近江朝廷(近江京)一覧

第1465話 2017/07/27

倭国王宮の屋根の変遷

 「古田史学の会」会員の山田春廣さんのプログ「sanmaoの暦歴徒然草」に学問的刺激を受けています。最近も九州王朝倭国の王宮に関する作業仮説(「瓦葺宮殿」考)を提起され、読者からコメントも寄せられています。当該仮説の是非はこれから論議検討が進められることと思いますが、コメントを寄せられた服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から重要な疑問が提示されました。それは、倭国の王宮の屋根の変遷において、寺院などは瓦葺き建設なのになぜ前期難波宮など王宮は板葺きなのかという疑問です。
 たしかに考えてみますと、寺院建築では法隆寺や四天王寺(難波天王寺)のように7世紀初頭には礎石造りの瓦葺きです。比べて、近畿天皇家の飛鳥宮(板葺宮、清御原宮)や、わたしが九州王朝副都と考える前期難波宮、そして大津宮は堀立柱造りの板葺きとされています。そして7世紀後半頃になってようやく大宰府政庁Ⅱ期の宮殿が礎石造りの瓦葺きです。7世紀末の藤原宮も近畿天皇家の宮殿として初めて礎石造りの瓦葺きとなります。
 中国風の「近代建築」である瓦葺宮殿を建築できる技術力を持ちながら、自らの王宮は九州王朝も近畿天皇家も7世紀後半から末にならなければ採用しなかった理由は何なのでしょうか。わたしは次のように今のところ推定しています。それは日本古来の宗教思想に基づき、「天神の末裔」である倭国天子には、「神殿造り」の堀立柱と板葺きの宮殿こそが権威継承者としてふさわしいと考えられていたのではないでしょうか。現在でも伊勢神宮を瓦葺きにしないのと同様の理由です。
 仏教が伝来し、寺院建築には舶来宗教として中国風の礎石造りの瓦葺きがふさわしいと考えられたため、早くから瓦葺きが採用されたものと思われます。そして、7世紀後半頃になると中国風の宮殿が倭国天子にもふさわしいとされ、礎石造りの瓦葺きが採用されるに至ったものと考えています。
 既にこうした仮説は発表されているかもしれませんが、とりあえず作業仮説として提起します。皆さんからのご意見ご批判をお待ちしています。


第1423話 2017/06/15

『令集解』引用「古記」の「水海」

 9世紀前半に編纂された『養老律令』の注釈書『令集解』に引用されている「古記」には『大宝律令』の注釈があり、九州王朝から大和朝廷への王朝交代直後における大和朝廷側の認識を示す貴重な史料です。たとえば、『養老律令』「戸令」には「庚午年籍」(670年造籍)の永久保存を定めた次の有名な条項があります。

