海東諸国紀一覧

第2153話 2020/05/15

倭人伝「南至邪馬壹国女王之処都」の異論異説(4)

 『海東諸国紀』「日本国紀」の「道路里数」の里程表現が『三国志』倭人伝の行程記事に似ており、著者の申淑舟は倭人伝の表記を模倣したのではないかと、わたしは考えています。もちろん、〝偶然の一致〟あるいは行程を記載する場合の〝一般的な様式〟という可能性についても検討しましたが、やはり申淑舟は倭人伝を読んでおり、その影響を受けているという結論に至りました。
 『海東諸国紀』の冒頭には日本国や九州島、壱岐、対馬の地図が掲載されており、当時(15世紀)の朝鮮国が日本列島の位置や地形をどのように捉えていたのかがうかがえます。その中でわたしは、壱岐・対馬・九州島の形がほぼ四角に、または四角の枠内に描かれていることに注目しました。特に対馬に至っては強引に折り曲げて四角の枠内に描かれています。当初は本に掲載するために無理矢理に四角形のスペースに押し込めて描いたのかと思っていましたが、「道路里数」が倭人伝の里程記事を模倣していることに気づき、この強引で不格好な「四角形」の壱岐・対馬・九州の描き方は、倭人伝や『旧唐書』の次の表記の影響を受けたと考えるに至りました。

 「(対海国)方四百余里ばかり」「(一大国)方三百里ばかり」『三国志』倭人伝
 「四面に小島、五十余国あり」『旧唐書』倭国伝

 倭人伝では対海国(対馬)と一大国(壱岐)の大きさを「方」という面積表記方法、すなわち「四百余里」「三百里」の四角形に内接する面積表現(方法)が採用されており、申淑舟はこの「方」表記を意識して、『海東諸国紀』の「日本国一岐島の図」「日本国対馬島の図」として、四角の枠内に押し込めるように描いたのではないでしょうか。
 『旧唐書』では倭国を「四面」と表現しており、そのため「日本国西海道九州の図」には九州島がほぼ四角形に、その北・西・南の三面に小島が描かれています。なお、東面には島が描かれていませんが、別の「日本本国の図」に「四国島」が描かれており、四角形に描かれた「九州島」の四面に小島があることを示しています。
 このように、申淑舟は『海東諸国紀』の編纂にあたり、『三国志』倭人伝や『旧唐書』倭国伝を参考にしたことをわたしは疑えないのです。(つづく)


第2152話 2020/05/13

倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(3)

 『海東諸国紀』「日本国紀」の「道路里数」には、朝鮮国慶尚道から日本国の王城(京都)までの里程が次のように記されています。

 「我が慶尚道東莱県の冨山浦より対馬島の都伊沙只に至るまで四十八里。○都伊沙只より船越浦に至るまで十九里。○船越より一岐島風本浦に至るまで四十八里。○風本より筑前州の博多に至るまで三十八里。○博多より長門州の赤間関に至るまで三十里。《風本より直ちに赤間関を指せば則ち四十六里》○赤間より竈戸関に至るまで三十五里。○竈戸より尾路関に至るまで三十五里。○尾路より兵庫関に至るまで七十里。《並に水路》○兵庫より王城に至るまで十八里。《陸路》○都計、水路三百二十三里。陸路十八里なり。《我が国の里数を以て計らば則ち水路三千二百三十里、陸路百八十里なり。》」(120頁)※《》内は二行細注

 このように、倭人伝の行程記事と類似した書き方で里程を綴り、最後に水路と陸路の合計里数を「都計(すべて)」として記していることから、倭人伝の「南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月」という記事を「南、至る邪馬壹国。女王之所。(そこへの行程は)都(す)べて水行十日陸行一月」と理解した上で、『海東諸国紀』の読者が誤解しようのないように、「計」という字も加えて、「都計」という明確な表記にしたのではないでしょうか。
 この『海東諸国紀』の「都計、水路三百二十三里。陸路十八里なり。」を知り、わたしは国も時代も異なる知己を得たような気がしたものです。なお、同書の「琉球国記(ママ)」の里程記事も同様の表記「都計、五百四十三里なり。」を採用しています。(つづく)


第2151話 2020/05/12

倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(2)

 倭人伝に見える「南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月」の記事を「南、至る邪馬壹国。女王之所。(そこへの行程は)都(す)べて水行十日陸行一月」と訓む私案ですが、わたしのこの訓みと同じようにとらえた先人がいます。李氏朝鮮の最高の知識人とも評される『海東諸国紀』(1471年成立)の著者、申淑舟(1417-1475)です。
 『海東諸国紀』は「九州年号」史料としても著名で、近畿天皇家の天皇の記録が九州年号(善化~大長。※「善化」は「善記」の誤伝)と共に記されています。従って、申淑舟は九州年号が九州王朝の年号であることや九州王朝の存在そのものを認識していなかったことがわかります。他方、同書は李王朝の公的な史料として編纂されていますから、当時の李王朝による日本国や琉球国に関する情報や認識を推し量る上で貴重な史料でもあります。
 あるとき、わたしが九州年号の調査研究のため『海東諸国紀』(岩波文庫、田中健夫訳注、1991年)を読んでいたところ、朝鮮国慶尚道から日本国の京都までの行程が記された「道路里数」の記事を見て、その文章が『三国志』倭人伝を模倣していることに気づいたのです。(つづく)


