近江朝廷(近江京)一覧

第1653話 2018/04/15

九州王朝系近江朝廷の「血統」論(3)

 天智のように遠縁の男系「血統」と直近の皇女という「合わせ技」で即位した先例が『日本書紀』には見えます。第26代の継体です。『日本書紀』によれば継体は応神から五代後の子孫とされています。

 「男大迹天皇は、誉田天皇の五世の孫、彦主人王の子なり。」(継躰紀即位前紀)

 このように誉田天皇(応神天皇)の子孫であるとは記されていますが、父親より先の先祖の名前が記紀ともに記されていません。男系で近畿天皇家と「血統」が繋がっていることを具体的に書かなければ説得力がないにもかかわらず記されていないのです。この史料事実を根拠に、継体の出自を疑う説はこれまでにも出されています。
 そして今の福井県三国から紆余曲折を経て、継体(男大迹)は大和に侵入するのですが、臣下の助言を受けて第24代の仁賢の娘、手白香皇女を皇后とします。継体の場合は天智に比べれば遠縁とは言え6代ほどしか離れていませんが、天智は瓊瓊杵尊まで約40代ほどの超遠縁です。ですから、継体の先例はあったものの、周囲の豪族や九州王朝家臣団の支持を取り付けるのには相当の苦労や策略があったことと推察されます。
 ところが『続日本紀』では、天智天皇が定めた不改常典により皇位や権威を継承・保証されているとする宣命が何回も出されています。従って、701年の王朝交替後の近畿天皇家の権威の淵源が、初代の神武でもなく、継体でもなく、壬申の乱の勝者たる天武でもなく、天智天皇にあるとしていることは九州王朝説の視点からも極めて重要なことと思います。
 正木さんから九州王朝系近江朝という新仮説が出されたことにより、こうした男系「血統」問題も含めて、古田学派の研究者による論争や検証が待たれます。(了)


第1652話 2018/04/15

九州王朝系近江朝廷の「血統」論(2)

 天智が「九州王朝の皇女を皇后に迎えても天智の子孫は女系」になると一旦は考えたのですが、よくよく考えてみると、そうではないことに気づきました。
 『日本書紀』によれば、そもそも近畿天皇家の祖先は天孫降臨時の天照大神や瓊瓊杵尊にまで遡るとされ、少なくとも瓊瓊杵尊まで遡れば、近畿天皇家も九州王朝王家と男系で繋がります。歴史事実か否かは別としても、『日本書紀』では自らの出自をそのように主張しています。従って、天智も九州王朝への「血統」的正当性は倭姫王を娶らなくても主張可能なのです。このことに、わたしは今朝気づきました。
 しかし現実的には、瓊瓊杵尊まで遡らなければ男系「血統」が繋がらないという主張では、さすがに周囲への説得力がないと思ったのでしょう。天智の側近たちは「定策禁中(禁中で策を定める)」して、九州王朝の皇女である倭姫王を正妃に迎えることで、遠い遠い男系「血統」と直近の皇女という「合わせ技」で天智を九州王朝系近江朝廷の天皇として即位させたのではないでしょうか。
 この推測が正しければ、『日本書紀』編纂の主目的の一つは、天孫降臨時まで遡れば九州王朝(倭国)の天子の家系と男系により繋がるという近畿天皇家の「血統」証明とも言えそうです。なお、こうした「合わせ技」による「血統」証明の方法には先例がありました。(つづく)


第1651話 2018/04/15

九州王朝系近江朝廷の「血統」論(1)

