聖徳太子一覧

第835話 2014/12/10

「聖徳」は九州年号か、法号か

 昨晩は名古屋で仕事でしたので、「古田史学の会・東海」の林伸禧さん(古田史学の会・全国世話人、瀬戸市)や石田敬一さん(名古屋市)とSKE48で有名な栄で夕食をご一緒しました。
 会食での話題として、明石書店(秋葉原のAKB48劇場のやや近くにあります)から出版していただいている『古代に真実を求めて』の別冊構想について相談しました。というのも、毎年発行している『古代に真実を求めて』とは別にテーマ毎の論文や資料による別冊の発刊企画を検討しているのですが、私案として「九州年号」資料集も別冊として出版したいと考えてきました。そこで永く九州年号史料の収集を手がけられてきた林さんにその編集を引き受けていただけないかとお願いしました。
 そうしたこともあり、九州年号についての意見交換を林さんと交わしたのですが、『二中歴』には「聖徳」は無いが、「聖徳」が九州年号かどうかとのご質問が出されました。基本的には九州年号群史料として『二中歴』が最も優れていると考えていますが、『二中歴』には無く、他の九州年号群史料に見える「聖徳」(629〜634、『二中歴』では「仁王」7〜12年に相当)を九州年号とするのかという問題は、研究途上のテーマでもあり難しい問題です。
 ホテルに戻ってからもこの問題について考え、何とか史料根拠に基づいた論証ができないものかと思案したところ、次のような論証が可能ではないかと気づきました。

1.九州年号原型論研究において、『二中歴』が最も優れた、かつ成立が古い九州年号群史料であることが判明している。
2.その『二中歴』に見えない「聖徳」は本来の九州年号ではない可能性が高いと考えるべきである。
3.しかし、それではなぜ他の九州年号群史料等に「聖徳」が九州年号として記されているのか。記された理由があるはず。
4.その理由として正木裕さんは、多利思北孤が出家してからの法号の「法興」が年号のように使用されていることから、「聖徳」も利歌彌多弗利(リ、カミトウのリ)の出家後の法号ではないかとされた。
5.この正木説を支持する史料根拠として、『二中歴』の九州年号「倭京」の細注に「二年、難波天王寺を聖徳が造る」という記事があり、倭京2年(619年)は多利思北孤の治世であり、その太子の利歌彌多弗利が活躍した時代でもある。従って、難波天王寺を建立するほどの九州王朝内の有力者「聖徳」を利歌彌多弗利とすることは穏当な理解である。
6.『日本書紀』に、四天王寺を大和の「聖徳太子」が建立したとする記事が採用されたのは、九州王朝の太子「聖徳」(利歌彌多弗利)が天王寺を建立したとする事績を近畿天皇家が盗用したものと考えることが可能。しかも、考古学的事実(四天王寺の創建年が『日本書紀』に記された6世紀末ではなく、620年頃とする見解が有力)も『二中歴』の細注を支持している。
7.以上の史料根拠に基づく論理性から、九州王朝の天子(多利思北孤が没した翌年の仁王元年・623年に天子に即位したと考えられる)「聖徳」(利歌彌多弗利)の「名称」を政治的年号に採用するとは考えられない。
8.従って、利歌彌多弗利が即位の6年後に出家し、その法号を「聖徳」としたとする正木説が今のところ唯一の有力説である。それが後世に、「法興」と同様に年号のように使用された。その結果、多くの年代記などに他の九州年号と同列に「聖徳」が記載された。ちなみに、多利思北孤も天子即位(端政元年・589年)の2年後が「法興元年(591)」とされていることから、即位後に出家したことになる。利歌彌多弗利も父の前例に倣ったか。
9.付言すれば、利歌彌多弗利「聖徳」の活躍がめざましく、その事績が近畿天皇家の「聖徳太子」(厩戸皇子)の事績として盗用されたと考えられる。
10.同様に九州王朝内史書にも「聖徳」としてその活躍が伝えられた。『二中歴』倭京2年の難波天王寺聖徳建立記事も、利歌彌多弗利出家後の法号「聖徳」の名称で記載されたことになる。

