「 出雲王朝 」一覧

第2076話 2020/02/06

松江市出土の硯に「文字」発見(2)

松江市田和山遺跡から出土した弥生時代の硯に「文字」があることが間違いなければ、その年代が重要となります。報道によれば、「弥生時代中期後半(紀元前後)」とされており、この時代であれば、当然、倭国は漢字を受容していたと古田史学では考えられています。ところが、「紀元前後」であれば、当地(宍道湖の東南)は「出雲王朝」の中枢領域であり、かつ銅鐸文明圏の時代の可能性もあるのです。
 古田説では神武東征をこの「紀元前後」頃と推定していますから、微妙な時期ではありますが、この硯と文字の使用者が銅鐸文明圏に属していたという可能性があるのです。少なくとも、この時代に「出雲王朝」が文字を使用していたことは確実となります。
 志賀島の金印や漢式鏡など、文字の痕跡が多数出土している北部九州(倭国)とは対照的に、銅鐸には文字が記されていないことから、銅鐸圏では漢字が受容されていなかったのではないかとする見方もあります。しかし、今回の「文字」発見により、銅鐸圏の王者は文字を受容し、『三国志』の時代には、倭国(邪馬壹国)を支援する魏と対立していた呉と「文書外交」を行っていたという可能性も否定できません。まずは、科学的検査の結果が待たれます。


第2075話 2020/02/05

松江市出土の硯に「文字」発見(1)

 報道によれば、島根県松江市田和山遺跡から出土した弥生時代の硯に「文字」の痕跡が発見されたとのことです。その写真を見たところ、わたしも文字(漢字)のように思われましたが、松江市埋蔵文化財調査室による「赤外線ではっきり写らず、墨書ではなく汚れの可能性もある」とする見解もありますので、今後の科学的分析が待たれます。
 墨(カーボンブラック:煤)の他にも黒色無機顔料(鉱石)や天然タンニン(ポリフェノール)の鉄錯体、アスファルトなども黒色色素として使用可能ですので、赤外線撮影だけで「墨書ではなく汚れ」と判断するのはあまり科学的判断とは言えません。
 もしこれが文字だとしたら、メディアで紹介された学者の見解にとどまらず、もっと重要なテーマへと進展します。(つづく)

【毎日新聞WEB版から転載】
 毎日新聞2020年2月1日 17時53分(最終更新 2月2日 01時18分)
弥生時代「すずり」に最古の文字か
松江の田和山遺跡から 慎重な意見も

 松江市の田和山遺跡で出土した弥生時代中期後半(紀元前後)の石製品にある文様について、福岡県の研究者グループが、文字(漢字)の可能性が高いとの研究成果を明らかにした。石製品は国産のすずりと判断しており、国内で書かれた文字ならば従来の確認例を200〜300年さかのぼって最古となる。一方で、偶然の着色など慎重な意見があり、文字使用の起源を巡って議論を呼びそうだ。
 福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄・文化財主事、柳田康雄・国学院大客員教授らのグループ。岐阜県大垣市で1日にあった学会で久住氏が発表した。
 田和山遺跡は弥生時代の環濠(かんごう)遺跡。石製品は約8センチ四方の板状で、出土時は砥石(といし)とされていた。研究者グループは材質や形状を調べ、現地で採れる石製で、擦った痕跡があるくぼみなどから国産のすずりと判断した。
 さらに裏の中央部に黒っぽい文様が上下二つあり、岡村秀典(中国考古学)、宮宅潔(中国古代史)両京都大教授らに画像の分析を依頼。中国・漢の時代の木簡に記された隷書に形が類似しており、上は「子」、下は「戊」などを墨書きした可能性があるとの結論を出した。
 これまで国内の文字確認例は、三雲・井原遺跡(福岡県糸島市)の土器に刻まれた「竟(鏡)」、貝蔵(かいぞう)遺跡(三重県松阪市)の土器に墨書きされた「田」などがあるが、いずれも2〜3世紀だった。
 九州から近畿にかけて近年、弥生時代のすずりとみられる遺物が相次いで見つかり、古墳時代より数百年早い時代に中国・朝鮮半島との交易を背景に北部九州から文字文化が流入した説が出ていた。久住氏は「国産すずりならば国内で書かれた最古の文字。倭人(わじん)(当時の日本人)ではなく渡来系の人々が書いた可能性もある」としている。
 一方、松江市埋蔵文化財調査室は研究者グループの結論を受け、石製品を赤外線で撮影するなどして調査。同室は「赤外線ではっきり写らず、墨書ではなく汚れの可能性もある。今後の研究に期待したい」と慎重な見方をしている。【大森顕浩】

