国分寺一覧

第1137話 2016/02/11

『古田史学会報』132号のご紹介

 『古田史学会報』132号が発行されましたので、ご紹介します。西条市の今井さんの力作が掲載されています。「古田史学の会」会員の肥沼孝治さんが今井稿をホームページ“多元的「国分寺」研究サークル”で要領よく紹介されていますので、転載させていただきます。なお、掲載された論稿・記事は次の通りです。

 『古田史学会報』132号の内容
○『日本書紀』に引用された「漢籍」と九州王朝 川西市 正木裕
○伊予国分寺と白鳳瓦 -最初に国分寺制度を作ったのは誰か(伊予国分寺出土の白鳳瓦を巡って)- 西条市 今井 久
○「皇極」と「斉明」についての一考察 -古田先生を偲びつつ-  松山市 合田洋一
○追憶・古田武彦先生(2)
 池田大作氏の書評「批判と研究」 古田史学の会・代表 古賀達也
○古田武彦先生追悼会の報告 八尾市 服部静尚
○二〇一五年の回顧と年頭のご挨拶  古田史学の会・代表 古賀達也
○『古田史学会報』原稿募集
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○編集後記 西村秀己

【転載】「今井久さんの論文から学ぶ」 肥沼孝治

 今井久さんの論文から学ぶために,「見出し」の書き出しをしてみる。つまり「構成」から学ぼうというワケである。
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 記

一.「国分寺建立」は聖武天皇が始めた,その実態の検討
 イ.「国分寺」創建の詔の寺の「名称」
 ロ.聖武天皇の詔の前にすでに国分寺が存在している事を示す記録があること
 ハ.『続日本紀』は詔勅の「金光明寺・法華寺」の寺名を抹消した

二.聖武天皇の詔の前に全国に国が統制する寺院が存在
 イ.「詔」以前の文献にあらわれる国分寺と推定される寺院の存在
 ロ.聖武天皇の詔の百年前.七世紀に寺院数が激増
 ハ.九州地方には左記の初期寺院が,小田富士雄氏に仍って列挙されている

三.国分寺遺跡出土の遺構・遺物が示す疑問点
 1.国分寺遺跡出土の伽藍配置が大きく二つにわかれている(塔が回廊内か回廊外か。前者が古式)
 2.全国の国分寺遺跡から出土する国分寺の伽藍配置が分裂(古式からは白鳳瓦が出土)

四.伊予の国分寺の考察(古式の伽藍配置で白鳳瓦が出土)

五.国分寺制度を最初に創ったのは倭国九州王朝である

六.「国分寺制度創設」を開始した倭国王は誰か

まとめ
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 なるほど,構成がすっきりしていてわかりやすい。統計的に分類し,しっかりとした結論を導き出している。天国の(もしかしたらご希望だった地獄の)古田先生にも喜んでいただけるのではないかと思った。


第1136話 2016/02/09

一元史観からの多層的「国分寺」の考察

 肥沼孝治さん宮崎宇史さんと立ち上げた多元的「国分寺」研究サークルですが、肥沼さんが開設された同サークルのホームページは順調にアクセス件数が増えているとのこと。
 そのホームページで肥沼さんが梶原義実さんの「国分寺成立の様相」(『考古学ジャーナル』2月号所収)という論文を紹介されました。同論文の存在は宮崎さんから教えていただいていたのですが、わたしはまだ入手できずにいます。
 肥沼さんの紹介によれば、大和朝廷一元史観に立った国分寺研究ですが、一元史観では説明しきれない様々な考古学的知見が記されているとのこと。わたしも同論文を読んだ上で、改めて論評したいと思います。取り急ぎ、肥沼さんによる紹介文を転載させていただきます。多元的「国分寺」研究はいよいよ面白くなってきました。

〔追記〕本稿執筆後に図書館で梶原義実さんの「国分寺成立の様相」を閲覧しました(最新号のためコピー不可)。各地の国分寺遺跡には白鳳時代の瓦が出土していたり、その下層に堀立柱の遺構があるものがあり、古い寺院があった場所に新たに国分寺が建てられたとする説が紹介されています。しかし、梶原さんの結論としてはそれらは7世紀に遡るようなものではないとする見解でした。従って、わたしたちの多元的「国分寺」説とは真っ向から対立する立場のようです。