第1389話 2017/05/10

『二中歴』研究の思い出(2)

 『二中歴』九州年号細注記事で古田先生が注目されたのは、「鏡當」(581〜584)の「鏡当四年、辛丑、新羅人来り、筑紫従(よ)り播磨に至り、之を焼く。」以外にも、「朱鳥」(686〜694)の細注「仟陌町収始又方始」がありました。
 ある講演会で、この「仟陌町収」を「船舶徴収」ではないかとのアイデアを示されたことがありました。その根拠として、「朱鳥」の直前の「朱雀」細注にある「兵乱海賊始起又安居始行」の「兵乱海賊始起」でした。兵乱海賊が発生したため、翌「朱鳥」年間に九州王朝は海賊退治のため船舶を徴収したのではないかというアイデアでした。このように、古田先生は『二中歴』九州年号細注の記事の分析をとても重要視されていました。
 その後、「仟陌町収始又方始」について、より詳しい記事が『海東諸国紀』にあることに気づき、拙稿「九州王朝の近江遷都 『海東諸国紀』の史料批判」にて報告しました。『海東諸国紀』には「朱鳥八年(693年)」に相当する持統七年の記事に次のように記されています。

 「〔用朱鳥〕七年癸巳定町段中人平歩両足相距為一歩方六十五歩為一段十段為一町」※〔〕内は細注
 (古賀訳)町・段を定む。中人歩して両足相距つるを一歩となし、方六十五歩を一段となし、十段を一町となす。

 この『海東諸国紀』の記事により、『二中歴』細注記事の内容が距離と面積単位制定に関する記事であったことがわかりました。その後、この記事を条里制施行を記したものとする見解が水野孝夫さん(古田史学の会・顧問)から発表されました。その水野さんの論稿「条里制の開始時期」は古田先生が編集された『なかった -真実の歴史学-』創刊号(ミネルヴァ書房も2006年)に収録されましたが、古田先生が『二中歴』細注記事に関心を示し続けておられたことがわかります。さらに正木さんは「方始」部分を藤原京条坊の造営記事ではないかとされました(「『二中歴』細注が明らかにる九州王朝(倭国)の歴史」)。
 なお、『海東諸国紀』九州年号部分の版本を『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』末尾に収録しましたので、研究などにご利用ください。(つづく)


第1371話 2017/04/16

『海東諸国紀』の「任」の字義

 「洛中洛外日記」1367話で紹介した『海東諸国紀』の次の記事を紹介し、「天智天皇の記事に『初めて太宰帥に任じた』とあるのですが、文脈からは天智天皇が七年(668)にはじめて太宰帥に任じたと読めます。」と説明しました。

 「天智天皇(中略)元年壬戌〔用白鳳〕七年戊辰始任太宰帥(後略)」

 この説明に対して、昨日の「古田史学の会」関西例会で水野孝夫さん(古田史学の会・顧問)から、この説明では天智が誰かを太宰帥に任命したと読めるとのご指摘をいただきました。「任じる」という動詞は現代日本語では自動詞と他動詞の用例があるので、確かに説明が不親切だったと反省しています。
 もちろん『海東諸国紀』の「任」を現代日本語の解釈で理解するのは学問の方法として不適切ですので、わたしは『海東諸国紀』の他の「任」の用例を調べ、この記事の意味を天智が太宰帥になったと理解しました。この天智天皇の記事の末尾に次の記事があります。

 「以大友皇子〔天智子〕為大政大臣皇子任大政大臣始」※〔〕内は細字。

 岩波文庫の『海東諸国紀』では「大友皇子を以て大政大臣と為す。皇子の大政大臣を任ずるは此より始まる。」と訳されています。わたしはこの用例に従って、「任太宰帥」を天智が太宰帥になったという意味に理解したのです。
 水野さんの指摘を受けて、今日、『海東諸国紀』全文を読み直して、「任」の全用例調査を行いました。意外に「任」の使用例が少なく、次の一例を見つけることができました。

 「履中天皇仁徳太子元年庚子始置大臣四人任国事」

 岩波文庫の訳では「履中天皇。仁徳の太子なり。元年庚子、始めて大臣四人を置き国事に任ぜしむ。」とあります。しかし、「国事」は「太宰帥」や「大政大臣」のような職位ではありませんから、「任」の訓みとしては「あたる」「つく」が適切のように思われます。すなわち、天智天皇がはじめて太宰帥の職にあたる、大友皇子が大政大臣の職に就く、大臣四人が国事にあたると訓んだほうがよいと思います。
 手元にある『新漢和辞典(改訂版)』(大修館書店)には、「任」の字義として「あたる」が冒頭にあることからも、「任」の字をある役職に「就く」、ある任務に「あたる」という意味で『海東諸国紀』には使用されていると思われます。
 そうすると、次に問題となるのが天智が就いたとされる「太宰帥」という役職はどのようなものでしょうか。太宰府の高位の官職と解さざるを得ませんが、当時の「太宰府」とは九州王朝下の官僚組織であり、その「太宰府」の「帥」ですから、最高権力者としての倭国の天子ではありません。
 『海東諸国紀』の当該記事がどの程度信頼できるのかも含めて引き続き論議検討が必要です。