 以上のような論理展開が可能ではないでしょうか。引き続き検証を行いますが、今のところ論証として成立しているような気がしますが、いかがでしょうか。なお、正木さんも「聖徳」法号説の論証を更に深められており、関西例会で発表予定です。

(補注)上記の論理展開において、7が最も重要な論理性です。


第830話 2014/11/30

『太平記』の天王寺

 「洛中洛外日記」でも度々取り上げましたが、『日本書紀』では「聖徳太子」による「四天王寺」の造営と記され、『二中歴』「年代歴」には倭京2年(619)に「難波天王寺」の建立が記録されています。現在では四天王寺という名称ですが、地名は天王寺(大阪市天王寺区)です。明治時代の地図にも天王寺村とされています。こうした状況から、本来の寺名は天王寺であり、『日本書紀』成立以後のある時期にその影響を受けて四天王寺という名称に変更され、他方、地名としての「天王寺」は本来の名称のまま残ったとする説を述べました。
 このわたしの見解は高名な落語家桂米團治さんのブログに取り上げられたり、最近では服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)により、天王寺の移築問題などの研究が進められています。四天王寺から出土した瓦にも「天王寺」銘と「四天王寺」銘を持つものがあり、時代によって天王寺を名乗ったり四天王寺になったりしているようです。
 水野代表からお借りしている『太平記』には「天王寺」と記されていますから、『太平記』成立時の14世紀後半には天王寺と名乗っていたようです。現在は 四天王寺を名乗っていますから、14世紀末以降のどこかの時点で天王寺から四天王寺に改められたことになります。もう少し正確に言えば、『太平記』の時代以前にも、『日本書紀』成立後に四天王寺を名乗っていた時期があったとも思われますが、各時代の史料を調査すれば、寺名称の変遷が明らかになるものと思われます。


第822話 2014/11/18

『古代に真実を求めて』18集の編集会議

 一昨日の日曜日に、i-siteナンバで『古代に真実を求めて』18集の編集会議を行いました。特集『盗まれた「聖徳太子」伝承』の原稿もほぼ出そろい、かなり面白い本になりそうです。表紙レイアウトも一新する計画で、原幸子さん (古田史学の会・会員、奈良市)による表紙デザイン画もできあがりました。特集以外の応募原稿などの選考も終わり、これから古田先生の講演録やインタビュー(家永三郎さんとの聖徳太子論争の回想)の準備にかかります。12月9日に古田先生のご自宅にうかがい、お話をうかがいます。
 明石書店への原稿提出締め切りもせまっており、最後の追い上げです。わたしも、今回は「巻頭言」執筆を水野代表から指示されており、すべての原稿に再度目を通して、執筆することになります。
 19集では「九州年号」を特集しますが、明石書店からの要請もあって、『古代に真実を求めて』別冊の企画も服部さんと相談中です。まだ正式にはなにも決まっていませんが、これまで発表された「邪馬台国」関連論文を中心にした企画などが試案としてあがっています。このところ「邪馬台国」関連本の出版が続いていますので、静かなブームなのかもしれません。古田学派らしい学問的なしっかりとした別冊にしたいと思います。
 なお、18集は来春発行予定で、2014年度賛助会員に進呈いたします。本屋さんからも購入可能です。ご期待ください。


第809話 2014/10/25

湖国の「聖徳太子」伝説

 滋賀県、特に湖東には聖徳太子の創建とするお寺が多いのですが、今から27年前に滋賀県の九州年号調査報告「九州年号を求めて 滋賀県の九州年号2(吉貴・法興編)」(『市民の古代研究』第19号、1987年1月)を発表したことがあります。それには『蒲生郡志』などに記された九州年号「吉貴五年」創建とされる「箱石山雲冠寺御縁起」などを紹介しました。そして結論として、それら聖徳太子創建伝承を「後代の人が太子信仰を利用して寺院の格を上げるために縁起等を造作したと考えるのが自然ではあるまいか。」としました。

 わたしが古代史研究を始めたばかりの頃の論稿ですので、考察も浅く未熟な内容です。現在の研究状況から見れば、九州王朝による倭京2年(619)の難波天王寺創建(『二中歴』所収「年代歴」)や前期難波宮九州王朝副都説、白鳳元年(661)の近江遷都説などの九州王朝史研究の進展により、湖東の「聖徳太子」伝承も九州王朝の天子・多利思北孤による「国分寺」創建という視点から再検討する必要があります。

