聖徳太子一覧

第1016話 2015/08/05

九州王朝の「国分寺」建立

 最近、服部静尚さんが熱心に研究されている「最勝会」問題に関連して、先日、正木裕さんと服部静尚さんが見えられたとき、九州王朝の「国分寺」建立問題について検討しました。

 国分寺は聖武天皇の命により8世紀に諸国に建立されたものですが、それ以前に九州王朝が「国分寺」を建立したとする説が、わたしの記憶では20年以上前に提起されていたと思います。国家鎮護の法会を営むために諸国に「国分寺」が建立されたと、わたしも考えるのですが、その時期はいつ頃だろうかと正木さんにたずねたところ、「九州王朝により66ヶ国に分国された頃ではないか。分国された諸国の寺だから国分寺という名称になったのではないか。」との見解を述べられました。まことにもっともな意見です。したがって、九州王朝の「国分寺」建立は多利思北孤の時代と考えてもよさそうです。

 各地に「聖徳太子」創建伝承を持つ寺院がありますから、それらを九州王朝「国分寺」の候補として、今後調査研究してみたいと思います。たとえば東近江の石馬寺なども創建当時のものとされる扁額が残っていますから、科学的年代測定が可能です。まずは各地の「聖徳太子」創建伝承寺院の分布図作りから始めてはどうかと思います。どなたか研究していただければ、ありがたいのですが。


第1014話 2015/08/03

九州王朝説への「一撃」

 先日、正木裕さんと服部静尚さんが見えられたとき、最勝会の開始時期を『二中歴』「年代歴」の記事にあるように白雉年間とするのか、通説のように「金光明最勝王経」が渡来した8世紀以降とするのかという服部さんの研究テーマについて意見交換しました。そのおり、仏教史研究において、九州王朝説への「一撃」とも言える重要な問題があることを指摘しました。
 九州王朝の天子、多利思北孤が仏教を崇拝していたことは『隋書』の記事などから明らかですが、その活躍した7世紀初頭において、寺院遺跡が北部九州にはほとんど見られず、近畿に多数見られるという現象があります。このことは現存寺院や遺跡などから明確なのですが、これは九州王朝説を否定する一つの学問的根拠となりうるのです。まさに九州王朝説への「一撃」なのです。
 7世紀後半の白鳳時代になると太宰府の観世音寺(「白鳳10年」670年創建)を始め、北部九州にも各地に寺院の痕跡があるのですが、いわゆる6世紀末から7世紀初頭の「飛鳥時代」には、近畿ほどの寺院の痕跡が発見されていません。これを瓦などの編年が間違っているのではないかとする考えもありますが、それにしてもその差は歴然としています。
 同様の問題が宮殿遺構においても、九州王朝説への「一撃」として存在していました。すなわち7世紀中頃としては列島内最大規模で初の朝堂院様式を持つ前期難波宮の存在でした。通説通り、これを孝徳天皇の宮殿とすれば、この時期に評制施行した「難波朝廷」は近畿天皇家となってしまい、九州王朝説が瓦解するかもしれなかったのです。この問題にわたしは何年も悩み続け、その末に前期難波宮九州王朝副都説に至り、この「一撃」をかわすことができたのでした。
 これと同様の「一撃」こそ、7世紀初頭の寺院分布問題なのです。このことを正木さん服部さんに紹介し、三人で論議検討しました。この検討結果については、これから少しずつ紹介したいと考えていますが、こうした問題意識から、わたしは『古代に真実を求めて』20集の特集テーマとして「九州王朝仏教史の研究」を提案しました。今後、編集部で検討することとなりますが、この九州王朝説への「一撃」を古田学派は逃げることなく、真正面から受けて立たなければなりません。