 今上天皇の御譲位が近づいていることもあり、皇位継承における男系・女系問題などを考える機会が増えました。そうした問題意識もあって、九州王朝の「血統」についても考えてみました。
 近年発表された正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の九州王朝系近江朝という仮説は、『日本書紀』に見える「近江朝廷」の位置づけを九州王朝説から論究した最も有力なものと、今のところわたしは考えています。その正木説の主要根拠の一つである、九州王朝の皇女である倭姫王を天智が皇后として迎えることにより、天智は九州王朝の「血統」に繋がることができたとするものがあります。この意見には賛成なのですが、九州王朝の皇女を皇后に迎えても天智の子孫は女系となり、果たしてそのことで九州王朝やその家臣団、有力豪族たちを納得させることがてきたのかという疑問を抱いていました。
 もちろん当時の倭国内で男系が重視されていたのか、そもそも九州王朝が男系継承制度を採用していたのかも不明ですから、別に女系でもかまわないという批判も可能かもしれません。しかしながら、『日本書紀』によれば近畿天皇家は男系継承制度を採用したと考えざるをえませんから、当時の代表的権力者の家系は男系継承を尊重したのではないでしょうか。とすれば、天智が九州王朝のお姫様を正妻にできても、「ブランド」としての価値はあっても、九州王朝の権威をそのまま継承する「血統」的正当性の根拠にはならないように思われるのです。
 そうしたことを正木説の発表以来ずっと考えていたのですが、今朝、あることに気づきました。(つづく)


第1625話 2018/03/09

九州王朝の高安城(5)

 「九州王朝の高安城」と銘打った本テーマを文献史学の視点から深く考察してみますと、新たな問題点が見えてきます。その一つは高安城の初見が『日本書紀』天智6年(667)条の次の記事であることです。

 「是月(十一月)、倭国に高安城、讃吉国山田郡に屋嶋城、對馬国に金田城を築く。」

 通説では白村江戦(663年)の敗北により、大和朝廷が防衛の為に高安城など三城を築城したとされています。九州王朝説によれば九州王朝(倭国)が自国防衛のために築城したと理解するのですが、従来の九州王朝説では首都太宰府防衛とは無関係な屋嶋城や高安城の築城はほとんど取り上げられてきませんでした。ところが、わたしの前期難波宮九州王朝副都説に基づき、屋嶋城や高安城も九州王朝による難波副都防衛のための九州王朝による築城とする正木説が登場したわけです。
 ここで着目すべきは、天智6年(667)という築城年次です。近年、正木さんが発表された「九州王朝系近江朝廷」説によれば、このとき九州王朝の天子薩夜麻は唐に囚われており、高安城築城の翌年(668)に天智は九州王朝(倭国)の姫と思われる倭姫王を皇后に迎え、九州王朝の権威を継承した九州王朝系近江朝廷の天皇に即位します。そうすると、高安城の築城は天智によるものとなり、それは難波副都の防衛にとどまらず、近江「新都」の防衛も間接的に兼ねているのではないかと思われるのです。
 その結果、高安城築城主体について、太宰府(倭京)を首都とする九州王朝(倭国)とするよりも、九州王朝系近江朝廷(日本国)の天智によるものではないかという結論に至ります。そしてこの論理性は、同じく天智紀に造営記事が見える水城や大野城などの造営主体についても近江朝の天智ではないかとする可能性をうかがわせるのです。(つづく)


第1588話 2018/01/26

倭姫王の出自

 過日の「古田史学の会」新春古代史講演会で正木裕さんが発表された新説「九州王朝の近江朝」において、天智が近江朝で九州王朝の権威を継承するかたちで天皇に即位できた条件として次の点を上げられました。

①倭王として対唐戦争を主導した筑紫君薩夜麻が敗戦後に唐の配下の筑紫都督として帰国し、九州王朝の臣下たちの支持を失ったこと。
②近江朝で留守を預かっていた天智を九州王朝の臣下たちが天皇として擁立したこと。
③九州王朝の皇女と思われる倭姫王を天智は皇后に迎えたこと。

 いずれも説得力のある見解と思われました。天智の皇后となった倭姫王を九州王朝の皇女とする仮説は、古田学派内では古くから出されてはいましたが、その根拠は、名前の「倭姫」を「倭国(九州王朝)の姫」と理解できるという程度のものでした。
 実は二十年ほど前のことだったと記憶していますが、倭姫王やその父親の古人大兄について九州王朝の王族ではないかと、古田先生と検討したことがありました。そのきっかけは、わたしから次のような作業仮説(思いつき)を古田先生に述べたところ、「論証が成立するかもしれませんよ」と先生から評価していただいたことでした。そのときは古田先生との検証作業がそれ以上進展しなかったので、そのままとなってしまいました。わたしの思いつきとは次のようなことでした。

