「 海東諸国紀 」一覧

第2153話 2020/05/15

倭人伝「南至邪馬壹国女王之処都」の異論異説(4)

 『海東諸国紀』「日本国紀」の「道路里数」の里程表現が『三国志』倭人伝の行程記事に似ており、著者の申淑舟は倭人伝の表記を模倣したのではないかと、わたしは考えています。もちろん、〝偶然の一致〟あるいは行程を記載する場合の〝一般的な様式〟という可能性についても検討しましたが、やはり申淑舟は倭人伝を読んでおり、その影響を受けているという結論に至りました。
 『海東諸国紀』の冒頭には日本国や九州島、壱岐、対馬の地図が掲載されており、当時(15世紀)の朝鮮国が日本列島の位置や地形をどのように捉えていたのかがうかがえます。その中でわたしは、壱岐・対馬・九州島の形がほぼ四角に、または四角の枠内に描かれていることに注目しました。特に対馬に至っては強引に折り曲げて四角の枠内に描かれています。当初は本に掲載するために無理矢理に四角形のスペースに押し込めて描いたのかと思っていましたが、「道路里数」が倭人伝の里程記事を模倣していることに気づき、この強引で不格好な「四角形」の壱岐・対馬・九州の描き方は、倭人伝や『旧唐書』の次の表記の影響を受けたと考えるに至りました。

 「(対海国)方四百余里ばかり」「(一大国)方三百里ばかり」『三国志』倭人伝
 「四面に小島、五十余国あり」『旧唐書』倭国伝

 倭人伝では対海国(対馬)と一大国(壱岐)の大きさを「方」という面積表記方法、すなわち「四百余里」「三百里」の四角形に内接する面積表現(方法)が採用されており、申淑舟はこの「方」表記を意識して、『海東諸国紀』の「日本国一岐島の図」「日本国対馬島の図」として、四角の枠内に押し込めるように描いたのではないでしょうか。
 『旧唐書』では倭国を「四面」と表現しており、そのため「日本国西海道九州の図」には九州島がほぼ四角形に、その北・西・南の三面に小島が描かれています。なお、東面には島が描かれていませんが、別の「日本本国の図」に「四国島」が描かれており、四角形に描かれた「九州島」の四面に小島があることを示しています。
 このように、申淑舟は『海東諸国紀』の編纂にあたり、『三国志』倭人伝や『旧唐書』倭国伝を参考にしたことをわたしは疑えないのです。(つづく)


第2152話 2020/05/13

倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(3)

 『海東諸国紀』「日本国紀」の「道路里数」には、朝鮮国慶尚道から日本国の王城(京都)までの里程が次のように記されています。

 「我が慶尚道東莱県の冨山浦より対馬島の都伊沙只に至るまで四十八里。○都伊沙只より船越浦に至るまで十九里。○船越より一岐島風本浦に至るまで四十八里。○風本より筑前州の博多に至るまで三十八里。○博多より長門州の赤間関に至るまで三十里。《風本より直ちに赤間関を指せば則ち四十六里》○赤間より竈戸関に至るまで三十五里。○竈戸より尾路関に至るまで三十五里。○尾路より兵庫関に至るまで七十里。《並に水路》○兵庫より王城に至るまで十八里。《陸路》○都計、水路三百二十三里。陸路十八里なり。《我が国の里数を以て計らば則ち水路三千二百三十里、陸路百八十里なり。》」(120頁)※《》内は二行細注

 このように、倭人伝の行程記事と類似した書き方で里程を綴り、最後に水路と陸路の合計里数を「都計(すべて)」として記していることから、倭人伝の「南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月」という記事を「南、至る邪馬壹国。女王之所。(そこへの行程は)都(す)べて水行十日陸行一月」と理解した上で、『海東諸国紀』の読者が誤解しようのないように、「計」という字も加えて、「都計」という明確な表記にしたのではないでしょうか。
 この『海東諸国紀』の「都計、水路三百二十三里。陸路十八里なり。」を知り、わたしは国も時代も異なる知己を得たような気がしたものです。なお、同書の「琉球国記(ママ)」の里程記事も同様の表記「都計、五百四十三里なり。」を採用しています。(つづく)