 先日、久しぶりに湖東を訪れ、聖徳太子創建伝承を持つ石馬寺(いしばじ、東近江市)を拝観しました。険しい石段を登り、山奥にある石馬寺に着いて驚きました。国指定重要文化財の仏像(平安時代)が何体も並び、こんな山中のそれほど大きくもないお寺にこれほどの仏像があるとは思いもよりませんでした。

 お寺でいただいたパンフレットには推古二年(594)に聖徳太子が訪れて建立したとあります。この推古二年は九州年号の告貴元年に相当し、九州王朝の多利思北孤が各地に「国分寺」を造営した年です。このことを「洛中洛外日記」718話『「告期の儀」と九州年号「告貴」』に記しました。

 たとえば、九州年号(金光三年、勝照三年・四年、端政五年)を持つ『聖徳太子伝記』(文保2年〔1318〕頃成立)には、告貴元年甲寅(594)に相当する「聖徳太子23歳条」に「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺」(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)という記事がありますし、『日本書紀』の 推古2年条の次の記事も実は九州王朝による「国府寺」建立詔の反映ではないかとしました。

「二年の春二月丙寅の朔に、皇太子及び大臣に詔(みことのり)して、三宝を興して隆(さか)えしむ。この時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る。即ち、是を寺という。」

 この告貴元年(594)の「国分寺創建」の一つの事例が湖東の石馬寺ではないかと、今では考えています。拝観した本堂には「石馬寺」と書かれた扁額が保存されており、「傳聖徳太子筆」と説明されていました。小振りですがかなり古い扁額のように思われました。石馬寺には平安時代の仏像が現存していますから、この扁額はそれよりも古いか同時代のものと思われますから、もしかすると6世紀末頃の可能性も感じられました。炭素同位体年代測定により科学的に証明できれば、九州王朝の多利思北孤による「国分寺」の一つとすることもできます。

 告貴元年における九州王朝の「国分寺」建立という視点で、各地の古刹や縁起の検討が期待されます。


第800話 2014/10/11

『古田史学会報』

  124号の紹介

 今日は某テレビ局特別番組制作スタッフの方から取材を受けました。わたしの「聖徳太子」に関する論文に興味を持たれ、来年放映予定の特別番組に取り入れたいとのこと。わたしの「出演」も要請され、協力を約束しました。
 古田史学や九州王朝説などの説明、『旧唐書』や『隋書』の倭国伝、『二中歴』の九州年号を紹介したところ、すぐにご理解いただき、「これほど明確な証拠があるのになぜ歴史学者は九州王朝を認めないのですか」と質問されました。わたしは各地で講演するたびに同様の質問を受けるのですが、「歴史の真実よりも、保身や出世、お金のほうが大切な学者が多いのです。そういう学者をわたしは御用学者とよんでいます」と返答しました。
 さらに、これまでも報道予定だった古田先生への取材・収録が番組編集段階で圧力がかかり、カットされたり、極端に短縮されたりしてきたことを伝えたのですが、その方は「わたしは真実を大切にしたい」と言われたので、今回の件がどのような結果になっても、これをご縁に今後もおつき合いしてほしいと述べ、快諾していただきました。とても有意義で楽しい取材体験となりました。

 『古田史学会報』124号が発行されましたので、ご紹介します。好論が集まり面白いものとなりました。正木さん岡下さんら常連組に服部さんが加わり、研究者層の厚みも増してきました。萩野さんの旅行記も楽しい内容です。服部稿は弥生時代の鉄器出土分布から「邪馬台国」畿内説が全く成立しないことがよくわかるデータも示されていおり、勉強になります。
 掲載テーマは次の通りです。会員の皆さんの投稿をお待ちしています。ページ数や編集の都合から、短い原稿の方が採用の可能性は高くなりますので、ご留意ください。