 岡村秀典・京都大教授の話 実物を見ていないが、画像で見る限り隷書の2文字に見える。石製品の中央付近に書いており、人名の可能性がある。国産の石製品なら倭人の名前で、物の私有意識が芽生えていたことになり、日本史の大問題となる。

 柳田康雄・国学院大客員教授(考古学)の話 これまで見つかった3世紀ごろの文字はいずれも1文字で、記号かもしれない。しかし、2文字なら名前やえとなどの意味を持つ。中国からの文化伝来が予想以上に早いことになる。

 武末純一・福岡大教授(考古学)の話 私自身も弥生時代に外交文書や交易で文字が使われた可能性があると考えている。ただ、赤外線撮影の結果などから、今回は文字かどうか決めがたい。判断は慎重であるべきだ。

「文字使用の起源」数百年さかのぼるか

 松江市の田和山遺跡で出土した紀元前後の石製品にある文様について、福岡県の研究者グループが「文字の可能性がある」と発表。国内の文字使用の起源が数百年さかのぼるという驚くべき内容で、波紋を呼ぶだろう。
 出土遺物などから文字の本格的使用は3世紀ごろの古墳時代以降というのが定説だが、弥生時代から文字が使われていた可能性は以前から指摘されていた。紀元57年に中国から贈られたとされ、福岡市・志賀島で出土した「漢委奴國王(かんのわのなのこくおう)」金印をはじめ、銘文のある中国・前漢の銅鏡など漢字が記された中国製の遺物は倭国内に存在した。また、中国の史書「魏志倭人伝」では倭国に外交文書を点検する部署があったという記述がある。研究者の中には「日常的な交易の記録にも用いられた」という見方もある
もある。
 しかし、国内で書かれた文字史料はこれまで、大城(だいしろ)遺跡(津市)で出土した「奉」とみられる字が刻まれた土器など2〜3世紀以降にしか確認できなかった。
 このギャップを埋めたのが、筆記用具のすずりに着目した近年の調査研究だ。端緒は大陸への「玄関口」である北部九州に位置する福岡県糸島市の三雲・井原遺跡。2016年に1〜2世紀のすずりとみられる破片が確認され、文字使用との関連で一気に注目された。
 福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄・文化財主事、柳田康雄・国学院大客員教授らによるグループはこれを受け、全国の遺跡の出土品を精査。従来砥石(といし)や用途不明などとされていた石製品のうち、墨をすり潰すために研石で擦った痕跡などから北部九州を中心に山陰、近畿などの100点以上がすずりで、最古は紀元前1世紀と判断した。
 ただ、すずりは筆記用具に過ぎず、文字使用の確実な証拠とするには異論もあった。
 研究者グループは、今回確認されたのが2文字である点も強調する。漢字が記されていても、人々が具体的な意味を示すものと認識しなければ「文字」とは言えない。この点で「子」「戊」などの連なった字とすれば「えとや人名など意味があるもの」(柳田氏)になる可能性がある。
 一方、今回発表された内容について、文字かどうか慎重な意見が出ている。
 石製品を発掘した松江市埋蔵文化財調査室は研究者グループの指摘を受け、「文字ならば大ごとになる」として赤外線撮影を実施。ただ、肉眼で見えた文様は、赤外線写真で鮮明に写らなかった。同室は「墨ならば赤外線でよりはっきり写る。墨以外なのか、そもそも文字なのか分からない」とする。
 久住氏は「墨が剥落して赤外線で見えにくい可能性がある」などと反論するが、松江市側はあくまで一研究者グループの見解として「今後の議論を待つ」姿勢だ。2〜3世紀よりさかのぼる文字の直接的な痕跡が、他にも今後確認されるかが焦点となる。
 倭国に文字(漢字)をもたらしたのが渡来人だった可能性は高いが、伝来はいつまでさかのぼり、倭人にどのように受容されていったのか。文明の礎である文字の起源を巡る論争は尽きそうにない。【大森顕浩】


