「 庚午年籍 」一覧

第2165話 2020/05/31

造籍年間隔のずれと王朝交替(3)

 「白雉元年籍」(652)と「庚午年籍」(670)との間隔は18年であり、ちょうど六年で割り切れるため、九州王朝も6年ごとに造籍していたのではないかとしました。このことを確認するため『日本書紀』を調べたところ、孝徳紀に次の記事がありました。

 「東国等の国司に拜(め)す。よりて国司等に曰はく、(中略)皆戸籍を作り、また田畝を校(かむが)へよ。」大化元年(645)八月五日条(東国国司詔)
 「甲申(19日)に、使者を諸国に遣わして、民の元数を録(しる)す。」大化元年(645)九月条
 「初めて戸籍・計帳・班田収授之法を造れ。」大化二年(646)正月条(改新詔)

 このように大化二年(646)に初めて造籍法を造れとの詔が出されています。その前年の八月には「皆戸籍を作」れと東国の国司に命じ、九月には諸国の「民の元数」を記録したと記されており、このとき初めての造籍があったことがうかがえます。この大化二年(646)は先に指摘した「白雉元年籍」(652)造籍の6年前です。従って、この大化元年・二年の記事も6年ごとの造籍が行われたことを示しているのではないでしょうか。
 もしこの記事が九州王朝系史書によるものであれば、九州王朝は「大化二年(646)」(九州年号の命長七年)に初めての造籍を行い、その6年後の白雉元年(652)に2回目の造籍を実施し、その後も6年ごとに造籍し、白鳳十年(670)の「庚午年籍」まで造籍が行われたと推察できます。もしかすると、白鳳四年(664)については白村江戦敗北の翌年であり、敗戦の混乱により造籍が行われなかったかもしれません。というのも、この年の造籍を示す記事が『日本書紀』や後代史料に見えないからです。
 「庚午年籍」(670)の造籍後も、「庚寅年籍」(690)まで造籍の史料痕跡が見えないことから、「庚午年籍」は九州王朝にとって最後の造籍であり、近畿天皇家にとってもその後の造籍作業のための基本戸籍であるため、『大宝律令』『養老律令』で「庚午年籍」の永久保存を命じたものと思われます。恐らく、672年の「壬申の乱」など、九州王朝から大和朝廷への王朝交替に至る混乱で造籍が滞り、持統4年(690)に至ってようやく「庚寅年籍」が造籍されたものと思われます。この頃、近畿天皇家は国内最大規模の藤原宮(藤原京)の造営を開始しており、大宝元年(701)の王朝交替に向けて、着々と体制固めを進めていたことがわかります。
 以上の考察の結果、6年ごとの造籍が律令で規定されたにもかかわらず、「庚午年籍」(670)と「庚寅年籍」(690)の間で造籍年間隔にずれが生じているのは、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交替があったことによるものと思われるのです。


第2164話 2020/05/31

造籍年間隔のずれと王朝交替(2)

 「九州王朝律令」が現存しませんから、九州王朝における造籍年間隔は不明ですが、推定のためのいくつかの手がかりはあります。もちろんその代表は「庚午年籍」(670)です。この庚午年(670)を定点として、その他の造籍年がわかれば、間隔を推定する根拠になります。これまでの九州王朝史研究の成果により、『日本書紀』に九州王朝による造籍があったと考えてもよい記事があります。孝徳紀白雉三年(652)正月条に見える次の記事です。