【ホームページ・多元的「国分寺」研究サークルより転載】
梶原義実さんの「国分寺成立の様相」論文

宮崎さんのアドバイスもあり,
通説のおさらいにと思って買った『考古学ジャーナル』2月号。
(たった30数ページなのに薄いのに,1700円もする!)
ところが,それに掲載されていた上記の論文がとても刺激的なので,
このサイトで紹介しようと思った次第である。
もちろん通説の立場であるから,九州王朝なんて言葉は出てこないが,
しかしそれだからこそ,「雑念」が入らず読めるのではないかと。

(1)小田富士雄氏によると,西海道の国分寺には,
国分寺の造営にあたって大宰府の影響がきわめて大きかったと論じた。

(2)山崎信二氏は,平城京と国分寺との瓦の同はん関係は,
いまだに確認されていないと指摘した。

(3)1970年台以降,とくに80年代から90年代にかけて,
武蔵・上総・下総・上野・下野など,関東地方の国分二寺を中心に,
伽藍の中枢域(伽藍地)ばかりでなく,周辺域(寺院地)も含めた
広域的な調査がおこなわれるようになった。
須田勉氏は,それらの調査を受け,関東地方の多くの国分寺の造営計画について,
方位の異なる2時期の遺構が検出されることに注目した。(上総国分寺の伽藍変遷図)
さらに造営においては金堂より塔が先行する例が多いこと,
本格的な礎石建の伽藍の下層に,掘立柱建物の遺構が先行
してみられる例が存在することなどから,国分寺の造営計画に変更があったことを指摘した。

これまで多元的「国分寺」研究サークルが考えてきたことに,
まさにぴったり重なる発掘結果というべきではないだろうか。
しかし,この謎は大和一元史観では解けない。
7世紀末までは九州王朝が,8世紀以降は大和政権が,
我が国を代表する主権国家だったとする多元史観をもってして,
初めて解き得る謎(=歴史的真実)なのではないだろうか。

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上記は,朝の忙しい時に入力したもので,電車の中で「これも入れたかった」というものを見つけた。半日立ったが,補足しておきたい。

追伸

(4) 八賀晋氏は,出土瓦について,白鳳期の瓦が一定以上出土する国分寺が多いこと,美濃国分寺などの国分寺の伽藍の下層に,掘立柱建物が確認される事例があることなどを示しつつ,これら古相を示す伽藍配置については,白鳳期以前の氏寺(前身寺院)を改作・拡充整備したものとの見解を著わした。


第1133話 2016/02/03

多元的「国分寺」の考古学

 大阪と東京で古田先生の追悼会・お別れ会が二週連続で続くという1月が過ぎ、ようやく落ち着いて研究に取り組める環境に戻りました。もっとも肥沼孝治さんや宮崎宇史さんと多元的「国分寺」研究サークルを立ち上げたり、『古代に真実を求めて』の古田先生追悼特集号の追加原稿執筆など、忙しい日々は当分続きそうです。
 国分寺遺跡に7世紀に遡るものがあることが濃厚となっているのですが、昨年末に大阪歴史博物館の考古学者の李陽浩さんにこのことを説明し、7世紀の国分寺遺構と8世紀の遺構との見分け方について意見交換しました。
 瓦による編年については地域差が大きく、簡単ではないとの見方で意見が一致しました。そこで古代建築を専門とされている李さんから、塔の心柱の構造から一定の判断が可能と教えていただきました。
 7世紀の五重塔などは心柱が版築基台を掘りこんで埋められた形式だが、8世紀以降は心柱は基台上に乗っている形式が主流になるので、一応の目安になるとのことでした。たしかに7世紀初頭の造営で8世紀初頭に移築されたと考えられる法隆寺の五重塔の心柱は版築基台に埋め込んだ形式です。更に、8世紀の国分寺には七重塔が造営されるが、7世紀前半にはせいぜい五重塔なので、その差も判断材料に使えるのではないかとのことでした。
 伽藍配置などの南北軸の振れの他にも、こうした考古学的判断も多元的「国分寺」研究に役立つように思われます。