第2151話 2020/05/12

倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(2)

 倭人伝に見える「南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月」の記事を「南、至る邪馬壹国。女王之所。(そこへの行程は)都(す)べて水行十日陸行一月」と訓む私案ですが、わたしのこの訓みと同じようにとらえた先人がいます。李氏朝鮮の最高の知識人とも評される『海東諸国紀』(1471年成立)の著者、申淑舟(1417-1475)です。
 『海東諸国紀』は「九州年号」史料としても著名で、近畿天皇家の天皇の記録が九州年号(善化~大長。※「善化」は「善記」の誤伝)と共に記されています。従って、申淑舟は九州年号が九州王朝の年号であることや九州王朝の存在そのものを認識していなかったことがわかります。他方、同書は李王朝の公的な史料として編纂されていますから、当時の李王朝による日本国や琉球国に関する情報や認識を推し量る上で貴重な史料でもあります。
 あるとき、わたしが九州年号の調査研究のため『海東諸国紀』(岩波文庫、田中健夫訳注、1991年)を読んでいたところ、朝鮮国慶尚道から日本国の京都までの行程が記された「道路里数」の記事を見て、その文章が『三国志』倭人伝を模倣していることに気づいたのです。(つづく)


第1389話 2017/05/10

『二中歴』研究の思い出(2)

 『二中歴』九州年号細注記事で古田先生が注目されたのは、「鏡當」(581〜584)の「鏡当四年、辛丑、新羅人来り、筑紫従(よ)り播磨に至り、之を焼く。」以外にも、「朱鳥」(686〜694)の細注「仟陌町収始又方始」がありました。
 ある講演会で、この「仟陌町収」を「船舶徴収」ではないかとのアイデアを示されたことがありました。その根拠として、「朱鳥」の直前の「朱雀」細注にある「兵乱海賊始起又安居始行」の「兵乱海賊始起」でした。兵乱海賊が発生したため、翌「朱鳥」年間に九州王朝は海賊退治のため船舶を徴収したのではないかというアイデアでした。このように、古田先生は『二中歴』九州年号細注の記事の分析をとても重要視されていました。
 その後、「仟陌町収始又方始」について、より詳しい記事が『海東諸国紀』にあることに気づき、拙稿「九州王朝の近江遷都 『海東諸国紀』の史料批判」にて報告しました。『海東諸国紀』には「朱鳥八年(693年)」に相当する持統七年の記事に次のように記されています。

 「〔用朱鳥〕七年癸巳定町段中人平歩両足相距為一歩方六十五歩為一段十段為一町」※〔〕内は細注
 (古賀訳)町・段を定む。中人歩して両足相距つるを一歩となし、方六十五歩を一段となし、十段を一町となす。

 この『海東諸国紀』の記事により、『二中歴』細注記事の内容が距離と面積単位制定に関する記事であったことがわかりました。その後、この記事を条里制施行を記したものとする見解が水野孝夫さん(古田史学の会・顧問)から発表されました。その水野さんの論稿「条里制の開始時期」は古田先生が編集された『なかった -真実の歴史学-』創刊号(ミネルヴァ書房も2006年)に収録されましたが、古田先生が『二中歴』細注記事に関心を示し続けておられたことがわかります。さらに正木さんは「方始」部分を藤原京条坊の造営記事ではないかとされました(「『二中歴』細注が明らかにる九州王朝(倭国)の歴史」)。
 なお、『海東諸国紀』九州年号部分の版本を『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』末尾に収録しましたので、研究などにご利用ください。(つづく)


第1371話 2017/04/16

『海東諸国紀』の「任」の字義

 「洛中洛外日記」1367話で紹介した『海東諸国紀』の次の記事を紹介し、「天智天皇の記事に『初めて太宰帥に任じた』とあるのですが、文脈からは天智天皇が七年(668)にはじめて太宰帥に任じたと読めます。」と説明しました。