①孝徳紀大化元年九月条の古人皇子の謀叛記事で、共謀者に朴市秦造田久津の名前が見える。田久津は朝鮮半島での対唐・新羅戦に参加し、壮絶な戦死を遂げており、九州王朝系の有力武将である。従って、ここの古人皇子は九州王朝内での謀叛記事からの転用ではないか。とすれば、古市皇子は九州王朝内の皇子と見なしうる。
②同記事には「或本に云はく、古市太子といふ。」と細注が付されており、この「太子」という表現は九州王朝の太子の可能性をうかがわせる。この時代、近畿天皇家が「太子」という用語を使用していたとは考えにくい。この点、九州王朝では『隋書』国伝に見えるように、「利歌彌多弗利」という「太子」が存在しており、「古市太子」という表記は九州王朝の太子にこそふさわしい。
③更に「吉野太子とい云ふ」ともあり、この吉野は佐賀県吉野の可能性がある。

 以上のような説明を古田先生にしたのですが、他の可能性を排除できるほどの論証力には欠けるため、「ああも言えれば、こうも言える」程度の作業仮説(思いつき)レベルを超えることができませんでした。
 ちなみに、「ああも言えれば、こうも言える。というのは論証ではない」とは、中小路駿逸先生(故人。元追手門学院大学教授)から教えていただいたものです。わたしが古代史研究に入ったばかりの頃、「論証する」とはどういうことかわからず、教えを乞うたとき、これが中小路先生からのお答えでした。


第1585話 2018/01/23

庚午年籍は筑紫都督府か近江朝か(4)

 二つ目の史料痕跡は「大宝二年籍」です。大和朝廷は大宝2年(702)に全国的な造籍を実施しています。当時、行政上の必要から定期的に造籍が行われていたと考えられ、それは6年毎という説が有力です。
 現存する古代戸籍では「大宝二年籍」が最も古く、その様式(書式・用語)の比較研究により、西海道(九州)戸籍が最も統一され整っていることがわかっています。通説では、大宰府により九州各国の戸籍が統一されたと理解されているようですが、九州王朝説にたてば、その様式の高度な統一性は九州王朝の直轄支配領域が九州島であったためと考えられます。従って、その様式の統一性は「大宝二年籍」で初めて現れたものではなく、九州王朝の時代に淵源があり、庚午年籍でも同様の統一性が九州島内諸国では見られたはずです。他方、九州以外では様式が統一されていなかったため、その影響が「大宝二年籍」にも現れたと考えざるを得ません。
 この戸籍様式の九州島内の「統一」と九州以外の「不統一」という史料事実こそ、庚午年籍が筑紫都督府と近江朝とで別々に造籍された痕跡と思われるのです。
 以上、紹介した二つの史料痕跡から、庚午年籍造籍主体に関しても、筑紫都督府と近江朝の二重権力状態を仮定すれば、正木説は更に有力説になるのではないでしょうか。(了)


第1584話 2018/01/23

庚午年籍は筑紫都督府か近江朝か(3)

 筑紫都督府(唐軍の支援を受けた薩夜麻)と近江朝(九州王朝家臣に擁立された天智)という二重権力状態での全国的な庚午年籍造籍(670年)が、筑紫都督府による九州地方と、近江朝による九州以外の地域で行われたとする作業仮説を支持する二つの史料的痕跡について紹介します。
 一つは「洛中洛外日記」1167話「唐軍筑紫進駐と庚午年籍」でも紹介した『続日本紀』に見える次の記事です。

 「筑紫諸国の庚午年籍七百七十巻、官印を以てこれに印す。」『続日本紀』神亀四年七月条(727)