第1715話 2018/07/29

「佐用」は「さよ」か「さよう」か

 先週、仕事で鳥取を訪問したのですが、そのとき乗った特急電車の停車駅名の訓みについての小文を「洛中洛外日記【号外】」にて配信したところ、二名の方からメールが届きました。まず配信した「洛中洛外日記【号外】」を下記に部分転載します。

古賀達也の洛中洛外日記【号外】
2018/07/27
「郡家」「智頭」の訓み
 鳥取から京都に向かう特急スーパーはくと12号の車中で書いています。(中略)途中の駅名の訓みが珍しく、車内アナウンスがなければわからない駅名がいくつもありました。たとえば「郡家」。当然、「ぐんけ」と訓むものと思っていたのですが、車内アナウンスは「こうげ」でした。何故、「こうげ」という地名に「郡家」という漢字を当てたのか気になりました。
 「智頭」も「ちとう」だろうか「ちがしら」だろうかと勘ぐっていたら、これは単純に「ちず(づ)」でした(駅のローマ字表記は“chizu”)。「ちず(づ)」とは何を意味するのでしょうか。おそらく「ち」は古い時代の神様の名前のことと思われますが、「ず(づ)」は文字通り「あたま」のことか、港を意味する「つ(津)」なのか、よくわかりません。
 「大原」駅はそのものずばり「おおはら」駅なのですが、その大原駅から見える風景は山中の狭い盆地であり、とても「大草原」のようなイメージの「大原」ではないことに疑問を抱きました。しかし、三千院で有名な京都の大原も山間の集落であり、「大草原」ではありません。従って、本来「はら(原)」という日本語は狭い領域を示す用語ではないでしょうか。その狭い「原」にしては広い所なので「大原」と呼ばれたのではないかと考えています。もしこの理解が当たっていたら、「高天原(たかまがはら)」という地名も本来は比較的小領域に対するものであったのかもしれません。
 水害被害で有名になった「佐用」駅もありました。訓みは「さよ」であって、「さよう」ではないことも今回知りました。
 佐用駅の次は「上郡」駅です。こちらは普通に「かみごおり」駅で、ちょっと安心しました。(後略。転載終わり)

 この記事を読まれた茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集委員)より、次のメールをいただきました。貴重な情報と思われ、茂山さんのご了解を得て、転載します。

【以下。メールを転載】
古賀様
 JR命名の佐用駅は「さよ」ですが行政区分は佐用(さよう)郡佐用(さよう)町です。僕は駅名の読みが古称ではないかと思っています。播磨国風土記に遡る地名で、風土記では「讃容」です。しかし、僕はさらに古く出雲王朝時代に淵源をもつ地名ではないかと考えます。九州王朝の途中までは「吉備国」だったようです。「讃」の用字は讃岐とも関係があったのでしょうか?
 風土記では、伊和大神と競った玉津日女命が勝利ののち「賛容都比売命」と名を改めたことになっていますが、地元では「佐用姫さん」と親しまれる「佐用都姫」で、佐用都姫神社があります。創建年不詳なのは、それほど古いのだ(九州年号以前)と想像します。ですから、「佐用都姫」の方が地名のもとではないかとも考えます。
 玉津日女命が賛容都比売命に改名する説話は稲作開始の伝承のような話しです。同じモチーフの伝承が製鉄の開始にもつながるようで、佐用都姫神社の近くは精錬の遺跡が広範囲に広がっており、今でも鉄滓(のろ)が地表に転がっています。こちらは、風土記ではずっと時代が下って孝徳期の製鉄開始とされていますが・・・。 茂山
【メール転載終わり】

 「洛中洛外日記」の校正チェックしていただいている加藤健先生(古田史学の会・会員、交野市。元高校教諭)からは、「郡」を「こう」と訓む地名が交野市にもあることをお知らせいただきました。「郡津」と書いて「こうづ」と訓むそうです。こうした情報が即座にいただけることは、有り難いことと感謝しています。


第1612話 2018/02/23

多元史観・九州王朝説による時代区分

 現代日本の歴史学(戦後型皇国史観)において使用されている古代の時代区分「(新・旧)石器時代」「縄文時代」「弥生時代」「古墳時代」「飛鳥時代」「奈良時代」などに代わり、多元史観・九州王朝説に基づく新たな時代区分と名称を考えるため、論点整理して試案を述べます。古田学派の皆さんによる論議検討の叩き台にしていただければ幸いです。