 「正月よりこの月に至るまでに、班田すること既におわりぬ。」『日本書紀』孝徳紀白雉三年正月条

 この記事は正月条でありながら、「正月よりこの月に至るまでに」とあり、不審とされてきました。わたしはこの記事を根拠に、直前にあった二月に行われた白雉改元の儀式記事が切り取られ、孝徳紀白雉元年(650)二月条に貼り付けられたとする説を発表しました(「白雉改元の史料批判」『「九州年号」の研究』所収)。ちなみに、九州年号の白雉元年は壬子(652)に当たり、孝徳紀の白雉改元記事は九州王朝史書の白雉元年(652)二月条から二年ずらされて孝徳紀白雉元年(650)二月条に移動されたともの考えられます。
 こうした史料批判の結果、「正月よりこの月に至るまでに、班田すること既におわりぬ。」の記事も九州王朝史書からの転用と考えられ、この年に班田したのも九州王朝となります。そして、班田のためには直近に造籍した戸籍が必要であり、その造籍年も九州年号の白雉元年(652)と理解するのが穏当です。そして、この「白雉元年籍」(652)と「庚午年籍」(670)の間隔は18年であり、ちょうど六年で割り切れます。この理解が正しければ、「九州王朝律令」戸令にも『養老律令』と同様に「凡戸籍六年一造」のような6年ごとの造籍規定があり、大和朝廷は「九州王朝律令」の造籍規定を受けついだことになります。(つづく)


第2163話 2020/05/30

造籍年間隔のずれと王朝交替(1)

本年11月に開催される八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー2020)で〝古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「大宝二年籍」「延喜二年籍」の史料批判―〟というテーマで研究発表するにあたり、古代戸籍についての勉強を進めています。そこで、以前から気になっていた問題について記しておくことにします。それは7世紀中頃から8世紀初頭にかけての古代戸籍の造籍年の間隔についてです。
 古代戸籍には基本となる二つの定点があります。一つは現存最古の「大宝二年籍」(702)です。もう一つは、最古の全国的戸籍と考えられている「庚午年籍」(670)です。両戸籍の造籍年は九州王朝と大和朝廷の王朝交替の701年をまたいでおり、その痕跡が各戸籍の造籍年の間隔に現れています。
 古代戸籍は六年間隔で造籍することが『養老律令』などで規定されており、7世紀も基本的には同様と考えられています。通説では、「庚午年籍」(670)と「庚寅年籍」(690)・「持統十年籍」(696)、そして「大宝二年籍」(702)へと続くとされています。なお、「持統十年籍」に対して「持統九年籍」(695)とする説(南部昇『日本古代戸籍の研究』1992年)もあります。

 「凡戸籍六年一造」『養老律令』戸令

 「庚寅年籍」(690)・「持統十年籍」(696)・「大宝二年籍」(702)は六年間隔で造籍されているのですが、最初の「庚午年籍」と「庚寅年籍」とは20年の間隔があり、六年では割り切れません。この現象を多元史観・九州王朝説で説明すれば、「庚午年籍」は九州王朝による造籍、「庚寅年籍」以降は近畿天皇家による造籍であり、王朝交替による混乱の結果、6年ごとの造籍がなされなかったと考えることができます。
 しかし、大和朝廷は自らが滅ぼした前王朝の九州王朝時代の「庚午年籍」を基本戸籍として永久保存を律令に規定し、そのことを全国の国司に命じています。それでは九州王朝の造籍年間隔はどうだったのでしょうか。(つづく)


第1585話 2018/01/23

庚午年籍は筑紫都督府か近江朝か(4)

 二つ目の史料痕跡は「大宝二年籍」です。大和朝廷は大宝2年(702)に全国的な造籍を実施しています。当時、行政上の必要から定期的に造籍が行われていたと考えられ、それは6年毎という説が有力です。
 現存する古代戸籍では「大宝二年籍」が最も古く、その様式(書式・用語)の比較研究により、西海道(九州)戸籍が最も統一され整っていることがわかっています。通説では、大宰府により九州各国の戸籍が統一されたと理解されているようですが、九州王朝説にたてば、その様式の高度な統一性は九州王朝の直轄支配領域が九州島であったためと考えられます。従って、その様式の統一性は「大宝二年籍」で初めて現れたものではなく、九州王朝の時代に淵源があり、庚午年籍でも同様の統一性が九州島内諸国では見られたはずです。他方、九州以外では様式が統一されていなかったため、その影響が「大宝二年籍」にも現れたと考えざるを得ません。
 この戸籍様式の九州島内の「統一」と九州以外の「不統一」という史料事実こそ、庚午年籍が筑紫都督府と近江朝とで別々に造籍された痕跡と思われるのです。
 以上、紹介した二つの史料痕跡から、庚午年籍造籍主体に関しても、筑紫都督府と近江朝の二重権力状態を仮定すれば、正木説は更に有力説になるのではないでしょうか。(了)