〔『古田史学会報』124号の内容〕
○前期難波宮の築造準備について  川西市 正木裕
○「邪馬台国」畿内説は学説に非ず  京都市 古賀達也
○「魏年号銘」鏡はいつ、何のために作られたか
   — 薮田嘉一郎氏の考えに従う解釈 京都市 岡下英男
○トラベルレポート出雲への史跡チョイ巡り行
 2014年5月31日~6月2日  東大阪市 萩野秀公
○鉄の歴史と九州王朝  八尾市 服部静尚
○好著二冊  川西市 正木 裕
○古田先生の奥様(冷*子様)の訃報 代表 水野孝夫
     冷*は三水編に令。ユニコード6CE0
     残念ですがインターネットでは表示できません。
○『古田史学会報』原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会 関西例会のご案内
○編集後記  西村秀己


第773話 2014/08/26

「盗まれた『聖徳太子』伝承」

 今日から北陸出張です。午前中は福井県鯖江市でお客様訪問、午後は富山県石動(いするぎ)で開発案件のマーケットリサーチ、夜は石川県大聖寺で代理店と打ち合わせです。明日は福井市で仕事です。
 北陸三県は教育熱心な県と聞いていますが、確かにお付き合いしている代理店の青年は優秀な人が多く、わたしも啓発されることしばしばです。また、当然かもしれませんが、地元出身の人がほとんどです。少子化の影響もあり、子供が親元に残るため地元で就職する傾向が増えているのでしょう。そうなると就職先が少ない地方では、地元企業への就職競争が激しくなり、その結果、優秀な青年が地元企業に就職するということなのかもしれません。関西や関東の大都市圏では 地方出身者が少なくないのですが、わたしの勤務先も部課長の多くは他府県出身者です。

 24日にi-siteなんば(大阪府立大学なんばキャンパス)で、服部静尚さんを新編集長として『古代に真実を求めて』の編集会議を行い、18集 の企画内容を審議決定しました。メインテーマは「盗まれた『聖徳太子』伝承」で、九州王朝の多利思北孤や利歌彌多弗利の事績が、大和の「聖徳太子」の事績として『日本書紀』などに盗用されたり、各地の「聖徳太子」伝承に変質していることが明らかとなっていますが、18集ではそれらの研究成果を特集します。 依頼原稿の執筆者も決定されましたが、同テーマによる投稿原稿も歓迎します。もちろん、特集テーマ以外の投稿も従来通り受け付けますので、ふるって応募し てください(締め切りは10月末。原稿は2部、服部さんへ送付して下さい。応募方法の詳細は『古田史学会報』参照)。
 また、『古代に真実を求めて』19集のメインテーマには「九州年号」を予定しています。詳細は後日発表いたします。
 なお、『古代に真実を求めて』17集(定価2800円+税)は、「古田史学の会」2013年度賛助会員(年会費5000円)に明石書店から発送が開始されます。2014年度賛助会員には来春発行予定の18集を進呈します。一般会員(年会費3000円)や非会員の方は書店にてお求めいただければ幸いです。


第764話 2014/08/13

大分県の「日羅」伝承

 九州における「聖徳太子」伝承を伴う寺院の開基や仏像について紹介し、それらの伝承は本来九州王朝の多利思北孤や利歌彌多弗利の事績であった可能性が高いことを説明してきましたが、6世紀末頃の九州における寺院開基伝承として、「日羅」によるとされるものが少なくありません。
 日羅は『日本書紀』(敏達紀、583年に帰国)に登場する百済王に仕えた倭人ですが、その日羅が熊本県や宮崎県・大分県に多数の寺院を開基したとする伝承や史料が残っています。もっとも『日本書紀』によれば、日羅は帰国後二ヶ月で百済人から暗殺されており、その短期間で多数の寺院を建立できるはずもありません。従って、日羅による開基とされてはいるものの、歴史事実としては九州王朝内の有力者による寺院開基が『日本書紀』に記されている「日羅」によるものと、後世において書き換えられたものと思われます。もしかすると「日羅」に似た名前の人物が九州王朝内にいたのかもしれません。
 その「日羅」伝承に早くから注目されていたのが藤井綏子さん(故人)でした。藤井さんは作家として文筆活動されるかたわら、「市民の古代研究会」にも参加されていた古田ファンで、著作の中で古田説を取り上げたり、ご自身でも研究されたりしておられました。大分県久重町に住んでおられ、直接お会いすること はできませんでしたが、わたしもお手紙や著書をいただき、何かと気にかけていただきました。
 ちょうど「市民の古代研究会」の分裂騒動を経て「古田史学の会」を立ち上げたばかりの1994年6月に藤井さんから次のようなお便りが届きました。