 まず、九州王朝から大和朝廷への王朝交代を明確に区分するために701年を境にして、倭国時代(九州王朝時代)と日本国時代(大和朝廷時代)という区分と名称がわかりやすいと思います。この点は古田学派の多くの研究者の賛同もいただけるのではないでしょうか。この史料根拠としては『旧唐書』倭国伝・日本国伝などがあります。
 問題は倭国時代以前と倭国時代内の区分です。倭国時代(九州王朝時代)の開始は「天孫降臨」(紀元前2〜3世紀頃か)とできますが、それ以前は「出雲王朝時代」が今のところ穏当のよう思います。「出雲王朝時代」には石器・木器・青銅器時代が含まれ、かなり長期間のように思われます。それ以前は具体的王朝名などが未詳ですので、とりあえず使い慣れた「縄文時代」を用いるのがよいかもしれません。今後、縄文時代の研究が進展し、具体的な権力中枢や王朝名がわかれば、それに対応した時代区分と名称を付けることができるかもしれません。
 次いで検討が必要なのは倭国時代(九州王朝時代)の細分化です。この時代には、現在使用されている「弥生時代」「古墳時代」「飛鳥時代」「奈良時代」が含まれていますから、それらとある程度対応でき、その時々の九州王朝の実態を表す適切な小区分化と命名ができれば九州王朝史を理解する上で便利と思います。
 従来のようなお墓の規模や様式、首都所在地で分ける以外にも、王朝の形態や象徴的な文化区分で分ける方法がありそうですが、試案としては次のような視点があります。

 ①中国南朝の冊封体制下か独立王朝か。名称の一例としては「冊封時代」「独立時代」などがあります。時期としては、九州年号を建元した6世紀初頭後が「独立時代」、志賀島の金印授受以後から6世紀初頭頃までが「冊封時代」となりそうです。
 ②行政区画で分けるのであれば、7世紀中頃以後の「評制時代」、それ以前の「県(あがた)時代」という方法もあります。ただし、「県(あがた)時代」の開始時期が不明です。
 ③首都や中枢地域で区分するのであれば、天孫降臨から4世紀頃までの「糸島・博多湾岸時代」あるいは「筑前中域時代」。「倭の五王」時代の「筑後時代」(古賀説による)。太宰府遷都(倭京元年。618年)後の「太宰府時代」あるいは「倭京時代」。難波副都に権力中枢が移動した時期(652〜686年)の「難波京時代」あるいは「白雉・白鳳時代」(古賀説による)。難波京焼亡後から九州王朝滅亡までの「大宰府政庁時代」(正確には大宰府政庁Ⅱ期時代)。

 以上、思いつくままに記してみました。古田学派内での論議検討を経て、もっとも相応しい区分や名称が受け入れられることと思いますので、この試案には全く拘りません。自由に批判論争してください。


第955話 2015/05/20

淡路島「出土」銅鐸の歴史背景

 昨日から愛知県に出張していますが、今朝、ホテルで読んだ朝刊(毎日新聞)1面に「淡路島で銅鐸7個」という記事があり、感慨深く思いました。
 かなり昔の話ですが、島根県出雲市の荒神谷遺跡から大量の銅剣(銅矛)が出土したとき、古田先生は「この近くから銅鐸が出土するはず」と「予言」され、その通りに近くから6個の銅鐸が出土しました。もちろん古田先生は「予言」ではなく、学問的論理性の帰結により銅鐸出土の可能性が大きいことを指摘されたのですが、わたしたちは先生の「予言」が的中したことに大変驚いたものです。
 その後、島根県加茂岩倉遺跡からも大量の銅鐸が出土し、これもまた古田先生が主張されていた「出雲王朝」の存在が歴史の真実であったことを証明するものでした。それまで『古事記』『日本書紀』等の出雲神話を造作としていた古代史学界の通説が誤りであり、古田先生の多元史観が正しかったことが明白となったのです。
 その後、古田先生はこれら「埋められた銅鐸」という考古学的事実(実証)から、なぜ銅鐸は埋められたのかという論証へと学問作業を進められ、「天孫降臨ショック」「神武ショック」という概念を提起されました。弥生時代の二大青銅器文明圏の衝突により、銅矛圏勢力の軍事的侵入により、銅鐸圏の人々が自らの祭祀シンボルである銅鐸を緊急避難的に埋納したのではないかという仮説に基づき、その衝突の時期として弥生時代前期末から中期初頭に起こった「天孫降臨」という天孫族の侵入と、西暦1世紀頃の「神武東征」という倭国(邪馬壹国軍「一大率」)の侵攻に着目され、それぞれ「天孫降臨ショック」「神武ショック」と名付けられたのでした。
 こうした古田先生の提起された概念に当てはめれば、今回の淡路島「出土」銅鐸の埋納の歴史的背景は何なのでしょうか。新聞記事によれば、今回の銅鐸はその形式編年から「弥生時代前期後半から中期初頭」とされています。従って、古田先生のいう「天孫降臨ショック」にピッタリと時代的に対応するようです。
 ということは、天孫族は弥生時代前期末頃には淡路島まで侵攻していたことになります。『古事記』『日本書紀』の国生み神話に淡路島が登場しますから、今回の銅鐸「出土」は文献史学の面からも、とても興味深い考古学的事実なのです。

