天孫降臨一覧

第916話 2015/04/08

「吉野河の河尻」

  の威光理(いひかり)

 わたしが『筑後志』三潴郡条に見える「威光理」を記紀の神武東征説話中の「井氷鹿」「井光」のことではないかと考えたのは次の理由からでした。
 『古事記』の神武東征説話中の「天神御子」説話は天孫降臨におけるニニギの肥前侵攻説話の盗用と考えられ、たとえば「吉野河の河尻(河口・下流)」という表現は大和山中の吉野川(上流域に相当)は妥当せず、佐賀県吉野ヶ里付近の「吉野河の河尻」と理解しました。この考えが正しければ、神武(わたしの説ではニニギ)が吉野河の河尻で会った「井氷鹿」もこの地方の「神」であったことになり、『筑後志』の「威光理明神」を見たとき、これこそその痕跡ではないかと思ったのです。
 ですから、この仮説の傍証ともなる久留米市の「威光理明神社」を調査したかったのです。現在では「伊我理神社」と表記されているようですが、現地調査により、『筑後志』の「威光理」が本来表記であることが確認できれば、わたしの仮説を強化することができるのです。

(補記)本日、正木裕さんからいただいたメールによると、久留米市の伊我理神社に「威光理神社」という表記があるという報告がネット上にあるとのこと。近藤さんからの調査報告を待って判断したいと思いますが、どうやらわたしの推論は間違っていないようです。


第915話 2015/04/07

久留米市の「伊我理神社」

 わたしたち「古田史学の会」のホームページには多くのメールが送られてきます。スパムメールも少なくないのですが、わたし宛のメールはインターネット事務局の横田幸男さん(古田史学の会・全国世話人)から転送されてきます。なるべくご返事を書くようにしているのですが、内容的に返答に困るものもあり、かつ忙しいこともあってご返事が滞ることもあります。
 そうしたホームページ読者の近藤さん(久留米市在住)から久しぶりにメールをいただきました。「洛中洛外日記」911話で紹介した『筑後志』に見える三潴郡「威光理明神社、同郡六丁原村にあり。」「威光理明神社、同郡高津村にあり。」の両神社を調査していただけるというご連絡でした。
 わたしは「威光理」を「いひかり」と考え、記紀の神武東征説話に登場する「井光」「井氷鹿」のことではないかと考えていますが、近藤さんが地図で事前調査されたところ、久留米市城島町の六町原(ろくちょうばる)と高津にあるのは「伊我理神社」とのことで、「いがり」と読めます。「いひかり」とは異なりますので、不思議に思いましたが、本来はやはり『筑後志』にある「威光理」ではないでしょうか。
 というのも、明治時代に全国で荒れ狂った廃仏毀釈騒動のとき、破却されたのはお寺や仏像だけではなく、記紀に見えない「地方神」も淫祠邪教として統廃合や弾圧の対象になりました。そこで、地元の人々は神社名を変えたり、御祭神を記紀に見える有名な神名に変更して神社を守ったという歴史があります。この久留米市の「威光理明神社」も同様に記紀に見えず、神社の破却を免れるため、有名な伊勢神宮下宮の末社の一つ「伊我理神社」に名称変更したのではないかとわたしは推察しています。
 もし、そうであれば「威光理」と似た読みの「伊我理(いがり)」へ変更されたと考えられ、このことは「威光理」が「いひかり」と読まれていたとする理解を支持するのです。そこで、わたしは近藤さんに久留米市城島町の「伊我理神社」調査に当たり、現地の人は既に改名後の「いがり」と発音している可能性が高いので、江戸時代の石碑や鳥居などに「威光理」とあるのか「伊我理」とあるのかを調べてほしいとお願いしました。近藤さんから調査報告がありましたら、「洛中洛外日記」でご紹介します。とても楽しみにしています。


第53話 2005/12/18

12月度関西例会の報告

 昨日、本年最後の関西例会がありました。冨川さんの報告は着眼点に優れたもので、『先代旧事本紀』や記紀の天の岩戸隠れの段に見える「天香山」から銅や鉄を採って鏡を作るという記事をテーマとしたもの。奈良の香具山から銅や鉄はとれないことから、これらの「天香山」は天国領域の別の山ではないかとする問題提起で、なかなか興味深いものでした。西日本各地の鉱山の一覧表や鉱石のカラーコピーなど、レジュメも優れたもので見習いたいと思いました。