 「天智天皇(中略)元年壬戌〔用白鳳〕七年戊辰始任太宰帥(後略)」

 この説明に対して、昨日の「古田史学の会」関西例会で水野孝夫さん(古田史学の会・顧問)から、この説明では天智が誰かを太宰帥に任命したと読めるとのご指摘をいただきました。「任じる」という動詞は現代日本語では自動詞と他動詞の用例があるので、確かに説明が不親切だったと反省しています。
 もちろん『海東諸国紀』の「任」を現代日本語の解釈で理解するのは学問の方法として不適切ですので、わたしは『海東諸国紀』の他の「任」の用例を調べ、この記事の意味を天智が太宰帥になったと理解しました。この天智天皇の記事の末尾に次の記事があります。

 「以大友皇子〔天智子〕為大政大臣皇子任大政大臣始」※〔〕内は細字。

 岩波文庫の『海東諸国紀』では「大友皇子を以て大政大臣と為す。皇子の大政大臣を任ずるは此より始まる。」と訳されています。わたしはこの用例に従って、「任太宰帥」を天智が太宰帥になったという意味に理解したのです。
 水野さんの指摘を受けて、今日、『海東諸国紀』全文を読み直して、「任」の全用例調査を行いました。意外に「任」の使用例が少なく、次の一例を見つけることができました。

 「履中天皇仁徳太子元年庚子始置大臣四人任国事」

 岩波文庫の訳では「履中天皇。仁徳の太子なり。元年庚子、始めて大臣四人を置き国事に任ぜしむ。」とあります。しかし、「国事」は「太宰帥」や「大政大臣」のような職位ではありませんから、「任」の訓みとしては「あたる」「つく」が適切のように思われます。すなわち、天智天皇がはじめて太宰帥の職にあたる、大友皇子が大政大臣の職に就く、大臣四人が国事にあたると訓んだほうがよいと思います。
 手元にある『新漢和辞典(改訂版)』(大修館書店)には、「任」の字義として「あたる」が冒頭にあることからも、「任」の字をある役職に「就く」、ある任務に「あたる」という意味で『海東諸国紀』には使用されていると思われます。
 そうすると、次に問題となるのが天智が就いたとされる「太宰帥」という役職はどのようなものでしょうか。太宰府の高位の官職と解さざるを得ませんが、当時の「太宰府」とは九州王朝下の官僚組織であり、その「太宰府」の「帥」ですから、最高権力者としての倭国の天子ではありません。
 『海東諸国紀』の当該記事がどの程度信頼できるのかも含めて引き続き論議検討が必要です。


第1329話 2017/01/28

水戸藩と新井白石と九州年号

 今日、放送されたNHKの番組「ブラタモリ」で水戸藩や水戸光圀の業績が紹介されていました。弘道館や偕楽園などとともに、中でも光圀が編纂させた『大日本史』約400巻が250年かけて完成したことなどが紹介され、勉強になる番組でした。
 『大日本史』で思い出したのですが、江戸時代の学者新井白石は、当初、水戸藩による『大日本史』編纂事業に期待していたようですが、後にその内容に失望し、友人の佐久間洞巌に次のような厳しい手紙を出しています。

 「水戸でできた『大日本史』などは、定めて国史の誤りを正されることとたのもしく思っていたところ、むかしのことは『日本書紀』『続日本紀』などにまかせきりです。それではとうてい日本の実事はすまぬことと思われます。日本にこそ本は少ないかもしれないが、『後漢書』をはじめ中国の本には日本のことを書いたものがいかにもたくさんあります。また四百年来、日本の外藩だったとも言える朝鮮にも本がある。それを捨てておいて、国史、国史などと言っているのは、おおかた夢のなかで夢を説くようなことです。」(『新井白石全集』第五巻518頁)