第998話 2015/07/10

祇園山鉾、昔は66基

 京都の町も祇園祭の準備が本格的に始まり、鉾町では鉾の組立が進められています。今日乗ったMKタクシーのドライバーの方は観光課所属とのことで、祇園祭についてかなり詳しく解説していただきました。さすがは京都を代表するタクシー会社らしく、博学な方でした。
 そのお話しによれば、現在の山鉾は33基ですが、本来は66基とのこと。そこで、わたしは「66基とは日本国内の国の数ですか」とたずねると、「その通りです」とのご返事。「聖徳太子」が分国して66国になったとする論文「『聖徳太子』による九州の分国」(『盗まれた「聖徳太子」伝承』収録)で、九州王朝の天子、多利思北孤が66国に分国したと書きましたので、それが京都の祇園祭にも影響を及ぼしていたことを知り、感慨深く思いました。
 祇園祭のクライマックス「山鉾巡行」は毎年7月17日に執り行われますが、鉾町に転居した新参者が商売の売り上げが増えるよう、土日に開催してはどうかと意見したところ、「祇園祭の伝統を何と心得る」と厳しい叱責を受けたとのエピソードもあったそうです。伝統文化を護る京都らしい話しです。
 なお、山鉾巡行が最も有名な行事ですが、一番重要な行事は御神体を乗せた3基の御神輿による八坂神社から御旅所への往復です。スサノオの命と奥さんと子供を乗せた3基の御神輿が祇園祭の「主人公」なのです。この御神輿の行列には厳しいしきたりがあり、少なくとも三年は参加しないと、担がせてもらえないと聞いたことがあります。
 祇園祭が終わると京都も梅雨明けします。そして本格的な夏を迎えるのですが、体調管理に気を付けて、今年も乗り切りたいと思います。


第953話 2015/05/16

北京大学図書館蔵「九州年号史料」の報告

 本日の関西例会には久しぶりに神戸市の谷本茂さん(古田史学の会・会員)が参加され、九州年号に関する研究2件を発表されました。中でも北京大学図書館が所蔵している九州年号「定居」が記された『唯摩結経』写本を神戸外語大の図書館所蔵写真本からコピーして紹介され、感慨深く拝見しました。
 「聖徳太子」による書写とされる同史料については、「洛中洛外日記」でも論じてきたところですが、後代偽作などではなく、同時代九州年号史料、あるいはその写本と思われました。谷本さんも同様の見解を発表されましたが、やはり北京大学で同史料を実見し、紙の科学的調査などにより成立年代を調査する必要を改めて感じました。
 正木裕さんからは、謡曲「桜川」の母子の出身地「筑紫日向」が糸島半島の細石神社付近であることを論証されました。
 5月例会の発表は次の通りでした。

〔5月度関西例会の内容〕
①賀正・大射礼と改新詔(八尾市・服部静尚)
②「白髪三千丈」-二つの欺瞞-(八尾市・服部静尚)
③『三国志』と朝鮮半島の「倭」について(姫路市・野田利郎)
④北京大学図書館蔵敦煌文献「定居元年歳在辛未上宮厩戸寫」『唯摩結經巻下』の史料批判(神戸市・谷本茂)
⑤「貞慧伝」の白鳳年号と『二中歴』の“逸年号”について -11年ずれた干支紀年の仮説-(神戸市・谷本茂)
⑥謡曲「桜川」と九州王朝(川西市・正木裕)
⑦学問としての歴史の論拠について(奈良市・出野正)
⑧中国の王朝暦は二倍年暦か?(奈良市・出野正)
⑨服部静尚氏の「倭国」=「倭人の国」についての不可解を論じる(奈良市・出野正)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田先生近況(『古田武彦古代史百問百答』ミネルヴァ書房発刊)・新年度の会役員人事・経費決算・明石城から人丸山柿本神社ハイキング・テレビ視聴(飛鳥仏教と尼寺、巴文探求)・鳥取県湖山長者伝説・その他


第903話 2015/03/20

『盗まれた「聖徳太子」伝承』発刊

本日、出張先から帰宅すると、明石書店から『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)が届いていました。表紙も中身のレイアウトも一新されており、狙ったとおり以上のリニューアルに成功していました。明石書店の担当の森さんにはかなり頑張っていただき、感謝しています。
冒頭には皇室御物の『法華義疏』のカラー写真が掲載されており、読者はその実相に触れることができます。『古代に真実を求めて』にカラー写真が掲載されたのは初めてですが、編集責任者の服部静尚さんのご尽力の賜です。法隆寺以前の持ち主が書かれていた部分が鋭利な刃物で切り取られた痕跡も写っており、これは同書が近畿天皇家の「聖徳太子」のものではなかったことを意味します。
古田先生へのインタビュー「家永三郎先生との聖徳太子論争から四半世紀を経て」では、古田先生が東北大学の恩師・村岡典嗣先生亡き後、新たに赴任されてきた家永先生に学ばれ、日本思想史の単位を認定していただいたこなどが語られており、先生ご自身による貴重な歴史的証言と思いました。
巻末には、法隆寺釈迦三尊像光背銘と『隋書』「イ妥(タイ)国伝」版本、そして古田先生によるそれらの現代語訳も収録されており、史料として研究にも役立ちます。本書は多元的「聖徳太子」研究における、後世に残る一冊に仕上がったと自負しています。
「古田史学の会」2014年度賛助会員(年会費5000円)には明石書店から順次発送されます。大型書店にも並びますので、是非お買い求めください(定価2800円+税)。次号19集は「九州年号」を特集します。更に『三国志』倭人伝を特集した別冊も発行予定です。こちらもお楽しみに。


