、古田先生もその可能性を認められました。
 そんなことを思い出していたら、鮭(さけ・しゃけ)の「け」が古層の神名であれば、鯱(しゃち)の「ち」も古層の神名「ち」に由来するのではないかということを思いつきました。そうすると鮭の「さ・しゃ」と鯱の「しゃ」は語原が共通するのではないかと思考は進展しました。そこで、ネットで鯱の語原を検索すると、アイヌ語で豊漁をもたらす「沖の神」を意味するという説が見つかりました。だとすれば、鯱を「しゃ」の「ち(神)」とするわたしの「思いつき」も意外と当たっているかもしれません。まだ「さ」「しゃ」の意味はわかりませんが、言素論の応用で解明できればと思います。以上、魚の古名の「思いつき」(学問的仮説のレベルには達していない)でした。


第1188話 2016/05/16

十三弁花紋と五十猛命と九州王朝

 久留米市の犬塚幹夫さんの調査によると、わたしが九州王朝の家紋ではないかと推定している十三弁の花紋ですが、単弁十三弁蓮華文軒丸瓦が出土する遺跡は次のように筑前・筑後を中心として北部九州に分布しているようです。

筑後国分寺跡(久留米市)
堂ヶ平遺跡(広川町)
太宰府史跡(太宰府市)
鴻臚館跡(福岡市)
宝満山遺跡(太宰府市)
浄妙寺(榎寺)跡(太宰府市)
筑前国分寺跡(太宰府市)
菩提廃寺(福岡県京都郡みやこ町)
豊前国分寺跡(福岡県京都郡みやこ町)

 他方、十三弁の菊家紋を紋章としている神社として兵庫県たつの市の中臣印達神社(なかとみのいたてじんじゃ)が知られています。その御祭神を調べてみますとなんと五十猛命でした。わたしにはこの五十猛命に見覚えがありましたので、『太宰管内志』で確認したところ、筑紫神社(福岡県筑紫野市)と荒穂神社(佐賀県基山町)の御祭神が五十猛命(筑紫の神)でした。
 両神社は比較的近傍(基山の東麓と西麓に位置します)にある神社で、御祭神が共通していることから、五十猛命は筑紫と肥の国にまたがる古い神様(天孫降臨以前の権力者)と思われます。
 偶然かもしれませんが、筑紫と五十猛命と十三弁紋が「九州王朝の十三弁紋」という仮説が結節点となって有機的な繋がりが見えてきそうです。調査はまだ始まったばかりですので、あまり断定せずに研究を進めたいと思います。


第1061話 2015/09/24

九州発か「○○丸」名字(3)

 「○○丸」名字の考察と調査を進めてきましたが、その中心地(淵源)が福岡県を筆頭とする九州地方であることは、まず間違いなさそうです。そうなると、やはり古代九州王朝との関係が気になるところです。そもそも「丸(まる)」とは何を意味するのでしょうか。古田先生が提唱された元素論でもちょっと説明できません。「ま」や「る」の元素論的定義(意味)から解明できればよいのですが、今のところよくわかりません。
 しかし、まったくヒントがないかと言えば、そうでもありません。たとえばお城の「本丸」や「二の丸」の「丸」や、日本の船の名前に多用される「丸」などと関係があるのではないかと睨んでいます。古代伝承でも朝倉の「木(こ)の丸殿」に天智天皇がいたとするものがあり、「天皇」の宮殿名にも「丸」が採用されていた痕跡かもしれません。
 こうしたことから推察すると、「丸」とは周囲とは隔絶された重要(神聖)な空間・領域を意味する用語と考えてもよいのではないでしょうか。そうすると「丸」の「ま」は地名接尾語の「ま」(一定領域)と同源のように思われます。
 ラグビーの五郎丸選手のおかげで、ここまで考察を進めることができましたが、まだ作業仮説(思いつき)の域を出ていませんので、これからも勉強したいと思います。


第1060話 2015/09/23

九州発か「○○丸」名字(2)