 また新井白石は九州年号のことを知っていて、やはり水戸藩の友人の安積澹泊に次のような手紙を出しています。

 「朝鮮の『海東諸国紀』という本に本朝の年号と古い時代の出来事などが書かれていますが、この年号はわが国の史書には見えません。しかしながら、寺社仏閣などの縁起や古い系図などに『海東諸国紀』に記された年号が多く残っています。干支などもおおかた合っているので、まったくの荒唐無稽、事実無根とも思われません。この年号について水戸藩の人々はどのように考えておられるのか、詳しく教えていただけないでしょうか。
 その時代は文字使いが未熟であったため、その年号のおおかたは浅はかなもので、それ故に『日本書紀』などに採用されずに削除されたものとも思われます。持統天皇の時代の永昌という年号も残されていますが(那須国造碑)、これなども一層の不審を増すところでございます。」(『新井白石全集』第五巻284頁)

 この手紙に対する返事は『新井白石全集』には収録されていませんので、水戸藩の学者が九州年号に対してどのような見解を持っていたのかはわかりません。『大日本史』に九州年号が記されているか、一度読んでみることにします。新井白石は諸史料に見える九州年号を実在していたと考えており、さすがは江戸時代を代表する学者だと思いました。
 この新井白石の九州年号に対する認識を示した書簡については、拙稿「『九州年号』真偽論の系譜」で紹介し、日本思想史学会(京都大学)でも発表したことがあります。同論文は『「九州年号」の研究』や「古田史学の会」HPに収録していますのでご覧いただければ幸いです。なお、『新井白石全集』は京都大学文学部の図書館で閲覧させていただきました。


第580話 2013/08/15

近江遷都と王朝交代

 今年もNHKの大河ドラマ「八重の桜」を楽しみに見ていますが、前半のクライマックス「会津戦争」が終わり、今週からは京都を舞台にした「京都 編」が始まりました。同志社大学校舎が建てられた旧薩摩藩邸跡地や大久保利通邸跡地などの石碑がご近所にありますので、とても身近に感じられる大河ドラマです。娘の母校の同志社大学からも新島八重の生涯を紹介したパンフレットが送られて来るなど、並々ならぬ力の入れようです。

 近江大津宮についての考察を続けてきましたが、いよいよ最後のテーマ「王朝交代」の考察に入ります。これまでの考察をまとめますと、遷都年は『日本書紀』天智6年(667)と『海東諸国紀』の白鳳元年(661)とする二説があり、下層出土土器の編年(飛鳥編年による)から白鳳元年(661)説のほうが妥当と思われるということでした。しかし、『日本書紀』天智紀などの記事から、天智が近江大津宮にいたことは、特に否定できるような疑問点も見あたり ませんから、史実としてよいでしょう。そうすると、九州王朝により造営され「遷都」した大津宮に、天智天皇は「遷都」したことになります。すなわち、二つの王朝が同じ大津宮に異なる時期に「遷都」し、君臨したと考えてみてはどうでしょうか。
 白村江戦の敗北と九州王朝の筑紫君薩野馬の抑留などにより、大きなダメージを受けた九州王朝に代わって、天智は主人不在の大津宮で新王朝の樹立、または九州王朝からの王権の継承を宣言したのではないかという作業仮説(アイデア)が浮かんでいるのですが、そのことと関連するのではないかと思われる史料根拠があります。
 第577話で触れた『続日本紀』に見える「不改の常典」、すなわち「大津宮の天皇が定めた不改常典により、わたしは天皇位につく」という趣旨の宣命もその史料痕跡の一つなのですが、『日本書紀』天智7年(668)7月条に見える次の記事が注目されます。

 時の人の曰く、「天皇、天命将及」といふ。

 岩波『日本書紀』には、「天命将及」に「みいのちをはりなむとす」という訓みをつけ、頭注には「中国で王朝交代の意」との説明をしています。訓みは天智天皇の寿命のこととする変な解釈を行っていますが、やはり頭注で説明された「王朝交代」のこととするべきです。多元史観では何の問題もなく「王朝交代」と字義にそった解釈が可能ですが、近畿天皇家一元史観では天智天皇の寿命のこととする矮小な解釈しかできないのです。先の「不改常典」の内容についても一元史観の諸説が提案されていますが、いずれもうまく説明できていません。「天命将及」も同様に一元史観ではうまく説明できないのです。
 ちなみに、『日本書紀』天智7年(668)7月条の、「天命将及」を天智天皇が大和朝廷の創立者であったとする証拠として指摘された論者に中村幸雄さん(古田史学の会草創の同志、故人)がおれらます。このことが記された中村さんの研究論文「誤読されていた日本書紀」は当ホームページに掲載されていますので、是非ご覧ください。
 さらにもう一つ、朝鮮半島の史料『三国史紀』新羅本紀の文武王10年条(670)に見える次の記事です。