 「凡戸籍。恒留五比。其遠年者。依次除。近江大津宮庚午年籍。不除。」『律令』(日本思想大系)232頁

 そして、『令集解』の同条項「近江大津宮庚午年籍不除。」の部分の解説として次の「古記」引用文が記されています。

 「古記云、水海大津大宮庚午年籍莫除。(後略)」『令集解』(国史大系)第二 287頁

 訳すと次のようです。
 「古記に云う。水海大津大宮の庚午年籍は除くなかれ。」
 『養老律令』や『日本書紀』天智紀では天智天皇の宮殿を「近江大津宮」と表記されていますが、それらよりも成立が早い『大寶律令』には「水海大津大宮」と記されていたことがうかがえます。
 「近江」とは琵琶湖のことで、「近つ淡海(あはうみ)」の二文字表記です。すなわち、大和朝廷にとって近くにある「近つ淡海」を「近江」と表記し、「おうみ」と訓んでいます。遠くにある「淡海」(浜名湖)は「遠つ淡海(あはうみ)」で「遠江(とおとうみ)」と表記されています。ところが、より成立が早い『大寶律令』では、この「古記」の記事により、琵琶湖のことを「近江」や「淡海」ではなく「水海」と表記されていたことがわかります。すなわち、九州王朝の時代である7世紀には、琵琶湖は「水海」と表記されていたと考えられるのです。
 「古田史学の会」関西例会では、『万葉集』に見える「淡海」は琵琶湖ではなく、たとえば淡水(河口の伏流水)と海水が混じり合い、文字通り「淡い海」である八代海球磨川河口とする説が発表されてきました(西村秀己さん、水野孝夫さんの研究による)。すなわち、琵琶湖は真水であり、「淡海」という表記は不適切という指摘でした。
 この他にも、『万葉集』の歌には「淡海」での「いさなとり」を歌ったものがあり、琵琶湖に鯨(いさな)はいないので、「淡海」は琵琶湖ではないとする論稿も発表されています(木村賢司さん「夕波千鳥」『古田史学会報』38号、2000年6月)。
 このような研究経緯がありましたので、琵琶湖の表記として「淡海」は不適切であり、「古記」のように「水海」のほうが妥当です。この「水海」を当時何と訓んでいたのかは不明ですが、九州王朝の時代には「近い」「遠い」を表す表記(近江・遠江)ではなかったことになります。九州王朝の都、太宰府から見れば琵琶湖も浜名湖もはるか遠方であり、琵琶湖を「近つ水海」とは表記できなかったのではないでしょうか。あるいは、わたしが考えているように「九州王朝の近江遷都」説が正しければ、すぐとなりの琵琶湖は近すぎて、逆に「近つ水海」と呼べなかったのかもしれません。
 なお、ご参考までに「洛中洛外日記」17話「淡海は琵琶湖ではなかった」を転載します。

【転載】洛中洛外日記
第17話 2005/08/05
「淡海は琵琶湖ではなかった」

 古田史学の会内部でしばしば研究テーマとなっているものに、「淡海」はどこかという問題があります。口火を切られたのが木村賢司さん(会員・豊中市)で、『万葉集』に見える「淡海の海」を全て抜き出され、その歌の内容から通説の琵琶湖ではありえないとされました(「夕波千鳥」、『古田史学会報』38号)。そして、淡海の海を博多湾近辺の海ではないかとされました。
 古田先生は現在の鳥取県にあたる『和名抄』の邑美を候補とされ、後に阿波(徳島県)近海と考察されるに至っています。
 西村秀己さん(本会全国世話人・向日市)は『倭姫命世記』に見える「淡海浦」の地勢記事から熊本県八代市の球磨川河口付近とする説を関西例会で口頭発表されました。
いずれの説も一理あるものの決め手に欠けていました。そんな中で発表されたのが、水野孝夫さん(本会代表・奈良市)の「阿漕的仮説-さまよえる倭姫-」(『古田史学会報』69号)でした。その結論は西村説を裏づけるものですが、『倭姫命世記』に記された淡海浦の記事、すなわち西に七つの島があり、南には海水に淡水が混じって淡くなるという海域が八代市球磨川河口(球磨川の伏流水が水島付近で湧き出している)に存在することを見つけられたのでした。しかも、対岸の天草には放浪するお姫様の伝承を持つ姫戸などの地域があったのです。すなわち、倭姫伝承も九州王朝の伝承からの盗用だったのでした。
 これらの発見には、当地や有明海などに詳しい古川清久さん(会員・武雄市)の協力があったそうですが、こうした共同作業などは古田史学の会の持つ特長です。プロの学者でもできないような新発見が古田学派内では次々と行われています。あなたも古田史学の会に入って、一緒に研究しませんか。


第1416話 2017/06/07

天草と草津(滋賀県)の地名由来新考

 昨晩は鹿児島市のホテルに宿泊し、今朝は鹿児島空港行きの高速バスの車中で執筆しています。今日のスケジュールは超ハードで、宮崎・熊本・鹿児島の三県を巡回し、夜は天草のホテルで宿泊です。