 名字や地名の由来をネット検索で調べてみますと、「○○丸」地名の説明として、「丸」とは新たな開墾地のことで、例えば田中さんが開墾すれば「田中丸」という地名が付けられ、その地に住んでいた人が「田中丸」を名字にしたとするものがありました。しかし、これはおかしな説明で、それでは新たな開墾地は九州や広島県に多く、その他の地方では開拓しなかったのかという疑問をうまく説明できません。さらに「五郎丸」の場合は「五郎」さんが開墾したことになり、これではどこ家の五郎さんかわかりません。やはり、この解説ではこれらの批判に耐えられず、学問的な仮説とは言い難いようです。ネットの匿名でのもっともらしい説明はあまり真に受けない方がよいと思います。
 それでは「五郎丸」の「五郎」は人名に基づいたものでしょうか。わたしはこのことにも疑問をいだいています。たとえば、わたしの名字の「古賀」は福岡県に圧倒的に濃密分布しているのですが、「名字由来net」で検索したところ「古賀丸」という名字は1件もヒットしないのです。「古賀」さんたちは新たに開墾しなかったのでしょうか。自らの名字に「丸」を付けるのがいやだったのでしょうか。ちなみに、「古賀」「○○古賀」という地名は福岡県内にけっこう存在します。
 このような疑問の連鎖が続くこともあり、「五郎丸」名字と関連した「○郎丸」名字を「名字由来net」で調べてみました。次の通りです。数値は概数のようですので、「傾向」としてご理解ください。

〔「○郎丸」名字 県別ランク人数〕(人)
名字  1位   2位   3位       全国計
太郎丸 福岡80    佐賀10  長崎10          130
次郎丸 福岡230  大分50  神奈川,東京30   440
一郎丸 福岡50                              50
二郎丸 福岡60   東京10                    70
三郎丸 広島50   福岡40  大分・長崎20    150
四郎丸 福岡70   広島50  東京30          180
五郎丸 福岡500  山口120  広島60         990
六郎丸 大分・広島10                        10
七郎丸 大分・福井10                        20
八郎丸 無し                                 0
九郎丸 熊本50   福岡30  埼玉・兵庫10     90
十郎丸 無し                                 0

 以上の結果から、やはり「○郎丸」名字は福岡県に多いことがわかり、中でも「五郎丸」さんが他と比べて断トツで多いことが注目されます。人名がその名字の由来であれば、長男や次男の「太郎丸」「次郎丸」の方が多いのが普通と思うのですが、五男の「五郎丸」が多いのでは辻褄があいません。やはり、これらの名字は単純な人名由来ではないと考えたほうがよいように思われますが、いかがでしょうか。
 余談ですが、「○郎丸」名字検索で、超有名な「○郎」さんとして、「金太郎丸」「桃太郎丸」を調べたところ0件でした。そんな名字の人がおられたら、テレビなどで取り上げられるはずですから、やはりおられないのでしょう。(つづく)


第1059話 2015/09/22

九州発か「○○丸」名字(1)

 ラグビーワールドカップでの南アフリカ戦での劇的な逆転勝利で一躍有名になった五郎丸選手ですが、キックの時の印象的なルーチンと呼ばれる動作とともに、その珍しいお名前に、わたしの好奇心がフツフツと沸いてきました。というのも、「五郎丸」のように名字が「○○丸」という人が何故か九州に多いと感じていたので、もしやと思い、五郎丸さんのご出身地を調べてみると、やはり福岡市ということでした。わたしの母校(久留米高専)の後輩にも小金丸さんがいましたし、知人には田中丸さん市丸さんもおり、いずれも福岡県や佐賀県の出身です。また、筑後地方には田主丸という地名もあり、この「丸」地名や「丸」名字は古代九州王朝に淵源するのではないかと考えていたのです。
 そこで、インターネットの「名字由来net」というサイトを利用して、「丸」名字の分布を調べてみました。五郎丸さんをはじめ、著名人や知人の「丸」名字の県別分布ランキングは次のようでした。数字は概数であることから、あくまでも大まかな傾向と理解した方がよさそうですが、やはり推定通りの結果となりました。次の通りです。なお、これは漢字表記の分類で、複数の訓みがある場合はその合計です。

〔著名人・知人の県別「丸」名字人数〕(人)
名字  1位   2位  3位    全国計
五郎丸 福岡500  山口120 広島60     990
小金丸 福岡1400 長崎170 東京130   2200
薬師丸 福岡10  神奈川10        20
田中丸 佐賀130  福岡90   神奈川30   380
薬丸  福岡190  鹿児島120 宮崎70    740
金丸  宮崎5200 東京2400 福岡2300 25600
市丸  佐賀1200 福岡820  東京290   3800
力丸  福岡1200 福島550  神奈川190 2800
井丸  広島50   福岡40   大阪30     240
田丸  千葉1700 神奈川1400 広島1400 11700