第1129話 2016/01/28

多元的「国分寺」研究サークル

のホームページ開設

 多元的「国分寺」研究サークル(愛称:タブンケン)のメンバーはまだ三人しかいませんが、その内のお一人、肥沼孝治さんがホームページを開設されました。肥沼さんといえば「肥さんの夢ブログ」というご自身のホームページもお持ちで、古田ファンにも人気のブログです。
 まだアクセス件数が少ないためか、検索しにくいそうですが、「洛中洛外日記」で書いた国分寺関係の記事を転載していただいています。これからは書き下ろしの論文も掲載する予定ですので、関心のある方は是非のぞいて見てください。多元的「国分寺」研究サークルへの参加も大歓迎です。特に入会条件などありませんから、ホームページに何かコメントしていただければ勝手にメンバーとなれます。
 掲載論文やコメントが増えれば、本として出版することも考えていますので、皆さんのご参加をお待ちしています。


第1128話 2016/01/24

「多元的国分寺」研究サークルを結成

 昨日は東京新聞の小寺勝美さんとお会いし、3時間にわたり対談しました。小寺さんは古田先生の訃報を扱ったコラム記事(邪馬「壹」国の人。東京新聞12月1日付朝刊「こちら編集委員室」)を書かれた方です。とても誠実で正確な内容の記事でしたので、是非お会いしたいと思い、東京での邂逅となりました。
 小寺さんは学生時代に古田先生の著作に出会われたとのことです。佐賀市のご出身で、フクニチ新聞社に勤務された後に東京新聞に入られたとのこと。今春、「古田史学の会」編集の『邪馬壹国の歴史学』(ミネルヴァ書房)と『古田武彦は死なず』(仮称。『古代に真実を求めて』19集、明石書店)の発刊記念講演の東京開催を検討していますが、そのときに取材を受けることになりました。
 夕方からは埼玉県の肥沼孝治さんと神奈川県の宮崎宇史さんと夕食をご一緒しました。話題は昨年から急進展を見せた「多元的国分寺」論、すなわち九州王朝の多利思北孤による国分寺建立の詔勅が6世紀末頃に出され、その古い国分寺の痕跡が各地に見られるというテーマです。肥沼さんからは近年発見された上野国国分寺の伽藍跡について報告されました。宮崎さんからは橿原市にある「大和国国分寺」の現地調査報告がなされました。わたしからは『聖徳太子伝記』に見える、告貴元年(594)の年に「66国の国府寺建立」記事と、大和と摂津に国分寺が二つあることの論理性(王朝交代における権力中枢地に発生しうる現象であること)について説明しました。
 そして、わたしからの提案で「多元的国分寺」研究サークルを三人で立ち上げ、ホームページの開設と全国の国分寺研究者に「多元的国分寺」研究(略称「多分研」?)への参加を呼びかけることになりました。ホームページが開設されましたら、ご報告します。
 三人の古代史論議は3時間以上に及びました。天気予報では夜から雪になるといわれていましたが、東京は比較的暖かく雪は降りませんでした。わたしは近くのホテルに帰るだけでしたが、お二人は遠くに帰られるので、夜遅くまで引き留めることになって申し訳ないことをしてしまいました。
 これから古田先生の追悼会(文京シビックセンター)に向かいます。


第1073話 2015/10/11

四天王寺伽藍方位の西偏

 摂津国分寺の研究のため、大阪歴博2階の「なにわ歴史塾」図書ルームで発掘調査報告を閲覧していたとき、あることに気づきました。難波京の条坊はかなり正確に南北軸と東西軸に一致していますが、その難波京内にある現・四天王寺の主要伽藍の南北軸が真北より5度程度西に振れているのです(目視による)。以前ならほとんど気にもかけなかった「西偏」ですが、最近研究している武蔵国分寺の主要伽藍が真北から7度西偏しているという問題を知りましたので、この四天王寺も真北からやや西偏しているという事実に気づくことができたのです。
 もちろん「西偏」しているのは、現在の四天王寺ですから、この現象が古代の創建時まで遡れるのかは、発掘調査報告書を読んだ限りでは不明です。四天王寺は何度か火災で消失していますから、再建時に同じ方位で設計されたのかがわかりませんから、断定的なことは今のところ言えません。しかし、正確に南北に向いている条坊都市の中の代表的寺院ですから、その条坊にあわせて再建されるのが当然のようにも思われます。
 しかし、次のようなケースも想定可能ではないでしょうか。すなわち、四天王寺(天王寺)が創建された倭京二年(619年、『二中歴』による)にはまだ条坊はできていませんから、天王寺は最初から「西偏」して造営されたのではないでしょうか。その「西偏」が現在までの再建にあたり、踏襲され続けてきたという可能性です。
 もし、そうであれば九州王朝の「聖徳」が難波に天王寺を創建したときは、南北軸を真北から「西偏」させるという設計思想を採用し、その後の白雉元年(652年)に前期難波宮と条坊を造営したときは真北方位を採用したということになります。この設計思想の変化が何によるものかは不明ですが、この現・四天王寺の方位が真北から「西偏」しているという問題をこれからも考えていきたいと思います。


