「 国分寺 」一覧

第1071話 2015/10/08

摂津国分寺跡(天王寺区)出土の軒丸瓦

 九州王朝の多利思北孤による7世紀初頭(九州年号の告貴元年、594年)の国分寺(国府寺)建立と8世紀中頃の聖武天皇による国分寺建立という多元的国分寺論のひとつの検証ケースとして、摂津国分寺が二つあるというテーマを「洛中洛外日記」1026話で紹介しましたが、ようやく『摂津国分寺跡発掘調査報告』などを閲覧することができました。
 二つの摂津国分寺とは、ひとつは大阪市北区国分寺にある護国山国分寺で、「長柄の国分寺」とも称されています。もう一つは天王寺区国分町にある国分寺跡です。その発掘調査報告書によると、古代瓦などが出土しており、現地地名も天王寺区国分町であることから、ここに聖武天皇による摂津国分寺があったとする説が有力視されています。ですから、北区に現存する国分寺は摂津国府が平安時代(延暦24年、805年)に上町台地北側の渡辺に移転したことに伴って「国分寺」を担当したとされているようです(『摂津国分寺跡発掘調査報告』2012.2、大阪文化財研究所)。
 今回閲覧した『四天王寺旧境内遺跡発掘調査報告1』(1996.3、大阪市文化財協会)に記された出土軒丸瓦に大変興味深いものがありました。摂津国分寺跡出土瓦の図表にある「素弁蓮華文軒丸瓦」片です(SK90-2出土)。同遺跡からは他に8世紀のものと見られる「複弁六葉蓮華文軒丸瓦」や「重圏文軒丸瓦」が出土しているのですが、この「素弁蓮華文軒丸瓦」だけは7世紀前半のものと思われるのです。
 同報告書にもこの瓦について「ほかに1点だけこれらの瓦より古い瓦が出土しているので、奈良時代にこの地に国分寺が造られる以前にも寺があった可能性も考えなければならない。」(105ページ)と解説しているのです。『大阪市北部遺跡群発掘調査報告』(2015.3、大阪文化財研究所)においても、この瓦のことを「一方で、SK90-2次調査では7世紀代とみられる素弁蓮華文軒丸瓦が出土しており、国分寺以前にこの地に寺のあった可能性も指摘されている。」(160ページ)としています。
 この出土事実から、天王寺区国分町にあった摂津国分寺の創建は7世紀にまで遡り、このことは国分寺多元説、すなわち九州王朝・多利思北孤による国分寺(国府寺)建立説を支持するものではないでしょうか。(つづく)


第1050話 2015/09/10

武蔵国分寺跡「塔跡2」の「6度東偏」の謎

 武蔵国分寺跡資料館でいただいた「塔跡2」の調査報告書(コピー)によると、七重塔とされる「塔跡1」の西側約55mの地点から発見された遺構は平成15〜17年の調査の結果、塔跡とされ、「塔跡2」と名付けられました。堅牢な版築基台が出土しましたが、礎石や根固め石はなどは検出されなかったとあります。
 今回の現地調査を行うまでは、この「塔跡2」も「塔跡1」と同様に主軸は真北を向いていると理解していたのですが、同地でいただいたパンフレットをよく見るとどうも東偏しているのではないかと思われました。同行された茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集委員、古田史学の会・会員)もそのことに気づかれました。そこで、資料館の石井さんに「塔跡2」の発掘調査報告書を見せて欲しいとお願いしたところ、先のコピーをいただきました。
 その報告書によると「塔跡2」は「僧寺中心軸線に対して約6°東偏する。」と記されていました。「僧寺中心軸線」とあるのが、真北方位の「塔跡1」なのか、7度西偏する金堂などの主要伽藍なのかこの記載からは不明ですが、現地調査の結果から考えると真北方位の「塔跡1」に対して6度東偏していると考えざるをえませんし、コピーにあった「図3 七重塔西方地区(塔跡2本体部)全体図」もそのように作図されています(茂山さんが測定されました)。
 以上の考古学的出土事実は次のことを指し示しています。