 この記事によれば、神亀4年(727)まで、筑紫諸国の「庚午年籍」七百七十巻には大和朝廷の官印が押されていなかったことがわかります。それ以外の諸国の「庚午年籍」への官印押印についての記事は見えませんから、筑紫諸国(九州)とその他の諸国の「庚午年籍」の管理に何らかの差があったと考えられます。この管理の差が、筑紫都督府と近江朝の二重権力構造によりもたらされたと考えることができます。
 更に深く考えると、筑紫都督府には九州王朝(倭国)の「官印」が無かったということも言えるかもしれません。白村江戦をひかえて九州王朝官僚群が近江朝に「遷都」していたとすれば、「官印」も近江朝が所持していたことになるからです。もちろん、太宰府(筑紫都督府)に戻った薩夜麻が新たに「官印」を作製したことも考えられますが、その場合の印文は「倭国王之御璽」、あるいは「筑紫都督倭王之印」のような内容ではないでしょうか。そうすると、既に「日本国」に国号を変更していた大和朝廷の立場からは、それらを「官印」とは認められなかったものと推察します。
 この点、近江朝は670年に国号を「日本国」に変更していたとする史料(『三国史記』新羅本記)があり、そうであれば近江朝の官印は「日本国天皇之印」のような印文と考えられますから、神亀四年(727)の日本国の時代においては、そのままで問題なく、新たに「官印を以てこれに印す」必要はありません。
 このように『続日本紀』のこの記事は、庚午年籍が筑紫都督府(九州地方)と近江朝(九州以外)で別々に造籍されたとする作業仮説を支持するものと理解できるのです。(つづく)


第1583話 2018/01/23

庚午年籍は筑紫都督府か近江朝か(2)

 九州王朝系「近江朝」という正木説は魅力的な仮説とわたしは考えていますが、先に指摘したように庚午年籍(670年籍)の全国的造籍の主体についての疑問点があります。この問題点を解決するために次のような可能性を考えてみました。論点整理を兼ねて箇条書きにします。

①正木説によれば、筑紫君薩夜麻は唐に捕らえられ、唐の配下の筑紫都督として唐軍と共に帰国(667年とされる)した。
②そうであれば、唐軍は筑紫の宮殿や墳墓を破壊する必要はない。
③現に大宰府政庁も観世音寺も破壊されずに8世紀以後も残っている。観世音寺の創建を670年(白鳳10年)とする史料(『勝山記』『日本帝皇年代記』)もあり、そうであれば唐軍進駐時での造営となる。防衛施設の水城にも破壊の痕跡はなく、8世紀以後も整備補修されていたことが考古学的にも明らかとなっている。
④筑紫都督(薩夜麻)を介して倭国を間接支配しようとする唐軍にとって、その造籍事業に反対する必要はなく、むしろ近江朝と対抗するためにも薩夜麻の筑紫支配強化に協力する必要がある。大宰府政庁Ⅱ期(筑紫都督府)の造営もその一貫か。
⑤以上の理解から、正木説が正しければ、白村江戦後の倭国には近江朝(反唐の天智)と筑紫都督府(親唐の薩夜麻)との二重権力状態が発生していたと考えられる。
⑥他方、庚午年籍が筑紫を含め全国で造籍されていたことは、『続日本紀』など後代史料により明らか。
⑦二重権力状態での全国的造籍を説明できる作業仮説として、筑紫都督府による九州地方の造籍と近江朝による九州以外の地域での造籍事業が同時期に行われたと考えざるを得ない。

 以上のように、①〜⑥の論理展開により、作業仮説⑦に至りました。次回は、この作業仮説を支持する史料的痕跡を紹介します。(つづく)


第1582話 2018/01/22

庚午年籍は筑紫都督府か近江朝庭か(1)

 昨日の新春古代史講演会(古田史学の会主催)では服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)と正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が最新の研究成果を発表されました。どちらも刺激的な仮説が発表されましたが、正木さんの「九州王朝の近江朝」という新仮説は様々な問題の解明に役立つ反面、新たな疑問も生まれるものでした。
 正木説によれば、白村江戦など唐や新羅との決戦に備え、九州王朝(倭国)は難波宮より安全な近江大津宮へ「遷都」したとされ、唐に捕らえられ、その配下の筑紫都督として帰国した薩夜麻に対して、近江朝廷の九州王朝の家臣たちは留守役の天智を天皇に擁立し、九州王朝の皇女だった「倭姫王」を天智は皇后に迎え、九州王朝の権威を継承したとされました。
 この正木説によれば、庚午年籍の造籍を全国に命じたのは近江朝廷(天智)となります。他方、従来の古田旧説によれば庚午年籍は筑紫の九州王朝による造籍とされてきました。ところが晩年の古田新説では、筑紫太宰府は唐の軍隊に制圧され、宮殿や陵墓は破壊され、九州王朝(倭王・斉明)は伊予の「紫宸殿」に逃れたとされました。この古田新説では筑紫での庚午年籍造籍は不可能となりますし、正木説でも唐と対立した近江朝は、少なくとも唐軍が進駐している九州地方の造籍はできないことになります。しかし、庚午年籍が筑紫や全国で造籍されたことは明らかです。このことは古田先生も正木さんも認めておられます。
 庚午年籍を全国的に造籍させた権力主体について、正木説でも古田新説でもうまく説明できないと思われるのです。(つづく)