 以上のように、田丸さんを除けばほぼ九州、特に福岡県に「丸」名字が集中していることがわかります。九州以外では何故か広島にも多く、これが何を意味するのか興味深いところです。田丸さんだけは傾向が異なり、関東に多く分布していますが、ここでも2位に広島県が食い込んでいることが注目されます。なお、「丸」一字の名字もあり、1位が千葉2400、2位東京830、3位神奈川470で、全国合計5300でした。千葉県に「丸」さん「田丸」さんが多いことが注目されます(千葉県南房総市に「丸」という地名もあるようです)。(つづく)


第1001話 2015/07/18

鋳型の神「天糠戸命・石凝姥命」

 わたしが「古田史学の会」代表に就任して最初の関西例会が開催されました。今回も服部さんと西村さん正木さんとの間で「大化改新」論争における「乙巳の変」を『日本書紀』通り645年とするのか7世紀末の事件とするのかで論争が展開されました。どちらも相譲らず論争はこれからも継続しそうです。
わたしが興味深く拝聴したのが、出野さんの発表で、奈良に点在する鏡作神社の祭神「天糠戸命(あまのぬかど)・石凝姥命(いしごりどめ)」は銅の鋳造にかかわる神で、銅鐸圏の銅鐸製造工人集団に淵源するとされました。その根拠として、鋳造に使用する鋳型の材料として「米ぬか」「石」があり、神の名前にある「ぬか」「いし」がそれを表しているとされました。なかなか面白い仮説だと思います。
 なお、御祭神はこの二神の他に「天照国照大神」もあり、これは本来は「ニギハヤヒ」ではなかったかとされ、出野さんは銅鐸圏の神とされました。この銅鐸圏の銅鐸製造技術者が鏡を祭祀する天孫族に取り込まれ、後に鏡造集団となり、その神々が鏡作神社に祀られたとのことでした。
わたしは「天照国照大神」もその名前から、「天」や「国」を照らす「鏡」に関わる神と考えても良いように思いますが、これからの研究テーマでしょう。さらなる展開が期待される研究発表でした。
 お昼休みに開催した「古田史学の会」役員会では、竹村順弘さん(事務局次長)から提案されていたフェースブックの新設について審議し、「古田史学の会」としてフェースブックに参入することを決定しました。具体的な立ち上げ準備は竹村さんが進められますが、掲載するコンテンツなどは引き続き検討したいと思います。
 7月例会の発表は次の通りでした。

〔7月度関西例会の内容〕
①讃岐の豊玉姫伝説(高松市・西村秀己)
②歴史学における論証(奈良市・出野正)
③銅鐸祭祀から鏡祭祀へ①(奈良市・出野正)
④乙巳の変 695年説についての考察(八尾市・服部静尚)
⑤九州王朝の天子の系列と伊予行幸(川西市・正木裕)
⑥「日本正史『日本書紀』」上における「神武紀」の役割及びニギハヤヒの位置付け(東大阪市・萩野秀公)

○水野顧問報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況(『古代史をゆるがす真実への七つの謎』ミネルヴァ版出荷開始・青森のホテルに「和田家文書」の展示・他)・7/25古田先生への役員交代の挨拶・下鴨神社〜京都大学博物館ハイキング・テレビ視聴(「郡山城天守台の発掘と金箔瓦」「飛鳥の古墳を考える」)・『二中歴』白雉年間の「最勝会」の研究・その他


第925話 2015/04/17

久留米市「伊我理神社」調査報告

 久留米市の犬塚さんから、同市城島町の「伊我理神社」調査報告のメールが届きました。ホームページ読者からのこうした現地調査報告は大変ありがたいことです。しかも、かなり詳細な報告でしたので、様々な問題点が明らかとなり、今後の研究にとても役立ちました。犬塚さんのご了解を得ましたので、メールを転載し、わたしの考察を付記します。

【調査報告】※メールより抜粋。(転載文責:古賀)

古賀達也様
 
 洛中洛外日記第911話の「威光理神社」に関し、資料及び現地調査(2015.4.15)から以下のようなことが分かりましたのでご報告します。他の方からの情報と重複する部分があればご容赦ください。

1 威光理神社(伊我理神社)は、城島町に4社存在します。
 
(1)伊我理神社      久留米市城島町楢津1364
    祭神 天照大神荒御魂
 
    威光理大明神(寛文十年久留米藩社方開基)
    威光理宮(神社仏閣并古城跡之覚書)
  威光理明神社(筑後志)
 伊我理神社(福岡県神社誌下巻)
    威光理神社(城島町の史蹟・遺跡・文化財)
    伊我理神社(城島町誌)
 