 「古賀達也様
 こちらは山々の頂きも隠れがちな風景ですが、京都の方もはっきりしないお天気でしょうか。 ところでこの度、同封のような著書を上梓いたしました。景行説話で最も激戦地であった豊後南部について、一度よく考えてみたいと思っていたのを、実現したわけですが、あまり自信はありません。お暇な折りにでもお目 通しいただき、ご教示でも賜れるようであれば、幸せです。
 だいぶ前ですが、ご丁重なお手紙をありがとうございました。まわりに会員の方が住んでおられるでもなく、一人で山の中に居て、何がどうなっているのか、さっぱりのみこめないでいるのですが、中央?に居られると、何かと気苦労も多いのでしょうね。
 ともかく、同じようなことをやってきた(つもり?)の者として、今後のご健闘を祈ります。お体に気をつけて下さい。
       一九九四年六月三〇日  藤井綏子」

 この手紙に同封されていた著書『古代幻想・豊後ノート』(1994年4月25日刊、株式会社双林社出版部)を20年ぶりに読んでみました。その中の「日羅の影」という一節には次のような記述があります。

 「九州には、この日羅の創建と伝える寺が、あちこちに散見する。熊本の郷土史家平野雅曠氏によると、肥後には計十二、三カ寺もあるという。
 豊後にも、『豊後国誌』があげる確実なところで少なくとも五つの、日羅開基伝承の寺がある。大野郡の大恩寺、普光寺、阿西寺、大分郡の岩屋寺、海部郡の円通寺がそれである。海部郡では、もう一つ、例の端麗な臼杵石仏の寺が満月寺で、鶴峰戊申の前掲『臼杵小鑑拾遺』はこの寺にも日羅を開山とする縁起があったことを紹介している。」

 藤井さんが注目されたように、「日羅」や「日羅伝承」は九州王朝史研究にとって重要なテーマと思われるのです。


第762話 2014/08/09

『肥前叢書』の

「聖徳太子」伝承

 昭和12年に肥前史談会により発行された『肥前叢書』(昭和48年復刻版)によれば、肥前の寺院に「聖徳太子」御作とされる仏像に関する記事が散 見されます。おそらく九州王朝の天子、多利思北孤か太子の利歌彌多弗利に関わる仏像記事が、後世に「聖徳太子」伝承に置き換えられたものと推察されます。 そうであれば、作られたのは仏像だけではなく寺院も建立されたはずです。同書によれば次のような「聖徳太子」関連記事があります。

○勝楽寺
 「新庄の里勝軍山勝楽寺本尊は阿弥陀如来の尊僧聖徳太子の御作也」

○桐野山
 「桐野山妙覺寺は聖武天皇の勅願行基菩薩の開基、本尊は大悲観世音菩薩即ち行基の御作也、又護摩堂の本尊は太聖不動明王聖徳太子の御作也」

○黒髪山
 「黒髪山大権現、本地薬師如来の三尊聖徳太子の御作也」

○圓應寺
 「武雄圓應寺、本尊は聖観音の座像也、薩捶聖徳太子の御作、利生無双の霊像也」

 こうした「聖徳太子」伝承を持つ寺院や仏像は、本来は多利思北孤か利歌彌多弗利に関わるものであれば、7世紀初頭頃に肥前の地でも九州王朝による寺院が少なからず建立された可能性をうかがわせます。これもまた土器や瓦などの考古学的出土による編年研究が必要です。


第755話 2014/07/29

森郁夫著

『一瓦一説』を読む(5)