1.最初に「塔跡1」が真北方位で造営された。
2.次いで金堂・講堂など主要伽藍が7度西偏して造営された。
3.その後に「塔跡1」の西隣に6度東偏して「塔跡2」が造営された。あるいは造営しようと版築基台が造られた。

 以上のような経緯が想定されるのですが、それらの中心軸方位が「めちゃくちゃ」です。これで一つの「国分寺」跡と言えるのでしょうか。南北方位で造営された東山道武蔵路と同一方位を持つ「塔跡1」は造営者の統一された設計思想・意志(北極星を重視)が感じられますが、7度西偏した主要伽藍や、6度東偏している「塔跡2」はその主軸の向きを決定した理由や設計意志が、わたしには理解不能なのです。特に「塔跡2」を主要伽藍とも「塔跡1」(七重塔)とも異なる方位にした理由、しなければならなかった理由がわかりません。
 しかし、武蔵国を代表する国分寺設計にあたり、その採用方位の不統一を設計者や造営主体者の「趣味」の問題とすることは学問的ではありません。何か理由があったはずです。それを考えるのが歴史学ですから、この謎から逃げることは許されません。主要伽藍の7度西偏については「磁北」とする作業仮説(思いつき・アイデア)が提起されたのですが、6度東偏も「磁北」とすることができるでしょうか。「塔跡2」の造営は『続日本後紀』の記事(承和12年〔845〕3月条、七重塔焼失・再建記事。)などから9世紀中頃と考えられているようですが、もしそうであれば100年間ほどで磁北が7度西偏から6度東偏に変化したことを証明しなければなりません。これもまた、大変な作業ですし、100年で磁北がそれほど変化するものかどうかも、わたしにはわかりません。不思議です。(つづく)

 報告は、肥さんの夢ブログ(中社)内の古田史学に再掲載。


第1049話 2015/09/09

聖武天皇「国分寺建立詔」の多元的考察

 『続日本紀』天平13年(741)に見える聖武天皇による「国分寺建立詔」に基づき、全国の国分寺造営時期を8世紀中頃以降とする不動の理解(信念)により、様々な矛盾が噴出しているのですが、この「国分寺建立詔」などを多元史観・九州王朝説の視点から考察してみたいと思います。
 国分寺建立に関して『続日本紀』には次のような記事が見えます(武蔵国分寺跡資料館解説シートNo.3「武蔵国分寺関連年表」による)。

○天平13年(741) 聖武天皇が国分寺建立の詔を発布する。
○天平16年(744) 国ごとに正税四万束を割き、毎年出挙して国分寺造営の費用に充てる。
○天平19年(747) 国分寺造営について国司の怠惰を責め、郡司を専任として重用し、三年以内の完了を命じる。
○天平勝寶8年(756) 聖武太上天皇一周忌斎会のため、使を諸国に遣わし、国分寺の丈六仏像の造仏、さらに造仏殿、造塔を促す。

 このように天平13年の建立詔の後も、その財政的負担が大きいためか、諸国の国分寺造営がはかどらなかったことがうかがえます。そのため天平19年には、三年以内に完了させろと催促の命令が出されています。こうした事情を多元史観・九州王朝説の視点から考察しますと、次のような当時の状況が浮かび上がります。

1.九州王朝による告貴元年(594)の「国府寺」建立の命令による国分寺が存在していた場合、それとは別に建立しなければならない。(「洛中洛外日記」718話をご参照ください)
2.九州王朝の「国府寺」が失われていた場合は、新たに新築することになるが、同じ場所に造るか別の場所に造るかの判断を迫られる。
3.九州王朝の「国府寺」の一部、たとえば塔だけが残っていた場合、その塔を再利用するか、別の場所にすべて新築しなければならない。
4.同じ場所、あるいは近隣に造る場合、大和朝廷への恭順の姿勢を示すためにも、九州王朝の「国府寺」とは異なることを、あえて強調しなければならない。