第1584話 2018/01/23

庚午年籍は筑紫都督府か近江朝か(3)

 筑紫都督府(唐軍の支援を受けた薩夜麻)と近江朝(九州王朝家臣に擁立された天智)という二重権力状態での全国的な庚午年籍造籍(670年)が、筑紫都督府による九州地方と、近江朝による九州以外の地域で行われたとする作業仮説を支持する二つの史料的痕跡について紹介します。
 一つは「洛中洛外日記」1167話「唐軍筑紫進駐と庚午年籍」でも紹介した『続日本紀』に見える次の記事です。

 「筑紫諸国の庚午年籍七百七十巻、官印を以てこれに印す。」『続日本紀』神亀四年七月条(727)

 この記事によれば、神亀4年(727)まで、筑紫諸国の「庚午年籍」七百七十巻には大和朝廷の官印が押されていなかったことがわかります。それ以外の諸国の「庚午年籍」への官印押印についての記事は見えませんから、筑紫諸国(九州)とその他の諸国の「庚午年籍」の管理に何らかの差があったと考えられます。この管理の差が、筑紫都督府と近江朝の二重権力構造によりもたらされたと考えることができます。
 更に深く考えると、筑紫都督府には九州王朝(倭国)の「官印」が無かったということも言えるかもしれません。白村江戦をひかえて九州王朝官僚群が近江朝に「遷都」していたとすれば、「官印」も近江朝が所持していたことになるからです。もちろん、太宰府(筑紫都督府)に戻った薩夜麻が新たに「官印」を作製したことも考えられますが、その場合の印文は「倭国王之御璽」、あるいは「筑紫都督倭王之印」のような内容ではないでしょうか。そうすると、既に「日本国」に国号を変更していた大和朝廷の立場からは、それらを「官印」とは認められなかったものと推察します。
 この点、近江朝は670年に国号を「日本国」に変更していたとする史料(『三国史記』新羅本記)があり、そうであれば近江朝の官印は「日本国天皇之印」のような印文と考えられますから、神亀四年(727)の日本国の時代においては、そのままで問題なく、新たに「官印を以てこれに印す」必要はありません。
 このように『続日本紀』のこの記事は、庚午年籍が筑紫都督府(九州地方)と近江朝(九州以外)で別々に造籍されたとする作業仮説を支持するものと理解できるのです。(つづく)


第1583話 2018/01/23

庚午年籍は筑紫都督府か近江朝か(2)

 九州王朝系「近江朝」という正木説は魅力的な仮説とわたしは考えていますが、先に指摘したように庚午年籍(670年籍)の全国的造籍の主体についての疑問点があります。この問題点を解決するために次のような可能性を考えてみました。論点整理を兼ねて箇条書きにします。

①正木説によれば、筑紫君薩夜麻は唐に捕らえられ、唐の配下の筑紫都督として唐軍と共に帰国(667年とされる)した。
②そうであれば、唐軍は筑紫の宮殿や墳墓を破壊する必要はない。
③現に大宰府政庁も観世音寺も破壊されずに8世紀以後も残っている。観世音寺の創建を670年(白鳳10年)とする史料(『勝山記』『日本帝皇年代記』)もあり、そうであれば唐軍進駐時での造営となる。防衛施設の水城にも破壊の痕跡はなく、8世紀以後も整備補修されていたことが考古学的にも明らかとなっている。
④筑紫都督(薩夜麻)を介して倭国を間接支配しようとする唐軍にとって、その造籍事業に反対する必要はなく、むしろ近江朝と対抗するためにも薩夜麻の筑紫支配強化に協力する必要がある。大宰府政庁Ⅱ期(筑紫都督府)の造営もその一貫か。
⑤以上の理解から、正木説が正しければ、白村江戦後の倭国には近江朝(反唐の天智)と筑紫都督府(親唐の薩夜麻)との二重権力状態が発生していたと考えられる。
⑥他方、庚午年籍が筑紫を含め全国で造籍されていたことは、『続日本紀』など後代史料により明らか。
⑦二重権力状態での全国的造籍を説明できる作業仮説として、筑紫都督府による九州地方の造籍と近江朝による九州以外の地域での造籍事業が同時期に行われたと考えざるを得ない。