 「洛中洛外日記」425話(2012/06/12)で「天草」の語源について考察したことがあります(下記に転載)。それは「あまくさ」の意味を、海(あま)の日(くさ)とする新説です。今でも有効な仮説と考えています。同様に滋賀県の「草津」の地名も、日(くさ)の津(つ)、すなわち「太陽の港」「朝日で照り輝く港」を意味するのではないかという作業仮説(思いつき)に至りました。
 この場合、この地名は草津側で命名されたものではないと考えられます。なぜなら、草津の住民にとって太陽は更に東側の山々から昇るものであり、自らの居住地(草津)を「太陽の港」などとは受け止められないからです。従って、もしこの作業仮説(思いつき)が正しければ、「日津(くさつ)」と命名したのは琵琶湖の対岸(西岸)の人々ではないかと思われます。その地域の人々であれば、朝日が琵琶湖の対岸(東岸)の草津方面から昇ることになり、草津を日(くさ)に照り輝く津(つ)と表現したとしても一応の理屈が通るからです。
 しかし、地名というものは誰かがそう呼んだからそう決まるというものではなく、周囲の誰もが納得できる理由や動機が必要です。そこでわたしは草津の琵琶湖対岸に、「くさつ」と命名した権力者が居たのであれば、その地名を周囲や当地の住民も納得せざるを得ないのではないかと考えました。
 それでは草津の琵琶湖対岸には何があるでしょうか。そうです。錦織遺跡(近江大津宮)です。ここにいた天子あるいは天皇が、自らの宮殿から見て東対岸の港方向から昇る朝日にちなんで、その港(津)を日(くさ)津(つ)と命名したのではないかと考えました。
 この草津の地名由来を「日津(くさつ)」とする作業仮説(思いつき)を学問的仮説として成立させるためには、少なくとも次の手続きが必要です。それは近江大津宮から朝日を見たとき、草津方面が日(くさ)の津、すなわち朝日に照り輝く港と呼ぶにふさわしいかどうかを実地検証する必要があります。
 そのことが確認できれば仮説として成立するのではないでしょうか。もちろんその場合でも一つの「仮説」ですから、検証や論争を経て、他の仮説よりも有力と認証されれば「有力仮説」となり、その考えが多くの人々に支持されたときに「定説」の地位を得ます。さて、今回のわたしの作業仮説(思いつき)はどのような運命をたどるのでしょうか。皆さんのご批判を心待ちにしています。

【転載】洛中洛外日記
第425話 2012/06/12
「天草」の語源

 第422話で紹介しましたように、先週、出張で天草に行ったとき、ふと考えたのが「天草」の意味でした。もちろん漢字は当て字で、「天にはえている植物」の意味ではないと思います。
 この疑問はわりと簡単に「解決」しました。「天(あま)」は「海」のことで、「草(くさ)」は太陽のことです。すなわち「あまくさ」とは「海の太陽」のことではないでしょうか。天草島の地理関係から考えると、「海に沈む夕日」が適切かもしれません。
 ちなみに、現在では上天草島や下天草島など全体を「天草」と称していますが、もともとは下天草島の西海岸側の一部の地名だったようです。ですから、そこは海に沈む夕日がきれいな絶景の観光スポットだと思いますし、「あまくさ」=「海の太陽」(が美しく見える地)という地名にぴったりです。ホテルでもらった観光案内パンフレットにも天草の紹介文として「東シナ海に沈む夕日が日本一きれいなところ」とありました。偶然とは思えない表現の一致です。
 「あま」が「海」というのはよく知られていますし、今も「海」を「あま」と読む地名は少なくありません。しかし、「くさ」が何故「太陽」なのか疑問に思われる方もおられると思います。
 実は昔、古田先生から教えていただいたことなのですが、「日下」を「くさか」、「日下部」を「くさかべ」と訓むように、「日」のことを古代日本では「くさ」と訓んでいたのです。すなわち、太陽のことを「くさ」」と訓んだ時代や人々が日本列島にあったのです。
 「あまくさ」の語源に対応した正確な漢字を当てるとすれば、「海日」ではないでしょうか。「海に沈む夕日が美しい島」、天草は古代史研究(装飾壁画古墳)でも重要な島なのですが、そのことは別の機会にふれたいと思います。


