「 泰澄 」一覧

第1378話 2017/04/27

泰澄の「越前五山」(福井新聞)

 一昨日から長野県・富山県を廻り、昨晩から仕事で福井市に来ています。今日は午後から大阪に向かいます。ホテルで読んだ『福井新聞』一面に「泰澄の『越前五山』白山開山1300年空中ルポ」が写真付きで連載されていました。地方紙ならではの企画で、しかも一面掲載ですから力の入れようがわかります。
 泰澄と言えば7世紀末頃の高名な僧で、『続日本紀』にも名前が見えます。わたしも「洛中洛外日記」に『泰澄和尚傳』を九州年号史料として紹介したことがあります。下記の連載です。

第1067話 2015/10/02
『泰澄和尚傳』の九州年号「白鳳・大化」
第1068話 2015/10/03
『泰澄和尚傳』の「大化」と「大長」
第1069話 2015/10/04
『泰澄和尚傳』に九州年号「朱鳥」の痕跡
第1070話 2015/10/07
『泰澄和尚傳』の道照と宇治橋

 「越前五山」をこの新聞記事で知りました。次の山々で、いずれも泰澄と関係が深いとされています。白山だけは二千メートル級の高山で他の四山とは異質です。本当に泰澄が開山したのだろうかという疑問も浮かびます。

○越知山(おちさん。613m)泰澄が若き日に修行し、老いては入滅した地とされています。
○文殊山(もんじゅさん。365m)泰澄生誕の地とされる麻生津(福井市三十八社町)にほど近い。養老元年(717)に泰澄により開山されたとの伝承を持つ。
○吉野ヶ岳(よしのがだけ、別名蔵王山。547m)泰澄により開山されたとの伝承を持つ。
○日野山(ひのさん。795m)養老2年(718)に泰澄により開山されたとの伝承を持つ。
○白山(はくさん。2702m)養老元年(717)に泰澄により開山されたとの伝承を持つ。


第1070話 2015/10/07

『泰澄和尚傳』の道照と宇治橋

  『泰澄和尚傳』(金沢文庫本)によれば、道照が北陸修行時の「持統天皇(朱鳥)七年壬辰(692年)」に11歳の泰澄と出会い、神童と評したとあります。道照は宇治橋を「創造」した高僧として、『続日本紀』文武4年三月条(700)にその「傳」が記されています。
 それによれば道照の生年は舒明元年(629年、九州年号の仁王7年)となり、没年は文武4年(700年、九州年号の大化6年)72歳とあり、北陸で泰澄少年に出会ったのは道照64歳のときとなります。当時の寿命としては高齢であり、はたしてこの年齢で北陸まで修行に行けたのだろうかという疑問もないわけではありませんが、古代も現代も健康年齢には個人差がありますから、学問的には当否を判断できません。
 『続日本紀』には道照が宇治橋を「創造」したと記されています。ところが有名な金石文「宇治橋断碑」や『扶桑略記』『帝王編年記』などには、「大化二年丙午(646)」に道登が造ったと記されており、かねてから議論の対象となってきました。とりわけ「宇治橋断碑」については古田学派内でも20年以上も前に中村幸雄さんや藤田友治さんら(共に故人)が諸説を発表されてきましたが、その後はあまり論議検討の対象にはなりませんでした。今回、「泰澄和尚傳」で道照の名前に再会し、当時の論争風景を懐かしく思い起こしました。
 そこで、その後進展した現在の古田史学・多元史観の学問水準からみて、この宇治橋創建年二説について少しばかり整理考察してみたくなりました。結論など全く出ていませんが、次のように論点整理を試み、皆さんのご批判ご検討の材料にしていただければと思います。

 1.「宇治橋断碑」などにある「大化二年丙午」は『日本書紀』の大化年号(645〜649年、元年干支は乙巳)によっており、それは九州年号の大化(695〜703年、元年干支は乙未)の盗用であり、従って「大化二年丙午(646)」という年号が記された「宇治橋断碑」などは『日本書紀』成立(720年)以後に造られたものである。
 2.『続日本紀』の記事は文武4年条(700年)だが、『続日本紀』の最終的成立は延暦16年(797年)なので、8世紀末頃の近畿天皇家の公式の見解では宇治橋を創建したのは道照であり、その時期は早くても遣唐使から帰国した「白雉4年」以後(斉明7年説が有力)とされる。
 3.また、「大化二年」では道照18歳のときであり、宇治橋「創造」のような大事業を行えるとは考えにくいとする意見も根強くある。
 4.「宇治橋断碑」などの「大化二年丙午(646年)」は九州年号の「大化二年丙申(696年)」とする本来の伝承を『日本書紀』の大化により干支を書き換えられたものとすれば、「大化二年丙申(696年)」は、道照の晩年(68歳)の事業となり、やや高齢に過ぎると思われるが、健康年齢の個人差を考慮すれば不可能とまでは言えない。もちろん道照自身が橋を建築するわけでもないので。
 5.他方、道登は『日本書紀』の大化元年・白雉元年条などに有力な僧侶として登場しており、その約50年後ではたとえ健在であったとしても道照以上に高齢となり、宇治橋「創造」事業の中心人物とはなりにくいように思われる。
 6.宇治橋そのものに焦点を当てると、『日本書紀』の天武元年条(672年)に「宇治橋」という記事が見え、その頃には宇治橋は存在していたこととなり、九州年号の大化2年(696年)「創造」説とは整合しない。