 以上のような状況が考えられますが、諸国の豪族(国司)にとっては経済的負担も大きく、もし九州王朝の「国府寺」が存続していれば、新たに新築しなければならないことに、非道理を感じたはずです。他方、新たな権力者(大和朝廷)に逆らうことも困難だったのではないでしょうか。命令に従わない国司に替えて、郡司を重用するというのですから、なおさらです。
 このような状況下において、武蔵国では九州王朝「国分寺」の「塔」だけは残っていたので、それは再利用するが、全体としては九州王朝の「国府寺」とは別物であることを強調するために、7度西偏させた主要伽藍を新築したと考えてみれば、現在の「武蔵国分寺跡」の状況をうまく説明できるように思います。もちろん、他の可能性もありますので、一つの想定できるケースとして提起したいと思います。(つづく)


第1047話 2015/09/08

「武蔵国分寺跡」主要伽藍と塔の年代差

 今日の午後は東京で商談を行い、今は上越新幹線で新潟県長岡市に向かっています。明日は朝から新潟県の代理店・顧客訪問です。

 武蔵国分寺跡資料館の中道さんの説明によりますと、武蔵国分寺跡で最も古い「塔1」の造営年代は聖武天皇の国分寺建立命令(天平13年、741年)が出された7世紀中頃で、金堂などのその他の主要伽藍は10年ほど遅れて造営されたとのことでした。この10年ほど遅れたとする根拠も、天平19年(747)に出された、国分寺建設を3年以内に完成させろという命令でした。いずれも『続日本紀』を史料根拠とした造営年の判断ですが、出土瓦からも「塔1」の方が金堂のものよりも古い様式を持つという相対編年に依られているようです。
 「塔1」と主要伽藍の先後関係については、わたしも賛成なのですが、「塔1」を『続日本紀』を根拠に8世紀中頃とする判断には疑問を持っています。「洛中洛外日記」1045話で指摘しましたように、「単弁蓮華文」軒丸瓦はもう少し古く見ても良いよう思いますし、第一の疑念はたった10年ほどの年代差で主軸が7度も振れる設計を同一寺院内の建造物で行うものでしょうか。また、10年後なら「塔1」を設計造営した人たちはまだ健在であり、造営主体が同一の権力者であれば、このような不細工な「設計変更」をするでしょうか。この疑問を中道さんにぶつけたのですが、返答に困っておられたようでした。
 更に、考古学者は出土事物に基づいて編年すべきであり、文献に編年が引きずられるというのはいかがなものかと、遠回しに「苦言」を呈したのですが、真剣に受け止めていただきました。その応答や態度から、とても誠実な考古学者との印象を受けました。大和朝廷一元史観の宿痾は、現場でまじめに発掘調査されている若い考古学者も苦しめているのだなあ、と思いました。
 なお、わたしが難波宮についていろいろと教えていただいている大阪歴博の考古学者は、考古学は発掘事実に基づいて編年すべきで、史料に影響を受けてはいけないと言われていたことを思い出しました。一つの見識を示したものと思いますが、考古学と文献史学のあり方や関係性は学問的に重要な問題ですので、この問題についても考えを述べてみたいと思います。(つづく)


第1046話 2015/09/08

「武蔵国分寺跡」主要伽藍調査報告書の方位

 今朝は新幹線で東京へ「とんぼ返り」です。月曜日は勤務先の定例会議がありますので、どうしても京都に帰らなければなりません。また今日から金曜日までは関東・新潟出張が連泊で続きます。