 以上のように、①〜⑥の論理展開により、作業仮説⑦に至りました。次回は、この作業仮説を支持する史料的痕跡を紹介します。(つづく)


第1582話 2018/01/22

庚午年籍は筑紫都督府か近江朝庭か(1)

 昨日の新春古代史講演会(古田史学の会主催)では服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)と正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が最新の研究成果を発表されました。どちらも刺激的な仮説が発表されましたが、正木さんの「九州王朝の近江朝」という新仮説は様々な問題の解明に役立つ反面、新たな疑問も生まれるものでした。
 正木説によれば、白村江戦など唐や新羅との決戦に備え、九州王朝(倭国)は難波宮より安全な近江大津宮へ「遷都」したとされ、唐に捕らえられ、その配下の筑紫都督として帰国した薩夜麻に対して、近江朝廷の九州王朝の家臣たちは留守役の天智を天皇に擁立し、九州王朝の皇女だった「倭姫王」を天智は皇后に迎え、九州王朝の権威を継承したとされました。
 この正木説によれば、庚午年籍の造籍を全国に命じたのは近江朝廷(天智)となります。他方、従来の古田旧説によれば庚午年籍は筑紫の九州王朝による造籍とされてきました。ところが晩年の古田新説では、筑紫太宰府は唐の軍隊に制圧され、宮殿や陵墓は破壊され、九州王朝(倭王・斉明)は伊予の「紫宸殿」に逃れたとされました。この古田新説では筑紫での庚午年籍造籍は不可能となりますし、正木説でも唐と対立した近江朝は、少なくとも唐軍が進駐している九州地方の造籍はできないことになります。しかし、庚午年籍が筑紫や全国で造籍されたことは明らかです。このことは古田先生も正木さんも認めておられます。
 庚午年籍を全国的に造籍させた権力主体について、正木説でも古田新説でもうまく説明できないと思われるのです。(つづく)


第1377話 2017/04/25

『古田武彦の古代史百問百答』百考(2)

 古田先生との応答で決着を見ないままとなった「論争」に「庚午年籍」問題がありました。『古田武彦の古代史百問百答』においてもこの問題が記されています。次の箇所です。

 「『続日本紀』の聖武天皇、神亀四年(七二七)に次の記事があります。
 『秋七月丁酉。筑紫諸国、庚午年籍七百七十巻。以官印々之(官印を以て之に印す。)』
 これがいわゆる『保存』の記事です。しかし、問題は『保存の目的』です。」(217頁)
 「『日本書紀』でも、六四五〜七〇一年の間がすべて『郡』とされている。
 こういう状況で『評にあふれた庚午年籍』が『公示』『公開』されたら、すべて“ぶちこわし”です。
 すなわち『評の庚午年籍』を“集め”て“封印”させるのが、この、いわゆる『保存』、この『封印』の意味とみる他ありません。(中略)
 要するに、あやまった『保存』という言葉に人々は“だまされ”てきたのです。
 『岩波日本書紀』下の『補注』巻第二十七-一四『庚午年籍』の項も、
 『この「近江大津宮庚午年籍」だけは永久に保存されるべきものとされた。』(五八三ページ)
と結ばれています。ですから、一般の読者は、
 『本当に、保存したのだ。』
と錯覚させられる。そういう『形』を、学者たちはとってきたのです。」(218頁)