  現地調査の結果:鳥居(昭和15年建立)の神額及び境内の芳名録(昭和13年)には「威光理神社」とあり、建立祈念碑(平成20年)では「伊我理神社」と なっている。
 
(2)伊我理神社       久留米市城島町六町原847
    祭神 天照大神荒御魂
 
    威光理大明神(寛文十年久留米藩社方開基)
    威光理神社(神社仏閣并古城跡之覚書)
    威光理明神社(筑後志)
    伊我理神社(福岡県神社誌下巻)
    伊我理神社(城島町の史蹟・遺跡・文化財)
    伊我理神社(城島町誌)

 現地調査の結果:鳥居(平成18年再建)の神額には「伊我理神社」とある。境内には、小さな拝殿があるのみで神社名や祭神を示すものは何もない。
 
(3)天満宮        久留米市城島町大依190
  祭神 菅原道真
    合祀  威光理神社

  末社 威光理五社大明神(神社仏閣并古城跡之覚書)
  境内神社 伊我理社(福岡県神社誌下巻)
    合祀 威光理神社(城島町の史蹟・遺跡・文化財)
    合祀 威光理神社(城島町誌には「昭和37年10月18日天満神社神殿に遷宮し、合祀した。」とある。)

 現地調査の結果:境内には由緒を説明するものはなく、威光理神社を示すものも見当たらなかった。

(4)高良玉垂神社(旧七社大権現)久留米市城島町楢津942-1
  祭神 正座七社 高良玉垂命・住吉大神・八幡大神・須佐之男命・川上大神・熊野大神・天満宮
    相殿二社 伊我理社・諏訪社
    末社 威光理大明神社(寛文十年久留米藩社方開基)
    すき崎 威光理大明神(神社仏閣并古城跡之覚書)
     末社 威光理神社(筑後志)
     伊我理神社(城島町の史蹟・遺跡・文化財「昭和39年3月合祀、末社として境内に祀った。」)
     末社 伊我理神社(城島町誌)

 現地調査の結果:由緒に「昭和三十八年十月諏訪神社・伊我理神社合併本社に合祀する。」とあった。境内東側に、上記合祀に伴い境外から移設した鳥居(建立年代不詳)があり、その神額には「伊我理神社」とあった。

2  高良玉垂神社に対する聴き取り調査(2015.4.16)
 上記四社の管理を行っている高良玉垂神社に対し電話で聴取を行った。禰宜の大石さんから以下のような話をいただいた。

 高良玉垂神社の境内にある伊我理神社の鳥居は、昭和38年の合祀の際、別の場所にあった伊我理神社から移設したものである。現在その場所には何もない。鳥居が建立された時期についてはよく分からない。
 大依の天満宮には、伊我理神社が昭和37年に合祀されている。本殿が新設された際境内にあるすべてのものを本殿に納めたので境内には何もない。
 神社の名称が「威光理神社」から「伊我理神社」に替わったという認識はない。従前「いかり」という名に「威光理」や「伊我理」の漢字を当てはめ、併用されてきたと思われる。現在は「伊我理神社」に統一されている。楢津の「伊我理神社」も鳥居には「威光理神社」とあるが、正式には 「伊我理神社」である。名称が四社とも統一されたのは、第二次大戦後宗教法人として登録する際煩雑さを避けるためであったと聞いている。

 

3  その他
 城島町誌103頁に、城島の地名の由来として次のような記述があります。

「井上農夫の調査によると、光孝天皇の仁和三年(887)、豊島真人時連が高三潴の役所に近い大依に土着し、氏神伊我理神を祀り、周囲の海岸・潟地・洲島を開拓して勢力を広めた。」

 この郷土史家井上農夫の調査の内容、資料については何も示されていないため、当初から「伊我理」という神名であったのか確認ができない状態です。今後何か分かれば追ってお知らせしたいと思います。

  久留米市 犬塚幹夫

【古賀の考察】
(1)現在は「伊我理神社」に名称は統一されているが、江戸時代の史料には全て「威光理」とあることから、本来の名称は「威光理」と考えられる。

(2)江戸時代よりも後に「伊我理」の名称が採用されたが、御祭神は「天照大神荒御魂」とあり、伊勢神宮末社「伊我理神社」の御祭神伊我理比女命とは異なる。従って、神社名は伊勢神宮末社と同名に改称したが、御祭神まで同一にはしなかった。ただ、いずれも女神という点で一致しており、留意したい。