第1072話 2015/10/09

条坊と摂津国分寺推定寺域のずれ

 摂津国分寺跡から7世紀の古い軒丸瓦が出土していたことをご紹介し、これを7世紀初頭の九州王朝による国分寺建立の痕跡ではないかとしましたが、この他にも同寺院跡が7世紀前半まで遡るとする証拠について説明したいと思います。それは、摂津国分寺の推定寺域が難波京条坊(方格地割)とずれているという問題です。
 『摂津国分寺跡発掘調査報告』(2012.2、大阪文化財研究所)によれば、摂津国分寺跡の西側には難波京の南北の中心線である朱雀大路が走り、更にその西側には四天王寺があり、東側には条坊の痕跡「方格地割」が並んでいます。その方格地割の東隣に摂津国分寺跡があり、その推定寺域は約270m四方とされています(11ページ)。ところがその推定寺域が条坊の痕跡「方格地割」とは数10mずれているのです。いわば、摂津国分寺は難波京内にありながら、その条坊道路とは無関係に造営されているのです。これは何を意味するのでしょうか。
 難波京の条坊がいつ頃造営されたのかについては諸説ありますが、聖武天皇の国分寺建立詔以前であるとすることではほぼ一致しています。わたしは前期難波宮造営(652年、九州年号の白雉元年)に伴って条坊も逐次整備造営されたと考えていますが、いずれにしてもこの条坊とは無関係に摂津国分寺の寺域が設定されていることから、難波京の条坊造営以前に摂津国分寺は創建されたとする理解が最も無理のないものと思われます。もし条坊造営以後の8世紀中頃に摂津国分寺が聖武天皇の命により創建されたのであれば、これほど条坊道路とずらして建立する必要性がないからです。既に紹介した7世紀前半頃と思われる軒丸瓦の出土もこの理解(7世紀前半建立)の正当性を示しています。
 したがって摂津国分寺の推定寺域と条坊とのずれという考古学事実は、摂津国分寺が7世紀初頭における九州王朝の国分寺建立命令に基づくものとする多元的国分寺造営説の証拠と考えられるのです。ちなみに、一元史観のなかには、このずれを根拠に朱雀大路東側の条坊は未完成であったとする論者もあるようです。同報告の「第3章 まとめ」には、そのことが次のように記されています。

 「古代における難波朱雀大路の東側の京域整備の状況には、条坊の敷設を積極的に認める説と、これに反対する説があるが、摂津国分寺の推定寺域が、難波京の方格地割とずれていることからも、この問題に話題を投げかけることになった。」(13ページ)

 このように摂津国分寺と条坊とのずれが一元史観では解き難い問題となっているのですが、多元的国分寺造営説によればうまく説明することができます。やはり、この摂津国分寺跡は九州王朝・多利思北孤による7世紀の国分寺と考えてよいのではないでしょうか。