第892話 2015/03/08

野中寺弥勒菩薩像銘文の「朔」

「洛中洛外日記」891話で、野中寺の弥勒菩薩像銘文冒頭の「丙寅年四月大※八日癸卯開記」の「※」の部分の字を「旧」とする旧説と、「朔」とする麻木脩平さん新説を紹介したのですが、東野治之さんの論稿「天皇号の成立年代について」(『正倉院文書と木簡の研究』塙書房、昭和52年)によれば、薮田嘉一郎氏が同銘文を「丙寅年四月大朔八日癸卯開記」と既に読まれていたことが紹介されていました。薮田さんも「旧」を「朔」の省画とされていたとのことですので、薮田さんの論文(「上代金石文雑考」『考古学雑誌』33-7)を読んでみたいと思います。

 東野さんは「旧」と読んでおられるのですが、その結果、当銘文の成立は「新暦(麟徳暦=儀鳳暦)」と「旧暦(元嘉暦)」が併用された持統四年十一月以降、あるいは元嘉暦が廃され儀鳳暦が専用されるようになった文武元年以降とされました。すなわち、新旧両暦の併用時期、あるいは儀鳳暦に切り替えられた直後でなければ「旧」暦であることを明示する必要はないとされたのです。

 このように、問題の一字を「旧」とするのか「朔」とするのかで、銘文の成立時期に影響するのです。東野さんの根拠とされた新旧両暦併用や新暦専用の時期については、『日本書紀』や『続日本紀』の記事を根拠とされているのですから、近畿天皇家一元史観内部の論争としては「有効」な見解ですが、多元史観・九州王朝説の立場からすれば、『日本書紀』の記事にこだわる必要はありません。

 なお、元嘉暦では丙寅(666)の四月八日の日付干支は癸卯で、儀鳳暦では日付干支は甲辰となりますから、同銘文は元嘉暦で記されていることがわかります。従って、同銘文が丙寅年(666)成立とする場合は、それは元嘉暦使用の時期ですから、「旧」という字は意味不明です。やはり「朔」と読むのが自然な理解と思われます。

わたしはこの銘文は丙寅年に成立したと考えるのが穏当と思います。なぜなら東野さんのように約30年も後に、「丙寅」の年の記事を彫る必然性がありませんから。『日本書紀』持統四年の新旧暦併用記事との齟齬は、九州王朝説の立場からすれば解決できると思われますので、古田学派による解明が期待されるのです。


第891話 2015/03/08

野中寺弥勒菩薩像銘文の「旧」

 「天皇」の称号がいつ頃から使用されていたかの研究や論争で、必ずのように取り上げられる金石文に野中寺の弥勒菩薩像銘文があります。大阪府羽曳野市にある古刹、野中寺(やちゅうじ、別称は中之太子)は伝承では聖徳太子の命を受けて蘇我馬子が建立したとされています。この野中寺の秘仏とされているのが重要文化財に指定されている銅造弥勒菩薩半跏思惟像で、その台座下部に彫られた銘文にある「中宮天皇」が天皇号の使用時期や、あるいは誰のこととするのかで、今も論争が続いています。もちろん古田学派でも何人もの研究者が取り上げてきました。わたしも関西例会や「洛中洛外日記」327話で触れたことがあります。

 今回、取り上げたいのは「中宮天皇」ではなく、銘文の成立時期を記した冒頭の次の部分です。

 「丙寅年四月大※八日癸卯開記」

 丙寅年は666年で天智5年、九州年号の白鳳6年に相当し、この年次については定説となっており、異論はほとんどありません。ところが「※」の部分の字を「旧」とする旧説と、「朔」とする新説があるのですが(それ以外の説もあります)、多くの論者は「旧」と読んで持論を展開されています。すなわち、当時使用されていた「新暦(麟徳暦)」ではなく、「旧暦(元嘉暦)」で銘文を記したことを明示するために「旧」と記されたと理解されてきました。
しかし、「旧」ではなく、「朔」の略字であるとする説が出され、この新説にわたしは早くから注目してきました。この新説は麻木脩平さん(「野中寺弥勒菩薩半跏像の制作時期と台座銘文」『仏教芸術』256号、2001年5月、「再び野中寺弥勒像台座銘文を論ず-東野治之氏の反論に応える-」『仏教芸術』264号、2002年9月)によるもので、その主たる根拠は、今では「旧」は「舊」の「略字(別字)」ですが、その当時は「旧」という「略字」は使用されていないというものです。