第1329話 2017/01/28

水戸藩と新井白石と九州年号

 今日、放送されたNHKの番組「ブラタモリ」で水戸藩や水戸光圀の業績が紹介されていました。弘道館や偕楽園などとともに、中でも光圀が編纂させた『大日本史』約400巻が250年かけて完成したことなどが紹介され、勉強になる番組でした。
 『大日本史』で思い出したのですが、江戸時代の学者新井白石は、当初、水戸藩による『大日本史』編纂事業に期待していたようですが、後にその内容に失望し、友人の佐久間洞巌に次のような厳しい手紙を出しています。

 「水戸でできた『大日本史』などは、定めて国史の誤りを正されることとたのもしく思っていたところ、むかしのことは『日本書紀』『続日本紀』などにまかせきりです。それではとうてい日本の実事はすまぬことと思われます。日本にこそ本は少ないかもしれないが、『後漢書』をはじめ中国の本には日本のことを書いたものがいかにもたくさんあります。また四百年来、日本の外藩だったとも言える朝鮮にも本がある。それを捨てておいて、国史、国史などと言っているのは、おおかた夢のなかで夢を説くようなことです。」(『新井白石全集』第五巻518頁)

 また新井白石は九州年号のことを知っていて、やはり水戸藩の友人の安積澹泊に次のような手紙を出しています。

 「朝鮮の『海東諸国紀』という本に本朝の年号と古い時代の出来事などが書かれていますが、この年号はわが国の史書には見えません。しかしながら、寺社仏閣などの縁起や古い系図などに『海東諸国紀』に記された年号が多く残っています。干支などもおおかた合っているので、まったくの荒唐無稽、事実無根とも思われません。この年号について水戸藩の人々はどのように考えておられるのか、詳しく教えていただけないでしょうか。
 その時代は文字使いが未熟であったため、その年号のおおかたは浅はかなもので、それ故に『日本書紀』などに採用されずに削除されたものとも思われます。持統天皇の時代の永昌という年号も残されていますが(那須国造碑)、これなども一層の不審を増すところでございます。」(『新井白石全集』第五巻284頁)

 この手紙に対する返事は『新井白石全集』には収録されていませんので、水戸藩の学者が九州年号に対してどのような見解を持っていたのかはわかりません。『大日本史』に九州年号が記されているか、一度読んでみることにします。新井白石は諸史料に見える九州年号を実在していたと考えており、さすがは江戸時代を代表する学者だと思いました。
 この新井白石の九州年号に対する認識を示した書簡については、拙稿「『九州年号』真偽論の系譜」で紹介し、日本思想史学会(京都大学)でも発表したことがあります。同論文は『「九州年号」の研究』や「古田史学の会」HPに収録していますのでご覧いただければ幸いです。なお、『新井白石全集』は京都大学文学部の図書館で閲覧させていただきました。


第580話 2013/08/15

近江遷都と王朝交代

 今年もNHKの大河ドラマ「八重の桜」を楽しみに見ていますが、前半のクライマックス「会津戦争」が終わり、今週からは京都を舞台にした「京都 編」が始まりました。同志社大学校舎が建てられた旧薩摩藩邸跡地や大久保利通邸跡地などの石碑がご近所にありますので、とても身近に感じられる大河ドラマです。娘の母校の同志社大学からも新島八重の生涯を紹介したパンフレットが送られて来るなど、並々ならぬ力の入れようです。

 近江大津宮についての考察を続けてきましたが、いよいよ最後のテーマ「王朝交代」の考察に入ります。これまでの考察をまとめますと、遷都年は『日本書紀』天智6年(667)と『海東諸国紀』の白鳳元年(661)とする二説があり、下層出土土器の編年(飛鳥編年による)から白鳳元年(661)説のほうが妥当と思われるということでした。しかし、『日本書紀』天智紀などの記事から、天智が近江大津宮にいたことは、特に否定できるような疑問点も見あたり ませんから、史実としてよいでしょう。そうすると、九州王朝により造営され「遷都」した大津宮に、天智天皇は「遷都」したことになります。すなわち、二つの王朝が同じ大津宮に異なる時期に「遷都」し、君臨したと考えてみてはどうでしょうか。
 白村江戦の敗北と九州王朝の筑紫君薩野馬の抑留などにより、大きなダメージを受けた九州王朝に代わって、天智は主人不在の大津宮で新王朝の樹立、または九州王朝からの王権の継承を宣言したのではないかという作業仮説(アイデア)が浮かんでいるのですが、そのことと関連するのではないかと思われる史料根拠があります。
 第577話で触れた『続日本紀』に見える「不改の常典」、すなわち「大津宮の天皇が定めた不改常典により、わたしは天皇位につく」という趣旨の宣命もその史料痕跡の一つなのですが、『日本書紀』天智7年(668)7月条に見える次の記事が注目されます。