 武蔵国分寺跡資料館などでいただいた資料を精査していますと、面白いことに気づきました。国分寺市教育委員会発行のパンフレット「武蔵国分寺跡調査のあゆみと成果 -僧寺金銅跡-」(平成26年3月)によりますと、表紙に描かれた「武蔵国分寺跡の主要遺構」では、金堂などの主要伽藍の南北軸は真北より7度西偏しているのですが、別のページに記載された明治36年の図面(『古蹟』武蔵国分寺礎石配列図)では金堂の礎石配列が南北方位印と平行しており、西偏していないのです。同様に掲載されている大正12年発行『東京府史蹟勝地調査報告書』第一冊収録の「金堂址礎石配置図」も南北方位印に平行しており、西偏していません(調査が実施されたのは大正11年)。更に昭和31年の発掘調査の図面も西偏していません。平成21〜24年の最新調査の説明文に付された金堂礎石配置図も西偏していません。
 この国分寺市教育委員会発行のパンフレットを精査して、わたしの頭か眼がおかしくなったのかと不安にかられてしまいました。そこで今度は恐らく最新版パンフレットと思われる平成27年3月に国分寺市教育委員会ふるさと文化財課発行の「武蔵国分寺跡の整備」を見ますと、最も精密な測量図が掲載されており、金堂・講堂・鐘楼・南門などすべてが7度西偏していました。これでようやく「武蔵国分寺」主要伽藍が「塔1」を除いて7度西偏していることが確認されました。もちろん、9月5日の現地調査でも西偏を確認しています(茂山憲史さんのご協力による)。
 それではなぜ明治や大正、昭和31年の測量図面では伽藍主軸方位が真北として作図されていたのでしょうか。これは推定ですが、恐らくそれらの測量図作成において「磁北」が「方位印」として採用されたのではないでしょうか。ということは、明治時代から現在までこの地域の磁北は真北から「7度西偏」していたことになり、そうであればこれらの測量図がうまく説明できます。「磁北」が時期や地域によりどのくらい振れるのかは知りませんが、この地域では明治から現在まで「7度西偏」としてよさそうです。たぶん、明治時代以後であれば「磁北」についての科学的測定データが残されているのではないでしょうか。
 それにしても、行政が発行しているパンフレットや昔の報告書も用心して取り扱わなければならないということを改めて実感しました。よい経験となりました。(つづく)


第1045話 2015/09/07

「武蔵国分寺」七重塔創建瓦の編年

 「洛中洛外日記」1044話の「武蔵国分寺」現地調査緊急報告で書きましたように、「塔1」(七重塔)の造営年代は8世紀中頃とされていますが、その根拠は『続日本紀』の聖武天皇の国分寺建立詔に基づくものであり、出土瓦などによる考古学的事実によるものではないことがわかりました。
 出土瓦だけからは編年が難しいのかもしれませんが、同遺跡の「塔1」創建瓦として展示されているものは「単弁八葉蓮華文」であり、7世紀後半によく見られる「複弁」ではありません。むしろ7世紀初頭や前半の瓦に似ているように思われ、どこかで見たような記憶がありましたので、持参していた『一瓦一説』(森郁夫著)に記載されている瓦と見比べたところ、7世紀前半頃とされる法輪寺(奈良県生駒郡斑鳩町)の軒丸瓦・軒平瓦の文様によく似ていました。もちろん、全く同じではありませんし、編年には地域性もありますから、断定するものではありません。
 また、武蔵国分寺跡資料館の発掘担当者の中道さんの説明によれば、『一瓦一説』に掲載されているような「(この地域では)きれいなものは見たことがない」とのことで、確かに展示されていた瓦は近畿の博物館などで見るような整った瓦はありませんでした。「複弁蓮華文」の軒丸瓦も、この地方ではほとんど出土していないと説明されていましたので、畿内の瓦の様式編年をそのまま適用するには用心が必要なようです。
 しかしながら、それでも「武蔵国分寺」の「塔1」の編年が、考古学的出土物よりも『続日本紀』の聖武天皇の国分寺建立命令の詔勅(天平13年、741年)を根拠に8世紀中頃以後とされているのは、大和朝廷一元史観の宿痾と言わざるを得ません。やはり多元史観による「九州王朝の国分寺建立」という視点で、各地の国分寺遺跡の編年見直しが必要と思われます。(つづく)

 報告は、肥さんの夢ブログ(中社)内の

古田史学に再掲載。


第1044話 2015/09/05

「武蔵国分寺」現地調査緊急報告

 肥沼孝治さん(古田史学の会・会員)のご案内で、「東山道武蔵路」「武蔵国分寺」「武蔵国分尼寺」などの現地地調査を行いました。総勢8名で3時間ほどかけて、しっかりと見学できました。そして、予想を上回る成果をあげることができました。考察はこれからですが、取り急ぎ事実関係を中心に緊急報告を行います。
 武蔵国分寺跡資料館などで次の知見、説明を得ました。これらの持つ意味については、順次「洛中洛外日記」で考察します。