 以上のように今のところ考えているのですが、結論としては、まだよくわからないという状況です。勘違いや別の有力な視点もあると思いますので、引き続き検討したいと思います。


第1069話 2015/10/04

『泰澄和尚傳』に九州年号「朱鳥」の痕跡

 「泰澄和尚傳」(金沢文庫本)が泰澄研究において最も良い史料であることを説明してきました。そこで、同書の年次表記について更に詳しく調べてみますと、九州年号は「白鳳・大化」だけではなく、「朱鳥」の痕跡をも見いだしました。
 「泰澄和尚傳」(金沢文庫本)では泰澄について次の年次表記(略記しました)でその人生が綴られています。

西暦 年齢 干支 年次表記         記事概要
682   1 壬午 天武天皇白鳳廿二年壬午歳 越前国麻生津で三神安角の次男として生誕
692   11 壬辰 持統天皇七年壬辰歳    北陸訪問中の道照と出会い、神童と評される
695   14 乙未 持統天皇大化元年乙未歳  出家し越知峯で修行
702  21 壬寅 文武天皇大寶二年壬寅歳  鎮護国家大師の綸言降りる
712  31 壬子 元明天皇和銅五年壬子歳  米と共に鉢が越知峯に飛来
715   34 丙辰 霊亀二年         夢に天衣で着飾った貴女を見る
717   36 丁巳 元正天皇養老元年丁巳歳  白山開山
720   39 庚申 同四年以降        白山に行人が数多く登山
722   41 壬戌 養老六年壬戌歳      天皇の病気平癒祈祷の功により神融禅師号を賜る
725   44 乙丑 聖武天皇神亀二年乙丑歳  白山を参詣した行基と出会う
736   55 丙子 聖武天皇天平八年丙子歳    玄舫を訪ね、唐より将来した経典を授かる
737   56 丁丑 同九年丁丑歳       この年に流行した疱瘡を収束させる。その功により泰澄を号す
758   77 戊戌 孝謙天皇天平寶字二年戊戌歳 越知峯に蟄居
767  86 丁未 称徳天皇神護慶雲元年丁未歳 3月18日に遷化

 おおよそ以上のような年次表記で泰澄の人生が記されているのですが、まさに九州王朝から大和朝廷への王朝交代の時代を生きたこととなります、従って、年次表記には「天皇名」「年号」「年次」「干支」が用いられていることが多く、そのため700年以前の九州王朝の時代には九州年号が使用されているのです。その上で注目すべきは、北陸を訪れていた道照との出会いを記した692年の表記は「持統天皇七年壬辰歳」とあり、九州年号が記されていないことです。
 『日本書紀』では持統天皇六年が「壬辰」であり、翌七年の干支は「癸巳」です。たとえば金沢文庫本の校訂に用いられた福井県勝山市平泉寺白山神社蔵本では「持統天皇六年壬辰歳」とあり、こちらの表記が『日本書紀』と一致しているのです。しかしこの「持統天皇七年壬辰歳」には肝心の年号が抜けています。もしこの壬辰の年を九州年号で表記すれば、「持統天皇朱鳥七年壬辰歳」となり、金沢文庫本の「七年」でよいのです。すなわち、金沢文庫本のこの部分の年次表記には九州年号の「朱鳥」が抜け落ちているのです。「白鳳」「大化」と同様に700年以前は九州年号を使用せざるを得ませんから、「泰澄和尚傳」の書写の段階で「朱鳥」が抜け落ちた写本が、金沢文庫本だったのではないでしょうか。
 九州王朝説に立った史料批判の結果として、「泰澄和尚傳」は九州年号が使用された原史料に基づいて泰澄の事績を記したか、平安時代10世紀(天徳元年、957年)の成立時に、『二中歴』「年代歴」などの九州年号史料を利用して、大和朝廷に年号が無かった700年以前の記事の年次を表記したものと思われます。いずれにしても「泰澄和尚傳」は平安時代10世紀に成立した九州年号史料であり、九州年号偽作説のように「鎌倉時代以後に次々と偽作された」とすることへの反証にもなる貴重な史料ということができるのです。(つづく)


