「 筑紫君薩夜麻 」一覧

第1298話 2016/11/16

権力者「出身地名」の広域化

 古代において、中国でも日本でも権力者の出身地(発生地)の地名が、その権力範囲の拡大に伴って広域化するという現象があります。
 たとえば近畿天皇家の場合は地方名称「大和(やまと)」が、そのまま日本国の別称となり。それから派生した「大和魂」とか「大和なでしこ」という言葉も作られました。もちろん「奈良県の魂」「奈良県の女性」という意味ではなく、「日本の魂」「日本の女性」を意味するわけです。
 それは九州王朝においても同様だったと思われます。九州内の地方権力者「生葉(浮羽)の臣」の場合でも、その出身地「うきは」は現在の福岡県うきは市ですが、「うきは」地名の淵源はうきは市の中の小領域「大字浮羽」です。このことを知ったのはわたしの本籍が以前は「浮羽郡浮羽町大字浮羽」だったからです。そこには古賀家墓地があり、父やご先祖様が眠っています。
 これが九州王朝の天子の場合はどうでしょうか。筑紫君磐井などに見られるように、九州王朝の天子・国王は「筑紫」という地名を冠しています。今の福岡県にほぼ相当する地域で、6世紀末頃には筑前と筑後に分国されています。これが『日本書紀』編纂の時代になると「九州島」を「筑紫」とする表記例が現れます。この傾向は中世にも引き継がれ、「筑紫」地名が広域化します。
 逆に「筑紫」地名の淵源をたどりますと、現在の筑紫野市に「大字筑紫」「字筑紫」がありますので、権力者「出身地名」が広域化するという現象からすれば、九州王朝の淵源の地がこの「字筑紫」だったということになります。当地の近隣には筑紫神社(筑紫野市原田)もありますから、まさに「筑紫の中の筑紫」という地域です。
 その観点からすれば、古田説では九州王朝は天国領域(壱岐・対馬など)から天孫降臨で糸島半島に侵攻した勢力ですから、その淵源は天国領域か、せめて九州島内では糸島博多湾岸の地こそ「出身地」と称すべきです。ところが「筑紫君」を自称していますから、糸島博多湾岸よりも内陸部に位置する「筑紫」を淵源とすることを主張しています。この不思議な現象について、その理由はまだよくわかりませんが、おそらくは九州王朝発展史にその理由があることでしょう。九州王朝はどうしても「筑紫」を名乗りたかった、そう考えるほかありません。近世でも尾張出身の秀吉が一時期「羽柴筑前守」を名乗ったように。この小領域「筑紫」の謎は今後の研究テーマです。


第989話 2015/06/28

九州王朝の「集団的自衛権」

 連日のように国会やマスコミの集団的自衛権や憲法解釈、安保法制の論議や報道が続いています。この問題は、不幸なことに好戦的な国々に囲まれている日本を今後どのような形にして子供たちや子孫に残してあげるのかという歴史的課題ですから、小さなお子さんをお持ちの若いお父さんやお母さんが国会議員以上に真剣に考えるときではないでしょうか。わたしもそのような問題意識を持ちながら、遠回りではありますが、クラウゼヴィツの『戦争論』を再読しています。
 『戦争論』などでも指摘されているように、「好戦的」というのは国際政治における国家戦略の一つですから、いわゆる「善悪」の問題ではありません。その国が、「好戦的」で「軍事的」「威圧的」であることが自国の国益(自国民の幸福)に適うと考え、あるいは結果として国家間秩序(戦争ではない状態)を維持できると考えているということです。そこにおいては「善悪」の議論は残念ながらほとんど意味がありません。「好戦的」であることが自国にとって「善」と考えている国々なのですから。
 そこで、九州王朝の「集団的自衛権」について考えてみました。「洛中洛外日記」980話で、「九州王朝は本土決戦防御ではなく、百済との同盟関係を重視し、朝鮮半島での地上戦と白村江海戦に突入し、壊滅的打撃を受け、倭王の薩夜麻は捕らえられてしまいます。(中略)九州州王朝は義理堅かったのか、百済が滅亡したら倭国への脅威が増すので、国家の存亡をかけて朝鮮半島で戦うしかないと判断したのかもしれません。」と記しましたが、九州王朝(倭国)が九州本土決戦による防御ではなく、朝鮮半島での地上戦と白村江海戦を選んだ理由を考えてみました。
 一つは唐や新羅との対抗上から百済との同盟(集団的自衛)を自国防衛の基本政策としていたことです。朝鮮半島南部に親倭国政権(百済)の存在が不可欠と判断したのです。これには理由があります。倭国は新羅などからの侵攻をたびたび受けており、朝鮮半島南部たとえば釜山付近に新羅の軍事拠点ができると、倭国(特に都がある博多湾岸や太宰府)は軍事的脅威にさらされるからです。
 たとえば『二中歴』年代歴の九州年号「鏡當」(581〜584年)の細注に「新羅人来りて、筑紫より播磨に至り、之を焼く」とあるように、新羅など異敵からの攻撃を受けたことが多くの史料に見えます(『伊予大三島縁起』『八幡愚童訓』など)。ですから、九州王朝(倭国)にとって、朝鮮半島南部に親倭政権(同盟関係)があること、更には朝鮮半島に複数の国があり互いに牽制しあっている状態を維持することが自国の安全保障上の国家戦略であったと思われます。中国の冊封体制から離脱したからには、当然の「集団的自衛権」の行使として、唐・新羅連合軍に滅ぼされた百済再興を目指して、白村江戦まで突入せざるを得なかったのではないでしょうか。
 ところが思わぬ誤算が続きました。一つは倭王と思われる筑紫君薩夜麻が捕らえられ唐の捕虜となったこと。二つ目は国内の有力豪族であった近畿天皇家の戦線離脱です。おそらく唐と内通した上での離脱と思われますが、その内通の成功を受けて、唐は薩夜麻を殺さずに帰国させ、壬申の大乱を経て、日本列島に大和朝廷(日本国)という親唐政権の樹立に成功しました。こうして唐は戦争においても外交においても成功を収めます。
 現代も古代も国際政治における外交と戦争に関しては、人類はあまり成長することなく似たようなことを繰り返しているようです。歴史を学ぶことは未来のためですから、現在の安保法制問題も日本人は歴史に学んで意志決定をしなければならないと思います。