1.七重塔の造営年代は8世紀中頃とされていますが、その根拠は『続日本紀』の聖武天皇の国分寺建立詔に基づくものであり、出土瓦などによる考古学的事実によるものではない。瓦からは編年が難しいとされているようでした。
2.真北に主軸を持つと思っていた「塔2」の発掘図面を精査すると、東に約5度ほど振れており(茂山憲史さんの指摘・測定による)、真北に主軸を持つ「塔1」(七重塔)とは造営年代や造営主体が異なると思われる。
3.「武蔵国分尼寺」の主軸も、内部の伽藍により異なっていた。尼坊とその他の伽藍(金銅・講堂など)の主軸にはずれがありました。
4.同地域には7世紀の遺跡がないとされており、従って「塔1」の編年も8世紀中頃とする根拠の一つにされていた。

 他にも現地でなければわからない知見が次から次へと得られました。「歴史は脚にて知るべきものなり(秋田孝季)」という言葉を実感しました。懇切丁寧に説明していただいた武蔵国分寺跡資料館の中道さん石井さん、そして下見やご案内をしていただいた肥沼さんに感謝いたします。(つづく)

多元的「武蔵国分寺」現地調査

 報告は、肥さんの夢ブログ(中社)とリンクしています。


第1042話 2015/09/03

JR武生駅の「花筐(はながたみ)」像

 今日は仕事で福井県越前市に来ています。JR武生駅で降りたのですが、構内に「花筐(はながたみ)」像があることに気づきました。説明によると「継躰大王」と后が主人公の謡曲「花筐(はながたみ)」の像とのことで、「継躰大王」と后の「照日の前(てるひのまえ)」の小さなブロンズ像です。この地域には「継躰大王」伝承が多数残っているとも記されていました。当地の「味真野(あじまの)」が継躰天皇の出身地とされているようです。
 「花筐」という謡曲があることは知っていましたが、この字が「はながたみ」と訓むことや、継躰天皇と后が主人公ということは、恥ずかしながら今日初めて知りました。この謡曲「花筐」は世阿弥の作とされていますが、大和に上った継躰天皇を「照日の前」が凶女となって追うというあらすじです。この「照日の前」は后となったということですから、後の安閑天皇を産んだことになります。
 この物語が世阿弥による全くの創作なのか、継躰天皇に関する史実の反映なのか、それとも越前にいた別の権力者の伝承を世阿弥が転用したのか、気になるところです。幸い、「古田史学の会」には謡曲にめっぽう詳しい正木裕さん(古田史学の会・事務局長)がおられますので、お会いしたら教えていただこうと思います。
 なお、越前市は武生市などが合併により誕生した行政区ですが、JR武生駅付近の地名が「府中」「国府」ですから、越前国府があった場所です。ちなみに近くに国分寺もありました。現存寺院の方位は真北よりやや西偏しているようでした。


第1034話 2015/08/23

前期難波宮の方位精度

 古代寺院などの「7度西偏」磁北説に対して、吹田市の茂山憲史さん(古田史学の会・会員)から貴重なアドバイスのメールをいただきました。次の通りです。

  「それにしても、偏角1度というのは、時計文字盤の「1分」の6分の1という微妙な角度です。全国にそんなにたくさんの「7度西偏」の建造物があるとは考えにくいのではないでしょうか。6度や8度がもっとある気がします。それにもかかわらず、ある時期以降、「磁北」がプランの中心流行になったと言うことは確かだと思います。簡便だからです。それが九州王朝に始まるのか、近畿王朝以降に始まるのか、興味津々です。僕の推測としては、九州王朝に始まる気がしています。「指南魚」という文化の伝播速度と九州王朝の進取の気風を考慮したいのです。朝鮮半島への伝播も興味が湧きます。」