 このように、古田先生は『続日本紀』に見える、筑紫諸国の「庚午年籍」官印押印記事を「保存」記事とみなされ、その目的は評制文書である「庚午年籍」の「封印」であるとされました。そして「庚午年籍」が保存されたとするのは現代の学者の解釈に過ぎず、一般の人はそれにだまされていると主張されました。
 わたしは古代戸籍や「庚午年籍」の研究を永く続けてきましたので、古田先生のご自宅まで赴き、大和朝廷が後世にわたり「庚午年籍」の保存を命じていたことを史料根拠を示して説明しました。それは次のような史料です。

 「凡戸籍。恒留五比。其遠年者。依次除。〔近江大津宮庚午年籍。不除〕」(『養老律令』戸令 戸籍条)
【意訳】戸籍は、常に五回分(30年分)を保管すること。遠年のものは次のものを作成し次第、廃棄すること。〔近江大津宮の庚午年籍は廃棄してはならない〕。

 大和朝廷は自らの『養老律令』で戸籍の保管期間を定め、「庚午年籍」は保管期間が過ぎても廃棄してはならないと明確に定めています。この規定等を根拠に現代の学者は『この「近江大津宮庚午年籍」だけは永久に保存されるべきものとされた。』と『岩波日本書紀』に注記したのです。
 更に『続日本後紀』には9世紀段階でも諸国に「庚午年籍」の書写保管を命じ、中務省へ写本提出を命じたことなどが記されています。
 こうした史料の存在を紹介し、「庚午年籍」の研究状況について、ご自宅まで押し掛けて説明しました。今から10年ほど前のことだった記憶しています。
 なお、『古田武彦の古代史百問百答』において、古田先生は『続日本紀』の「秋七月丁酉。筑紫諸国、庚午年籍七百七十巻。以官印々之(官印を以て之に印す。)」の記事を、筑紫での「庚午年籍」の「出土」と表現されています。

 「この答えは、右の『庚午年籍七百七十巻』という、大量文書の出土が、『近江』でなく『筑紫諸国』であること、この一事からハッキリわかるのではないでしょうか。」(219頁)
 「すなわち、問題の『庚午年籍』が、大量に出土しているのは、『近江諸国』ではなく、筑紫諸国なのです。」(233頁)

 『続日本紀』の当該記事からは、筑紫諸国の「庚午年籍」七百七十巻に(大和朝廷側の)官印を押した、ということがわかるだけで、“出土した”“発見された”というような情報は含まれていません。古田先生がどのような意図や根拠により、「出土」という表現を用いられたのかについて関心があったのですが、ついにお聞きすることができないままとなりました。先生がお元気なうちにお聞きしておけばよかったと悔やみました。(つづく)


第1167話 2016/04/12

唐軍筑紫進駐と庚午年籍

 今朝は特急サンダーバード5号で金沢に向かっています。夕方には松本市に到着、一泊します。明日13日と14日に桂米團治さんがKBS京都放送での番組収録や落語会(松尾大社)で京都に見えられるので、ご挨拶にうかがいたいのですが、出張と重なってしまいました。もちろん、『古田武彦は死なず』にKBS京都のラジオ番組「本日、米團治日和。」での古田先生との対談を掲載させていただいたお礼のためです。残念ですが、ご挨拶は次の機会ということになりました。
 琵琶湖沿いの湖西線を列車は走っています。金色に輝く湖面と青空に映える比良山系、咲き誇る桜がきれいで、心は癒されます。連日繰り返される激しい企業間競争や困難な開発案件に、ついつい「好戦的」になり、心がささくれだつのですが、日本の美しい風景は、一瞬それらを忘れさせてくれます。まさに「ゆく春を近江の人と惜しみけり」の心境です。