倭国、更(あらた)めて日本と号す。自ら言う。日出づる所に近し。以(ゆえ)に名と為すと。

 文武王10年条(670)ですから天智9年に相当します。倭国から日本国への国名の変更記事ですが、『旧唐書』では倭国伝(九州王朝)と日本国伝 (近畿天皇家)を書き分けられていますから、同様に考えれば『三国史紀』のこの記事も倭国(九州王朝)から日本国(近畿天皇家)への「交代」を反映した記事ではないでしょうか。
 以上のように、天智が大津宮で「王朝交代」を行った史料痕跡が見えるのですが、もしこの推論が正しかったとすれば、天智は「王朝交代」に成功したので しょうか。この点は比較的はっきりしています。天智の時代の九州年号は「白鳳」で、白鳳年間(661~683)に天智の称制即位(662)から没年 (671)までが入っていますが、即位年も没年も、新王朝の創立者として「建元」もされず、九州王朝を継承者としての「改元」もされていません。ですか ら、天智は何らかの宣言(不改常典)はしたのでしょうが、「王朝交代」には成功しなかったと思われます。
 以上、近江大津宮遷都年・造営年の考察から、天智の「不改常典」「王朝交代」まで推論を試みてみました。もちろん、この推論が正解かどうかは学問的検証の対象です。一つの作業仮説(アイデア・思いつき)としてご検討していただければと思います。


第579話 2013/08/11

近江遷都と天智紀重出記事

 近江遷都年には、『日本書紀』天智6年(667)と『海東諸国紀』の白鳳元年(661)とする二説がありますが、この「6年の差」について注目すべき問題点として『日本書紀』天智紀の「重出記事」があります。
 天智紀には5~7年の差で似たような記事があり、通説ではこれらを同一の事件が「重出」したものと説明されています。もちろん「重出」なのか実際に似た ような事件が二回発生したのかは、記事毎に慎重な検討が必要です。「重出」がなぜ5~7年の差なのかは、それぞれに史料根拠や理由があるのですが、「6年 の差」については、天智紀に記されている「称制元年(662)」と「即位元年(668)」の6年の差が発生原因とされています。すなわち『日本書紀』編纂 時に、元史料にあった記事を「称制年」と「即位年」の双方に「重出」して記載したと考えられています。
 近江遷都年もこの「重出」と同様の現象が発生したのではないかと考えることができます。たとえば、天智の「称制元年」の前年(661、白鳳元年)に行わ れた九州王朝による近江遷都記事を、『日本書紀』編纂時に「天智即位年」の前年(667)の事件として記録したというケースです。この場合、「重出記事」 にならずに天智6年条のみの記載となったのは、その内容が「近江遷都」なので、さすがに『日本書紀』編者も「重出」するような不手際はなかったものと考えられます。もちろん、これは近江遷都年二説の「6年の差」を説明できる一つのアイデア(思いつき)に過ぎませんので、現時点で絶対に正しいとするものでは ありません。(つづく)