(3)「井上農夫の調査」によれば、仁和三年(887)に豊島真人時連が当地に氏神として祀ったとあり、これが正しければ「威光理」は当地あるいは近隣地域の氏神であり、「現地神」ということになろう。

(4)現地神であれば、「威光理」とは地名か神の固有名の可能性が高い。

(5)そうすると、現在の御祭神「天照大神荒御魂」も本来の名称ではなく、いずれかの時代に御祭神が変更・改称されたと考えられる。恐らく、神社名が「威光理」から「伊我理」に変更されたときではないか。

 以上のように考察しましたが、引き続き調査検討します。犬塚さん、ありがとうございました。


第921話 2015/04/12

『新撰姓氏録』の「光井女」

 『筑後志』三潴郡の「威光理明神」は神武記に見える「井氷鹿」のことではないかとする思いつきから始まった今回の探索は、伊勢神宮にまで行き着きついたのですが、伊勢神宮末社の伊我理神社の御祭神が伊我理比女命という女性であったことに、ちょっとおどろきました。というのも、かなり昔に『新撰姓氏録』の研究を行ったとき、次のような記事があり、よく理解はできませんでしたが、当時から注目していました。『新撰姓氏録』「大和国神別」に見える「吉野連」の次の記事です。

 「神武天皇が吉野へ行幸し、神の瀬に至り、水汲みに人を派遣した。帰った来た使者が言うには、光井女がいたと。天皇が召し出して名を尋ねたところ、わたしは天降り来た白雲別神の娘で、名前は豊御富ですと答えた。そこで天皇は水光姫と名付けた。今、吉野連が祭る水光神とはこのことである。」(古賀訳)

 この『新撰姓氏録』の記事は、当時の吉野連の伝承と記紀に見える「井氷鹿」「井光」記事から成立したものと思いますが、「光井女」と女性の伝承となっています。ちなみに記紀の記事からは性別はわかりません。伊勢神宮の末社に祭られた伊我理比女と『新撰姓氏録』の「光井女」(豊御富・水光姫)記事はともに女性の伝承としていますから、もしかすると三潴郡の威光理明神も女性かもしれませんが、今のところ判断できません。
 なお、佐伯有清さんの『新撰姓氏録の研究』(吉川弘文館)によれば、『新撰姓氏録』の諸版本には「井光女」とあり、諸本には「光井女」とあるとのこと。(つづく)


第920話 2015/04/12

伊勢神宮外宮末社の井中神社

 伊勢神宮外宮末社の伊我理神社を調べていて興味深いことを知りました。伊我理神社内に井中神社が同座しているのです。明治時代に井中神社が別のところから伊我理神社に遷座したようですが、このことについて詳細な事情はわかりませんので調査中です。
 この井戸の神様と思われる井中神社が同座しているという事実は、伊我理神社も「イノシシ退治の神」というよりも、本来は井戸に関わる神ではないかと、わたしは考えたのです。伊勢神宮内に数ある摂社・末社の中から、伊我理神社ををわざわざ選んで同座させたのですから、少なくとも明治時代に同座先を選んだ人々は、そのように認識していたのではないでしょうか。そうしますと、伊我理神社は記紀に見える「井氷鹿」「井光」と無関係ではないと思われるのです。
 『古事記』神武記によれば、「吉野河の河尻」の井戸から現れた「国神」が「井氷鹿」と名乗りますから、「井氷鹿」は井戸の神様、あるいは井戸と関わる神様と理解されます。従って、久留米市の威光理明神も伊勢神宮の伊我理比女命も本来は井戸に関わる同一人物(神様)ではないでしょうか。
 こうした思いつきを確かめるべく、インターネットで調査していましたら、伊勢神宮崇敬会神宮会館のホームページに次のような説明がありました。転載します。

伊我理神社(いがりじんじゃ)豊受大神宮末社
伊我理比女命(いずりひめのみこと)
祭神は外宮御料田の井泉の神、伊我理比女命。末社の井中神社(いなかじんじゃ)が御同座されている。古く外宮御料田の耕種始めの神事が行われ、猪害を防ぐ意味のお祭りであり、猪狩(いかり)がその名の由来といわれている。参道右手斜め上の神社は度会大国玉比賣神社である。

■伊我理神社御同座(一緒に祭られている神社です)
井中神社(いなかじんじゃ)豊受大神宮末社
井中神(いなかのかみ)
かつては外宮の御神田の井泉の神として仰がれたと伝わる。