 大変説得力のある仮説と思いました。たしかに同銘文の「旧」とされてきた字の「日」の部分は「月」に近い字形ですから、「朔」の略字とする麻木説は魅力的です。今後、この銘文に関する研究では、この「旧」なのか「朔」なのかという課題についても検討が進むことを期待したいと思います。(つづく)


第889話 2015/03/06

盗まれた「聖徳太子」伝承

『古代に真実を求めて』第十八集

 

『盗まれた「聖徳太子」伝承』の表紙

今春、明石書店から発行される『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)の表紙カバーのデザインが決まりました。
編集責任者の服部静尚さんから送られてきた画像ファイルによれば、『隋書』イ妥国伝の影印を背景に中央にタイトル(盗まれた「聖徳太子」伝承)があり、 その右には「聖徳太子童子立像」(飛鳥寺所蔵)、下には「法隆寺夢殿」の写真が配され、四隅には原幸子さん(古田史学の会・会員、奈良市)が描かれた絵が あります。裏表紙にも原さんの絵が中央に配されており、素敵な表紙カバーができあがりました。
裏表紙には特集『盗まれた「聖徳太子」伝承』の掲載論文タイトルが並び、書店で手にとっていただいたとき、その内容が目に留まるような配慮がなされてい ます。当初の意図通りのリニューアルに成功しています。同書の発行が待ち遠しく、今からワクワクしています。
『古代に真実を求めて』19集は「九州年号」を特集します。それとは別に、『三国志』倭人伝をテーマとする別冊も企画しています。「古田史学の会」の総力を挙げて、後世に残るような書籍を作りたいと思います。これからも会員の皆様のご協力をお願いいたします。


第866話 2015/02/08

『古代に真実を求めて』

  18集の掲載稿

  第865話に続いて、『古代に真実を求めて』18集の掲載稿の全てをご紹介します。編集責任者の服部静尚さんから同目次を送っていただきました。下記の通りです。掲載稿の題名を見ただけでも、「古田史学の会」の総力をあげての多元的「聖徳太子」研究の最先端であることを想像していただけるのではないかと思います。わたしも発行が待ち遠しく思います。
 18集の発行が終わったら、別冊の『三国志』倭人伝研究をテーマとした『古代に真実を求めて』の企画編集に入ります。こちらも乞うご期待です。

『古代に真実を求めて』18集 目次

◎巻頭言
 真実の「聖徳太子」研究のすすめ 古賀達也

◎初めて「古田史学」或いは「九州王朝説」に触れられる皆さんへ  西村秀己

◎特別掲載 古田武彦講演録
 深志から始まった九州王朝 真実の誕生

◎特集 盗まれた『聖徳太子』伝承
≪古田武彦氏インタビュー≫
 家永三郎先生との聖徳太子論争から四半世紀を経て
○聖徳太子架空説の系譜 水野孝夫
○「聖徳太子」による九州の分国 古賀達也
○盗まれた分国と能楽の祖 正木裕
○盗まれた遷都詔 正木裕
○盗まれた南方諸島の朝貢 正木裕
○九州王朝が勅撰した「三経義疏」 古賀達也
○虚構・聖徳太子道後来湯説 合田洋一
○九州王朝の難波天王寺建立 古賀達也
○盗まれた「聖徳」 正木裕
○「君が代」の「君」は誰か 古賀達也
○法隆寺の中の九州年号 古賀達也
○「消息往来」の伝承 岡下英男
○河内戦争 冨川ケイ子

◎研究論文
○もう一つの海彦・山彦 西村秀己
○「伊予」と「愛媛」の語源 合田洋一
○「景初」鏡と「正始」鏡はいつ、何のために作られたか 岡下英男
○関から見た九州王朝 服部静尚
○畿内を定めたのは九州王朝か 服部静尚

◎資料・他
○『隋書』イ妥国伝 同訳文(古田武彦)
○古田史学の会・規約
○古田史学の会・全国世話人名簿
○古田史学の会・地域の会連絡先
○19集の原稿募集要項
○編集後記 服部静尚