 「庚午年籍」(670年)の造籍が近江朝によると正木さんは理解されているのですが、この「庚午年籍」造籍について、わたしは重要な問題が提起されているのではないかと考えてきました。古田先生もたびたび論じられたテーマですが、唐軍進駐により筑紫は軍事的に制圧され、倭国王墓は壊されたという指摘についてです。
 わたしは白村江戦敗北により、倭国水軍は壊滅的打撃を被ったと思いますが、九州王朝の都・太宰府や、その防衛施設である水城は破壊された痕跡がなく、むしろ「大宰府政庁2期」の宮殿や観世音寺が白鳳10年頃に造営されたり、同じく白鳳10年(670)には「庚午年籍」という全国規模で造籍がなされていることから、九州王朝の権威や国家官僚群(中央と地方とも)は健在だったのではないかと考えていたからです。もし、筑紫進駐した唐軍が九州王朝に対して軍事攻撃や墳墓・王宮破壊を行っていたのなら、その同時期に悠長に観世音寺や「政庁」を造営したり、全国的造籍事業を行ったりはできないはずだからです。
 ところが正木さんは「近江朝年号」すなわち天智・大友による「近江朝」という新概念を提起され、「庚午年籍」はその「近江朝」が造籍したものとされたのです。しかも正木説によれば、天智・大友の「近江朝」は九州王朝系であり、親唐派の薩夜麻と対立して対唐抗戦派の「近江朝」を立ち上げ、年号も「中元」と改元し、九州王朝を継ぐ自らの正当性を主張したとされたのです。
 その正当性を背景に「庚午年籍」を造籍したとすれば、この二重権力状態においてどのようにして全国的戸籍、とりわけ九州地方の造籍を行ったのでしょうか。実は「庚午年籍」において、九州地方と他地域とで「差」があったのではないかと考えられる史料根拠があります。『続日本紀』に見える次の記事です。

 「筑紫諸国のの庚午年籍七百七十巻、官印を以てこれに印す。」『続日本紀』神亀四年七月条(727)
 この記事によれば、神亀4年(727)まで、筑紫諸国の「庚午年籍」には大和朝廷の官印が押されていなかったことを意味します。したがって、この時期になってようやく大和朝廷は筑紫諸国の「庚午年籍」に官印を押すことができたということであり、それ以外の諸国の「庚午年籍」への官印押印についての記事は見えませんから、筑紫諸国(九州)とその他の諸国の「庚午年籍」の管理に何らかの差があったと考えられるのです。
 この『続日本紀』の記事が以前から問題になっており、何度か論じたこともありました(「洛中洛外日記」119話「九州の庚午年籍」)。今回の正木さんによる「庚午年籍」近江朝造籍説にショックを受けたのも、こうした問題意識があったからでした。(つづく)


第1166話 2016/04/11

近江朝と庚午年籍

 『古田史学会報』133号に発表された正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の論稿「『近江朝年号』の実在について」は九州王朝説の展開について重要な問題を提起していることに気づきました。
 『二中歴』などに見える九州年号とは別に「中元(668〜671)」「果安(672)」という不思議な年号が諸資料に散見されることが、九州年号研究者には知られていました。正木さんはこの「中元」を天智天皇の年号(天智7年〔即位元年〕〜10年)、「果安」を大友皇子の年号、すなわち「近江朝年号」と理解されました。「中元」を天智の年号ではないかとする見解は竹村順弘さんやわたしが関西例会で発表したことがあるのですが、正木さんは更に「果安」も加えて「近江朝年号」と位置づけられたのです。ここに正木説の「画期」があります。
 九州王朝の天子、筑紫君薩夜麻が白村江戦敗北により唐の捕虜となっている間、九州年号「白鳳」(661〜683)は改元もされず継続するのですが、その最中に「中元」「果安」が出現しているのです。すなわち、日本列島内に二重権力状態が発生したと正木さんは主張されました。そこで、正木さんとの懇談の中で、「それでは庚午年籍(670)は誰が命じて造籍したのか」というわたしの質問に対して、「近江朝でしょう」と答えられました。その瞬間、わたしの脳裏は激しく揺さぶられました。(つづく)