 時の人の曰く、「天皇、天命将及」といふ。

 岩波『日本書紀』には、「天命将及」に「みいのちをはりなむとす」という訓みをつけ、頭注には「中国で王朝交代の意」との説明をしています。訓みは天智天皇の寿命のこととする変な解釈を行っていますが、やはり頭注で説明された「王朝交代」のこととするべきです。多元史観では何の問題もなく「王朝交代」と字義にそった解釈が可能ですが、近畿天皇家一元史観では天智天皇の寿命のこととする矮小な解釈しかできないのです。先の「不改常典」の内容についても一元史観の諸説が提案されていますが、いずれもうまく説明できていません。「天命将及」も同様に一元史観ではうまく説明できないのです。
 ちなみに、『日本書紀』天智7年(668)7月条の、「天命将及」を天智天皇が大和朝廷の創立者であったとする証拠として指摘された論者に中村幸雄さん(古田史学の会草創の同志、故人)がおれらます。このことが記された中村さんの研究論文「誤読されていた日本書紀」は当ホームページに掲載されていますので、是非ご覧ください。
 さらにもう一つ、朝鮮半島の史料『三国史紀』新羅本紀の文武王10年条(670)に見える次の記事です。

倭国、更(あらた)めて日本と号す。自ら言う。日出づる所に近し。以(ゆえ)に名と為すと。

 文武王10年条(670)ですから天智9年に相当します。倭国から日本国への国名の変更記事ですが、『旧唐書』では倭国伝(九州王朝)と日本国伝 (近畿天皇家)を書き分けられていますから、同様に考えれば『三国史紀』のこの記事も倭国(九州王朝)から日本国(近畿天皇家)への「交代」を反映した記事ではないでしょうか。
 以上のように、天智が大津宮で「王朝交代」を行った史料痕跡が見えるのですが、もしこの推論が正しかったとすれば、天智は「王朝交代」に成功したので しょうか。この点は比較的はっきりしています。天智の時代の九州年号は「白鳳」で、白鳳年間(661~683)に天智の称制即位(662)から没年 (671)までが入っていますが、即位年も没年も、新王朝の創立者として「建元」もされず、九州王朝を継承者としての「改元」もされていません。ですか ら、天智は何らかの宣言(不改常典)はしたのでしょうが、「王朝交代」には成功しなかったと思われます。
 以上、近江大津宮遷都年・造営年の考察から、天智の「不改常典」「王朝交代」まで推論を試みてみました。もちろん、この推論が正解かどうかは学問的検証の対象です。一つの作業仮説(アイデア・思いつき)としてご検討していただければと思います。


第579話 2013/08/11

近江遷都と天智紀重出記事

 近江遷都年には、『日本書紀』天智6年(667)と『海東諸国紀』の白鳳元年(661)とする二説がありますが、この「6年の差」について注目すべき問題点として『日本書紀』天智紀の「重出記事」があります。
 天智紀には5~7年の差で似たような記事があり、通説ではこれらを同一の事件が「重出」したものと説明されています。もちろん「重出」なのか実際に似た ような事件が二回発生したのかは、記事毎に慎重な検討が必要です。「重出」がなぜ5~7年の差なのかは、それぞれに史料根拠や理由があるのですが、「6年 の差」については、天智紀に記されている「称制元年(662)」と「即位元年(668)」の6年の差が発生原因とされています。すなわち『日本書紀』編纂 時に、元史料にあった記事を「称制年」と「即位年」の双方に「重出」して記載したと考えられています。
 近江遷都年もこの「重出」と同様の現象が発生したのではないかと考えることができます。たとえば、天智の「称制元年」の前年(661、白鳳元年)に行わ れた九州王朝による近江遷都記事を、『日本書紀』編纂時に「天智即位年」の前年(667)の事件として記録したというケースです。この場合、「重出記事」 にならずに天智6年条のみの記載となったのは、その内容が「近江遷都」なので、さすがに『日本書紀』編者も「重出」するような不手際はなかったものと考えられます。もちろん、これは近江遷都年二説の「6年の差」を説明できる一つのアイデア(思いつき)に過ぎませんので、現時点で絶対に正しいとするものでは ありません。(つづく)