(補注)本稿では、今回淡路島で発見された銅鐸について、「出土」と「」を付けました。これは西村秀己さんから、発見の経緯からすると考古学的発掘によるものではないので、出土という表現は現段階では不適切との指摘をいただいたからです。そこで、今回はそのご指摘に留意し、「」付きの「出土」と表記しました。


第779話 2014/09/06

古田武彦著『古代の霧の中から』復刊

 古田武彦著『古代の霧の中から — 出雲王朝から九州王朝へ』がミネルヴァ書房から復刊されました。同書は1985年に徳間書店から出版されたもので、『市民の古代』などに発表された論文が収録されています。各章は次の通りです。

序章  現行の教科書に問う
第一章 古代出雲の新発見
第二章 卑弥呼と蝦夷
第三章 画期に立つ好太王碑
第四章 筑紫舞と九州王朝
第五章 最新の諸問題について
日本の生きた歴史(二十二)
歴史の道

 「日本の生きた歴史(二十二)」と「歴史の道」は復刊に伴って新たに書き下ろされたものです。本書の性格は「はしがき--復刊にあたって」で古田先生が次のように書かれていますように、「異色の一書」です。

 「異色の一書だ。最初の出版の時から、“濃密な”内容をもっていた。「学問の成立」とその発展が具体例でしめされていた。今回のミネルヴァ書房復刊本では、新稿「歴史の道」を加え、わたしにとって決定的な意味を持つ本となった。幸せである。」

 今回、改めて読み直してみて、面白い問題に気づきました。第五章にある「発掘が裏付ける『大津の宮』」において、大津市穴太2丁目から出土した「穴太廃寺」について、次のような考察が示されています。

 「これほどの寺院跡、法隆寺級の大寺院跡が出土したにもかかわらず、その存在事実を示す文献記載のないことに不審がもたれている、という(朝日新聞〔大阪〕、一九八四・七・六)。」(252頁)
 「これがもし、真に『寺院』であったとしたら、『日本書紀』にその記載のないのは、不可解だ。その、いわゆる『寺院』は、書紀の編者たちが知悉していたはずだ。そしてその存在や寺名を、“消し去る”べき必要が、彼等にあったとは、全く信じえないのである。」(253頁)

 穴太廃寺遺跡を古田先生は天智天皇が遷都した「近江宮」と解され、大津市錦織から出土した朝堂院様式の宮殿を、同じく天智紀に見える「新宮」とされたのです。大変興味深い考察ですが、穴太廃寺遺跡はその後の調査から、やはり寺院跡と見なされています。しかし、古田先生の抱かれた疑問「何故、これほどの大寺院が『日本書紀』に記載されていないのか」という視点は有効です。しかも、大津宮遺跡(大津市錦織)の真北から出土した 「南滋賀廃寺」も、やはり『日本書紀』に記載されていません。
 古田先生が疑問とされた『日本書紀』の「沈黙」こそ、わたしが提案している仮説「九州王朝の近江遷都」の傍証となるのではないでしょうか。大津宮が九州王朝による宮殿であれば、同時期に建立された九州王朝による大寺院が『日本書紀』から“消し去られた”理由も説明できそうです。
 『古代の霧の中から』の復刊により、当初は気づかなかった問題が「発見」できました。他にも同様の「発見」があるかもしれませんので、しっかりと再々読しようと思います。