第1071話 2015/10/08

摂津国分寺跡(天王寺区)出土の軒丸瓦

 九州王朝の多利思北孤による7世紀初頭(九州年号の告貴元年、594年)の国分寺(国府寺)建立と8世紀中頃の聖武天皇による国分寺建立という多元的国分寺論のひとつの検証ケースとして、摂津国分寺が二つあるというテーマを「洛中洛外日記」1026話で紹介しましたが、ようやく『摂津国分寺跡発掘調査報告』などを閲覧することができました。
 二つの摂津国分寺とは、ひとつは大阪市北区国分寺にある護国山国分寺で、「長柄の国分寺」とも称されています。もう一つは天王寺区国分町にある国分寺跡です。その発掘調査報告書によると、古代瓦などが出土しており、現地地名も天王寺区国分町であることから、ここに聖武天皇による摂津国分寺があったとする説が有力視されています。ですから、北区に現存する国分寺は摂津国府が平安時代(延暦24年、805年)に上町台地北側の渡辺に移転したことに伴って「国分寺」を担当したとされているようです(『摂津国分寺跡発掘調査報告』2012.2、大阪文化財研究所)。
 今回閲覧した『四天王寺旧境内遺跡発掘調査報告1』(1996.3、大阪市文化財協会)に記された出土軒丸瓦に大変興味深いものがありました。摂津国分寺跡出土瓦の図表にある「素弁蓮華文軒丸瓦」片です(SK90-2出土)。同遺跡からは他に8世紀のものと見られる「複弁六葉蓮華文軒丸瓦」や「重圏文軒丸瓦」が出土しているのですが、この「素弁蓮華文軒丸瓦」だけは7世紀前半のものと思われるのです。
 同報告書にもこの瓦について「ほかに1点だけこれらの瓦より古い瓦が出土しているので、奈良時代にこの地に国分寺が造られる以前にも寺があった可能性も考えなければならない。」(105ページ)と解説しているのです。『大阪市北部遺跡群発掘調査報告』(2015.3、大阪文化財研究所)においても、この瓦のことを「一方で、SK90-2次調査では7世紀代とみられる素弁蓮華文軒丸瓦が出土しており、国分寺以前にこの地に寺のあった可能性も指摘されている。」(160ページ)としています。
 この出土事実から、天王寺区国分町にあった摂津国分寺の創建は7世紀にまで遡り、このことは国分寺多元説、すなわち九州王朝・多利思北孤による国分寺(国府寺)建立説を支持するものではないでしょうか。(つづく)


第1050話 2015/09/10

武蔵国分寺跡「塔跡2」の「6度東偏」の謎

 武蔵国分寺跡資料館でいただいた「塔跡2」の調査報告書(コピー)によると、七重塔とされる「塔跡1」の西側約55mの地点から発見された遺構は平成15〜17年の調査の結果、塔跡とされ、「塔跡2」と名付けられました。堅牢な版築基台が出土しましたが、礎石や根固め石はなどは検出されなかったとあります。
 今回の現地調査を行うまでは、この「塔跡2」も「塔跡1」と同様に主軸は真北を向いていると理解していたのですが、同地でいただいたパンフレットをよく見るとどうも東偏しているのではないかと思われました。同行された茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集委員、古田史学の会・会員)もそのことに気づかれました。そこで、資料館の石井さんに「塔跡2」の発掘調査報告書を見せて欲しいとお願いしたところ、先のコピーをいただきました。
 その報告書によると「塔跡2」は「僧寺中心軸線に対して約6°東偏する。」と記されていました。「僧寺中心軸線」とあるのが、真北方位の「塔跡1」なのか、7度西偏する金堂などの主要伽藍なのかこの記載からは不明ですが、現地調査の結果から考えると真北方位の「塔跡1」に対して6度東偏していると考えざるをえませんし、コピーにあった「図3 七重塔西方地区(塔跡2本体部)全体図」もそのように作図されています(茂山さんが測定されました)。
 以上の考古学的出土事実は次のことを指し示しています。

1.最初に「塔跡1」が真北方位で造営された。
2.次いで金堂・講堂など主要伽藍が7度西偏して造営された。
3.その後に「塔跡1」の西隣に6度東偏して「塔跡2」が造営された。あるいは造営しようと版築基台が造られた。

 以上のような経緯が想定されるのですが、それらの中心軸方位が「めちゃくちゃ」です。これで一つの「国分寺」跡と言えるのでしょうか。南北方位で造営された東山道武蔵路と同一方位を持つ「塔跡1」は造営者の統一された設計思想・意志(北極星を重視)が感じられますが、7度西偏した主要伽藍や、6度東偏している「塔跡2」はその主軸の向きを決定した理由や設計意志が、わたしには理解不能なのです。特に「塔跡2」を主要伽藍とも「塔跡1」(七重塔)とも異なる方位にした理由、しなければならなかった理由がわかりません。
 しかし、武蔵国を代表する国分寺設計にあたり、その採用方位の不統一を設計者や造営主体者の「趣味」の問題とすることは学問的ではありません。何か理由があったはずです。それを考えるのが歴史学ですから、この謎から逃げることは許されません。主要伽藍の7度西偏については「磁北」とする作業仮説(思いつき・アイデア)が提起されたのですが、6度東偏も「磁北」とすることができるでしょうか。「塔跡2」の造営は『続日本後紀』の記事(承和12年〔845〕3月条、七重塔焼失・再建記事。)などから9世紀中頃と考えられているようですが、もしそうであれば100年間ほどで磁北が7度西偏から6度東偏に変化したことを証明しなければなりません。これもまた、大変な作業ですし、100年で磁北がそれほど変化するものかどうかも、わたしにはわかりません。不思議です。(つづく)