第1555話 2017/12/16

九州王朝系近江朝説のキーパーソン、倭姫王

 本日、「古田史学の会」関西例会がドーンセンターで開催されました。来年1月もドーンセンターです。2月は福島区民センターで、関西例会としては初めて使用する会場です。お間違えなきよう。
 今回も関西例会らしく優れた研究発表や厳しい討論が行われ、発表者も多いため時間ぎりぎりまで続きました。参加者も増えてきたため、定員40名の会場では足らなくなりそうです。
 今回の発表では、正木さんの九州王朝系近江朝研究の進展が衝撃的でした。『日本書紀』天智紀で、天智が称制から正式に天皇に即位した天智七年に皇后として登場した倭姫王こそ九州王朝(倭国)の姫であり、天智は倭姫王を皇后に迎えたことにより九州王朝(倭国)の権威を継承(不改常典の成立)したのではないかとされました。壬申の乱以後、倭姫王は『日本書紀』から消えますが、鹿児島県の『開聞古事縁起』によれば壬申の乱で都から逃げてきた大宮姫の伝承が記されており、その大宮姫こそ倭姫王ではないかとされました。これは『日本書紀』と地方伝承の対応という面白いテーマです。来年1月21日(日)の「古田史学の会」新春講演会ではもっと詳しく本テーマを講演していただきます。
 12月例会の発表は次の通りでした。このところ参加者が増加していますので、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。また、発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレスへ)か電話で発表申請を行ってください。

〔12月度関西例会の内容〕
①新唐書の目多利思比孤について(茨木市・満田正賢)
②隋書国伝「犬を跨ぐ」について(大山崎町・大原重雄)
③伊都国に常治したのは「一大率」ではない(姫路市・野田利郎)
④九州王朝説による(前期)難波宮造営の理由(八尾市・服部静尚)
⑤前期難波宮と「戊申年」木簡(神戸市・谷本茂)
⑥フィロロギーと古田史学【その7】(吹田市・茂山憲史)
⑦投馬国の里程について(川西市・正木裕)
⑧『日本書紀』天智紀の年次のずれについて(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 『古田史学会報』143号の紹介・会費入金状況・新会員の紹介・「古田史学の会」関西例会の会場、1月(ドーンセンター)、2月(福島区民センター)・1/21「古田史学の会」新春講演会(大阪府立大学i-siteなんば)・『古代に真実を求めて』21集の編集状況・「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)の報告と案内(12/28親睦会)・北朝鮮漁船漂着と出雲王朝の国引き神話・「難波京の実在性が現実に」大阪歴博、文化財研究所・「孝徳朝における難波の諸宮」市大樹氏論文紹介・1/19〜20東京古田会「難波宮跡と古市古墳群を訪ねる旅」・服部静尚さんが「多元の会」で発表・水野顧問の病状報告(竹村順弘事務局次長)・その他


第1554話 2017/12/15

飛鳥池の「冨本銭」と難波の「富本銭」

 久冨直子さん(古田史学の会・会員、京都市)からお借りしている『大津の都と白鳳寺院』(大津市歴史博物館)を読んでいて気づいたのですが、飛鳥宮から出土した無文銀銭について、次のような紹介記事がありました。

 「3の無文銀銭については、飛鳥では飛鳥宮跡出土のこの一点のほか、飛鳥池遺跡、石神遺跡、河原寺跡などからも出土しています。
 『日本書紀』の天武天皇一二年(六八三)四月一五日条に「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」(原漢文)という詔があり、ここに記されている使用禁止となった銀銭が無文銀銭であると考えられています。富本銭よりも古い、日本列島最古の金属貨幣といえます。ちなみに、近江は、崇福寺跡から舎利容器とともに出土した一二枚のほか、唐橋遺跡の橋脚遺構からの出土例などがあり、大和に次いで無文銀銭の出土が多い場所です。」(9頁)