第1068話 2015/10/03

『泰澄和尚傳』の「大化」と「大長」

 『福井県史 資料編1 古代』(昭和62年刊)にに収録された「泰澄和尚傳」(金沢文庫本)と「泰澄大師伝記」(越知神社所蔵)、「越知山泰澄」(『元亨釈書』所収)の九州年号を比較すると、「泰澄和尚傳」を「泰澄和尚に関し最も整った伝記である。」とされた解説が納得できます。今回はそのことについて説明します。
 泰澄の生年を「泰澄和尚傳」(金沢文庫本)では『二中歴』と同じ九州年号の「白鳳廿二年壬午」(元年は661年辛酉)とされていますが、校訂に使用された他の写本(福井県勝山市平泉寺白山神社蔵本、石川県石川郡白山比売神社蔵本)には「白鳳十一年」とあります。もちろん金沢文庫本が正しく、両校訂本は天武即位年(673年癸酉)を白鳳元年とする、九州年号を近畿天皇家の天武天皇の即位年に対応させた後代改変型です。従って、金沢文庫本が九州年号の原型をより保った善本であることがわかります。
 「泰澄和尚傳」の比較史料としての「泰澄大師伝記」(越知神社所蔵)と「越知山泰澄」(『元亨釈書』所収)は更に後代改変の手が加わっています。たとえば「泰澄大師伝記」(元和五年・1619年書写)では、泰澄の生年が「白鳳十一年壬午」とあり、泰澄11歳の年を持統天皇御宇大長元年壬辰」としており、「大化元年乙未(695年)」が「大長元年壬辰(692年)」と改変されています。さらにこの改変に泰澄の年齢を整合させるために、同一記事(出家修行)の年齢を14歳から11歳へと改変しているのです。
 「白鳳十一年壬午」は「泰澄和尚傳」の校訂本と同様の理由での後代改定ですが、「大長元年壬辰(692年)」への改変は、おそらく『日本書紀』の大化年間(645〜649年)と時代が異なるため、持統天皇の頃の九州年号とされていた「大長元年」に改変されたものと思われます。ただし、この「大長元年壬辰」も実は後代改変された九州年号で、本来の九州年号「大長」は元年が704年甲辰であり、9年間続いています。この「大長」の後代改変については拙論「最後の九州年号」(『「九州年号」の研究』所収、ミネルヴァ書房)をご参照ください。
 「越知山泰澄」(『元亨釈書』所収)では生年を「白鳳十一年」としており、干支の「壬午」は記されていません。泰澄11歳の年次も「持統六年(692年)」とあるだけで、九州年号も干支も略されています。ですから、「越知山泰澄」(『元亨釈書』所収)がもっとも後代改変を受けていることがわかります。
 以上の考察から、泰澄研究においては「泰澄和尚傳」(金沢文庫本)を用いることが、現状では最も適切と思われるのです。(つづく)


第1067話 2015/10/02

『泰澄和尚傳』の九州年号「白鳳・大化」

 今日は仕事で越前市(旧・武生市)に行ってきました。予定よりも仕事が早く終わったので、当地の企業や地場産業の調査のため、越前市中央図書館に寄りました。そこでの閲覧調査を終えたので、近くにあった『福井県史』を見ていたら、白山を開山したとされる「泰澄和尚傳」が目に留まりました。そこに九州年号「白鳳・大化」がありましたので、よく読んでみると、史料批判上とても面白い、かつ、貴重な史料であることがわかりましたので、ご紹介します。
 『福井県史 資料編1 古代』(昭和62年刊)には、「泰澄和尚傳」を筆頭に、比較参考史料として「泰澄大師伝記」(越知神社所蔵)、「越知山泰澄」(『元亨釈書』所収)などが収録されています。解説(324頁)によれば、「泰澄和尚傳」(底本:金沢文庫本)を「泰澄和尚に関し最も整った伝記である。」とされています。その「泰澄和尚傳」によれば、泰澄の生年は天武天皇の御宇「白鳳廿二年壬午六月十一日」とあり、『二中歴』「年代歴」の「白鳳22年(682)壬午」と干支が一致しています。また、「和尚生年十四」の年を「持統天皇御宇大化元年乙未歳」と記し、これも『二中歴』の九州年号「大化元年乙未(695)」と正しく一致しています。
 この金沢文庫本「泰澄和尚傳」の書写年代は「正中二年(1325)」と奥書にあり、現存最古の写本です。成立は「今、天徳元年丁巳三月廿四日」(957年)と文中にあることから、平安時代の10世紀です。従って、九州年号史料としてはかなり古いものです。『日本書紀』成立後の史料であるにもかかわらず、『日本書紀』の「大化元年乙巳(645)」とは異なる持統天皇時代の九州年号「大化元年乙未(695)」を採用していることが注目されます。すなわち、10世紀当時に九州年号を用いて記録された泰澄関連史料が存在していた可能性をうかがわせるのです。
 以上のように、金沢文庫本「泰澄和尚傳」は成立が平安時代に遡る貴重な九州年号史料だったのです。(つづく)