 報告は、肥さんの夢ブログ(中社)内の古田史学に再掲載。


第1049話 2015/09/09

聖武天皇「国分寺建立詔」の多元的考察

 『続日本紀』天平13年(741)に見える聖武天皇による「国分寺建立詔」に基づき、全国の国分寺造営時期を8世紀中頃以降とする不動の理解(信念)により、様々な矛盾が噴出しているのですが、この「国分寺建立詔」などを多元史観・九州王朝説の視点から考察してみたいと思います。
 国分寺建立に関して『続日本紀』には次のような記事が見えます(武蔵国分寺跡資料館解説シートNo.3「武蔵国分寺関連年表」による)。

○天平13年(741) 聖武天皇が国分寺建立の詔を発布する。
○天平16年(744) 国ごとに正税四万束を割き、毎年出挙して国分寺造営の費用に充てる。
○天平19年(747) 国分寺造営について国司の怠惰を責め、郡司を専任として重用し、三年以内の完了を命じる。
○天平勝寶8年(756) 聖武太上天皇一周忌斎会のため、使を諸国に遣わし、国分寺の丈六仏像の造仏、さらに造仏殿、造塔を促す。

 このように天平13年の建立詔の後も、その財政的負担が大きいためか、諸国の国分寺造営がはかどらなかったことがうかがえます。そのため天平19年には、三年以内に完了させろと催促の命令が出されています。こうした事情を多元史観・九州王朝説の視点から考察しますと、次のような当時の状況が浮かび上がります。

1.九州王朝による告貴元年(594)の「国府寺」建立の命令による国分寺が存在していた場合、それとは別に建立しなければならない。(「洛中洛外日記」718話をご参照ください)
2.九州王朝の「国府寺」が失われていた場合は、新たに新築することになるが、同じ場所に造るか別の場所に造るかの判断を迫られる。
3.九州王朝の「国府寺」の一部、たとえば塔だけが残っていた場合、その塔を再利用するか、別の場所にすべて新築しなければならない。
4.同じ場所、あるいは近隣に造る場合、大和朝廷への恭順の姿勢を示すためにも、九州王朝の「国府寺」とは異なることを、あえて強調しなければならない。

 以上のような状況が考えられますが、諸国の豪族(国司)にとっては経済的負担も大きく、もし九州王朝の「国府寺」が存続していれば、新たに新築しなければならないことに、非道理を感じたはずです。他方、新たな権力者(大和朝廷)に逆らうことも困難だったのではないでしょうか。命令に従わない国司に替えて、郡司を重用するというのですから、なおさらです。
 このような状況下において、武蔵国では九州王朝「国分寺」の「塔」だけは残っていたので、それは再利用するが、全体としては九州王朝の「国府寺」とは別物であることを強調するために、7度西偏させた主要伽藍を新築したと考えてみれば、現在の「武蔵国分寺跡」の状況をうまく説明できるように思います。もちろん、他の可能性もありますので、一つの想定できるケースとして提起したいと思います。(つづく)