 森郁夫さんの『一瓦一説』を多元史観・九州王朝説の視点から読んでみますと、いろいろな問題が発見でき、なかなかの好著だと思います。中でも考えさせられたのが四天王寺創建瓦に関する部分でした。「前期難波宮下層遺構出土の瓦 創建四天王寺の瓦の可能性」(67~70ページ)などで紹介されてい る、法隆寺若草伽藍創建瓦と四天王寺創建瓦、そして前期難波宮下層遺構出土瓦が同笵品であるとの指摘には、深く考えさせられました。
 森さんの指摘によれば、これら同笵瓦のなかでは、若草伽藍の瓦が最も鮮明な文様であり、四天王寺出土の同笵瓦は文様に傷や変形があるとのこと。すなわち 笵型(木製)の痛みが進んだ文様となっている四天王寺瓦が、文様の鮮明な若草伽藍瓦よりも笵型の使用時期が後である痕跡を示しているとされました。考古学的事実に基づいた判断(近畿天皇家一元史観というイデオロギーとは一応無関係に成立)ですから、説得力があります。
 法隆寺若草伽藍は『日本書紀』によれば推古15年(607)に創建され、天智9年(670)に消失したとあります(現・法隆寺は九州王朝滅亡後の和銅年間頃に他から移築されたもの)。四天王寺(『二中歴』では「天王寺」)の創建は『二中歴』「年代歴」によれば九州年号の倭京2年(619)とあり、同笵瓦 の先後関係と一致しています。
 『二中歴』の記事から難波天王寺(四天王寺)は九州王朝の「聖徳」(利歌彌多弗利か)により建立されたと考えていますので、そうすると近畿天皇家の「聖 徳」(厩戸皇子)が建立したとされる法隆寺若草伽藍創建に使用された瓦当笵を九州王朝は天王寺創建瓦に再利用したこととなります。
 こうした同笵瓦の状況から、法隆寺若草伽藍と天王寺との関係性や、瓦当笵の使い回しなど九州王朝説の立場からどのような理解や説明が可能なのか、重要な課題です。ちなみに法隆寺若草伽藍の様式は天王寺と同様式の四天王寺式(南北に金堂や塔等が並ぶ)であることがわかっており、この一致も見落とせません。


第550話 2013/04/21

天王寺にあった「聖徳太子」の往復書簡

 昨日の関西例会は大阪西区民センターで行いました。会場予約抽選の競争倍率が年々高くなり、会場予約担当者のご苦労がしのばれます。

 4月例会の発表テーマは次の通りでした。中でも岡下さんの発表は、「聖徳太子」実は「カミトウの利(利歌彌多弗利)」と善光寺如来の往復書簡が法隆寺ではなく天王寺(四天王寺)に保存されていたというもので、「利」は難波の地で没したのではないかという大変興味深いものでした。

 よくよく考えてみれば、法隆寺は火災で全焼しており、和銅年間頃に再建(移築)されるまで、この往復書簡は別の寺院などにあったと考えざるを得ないのですが、それが天王寺だったというのは、なるほどと思いました。岡下さんには会報への投稿を要請しました。

 

〔4月度関西例会の内容〕
1). 山田宗睦仮説(日本書紀の仁徳~武烈紀は全文作為)の検証:仁徳~安康紀編(八尾市・服部静尚)
2). 「消息往来」の伝承(その2)(京都市・岡下秀男)
3). 史蹟百選・九州篇(木津川市・竹村順弘)
4). 難波朝廷の賀正礼と立礼(京都市・古賀達也)
5). 天皇家と「師木津日子」の系譜(高松市・西村秀己)
6). 「I-siteなんば」に収蔵された古田先生の著作(概要・2013年4月現在)(川西市・正木裕)
7). 博多湾岸「邪馬壱国」と怡土平野なる「奴国」(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田先生近況「研究自伝」執筆中・古田先生テレビ出演・会務報告・大和田始『風土記解体』を読む・「乙巳の変」の中臣鎌足は藤原不比等(水野説)・その他


第507話 2012/12/22

九州王朝の天子たち

 九州王朝が百済救援のため、唐・新羅連合軍との「開戦の詔勅」が『日本書紀』斉明紀六年条(660)にあったことを述べ ましたが、それではこの詔勅を出した九州王朝の天子は誰でしょうか。『日本書紀』に散見される「伊勢王」という不詳の人物がいるのですが、この伊勢王の死亡記事が斉明七年(661)六月条にあります。
 この斉明七年にあたる661年には九州年号が白鳳に改元されていますから、伊勢王が九州王朝の天子であれば、その死去により改元されたこととなります。 この伊勢王を九州王朝の天子とする研究については、正木裕さんによる詳細な論稿がありますので、ご参照ください(「常色の宗教改革」『古田史学会報』85号、「伊勢王と筑紫君薩夜麻」『古田史学会報』86号、他)。
 正木さんの研究によれば、伊勢王は九州年号の常色・白雉年間に評制を施行し、白雉元年(652)には「難波遷都」した天子とされています。九州王朝最後 の天子とされる筑紫君薩野馬(明日香皇子)の父親でもあります。こうした研究成果によれば、七世紀におる九州王朝の歴代天子の系譜は次のように考えられま す。