 私の報告は天武紀などの記事から、壬申の大乱以降、天武が国内基盤を固める過程を考察したものです。九州王朝と近畿天皇家の王朝交代期の実態を明らかにする上で、『日本書紀』の一層の史料批判が必要と思われました。
 横田さんからは、新年講演会のテーマ「浦島太郎伝説」にあわせて、横浜にある浦島太郎伝説の紹介やインターネットホームページのブログの解説がなされました。また、当日配布した「古田史学の会・東海」のニュースにも、愛知県の浦島太郎伝説が紹介されており、タイムリーでした。
 例会後の懇親会(忘年会)では、12月3日の遺跡巡りで足を骨折し入院されている西井さんの代打として、竹村さんが幹事役をされましたが、注文の値段計算など苦労されていました。西井さんの復帰が待たれます。例会の内容は下記の通りです。

〔古田史学の会・12月度関西例会の内容〕
○ビデオ鑑賞「日本の古代・出雲、吉備の地域学」
○研究発表
『ダヴィンチ・コード』を読んで(豊中市・木村賢司)
「天香山」から銅が採れるか(相模原市・冨川ケイ子)
石見国物部神社と新具蘇姫神社(京都市・古賀達也)
王朝交代の史料批判─『日本書紀』耽羅国記事の研究─(京都市・古賀達也)
カヅマヤマ古墳・下川原遺跡現地説明会の報告(木津町・竹村順弘)
横浜の浦島太郎(東大阪市・横田幸男)
○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・木簡データベースの調査・他(奈良市・水野孝夫)


第12話 2005/07/17

信州のお祭り・御柱

 古代日本列島において文明の衝突・興亡の痕跡が随所に見られます。著名な例では、弥生時代の銅矛文明圏と銅鐸文明圏の衝突、そして銅鐸文明の消滅という考古学的事実があります。この二大青銅器文明圏の衝突と興亡という列島内大事件が神話として残っています。一つは、『古事記』にある大国主の国譲り神話です。
 天国(あまくに)の神々が出雲の主神である大国主に国を譲れと武力介入した神話です。出雲には荒神谷遺跡などから銅鐸を含む大量の青銅器が出土していますが、この神話は銅矛文明圏(天国、壱岐対馬)による銅鐸文明圏の出雲への侵略が「国譲り」という表現で語られているのです。この侵略に最後まで抵抗した神が建御名方神(たけみなかた)です。彼は戦いに敗れ信州の諏訪湖まで逃げます。そして、その地から出ないことを条件に許されます。
 天国の軍隊は、銅鐸文明圏の中枢領域である近畿にも突入を繰り返します。近畿から破壊された銅鐸が出土していますが、これもこの侵略の痕跡でしょう。天国の軍隊は神聖なる祭器である銅鐸を破壊し、銅鐸文明の神々(人々)は東へ東へと逃亡したのです。その様子を「伊勢国風土記」では次のように記されています。天日別命(あまのひわけのみこと)が率いる天国の軍隊が伊勢の国を侵略し、伊勢の王である伊勢津彦は東へと逃げ、彼もまた信濃の国へ住んだと。
建御名方神や伊勢津彦はなぜ信州に逃げたのでしょうか。そして、なぜ天国の軍隊は信州に逃げた彼らを捕らえなかったのでしょうか。ここに、信州が持つ不思議な歴史の謎があります。
 他方、これと共通する風習が中世ドイツにもありました。追われた犯罪者が四本の柱で囲まれた場所に逃げ込めば、役人も手出しができなかったと言われています(阿部謹也『中世の星の下で』ちくま文庫)。四本の柱の中は神聖な地、歴史学でアジールと呼ばれる空間なのでした。これは諏訪大社の御柱とそっくりです。 古代信州は軍隊と言えども侵すことのできない神聖な地、アジールだったのです。だから、追われた銅鐸文明の神々は信州へと逃げた、そう考えざるを得ません。そして、この考えが正しければ、諏訪大社の御柱祭は弥生時代以前にまで遡ることができます。古代日本での文明の衝突を考えるとき、信州のもつこの神聖性はキーポイントとなるのではないでょうか。