第865話 2015/02/07

『古代に真実を求めて』

  18集を校正中

 昨日、明石書店から『古代に真実を求めて』18集の第二校が届きました。各執 筆者による最後の校正となります。「盗まれた『聖徳太子』伝承」を特集しており、多元史観・九州王朝説に基づく「聖徳太子」研究の最先端論文集になると自 負しています。巻末には『隋書』イ妥国伝の影印本と古田先生による訳を資料として収録しており、これからの研究にも役立つような内容となっています。
 わたしからは次の6本を出稿しました。

○巻頭言 真実の「聖徳太子」研究のすすめ
○「聖徳太子」による九州の分国
○九州王朝が勅撰した「三経義疏」
○九州王朝の難波天王寺建立
○「君が代」の「君」は誰か -倭国王子「利歌彌多弗利」考-
○法隆寺の中の九州年号 -聖徳太子と善光寺如来の手紙の謎-

 他の執筆者の論稿も佳作・力作ぞろいです。ご期待ください。今春には発行の予定です。2014年度賛助会員には1冊送付いたします。
 18集とは別に、『三国志』倭人伝をテーマに別冊『古代に真実を求めて』の企画編集も服部静尚さんを責任者に進められています。こちらもおもしろそうな一冊となりそうです。


第848話 2015/01/03

金光元年(570)の「天下熱病」

 「洛中洛外日記」843話と844話で紹介した『王代記』の金光元年(570年、九州年号)に記された次の記事について、正木裕さんとメールで意見交換を続けています。

 「天下熱病起ル間、物部遠許志大臣如来召鋳師七日七夜吹奉トモ不損云々」

 当初、この記事の意味がよくわからなかったのですが、『善光寺縁起』に同様の記事があり、その大幅な「要約」であることに気づいたのです。
 概要は、天下に熱病が流行ったのは百済から送られてきた仏像(如来像)が原因とする、仏教反対派の物部遠許志(もののべのおこし)が鋳物師に命じてその仏像を七日七晩にわたり鋳潰そうとしたのですが、全く損なわれることはなかった、というものです。その後、仏像は難波の堀江に捨てられるという話しが、『善光寺縁起』では続きます。
 金光元年(570)に相当する『日本書紀』欽明紀には見えないこの事件や、発端となった「天下熱病」が歴史事実かどうか、正木さんとのメールのやりとりの中で気になり、考えてみました。
 正木説によれば福岡市元岡遺跡から出土した「大歳庚寅」銘鉄剣は国家的危機に際して作られた「四寅剣」とされ、この「庚寅」の年こそ金光元年(570)に相当するとされました。詳しくは正木裕「福岡市元岡古墳出土太刀の銘文について」、古賀達也「『大歳庚寅』象嵌鉄刀の考察」(『古田史学会報』107号、2011年12月)をご参照下さい。
 他方、近畿天皇家では「天下熱病」に対して、百済からの如来像がもたらした災いとして鋳潰そうとしました。ともに金光元年の出来事ですから、この二つの事件を偶然の一致とするよりは、「天下熱病」という国家的災難の発生という共通の背景がもたらしたものとする理解、すなわち「天下熱病」を史実とするのが穏当と思われるのです。
 さらにここからは論証抜きの思いつき(作業仮説)ですが、百済からの如来像はたまたま金光元年に近畿にもたらされたのではなく、「天下熱病」の平癒祈願のため九州王朝から送られたものではないでしょうか。にもかかわらず、それを鋳潰そうとしたり、難波の堀江に捨てたものですから、こうした事件が一因となって九州王朝と河内の物部は対立し、後に「蘇我・物部戦争」等により、物部は九州王朝に攻め滅ぼされたのではないでしょうか。
 以上の考察からも九州王朝と善光寺、そして難波・河内が「九州年号」や「聖徳太子」伝承とも関わり合いながら、密接な繋がりのあることがうかがえるのです。