 この解説によると伊我理神社も井中神社も「井泉の神」とされており、わたしの思いつきと一致しています。伊勢神宮と関わりが深い神宮会館のホームページですから、伊勢神宮の見解を表していると見なしてよいと思いますが、現地調査を行い、確認する必要があります。
 こうして、『筑後志』の「威光理明神」は「井氷鹿」のことではないかとする思いつきから始まった探索は、伊勢神宮にまで行き着き、いずれも「井戸」との関わりが明確となってました。(つづく)


第918話 2015/04/10

伊勢神宮外宮末社の伊我理神社

 『筑後志』に「威光理明神社」とあった旧三潴郡の神社が、現在は伊我理神社に名称変更になっているようですが、この理由を明治時代に行われた記紀に見えない「地方神」を淫祠邪教として排斥する運動に対抗して、神社存続のため名前の訓みが類似した伊勢神宮外宮末社の伊我理神社に改名したことによるのではないかと、わたしは推測しています。他方、それでは伊勢神宮の伊我理神社とはいったいどのような神様なのかについて興味がわきました。
 インターネットで簡単に調べてみたところ、御祭神は「伊我理比女命」(いがりひめのこと)とのことで、田畑を荒らすイノシシを狩る神様(猪狩・いかり)と説明されていました。この説明にわたしは「?」でした。イノシシを狩る神様が女性とは、ちょっと理解しにくいと感じたのです。本当にそうだろうか、「いがり」という訓みから、「猪狩」のことと判断され、後付けで「イノシシ退治の神様」とされたのではないかという疑問を抱いたのです。
 たとえば、埼玉県秩父市にある猪狩神社は倭武命のイノシシ退治に由来するとされており、お姫様のイノシシ退治ではありません。なぜ、伊勢の伊我理神社の御祭神は女神なのでしょうか。やはり、本来はイノシシ退治とは無関係な女神ではないでしょうか。(つづく)


第825話 2014/11/21

「言素論」の困難性

 今回は「言素論」の学問としての困難性について説明します。それは古代における発音・音韻が現在のわたしたちにはわからないことが多いことと、残されている史料の文字表記と古代の音韻とが正確に対応しているかどうか、これもわからないケースがあるという点です。
 このことを具体例(わたしの失敗)で説明しますと、たとえば「洛中洛外日記」820話で紹介した「○○じ(ぢ)」地名の音韻における、「じ」と「ぢ」の 違いです。姫路や淡路、庵治、但馬、味野は「ぢ」と思われますが、「吉備の児島」の場合は普通「こじま」であり、「じ」です。わたしはこの「児島」も「こじ(ぢ)+ま」とするアイデア(思いつき)として述べたのですが、この点、倉敷市の「味野」地名を教えていただいた安田さんからメールをいただき、「ぢ」 ではなく「じ」ではないかとのご指摘をいただきました。『古事記』の国生み神話に見える「吉備児嶋」は「嶋」ですから「こじま」と発音され、安田さんのご指摘はもっともなものでした。
 ただ、わたしには思い当たることがあり、あえて「吉備の児島」の「児島」を「こじ(ぢ)+ま」とするアイデアを述べました。それは『古事記』の国生み神 話の「大八島国」の次に登場する六つの「嶋」(吉備児嶋・小豆嶋・大嶋・女嶋・知訶嶋・両児嶋)のうち、「吉備児嶋」だけは「嶋」(アイランド)ではなく半島で、しかも「吉備」という地名表記つきで、他の五つの「嶋」とは表記方法が異なっています。そこで、この「児嶋」は「嶋」と表記されていますが、本来 は「こぢ+ま」という領域名であり、それを『古事記』編者は「こじま」として他の五つの「嶋」と同様に「児嶋」と表記したのではないかと考えたのです。
 しかし、わたしのこのアイデア(思いつき)に対して、西村秀己(古田史学の会・全国世話人、『古田史学会報』編集担当、会計。高松市)さんから「児島半島は昔は島で、戦国時代以降の干拓により半島になった」とのご指摘があり、わたしの思いつきは成立困難であることがわかりました。
 「じ」と「ぢ」に限らず、古代日本語の発音は現代の五十音よりも多く(たとえば万葉仮名の甲類・乙類など)、今のわたしたちの発音・音韻感覚によって十把一絡げに同音だから同じ意味とすることはかなり危険が伴うのです。ここに「言素論」を利用するさいの難しさの一つがあります。(つづく)