 阿毎多利思北弧(上宮法皇) 端政元年(589)即位~倭京五年没(622、法興32年) ※筑後から太宰府に遷都(倭京元年)。遣隋使を派遣。九州島を「九州」に分国。
 利歌彌多弗利(カミトウの利) 仁王元年(623)即位~命長七年(646)没 ※多利思北弧の太子(「聖徳」太子か)。
 伊勢王 常色元年(647)即位~白鳳元年(661)没 ※評制を施行。難波遷都。
 筑紫君薩野馬(薩夜麻) 白鳳元年(661)即位~? ※おそらく701年以後の没。白村江戦の戦いで唐の捕虜となり、天智十年(671、白鳳十一年)帰国。

 おおよそこのような系譜が想定されます。もちろん、今後の研究の進展により修正がなされるかもしれませんが、大きくは間違っていないと思います。


第482話 2012/10/14

中国にあった「始興」年号

 第480話で、「始興」という年号は中国にも日本にも無いと書いたのですが、出張時に持っていた「東方年表」に基づいた判断でしたのでちょっと気にかかり、帰宅後にネットで調べてみました。そうしたらなんと7世紀初頭に「始興」という年号があったのです。
 たとえばウィキペディアによると、隋末唐初に「燕」という短命の政権が高開道により樹立され、「始興」(618~624)という年号が建元されています。同じく隋末に操師乞(元興王)により樹立された地方政権が「始興」(616)が一年間だけ建元されています。
 ウィキペディアではこの二つの「始興」年号を「私年号」と説明していますが、短命ではありますが、樹立された地方政権が建元しているのですから、「公的」なものであり「私年号」とするのは学問的な定義としては問題があります。九州年号を「私年号」とする日本古代史学会も同様の誤りを犯しているのです。 年号が「私」か「公」かをわける基準を政権の「勝ち」「負け」で決めるのは不当です。より厳密にいえば、「年号」とはどれほど狭い地域や短い期間に使用されていても、それが「支配者」により公布され使用されていれば「私」ではなく、「公」的なものであることから、そもそも「私年号」という名称が概念として矛盾した名称と言わざるを得ないのです。
 そういうことで、「始興」年号の出典を確認しました。『隋書』巻四の「煬帝下」に次の記事があり、操師乞による「始興」建元は確認できました。

 (大業12年12月、616年)「賊操天成挙兵反、自号元興王、建元始興。」

 『隋書』によれば、この頃各地で地方政権が樹立され年号が建元されています。たとえば、「白烏」「昌達」「太平」「丁丑」「秦興」などが見えます。

 次に高開道による「始興」建元ですが、『旧唐書』によれば「列伝第五」にある高開道伝には、「(武徳三年・620年)復称燕王、建元」とあり、年号名は記されていません。「建元」とありますから620年が元年のはずですが、ウィキペディアに記された期間(618~624)とは異なります。
 以上のことから、高開道の「始興」は確認できませんでしたが、操師乞による「始興」建元は信用してもよいようです。しかし、『維摩詰経』巻下残巻末尾に見える「始興」は定居元年(611)よりも前のこととなりますから、操師乞の「始興(616)」年号では年代があいません。また、百済僧の来倭記事に隋末 の短命地方政権の年号を使用するというのも不自然です。従って、「始興」は「始哭」の誤写・誤伝ではないかとするわたしの作業仮説は有効と思います。
 最後に、歴史研究において簡単な「辞典」や「年表」に頼りきるのは危険であることを再認識させられました。ましてやウィキペディアの記載をそのまま信用するのは更に危険です。素早く調べるための「道具」として利用するのには便利ですが、その上で原典にしっかりとあたる、というのが大切です。その意味でも良い勉強となりました。(つづく)