第578話 2013/08/09

近江大津宮の造営年と遷都年

 今日は大阪に来ています。わたしが理事をしている繊維応用技術研究会の講演会に出席しています。様々な分野の講演が続きましたが、中でも高輝度光科学研究センター(スプリング8)の熊坂崇さんの講演「放射光施設SPring-8における生体高分子の構造研究」は大変興味深い内容でした。最先端科学でここまで高分子構造が解明できるのかと驚きました。歴史研究に応用できれば、もっと多くの科学的知見が得られ、歴史の真実の解明が一層進むことと思われました。
 さて、第577話において、大津宮遷都年の二説の6年の差が、歴史理解において大きな問題点を含んでいることを述べました。ここでのキーポイントは、その6年の間に白村江戦の敗北という九州王朝における大事件が起こっていることです。ですから近江大津宮遷都年が661年なのか、667年なのかの検討が必要です。このテーマを考古学と文献史学の両面から迫ってみましょう。
 まず確認しておかなければならないことですが、造営年と遷都年が同時期かどうかという点です。『日本書紀』天智6年条の遷都記事を根拠に、従来は何となく大津宮造営年(完成年)も同年と考えられてきたようですが、『日本書紀』には大津宮造営に関する記事は見えません。前期難波宮は652年に完成したことが記されていますが、大津宮はいきなり遷都記事があるだけで、造営年(完成年)は記されていないのです。このことに留意する必要があります。
 というのも、第566話で紹介しましたように、白石太一郎さんの論文「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」『大阪府立近つ飛鳥博物館 館報 16』(2012年12月)によると、『日本書紀』天智紀には大津宮遷都は天智6年(667)とされていますが、大津宮(錦織遺跡)内裏南門の下層出土土器の編年が「飛鳥1期」(645~655頃)であり、遷都年に比べて古すぎるようなのです。
 この考古学的知見が正しければ、大津宮は白村江戦以前に完成していた可能性が高く、そうであれば第577話で指摘したように、その宮殿は九州王朝の宮殿 と考えざるを得ないという論理性により、遷都年は『海東諸国紀』に記された白鳳元年(661)とする理解へと進みます。それでは、『日本書紀』天智6年条の遷都記事は九州王朝史書からの盗用だったのでしょうか、それとも史実なのでしょうか。(つづく)


第577話 2013/08/05

近江大津宮造営年の論理性

 今朝は仕事で鯖江市に向かっています。JR湖西線を走る特急サンダーバード5号に乗っているのですが、大津京駅を通過す るとき、この付近が大津宮跡(錦織遺跡)だなあと、感慨深く車窓から眺めていました。わたしは25年ほど前に錦織遺跡を訪れたことがあり、発掘残土の中に 白鳳時代の布目瓦片が多数混ざっていることに驚いた記憶があります。
 車中で、琵琶湖と山に挟まれた狭隘なこの地に、なぜ都や宮殿が造営されたのだろうと思索しているうちに、近江大津宮造営年が重要な論理性を持つことに気づきました。『日本書紀』では近江遷都を天智6年(667)のこととされていますが、『海東諸国紀』には九州年号の白鳳元年(661)と記され、6年の差があります。この差に重要な論理的問題を含んでいるのです。
 もし『海東諸国紀』の白鳳元年(661)が正しいとすれば、おそらく造営開始は650年代後半でしょうから、前期難波宮完成年(652)の数年後のこととなります。九州王朝は列島の代表者として健在の時期ですから、その副都と同様式で同じような規模の「北闕型」王宮を近畿天皇家が作ることを九州王朝が認めるはずがないでしょう。従ってこの場合、近江大津宮は九州王朝による造営と考えざるを得ないという論理性を有します。もちろん近隣の豪族(近畿天皇家を含む)らに、九州王朝が命じて造営させたのでしょう。
 次に『日本書紀』の天智6年(667)が正しい場合、その造営は白村江敗戦(663)直後から始められたと思われますから、敗戦で疲弊した九州王朝には困難な事業と考えることもできます。そうすると九州王朝副都の前期難波宮を模倣した王宮を近畿天皇家(おそらくは天智天皇)が造営したことになりますから、近畿天皇家は没落しつつある九州王朝に代わって、列島の代表者になるという自覚と決意があったものと思われます。この見方が正しければ、『続日本紀』 に見える「不改の常典」がよく理解できます。すなわち、「大津宮の天皇が定めた不改常典により、わたしは天皇位につく」という趣旨の宣命は、九州王朝に代わって列島の代表者になったのは天智天皇の不改常典(代表王朝交代の宣言、権威継承の根拠)によると主張している。そのような理解が可能となるからです。
 このように、近江大津宮造営年二説の「6年の差」は古代史理解において、決定的な差を生じさせる論理性を有していることに、わたしは気づいたのです。(つづく)