第840話 2014/12/20

新羅の法興王・真興王と「法興」「聖徳」

 昨日は大阪で代理店との商談、ランチをとりながらの新規開発品の価格交渉、午後は繊維応用技術研究会(事務局:大阪府産業技術総合研究所)にて「機能性色素の概要と展開」というテーマで講演しました。その講演を聞かれた出版社の社長さんから原稿執筆依頼を受けたのですが、会社の許可が必要と即答を避けました。このへんが学術研究と企業研究との違いで、学術研究では発見・発明を無償で公知にするのですが、企業研究の場合は企業戦略に沿ったプレスリリースや公開(特許出願など)が原則です。この点、歴史研究は無償で公知にする学会発表・論文発表が基本で、やはりこちらの方が楽しいものです。
 さて、本日の関西例会では、西村さんから『先代旧事本紀』の編纂者について、その記述内容が四国の四カ国の位置が90度ずれていることや熊襲(熊曽)国の場所を知らないことなどから、四国や九州の土地勘が全くない人物であるとされました。
 服部さんからは、「四天王寺」は外敵から国を守る護国の寺で、「天王寺」は天子の万寿を祈る寺であり両者の意味は異なるとされ、摂津四天王寺の当初の名称は天王寺であるとされました。また、先月に報告された「竜田山・大坂山の関」「畿内」を九州王朝が創設したとする自説の検証を深められました。大化二年改新詔の「関」「畿内」については、646年なのか九州年号の大化二年(696)なのかについては意見が分かれ、検討継続となりました。
 出野さんからは「文」という字の字源についての研究が報告されました。通説では文身(いれずみ)を字源とされているが貫頭衣でもあるとされました。古くは「文」の中に「×」が入っており、文身であることを示しているが、出野さんはこの「×」と神庭荒神谷遺跡から出土した銅剣の取っ手部分に刻まれていた「×」印と関連したものではないかとする説を紹介され、「×」を持つ他の字「凶」「兇」「胸」などについても論じられました。なおこの説を奥様の張莉さんが11月に韓国で開催された国際文字学会で発表されたところ、高い評価を得られたとのことでした。
 岡下さんは最近熱心に研究されている銅鏡について報告されました。古代の鏡の分類(国産か中国製か)の研究史をまとめ、やはり文字の有無(文字があれば中国製、あるいは渡来工人製とする)が決め手になるとの見解を、中村潤子氏(同志社大学)の説に依拠して発表されました。「倭鏡」と「中国鏡」の定義を含めて批判が出されましたが、研究途上のテーマとのことでした。
 正木さんからは先月に報告された推古紀などに見える朝鮮半島・任那関連記事は九州王朝史料から60年遅らせて盗用されたとする仮説を補強すべく、写本間(岩崎本、天理本等)の異同に着目され実証的に検証されました。
 次に『二中歴』には見えない九州年号「聖徳」を利歌彌多弗利の法号(仏門に帰依した名称)とする説の史料根拠発見について報告されました。『三国史記』によれば、新羅の法興王(514〜540)は仏教を公認振興し、その次代の真興王は「徳を継ぎ聖を重ね(真興乃継「徳」重「聖」)」諸寺を建立、仏像を鋳造、多数の仏典を受容しており、まさに「聖徳」と称されるにふさわしいとされました。すなわち、父が「法興」で息子が「聖徳」となり、九州王朝の天子・多利思北孤の法号が「法興」、次代の利歌彌多弗利の法号が「聖徳」と、見事に対応していることを明らかにされました。大変説得力のある説明でした。
 最後に萩野さんからは『日本書紀』に見えるホホデミとホアカリについて論じられ、各「一書」の比較分析により、それぞれ二名が系図的には「存在」するとされました。
 遠く埼玉県や神奈川県からも参加いただき、本年最後の関西例会も盛況でした。発表テーマは次の通りで、ハイレベルの研究発表が続き、とても濃密な一日でした。終了後の忘年会も夜遅くまで続きました。

〔12月度関西例会の内容〕
1). 先代旧事本紀の編纂者(高松市・西村秀己)
2). 四天王寺と天王寺(八尾市・服部静尚)
3).「関から見た九州王朝」の検証(八尾市・服部静尚)
4).「畿内を定めたのは九州王朝か」の検証(八尾市・服部静尚)
5).「文」字の民俗学的考察(奈良市・出野正)
6).倭鏡と文字(京都市・岡下英男)
7).『書紀』推古三十年記事の「一運(六十年)」ズレについて(川西市・正木裕)
8).利歌彌多弗利の法号「聖徳」の意味と由来(川西市・正木裕)
9).『日本書紀』に登場する二人のホホデミと二人のホアカリ(東大阪市・萩野秀公)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況(千葉県我孫子市の病院に検査入院・12/18退院される、坂本太郎氏との思い出、『古代に真実を求めて』18集「家永氏との聖徳太子論争をふりかえる」古田先生インタビュー12/19、神功皇后生誕地・米原市、宮崎県串間市出土の玉璧、新年賀詞交換会 2015/1/10、ギリシア旅行 2015/4/1〜4/8)・古田先生依頼図書(角川地名大辞典「青森県」)購入・奈良県立美術館「大古事記展」見学・その他