第1047話 2015/09/08

「武蔵国分寺跡」主要伽藍と塔の年代差

 今日の午後は東京で商談を行い、今は上越新幹線で新潟県長岡市に向かっています。明日は朝から新潟県の代理店・顧客訪問です。

 武蔵国分寺跡資料館の中道さんの説明によりますと、武蔵国分寺跡で最も古い「塔1」の造営年代は聖武天皇の国分寺建立命令(天平13年、741年)が出された7世紀中頃で、金堂などのその他の主要伽藍は10年ほど遅れて造営されたとのことでした。この10年ほど遅れたとする根拠も、天平19年(747)に出された、国分寺建設を3年以内に完成させろという命令でした。いずれも『続日本紀』を史料根拠とした造営年の判断ですが、出土瓦からも「塔1」の方が金堂のものよりも古い様式を持つという相対編年に依られているようです。
 「塔1」と主要伽藍の先後関係については、わたしも賛成なのですが、「塔1」を『続日本紀』を根拠に8世紀中頃とする判断には疑問を持っています。「洛中洛外日記」1045話で指摘しましたように、「単弁蓮華文」軒丸瓦はもう少し古く見ても良いよう思いますし、第一の疑念はたった10年ほどの年代差で主軸が7度も振れる設計を同一寺院内の建造物で行うものでしょうか。また、10年後なら「塔1」を設計造営した人たちはまだ健在であり、造営主体が同一の権力者であれば、このような不細工な「設計変更」をするでしょうか。この疑問を中道さんにぶつけたのですが、返答に困っておられたようでした。
 更に、考古学者は出土事物に基づいて編年すべきであり、文献に編年が引きずられるというのはいかがなものかと、遠回しに「苦言」を呈したのですが、真剣に受け止めていただきました。その応答や態度から、とても誠実な考古学者との印象を受けました。大和朝廷一元史観の宿痾は、現場でまじめに発掘調査されている若い考古学者も苦しめているのだなあ、と思いました。
 なお、わたしが難波宮についていろいろと教えていただいている大阪歴博の考古学者は、考古学は発掘事実に基づいて編年すべきで、史料に影響を受けてはいけないと言われていたことを思い出しました。一つの見識を示したものと思いますが、考古学と文献史学のあり方や関係性は学問的に重要な問題ですので、この問題についても考えを述べてみたいと思います。(つづく)


第1046話 2015/09/08

「武蔵国分寺跡」主要伽藍調査報告書の方位

 今朝は新幹線で東京へ「とんぼ返り」です。月曜日は勤務先の定例会議がありますので、どうしても京都に帰らなければなりません。また今日から金曜日までは関東・新潟出張が連泊で続きます。

 武蔵国分寺跡資料館などでいただいた資料を精査していますと、面白いことに気づきました。国分寺市教育委員会発行のパンフレット「武蔵国分寺跡調査のあゆみと成果 -僧寺金銅跡-」(平成26年3月)によりますと、表紙に描かれた「武蔵国分寺跡の主要遺構」では、金堂などの主要伽藍の南北軸は真北より7度西偏しているのですが、別のページに記載された明治36年の図面(『古蹟』武蔵国分寺礎石配列図)では金堂の礎石配列が南北方位印と平行しており、西偏していないのです。同様に掲載されている大正12年発行『東京府史蹟勝地調査報告書』第一冊収録の「金堂址礎石配置図」も南北方位印に平行しており、西偏していません(調査が実施されたのは大正11年)。更に昭和31年の発掘調査の図面も西偏していません。平成21〜24年の最新調査の説明文に付された金堂礎石配置図も西偏していません。
 この国分寺市教育委員会発行のパンフレットを精査して、わたしの頭か眼がおかしくなったのかと不安にかられてしまいました。そこで今度は恐らく最新版パンフレットと思われる平成27年3月に国分寺市教育委員会ふるさと文化財課発行の「武蔵国分寺跡の整備」を見ますと、最も精密な測量図が掲載されており、金堂・講堂・鐘楼・南門などすべてが7度西偏していました。これでようやく「武蔵国分寺」主要伽藍が「塔1」を除いて7度西偏していることが確認されました。もちろん、9月5日の現地調査でも西偏を確認しています(茂山憲史さんのご協力による)。
 それではなぜ明治や大正、昭和31年の測量図面では伽藍主軸方位が真北として作図されていたのでしょうか。これは推定ですが、恐らくそれらの測量図作成において「磁北」が「方位印」として採用されたのではないでしょうか。ということは、明治時代から現在までこの地域の磁北は真北から「7度西偏」していたことになり、そうであればこれらの測量図がうまく説明できます。「磁北」が時期や地域によりどのくらい振れるのかは知りませんが、この地域では明治から現在まで「7度西偏」としてよさそうです。たぶん、明治時代以後であれば「磁北」についての科学的測定データが残されているのではないでしょうか。
 それにしても、行政が発行しているパンフレットや昔の報告書も用心して取り扱わなければならないということを改めて実感しました。よい経験となりました。(つづく)