第578話 2013/08/09

近江大津宮の造営年と遷都年

 今日は大阪に来ています。わたしが理事をしている繊維応用技術研究会の講演会に出席しています。様々な分野の講演が続きましたが、中でも高輝度光科学研究センター(スプリング8)の熊坂崇さんの講演「放射光施設SPring-8における生体高分子の構造研究」は大変興味深い内容でした。最先端科学でここまで高分子構造が解明できるのかと驚きました。歴史研究に応用できれば、もっと多くの科学的知見が得られ、歴史の真実の解明が一層進むことと思われました。
 さて、第577話において、大津宮遷都年の二説の6年の差が、歴史理解において大きな問題点を含んでいることを述べました。ここでのキーポイントは、その6年の間に白村江戦の敗北という九州王朝における大事件が起こっていることです。ですから近江大津宮遷都年が661年なのか、667年なのかの検討が必要です。このテーマを考古学と文献史学の両面から迫ってみましょう。
 まず確認しておかなければならないことですが、造営年と遷都年が同時期かどうかという点です。『日本書紀』天智6年条の遷都記事を根拠に、従来は何となく大津宮造営年(完成年)も同年と考えられてきたようですが、『日本書紀』には大津宮造営に関する記事は見えません。前期難波宮は652年に完成したことが記されていますが、大津宮はいきなり遷都記事があるだけで、造営年(完成年)は記されていないのです。このことに留意する必要があります。
 というのも、第566話で紹介しましたように、白石太一郎さんの論文「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」『大阪府立近つ飛鳥博物館 館報 16』(2012年12月)によると、『日本書紀』天智紀には大津宮遷都は天智6年(667)とされていますが、大津宮(錦織遺跡)内裏南門の下層出土土器の編年が「飛鳥1期」(645~655頃)であり、遷都年に比べて古すぎるようなのです。
 この考古学的知見が正しければ、大津宮は白村江戦以前に完成していた可能性が高く、そうであれば第577話で指摘したように、その宮殿は九州王朝の宮殿 と考えざるを得ないという論理性により、遷都年は『海東諸国紀』に記された白鳳元年(661)とする理解へと進みます。それでは、『日本書紀』天智6年条の遷都記事は九州王朝史書からの盗用だったのでしょうか、それとも史実なのでしょうか。(つづく)


第577話 2013/08/05

近江大津宮造営年の論理性

 今朝は仕事で鯖江市に向かっています。JR湖西線を走る特急サンダーバード5号に乗っているのですが、大津京駅を通過す るとき、この付近が大津宮跡(錦織遺跡)だなあと、感慨深く車窓から眺めていました。わたしは25年ほど前に錦織遺跡を訪れたことがあり、発掘残土の中に 白鳳時代の布目瓦片が多数混ざっていることに驚いた記憶があります。
 車中で、琵琶湖と山に挟まれた狭隘なこの地に、なぜ都や宮殿が造営されたのだろうと思索しているうちに、近江大津宮造営年が重要な論理性を持つことに気づきました。『日本書紀』では近江遷都を天智6年(667)のこととされていますが、『海東諸国紀』には九州年号の白鳳元年(661)と記され、6年の差があります。この差に重要な論理的問題を含んでいるのです。
 もし『海東諸国紀』の白鳳元年(661)が正しいとすれば、おそらく造営開始は650年代後半でしょうから、前期難波宮完成年(652)の数年後のこととなります。九州王朝は列島の代表者として健在の時期ですから、その副都と同様式で同じような規模の「北闕型」王宮を近畿天皇家が作ることを九州王朝が認めるはずがないでしょう。従ってこの場合、近江大津宮は九州王朝による造営と考えざるを得ないという論理性を有します。もちろん近隣の豪族(近畿天皇家を含む)らに、九州王朝が命じて造営させたのでしょう。
 次に『日本書紀』の天智6年(667)が正しい場合、その造営は白村江敗戦(663)直後から始められたと思われますから、敗戦で疲弊した九州王朝には困難な事業と考えることもできます。そうすると九州王朝副都の前期難波宮を模倣した王宮を近畿天皇家(おそらくは天智天皇)が造営したことになりますから、近畿天皇家は没落しつつある九州王朝に代わって、列島の代表者になるという自覚と決意があったものと思われます。この見方が正しければ、『続日本紀』 に見える「不改の常典」がよく理解できます。すなわち、「大津宮の天皇が定めた不改常典により、わたしは天皇位につく」という趣旨の宣命は、九州王朝に代わって列島の代表者になったのは天智天皇の不改常典(代表王朝交代の宣言、権威継承の根拠)によると主張している。そのような理解が可能となるからです。
 このように、近江大津宮造営年二説の「6年の差」は古代史理解において、決定的な差を生じさせる論理性を有していることに、わたしは気づいたのです。(つづく)