 茂山さんは現役時代は新聞社に勤めておられ、天文台への取材経験などから、磁北や歳差について多くの知見を持っておられます。昨日の関西例会でも、本件についていろいろと教えていただきました。
 そこで古代建築の方位精度について、どの程度のレベルだったのかについて調査してみました。以前、前期難波宮遺構について大阪歴博の李陽浩さんから教えていただいたことがあったので、李さんの論文を探したところ、『大阪遺産 難波宮』(大阪歴史博物館、平成26年)に収録された「前期・後期難波宮の『重なり』をめぐって」を見つけました。
 李さんは古代建築史の優れた研究者で、多くの貴重な研究成果を発表されています。同論文には前期難波宮の南北中軸線方位の精密な測定結果が掲載されており、その真北との差はなんと「0度40分2秒(東偏)」とのことで、かなり精密であり高度な測量技術がうかがわれます。後期難波宮も前期難波宮跡に基づいて造営されているのですが、その真北との差も「0度32分31秒(東偏)」であり、両者の差は「誤差に等しいとしても何ら問題がない数値といえよう。」と李さんは指摘されています。古代の測量技術もすごいですが、残された遺跡からここまで精密な中心軸方位を復元できる大阪歴博の考古学発掘技術と復元技術もたいしたものです。
 この前期難波宮は九州王朝の副都であるとわたしは考えていますから、7世紀中頃の九州王朝や前期難波宮を造営した工人たちが高度な測量技術を有していたことがわかります。おそらくこの精度は高度な天体観測技術が背景になって成立していたと思われますが、「磁北」を用いる場合は、方位磁石の精度も必要となりますから、はたして古代において、どのような方位磁石が日本列島に存在し、いつ頃から建築に使用されたのかが重要テーマとして残されています。歴史の真実への道は険しく、簡単にはその姿を見せてはくれません。引き続き、調査と勉強です。(つづく)


第1032話 2015/08/22

多元的「国分寺」研究のすすめ(2)

 「洛中洛外日記」1031話で紹介しました肥沼さんからの「お詫び」メールに対して、わたしは返信で次のような言葉も付け加えました。仮説検証過程の紆余曲折過程を明白にしながらブログでの検証作業を進めることで、古田学派全体に寄与できることを願っていると。そこで、今回は学問研究において、学術論文や著作での発表と、インターネットでのブログ発信の学問的性格の違いについて、わたしの考えを説明させていただきます。
 インターネット検索は「広く周囲の意見を聞く」という作業であることに対して、わたしのブログでの発信は「自説に対して広く周囲の意見を聞く」という意味合いが含まれています。すなわち、学術論文や著作のように、自説を広く発表するという目的とは少し異なり、自らの仮説(アイデア・思いつき)に対して、リアルタイムで読者に意見を聞くという目的が大きいのです。いわば読者との「対話」という性格を色濃く有しています。
 今回の多元的「国分寺」研究においては、この「対話」が極めて有効に作用し、わたしの学問的認識や問題点の所在などが、一人で考察するよりも何倍も早く広く深く明らかになっています。これこそ、学問的対話の真骨頂でしょう。例会などでは参加者が地域的時間的に制約されますが、ネットではほぼ無限に対象者が広がり、それだけ多くの知識が集約され、誤りや誤解の訂正もスピーディーとなります。
 こうしたネットの特長を「洛中洛外日記」(洛洛メール便)という一方的発信ではありますが、それにメールでの交信という機能がプラスされることにより、「インターネット例会」のような空間が実現しています。将来的にはSNSを利用して、もっと幅広い「交流」の場を持てればと願っています。
 もし、従来のように私が何ヶ月も一人で考察研究し、会報などで研究発表するというスタイルでは、これだけの速度で研究が進展することは不可能でした。もちろん論文発表という形式は学問研究では普遍的価値を持ちますが、それとは少し異なったブログでの発信は新たな研究スタイルを可能としました。そうした意味でも、今回の多元的「国分寺」研究の成果が期待されるところです。これからも未知の可能性を秘めたインターネットを駆使した共同研究という分野に挑戦したいと思います。