 飛鳥宮跡から出土した無文銀銭の写真とともに、このように紹介されています。崇福寺出土の無文銀銭十二枚は有名ですが、唐橋遺跡の銀銭のことは知りませんでした。この記事では近江が「大和に次いで無文銀銭の出土が多い場所」とされていますが、これは不正確な記事です。わたしの知る限りでは難波の四天王寺近郊から百枚に及ぶ無文銀銭が江戸時代に出土していたことが知られ、その内の一枚が現存しており大阪歴博にはレプリカが展示されています(ほとんどが鋳つぶされたとのこと)。ですから、無文銀銭の最多出土地は大和ではなく摂津難波なのです。この点、前期難波宮九州王朝副都説や難波天王寺九州王朝創建説との関係が注目されます。
 こうした記事に触発されて、以前から気になっていた大阪市細工谷遺跡から出土した冨本銭について、大阪歴博で関連の発掘調査報告書を閲覧しました。それらによると、細工谷出土の冨本銭の文字は「ウカンムリ」の「富」で、飛鳥池出土の冨本銭は「ワカンムリ」の「冨」とのこと。写真でも確認しましたが、細工谷出土のものは「富本銭」で飛鳥池出土は「冨本銭」なのです。また、重量も細工谷出土「富本銭」は飛鳥池のものの半分とのこと。この文字や重量の違いが何を意味するのか検討中です。
 古田先生は冨本銭は九州王朝の貨幣ではなかったかと考えておられましたが、前期難波宮九州王朝副都説や正木裕さんの九州王朝系近江朝説も視野に入れて、無文銀銭や冨本銭の位置づけを再検討しなければならないと考えています。


第1548話 2017/12/03

前期難波宮と近江大津宮の比較

 「古田史学の会」の福岡市や大阪市での講演会の運営にご協力していただいた久冨直子さん(古田史学の会・会員、京都市)から、『大津の都と白鳳寺院』という本をお借りして精読しています。同書は大津市歴史博物館で開催された「大津京遷都一三五〇年記念 企画展 大津の都と白鳳寺院」の図録で、久冨さんが同企画展を見学され、購入されたものです。
 同書を繰り返し読んでいますが、わたしが最も知りたかった最新の近江大津宮遺跡の規模についての記述があり、以前から気になっていた前期難波宮との規模の比較を行っています。近江大津宮(錦織遺跡)は周辺の宅地化が進んでおり、発掘調査が不十分です。特に朝堂院に相当する部分は北辺の一部のみが明らかとなっており、全容は不明です。そこで、比較的発掘が進んでいる内裏正殿と同南門の規模を前期難波宮と比較しました。次のようです。

〔内裏正殿(前期難波宮は前殿)の規模〕
前期難波宮 東西37m 南北19m
近江大津宮 東西21m 南北10m

〔内裏南門の規模〕
前期難波宮 東西33m 南北12m
近江大津宮 東西21m 南北 6m

 このように652年に創建された前期難波宮に比べて、『日本書紀』では667年に天智が遷都したとされる近江大津宮は一回り小規模なのです。大規模な前期難波宮があるのに、なぜ近江大津宮に遷都したのかが一元史観でも説明しにくく、白村江戦を控えて、より安全な近江に遷都したとする考えもあります。しかしながら、一元史観では内陸部の飛鳥宮から同じく内陸部の近江大津宮に遷都したことになり、それほど安全性が高くなるとは思われません。
 他方、前期難波宮を九州王朝の副都と考えたとき、海岸部の摂津難波よりは近江大津の方がはるかに安全です。ですから、前期難波宮と近江大津宮が共に九州王朝の宮殿であれば、摂津難波からより安全な近江大津への遷都は穏当なものとなりそうです。その場合、近江大津宮の方が小規模となった理由の説明が必要ですが、十数年で二つの王宮・王都の造営ということになりますから、近江大津宮造営が白村江戦を控えての緊急避難が目的と考えれば、小規模とならざるを得なかったのかもしれません。引き続き、この問題について検討したいと思います。