第576話 2013/08/04

近江大津宮の朝堂院

 吉田歓著『古代の都はどうつくられたか 中国・日本・朝鮮・渤海』(吉川弘文館、2011年)を読んでいて、ありがたかったのが古代宮殿の平面図が掲載されており、中でも近江大津宮の近年の発掘調査に基づいた平面図がとても印象的で参考になりました。
 同書87頁に掲載されている「近江大津宮」図によれば、内裏や内裏南門の南側に広がる朝堂の東と西に並んでいると推定されている建造物の一部が、南門の 南西側から出土しており、大津宮が前期難波宮と同様に北に内裏が位置し、その南側に朝堂院を有する「北闕型」の王宮であったことがほぼ明確となりました。 ということは、その様式は652年に完成した前期難波宮を模倣したこととなり、確かに平面図も前期難波宮とよく似ています。
 従って、大津宮は九州王朝の副都前期難波宮を先例として造営されたこととなり、九州王朝との関係を無視することはできないでしょう。『日本書紀』によれ ば、近江遷都を天智6年(667)のことと記されていますから、白村江の敗戦後のことになります。そうすると、敗戦後の疲弊した九州王朝による造営とは考 えにくくなります。他方、
『海東諸国紀』には近江遷都を九州年号の白鳳元年(661)のことと記されており、こちらが正しければ大津宮造営は白村江戦以前のこととなり、それであれ ば九州王朝による造営も可能となります。近江遷都や大津宮造営の時期は、どちらの記事が正しいのでしょうか。(つづく)


第566話 2013/06/23

近江遷都の年代と土器編年

 先日の古田史学の会・全国世話人会のおり、小林副代表から、白石太一郎さんの論文「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」『大阪府立近つ飛 鳥博物館 館報16』(2012年12月)のコピーをいただきました。白石さんは前期難波宮の造営年代を孝徳期よりも新しいとする考古学者の一人ですの で、その根拠を知りたいと思っていました。今回、同論文を読んで、白石さんの主張の根拠を知ることができ、有意義でした。
 白石さんは「飛鳥編年」という土器編年により、5~10年の精度で7世紀中頃の編年が可能とする立場ですが、土器の相対編年を『日本書紀』などの記事を根拠に暦年にリンクさせるという手法を採用されています。この方法の当否は別に論じたいと思いますが、同論文に大変興味深い指摘がありました。
 それは大津宮の土器編年とのミスマッチの指摘です。『日本書紀』天智紀によれば、大津宮への遷都は天智6年(667)とされていますが、大津宮(錦織遺 跡)内裏南門の下層出土土器の編年が「飛鳥1期」(645~655頃)であり、遷都年に比べて古すぎるようなのです。この指摘が正しければ、「飛鳥編年」か『日本書紀』の記事のどちらかが、あるいは両方が間違っていることになります。
 そこで改めて紹介したいのが九州年号史料として著名な『海東諸国紀』に見える白鳳元年(661)の「近江遷都」記事です。「近江遷都」が『海東諸国紀』 では『日本書紀』よりも6年早く記されているのです。すなわち、白石さんの指摘にあった大津宮下層土器編年に対しては、『海東諸国紀』の記事「白鳳元年 (661)遷都」の方がうまく整合するのです。わたしはこの『海東諸国紀』の九州年号記事を根拠に、「九州王朝の近江遷都」という仮説を発表しています が、考古学的土器編年からも支持されることになれば興味深いと考えています。大津宮調査報告書を実見したいと思います。
 なお、白石さんは前期難波宮天武朝造営説と、わたしは思っていたのですが、白石論文には「天武朝までは下らないとしても、孝徳朝までは遡らないのである。」とされており、どうやら斉明朝造営説か天智朝造営説に立っておられるようです。


第419話 2012/05/30

前期難波宮の「戊申年」木簡

 東京に来ています。昨日は足利市に行きましたが、途中で開業後初めて東京スカイツリーを間近で見ました。やはり大きいですね。おそらく、古代の人々が法隆寺や観世音寺の五重の塔を見上げたときも、同じような感慨を抱いたのではないでしょうか。今日はこれから福島市へ向かい、夜は山形市で宿泊予定 です。
 難波宮編年の勉強のために『大阪城址2』(2002、大阪府文化財調査報告研究センター)を読んでいますが、この発掘調査報告書にはわが国最古の紀年銘 木簡である「戊申年」(648)木簡の報告が掲載されています。この木簡の出土が、前期難波宮の時代特定に重要な役割を果たしたことは既に紹介してきたと ころですが、今回その発掘状況と史料性格(何のための木簡か)を詳しく知りたいと思い、大阪市立歴史博物館に行き、同報告を閲覧コピーしました。
 同報告書によれば「戊申年」銘木簡が出土したのは難波宮跡の北西に位置する大阪府警本部で、その谷だった所(7B地区)の地層の「16層」で、「木簡をはじめとする木製品や土器を包含するとともに、花崗岩が集積した状態で検出されている。出土遺物からみて前期難波宮段階の堆積層である。」(12頁)とされています。この花崗岩は化学分析等によって上町台地のものではなく、前期難波宮造営に伴って生駒山・六甲山・滋賀県田上山などから人為的に持ち込まれた とのことです。
木簡の出土は33点確認されており、その中の「11号木簡」とされているものが「戊申年」銘が記されたものです。この他にも、「王母前」「秦人凡国評」や絵馬も出土しており、大変注目されました。
 これら花崗岩や木簡が出土した「16層」は前期難波宮の時代(整地層ではない)と同時期とされていますが、堆積層ですからその時代の「ゴミ捨て場」のような性格を有しているようです。土器も大量に包含されていますので、その土器編年について積山洋さん(大阪市立歴史博物館学芸員)におたずねしたところ、 「難波3新」で660~670年頃とのことでした。従って、「戊申年」(648)木簡の成立時期よりもずれがあることから、同木簡作成後10~20年たっ て廃棄されたと考えられるとのことでした。積山さんの推測としては、同木簡などは前期難波宮のどこかに保管されていたもので、660~670年頃に廃棄されたのではないかとのことでした。
 この積山さんの見解を正木裕さんに話したところ、これは近江遷都と関係しているのではないかとのアイデアが出されました。近江遷都は『海東諸国紀』によれば白鳳元年(661)、『日本書紀』によれば天智6年(667)とされていますが、同木簡廃棄時と同時期です。もしかすると近江遷都にともなって難波宮にあった文物の引っ越しがあり、その時に不要な木簡類が廃棄されたのではないかと想像しています。


第387話 2012/02/20

九州王朝太子殺害記事の正木異説

 第381話で、『海東諸国紀』に「(賢接)三年戊戌(578)、六斎日を以て経論を被覧し、其の太子を殺す。」(以六斎日被覧経論殺其太子)とい う、九州王朝内での太子殺害事件が記されていることを紹介しました。これに対して、先週の関西例会で正木さんから異論が出されました。
 『聖徳太子伝傳記』(1318年成立)に、「太子七歳戊戌(578)経論被見六斎日殺生禁断」という記事があり、『海東諸国紀』の「以六斎日被覧経論殺 其太子」は、本来「以六斎日、被覧経論、殺生禁断、其太子~」とあったものが、誤写などで「生禁断」が抜け落ち、誤伝したのではないかとされたのです。
 なるほど、これは優れた見解と思われました。正木さんのこの異論は以前の関西例会でも発表されており、確かな史料根拠に基づいたもっともな説と思っているのですが、それにもかかわらず、わたしが第381話で「九州王朝太子殺害記事」として紹介したのには理由がありました。
 一つは、殺生禁断という仏教的にはありふれた記事が、太子殺害記事という重大事件に誤写誤伝されるものだろうか、という点です。二つ目は、この578年 という年は、日本史の中でも著名な「聖徳太子」の時代であり、朝鮮国の公的な書籍といえる『海東諸国紀』の編纂に当たって、太子が殺されたとする、それほ どずさんな誤写、あるいは誤伝史料の採用を行うだろうかという素朴な疑問を払拭できなかったからなのです。
 やはり九州王朝史料に「太子殺害事件」が記されており、後の時代に聖徳太子伝記を編集するときに、殺生禁断記事に書き換えられたという可能性を否定でき ないと思うのです。もちろん、現時点では正木異説も有力と考えており、断定するべきではないとも思っています。引き続き、研究を深めたいと思います。な お、正木さんの異説発表には敬意を払います。学問研究にとって、異論の提起は大切なことですから。


第381話 2012/02/05

九州王朝の太子殺害事件

 今日は京都市長選挙の投票日で、京都御所の東隣にある京極小学校へ妻と二人で投票に行ってきました。京極小学校は娘が通った小学校で、湯川秀樹さんがこの小学校を卒業されたことでも有名です。京都市長選は前回より電子投票になりましたので、集計作業も早く、現職の角川さんの当選がNHK大河ドラマ終了後のニュースで早々と報道されました。
 近代民主国家は平和的に選挙で政権やリーダーの決定・交替が可能ですが、古代社会においては譲位・禅譲とは別に、放伐やクーデター、内乱、内紛など様々 な血なまぐさい交代劇が少なくありません。恐らく九州王朝内部でも近畿天皇家へ列島の代表者が替わるまで、いろんな事件があったはずです。残念ながら九州王朝史書は抹殺され遺されていませんから、その詳細はほとんどわかりませんが、其の断片が諸史料にわずかですが残っています。
 その一つに、九州年号群史料としても有名な『海東諸国紀』があります。同書は1471年に李氏朝鮮で作成された、日本と琉球の歴史・地理・風俗・言語・ 通行を克明に記した史料で、著者は朝鮮の最高の知識人でハングル制定にも寄与した申叔舟(1417~1475)です。
その中に次のような九州王朝内の驚くべき事件が記されているのです。

「(賢接)三年戊戌、六斎日を以て経論を被覧し、其の太子を殺す。」

 賢稱三年(『海東諸国紀』は「賢接」とする)は敏達七年に当たり、大和朝廷では太子が殺されたなどという物騒な事件は起こっていません。従って、九州年号の賢稱とセットで記されたこの記事も九州王朝内部の事件と見なさざるを得ないのです。
 この記事が事実だとすると、この賢稱三年(578)は九州王朝の輝ける天子多利思北孤即位のほぼ前代に当たり(即位は端政元年〔589〕)、すなわち多利思北孤は正統たる皇位継承者の太子が殺害された結果、即位できた天子となるのです。このことについては拙論「九州王朝の近江遷都 — 『海東諸国紀』の史料批判」(『「九州年号」の研究』に収録)をご参照下さい。
 現時点では、これ以上のことは不明ですが、今後、丹念に諸史料に遺されている九州王朝系記事を精査する事により、失われた九州王朝史の復原が少しずつでも進むことが期待されます。


第227話 2009/09/23

九州王朝の建都遷都と改元

 前期難波宮九州王朝副都説の発見は、様々な問題の発展を促しました。たとえば、前期難波宮建都に伴い、九州年号が白雉に改元(652年)され、焼失により朱鳥改元(686年)された事実に気づいたことにより、九州王朝では建都や遷都に伴って九州年号を改元するという認識が得られたのです。

 このテーマについて、過日、正木裕さん(古田史学の会会員)と拙宅近くの喫茶店で検討を進めました。大宰府建都(おそらく遷都も)が倭京元年(618 年)の可能性が強く、前期難波宮建都により白雉改元、近江遷都は白鳳元年(661年、『海東諸国紀』による)、そして藤原宮遷都の694年12月の翌年が大化元年と、建都遷都と九州年号の改元が偶然とは考えにくいほど「一致」していることについて、正木さんの見解をうかがったところ、それ以外の遷宮時も九州年号が改元されている可能性を指摘されました(たとえば常色元年、647年)。九州王朝の天子が即位時に遷宮し、同時に改元したというもので、この正木さんの指摘は大変興味深いものでした。
 大和朝廷の天皇も多くは即位時に「遷宮」しており、この風習は九州王朝に倣ったものではないかという問題にも発展しそうです。詳しくは正木さんが論文発表を予定されていますので、そちらをご参照いただきたいのですが、九州王朝史復原作業において、九州年号のより深い研究が重要です。正木さんとの「共同研究」はこれからも進めたいと思っています。


第82話 2006/06/10

「元壬子年」木簡の証言

 1996年に芦屋市から出土した「三壬子年」木簡が、実は「元壬子年」であったことが私達の調査により判明したのですが(69話72話参照)、今回はこの史料事実がもたらす古代史上の画期性について強調してみたいと思います。
 学問的良心と人間としての平明な論理性を持つ読者の皆さんには、今さらながら言うまでもないことですが、この「元壬子年」木簡が直接的に指し示す肝要の一点は、『日本書紀』の「白雉元年」を庚戌(650年)の年とする記述は誤りで、『二中歴』や『海東諸国紀』等に収録された「九州年号」の「白雉元年壬子(652年)」が歴史的事実であったということです。すなわち、『日本書紀』よりも「九州年号」の方が真実を伝えていたのです。「元壬子年」木簡は、まさにこの事を証言しているのです。
 従って、この木簡の「元壬子年」という文字を認めると、今まで論証抜きで偽作扱いされてきた「九州年号」の真実性を認めなければならず、次いでこのような年号を大和朝廷よりも早く公布した王朝の存在を認めなければなりません。さらに、この古代年号群が「九州年号」と呼ばれていた事実から、その公布主体が九州に存在した王朝であることも論理的必然として認めなければならないでしょう。すなわち、古田武彦の九州王朝説は正しかった、通説の大和朝廷一元史観は間違いであった、となるのです。これが、史料事実とそれに基づく人間の平明な論理性の帰結なのですから。
 あなたの周りにおられる大和朝廷一元史観の人に、この平明な論理性を語ってみて下さい。もし、その人が「なるほど、その通りだ」と理解できる人なら、共に真実と学問を語るに足る友人とすることができるでしょう。「それでも、大和朝廷が古代から列島の唯一卓越した代表者のはずだ」「九州年号や九州王朝はなかったはずだ」という人には、静かに首を横に振るしかないでしょう。残念なことに、世の中にはそのような人も少なくないのです。理系と比較して、世界の学問や理性との競争原理がほとんど働かない日本古代史学界など、その最たるものかもしれませんね。


第37話 2005/10/17

九州王朝の近江遷都

 わたしは、「古田史学の会・まつもと」から毎年のようにお呼びいただいて、松本市で講演をしています。そのほかにも、札幌や仙台、東京、大阪、松山、福岡などの各地で講演をしてきましたが、どういうわけか比較的お近くの名古屋では講演をしたことがありませんでした。そんなおり、「古田史学の会・東海」の林俊彦さん(本会全国世話人)より講演依頼をいただきました。というわけで、11月6日(日)に名古屋で講演させていただくことになりました。
 テーマは「九州王朝の近江遷都」。このテーマは、既に論文として『古田史学会報』61号(2004年4月)に発表していますが、その史料根拠を15世紀成立の後代史料『海東諸国紀』においていたこともあり、古田先生からは面白い考えだが、考古学的痕跡などで証明できなければ成立困難と、かなり辛口の批評をいただいていました。そうしたこともあって、以後このテーマを取り扱うことに慎重になっていました。
 そして今回、いよいよこの禁断のテーマに再度挑戦することにしました。名古屋の皆さんに聞いていただき、はたして「九州王朝の近江遷都」説は成立するか否か、ご判断いただきたいと願っています。