第1415話 2017/06/06

原稿採否基準、新規性と進歩性

 福岡県での仕事を終え、鹿児島中央駅に向かう九州新幹線の車中で書いています。車窓からの景色はずいぶん薄暗くなりました。今日、九州南部が梅雨入りしたとのことです。

 先月の関西例会後の懇親会で、常連の会員さんから『古田史学会報』に掲載された某論文について、「古田史学の会」としてその論文の説に賛成しているのかという趣旨のご質問をいただきました。その質問をされた方は『古田史学会報』に採用されたということは編集部から承認されたのだから、その論文の説を編集部は賛成したものと理解されていたようです。こうした誤解は他の会員の皆様にもあるかもしれません。
 よい機会ですので、学術誌などの採用基準と学問研究のあり方について、わたしの考えを説明させていただきたいと思います。『古田史学会報』に採用する論稿の評価基準については、「洛中洛外日記」1327話(2017/01/23)「研究論文の進歩性と新規性」でも説明してきたところです。学術論文の基本的な条件としては、史料根拠が明確なこと、論証が成立していること、先行説をふまえていること、引用元の出典が明示されていることなどがありますが、もっと重要な視点は新規性と進歩性がその論文にあるのかということです。
 新規性とは今までにない新しい説であること、あるいは新しい視点が含まれていることなどです。これは簡単ですからご理解いただけるでしょう。次に進歩性の有無が問われます。その新説により学問研究が進展するのかという視点です。たとえば、その新説により従来説では説明できなかった問題や矛盾していた課題がうまく説明できる、あるいはそこで提起された仮説や方法論が他の問題解決に役立つ、または他の研究者に大きな刺激を与える可能性があるという視点です。
 こうした新規性と進歩性が優れている、画期的であると認められれば、仮に論証や史料根拠が不十分であっても採用されるケースがあります。結果的にその新説が間違いであったとしても、広く紹介した方が学問の発展に寄与すると考えるからです。
 『古田史学会報』ではそれほど厳しい査読はしませんが、『古代に真実を求めて』では採用のハードルが高く、編集部でも激論が交わされることがあります。しかし、その採否検討にあたり、わたしや編集委員の意見や説に対して反対か賛成、あるいは不利・有利といった判断で採否が決まることはありません。ですから、採用されたからといって、編集部や「古田史学の会」がその説を支持していることを意味しません。しかし、掲載に値する新規性や進歩性を有していると評価されていることは当然です。
 以上のように、わたしは考えていますが、抽象論でわかりにくい説明かもしれません。「洛中洛外日記」1327話ではもう少し具体的に解説していますので、その部分を転載します。ご参考まで。

【転載】
 (前略)「2016年の回顧『研究』編」で紹介した論文①の正木稿を例に、具体的に解説します。正木さんの「『近江朝年号』の実在について」は、それまでの九州年号研究において、後代における誤記誤伝として研究の対象とされることがほとんどなかった「中元」「果安」という年号を真正面から取り上げられ、「九州王朝系近江朝」という新概念を提起されたものでした。従って、「新規性」については問題ありません。
 また「近江朝」や「壬申の乱」、「不改の常典」など古代史研究に於いて多くの謎に包まれていたテーマについて、解決のための新たな視点を提起するという「進歩性」も有していました。史料根拠も明白ですし、論証過程に極端な恣意性や無理もなく、一応論証は成立しています。
 もちろん、わたしが発表していた「九州王朝の近江遷都」説とも異なっていたのですが、わたしの仮説よりも有力と思い、その理由を解説した拙稿「九州王朝を継承した近江朝廷 -正木新説の展開と考察-」を執筆したほどです。〔番外〕として拙稿を併記したのも、それほど正木稿のインパクトが強かったからに他なりません。
 正木説の当否はこれからの論争により検証されることと思いますが、7〜8世紀における九州王朝から大和朝廷への王朝交代時期の歴史の真相に迫る上で、この正木説の進歩性と新規性は2016年に発表された論文の中でも際だったものと、わたしは考えています。(後略)


第1412話 2017/06/11

観世音寺・川原寺・崇福寺出土の同笵瓦

 「洛中洛外日記」1399話(2017/05/17)「塔心柱による古代寺院編年方法」において、古代寺院遺跡における塔の心柱礎石の高さや形態が大まかな編年基準として利用できることを紹介しましたが、より具体的な年代は出土した瓦や土器などの相対編年に依らざるを得ません。他方、建立年次などが記された文字史料(縁起書や年代記)などは伝承史料として有力な根拠とされます。
 礎石や瓦などの考古学的史料による相対編年と文字史料による記録年代が一致した場合はかなり有力な説とされますが、これは古田先生が“シュリーマンの法則”と呼ばれたものです。たとえば太宰府の観世音寺の創建年は“シュリーマンの法則”が発揮できた事例です。
 観世音寺の創建は通説では8世紀初頭とされていますが、文字史料としては『続日本紀』には天智天皇の命により造営されたとあり、九州年号史料の『二中歴』には「白鳳」年間(661〜683)、『勝山記』『日本帝皇年代記』には「白鳳10年(670)」の創建と記されています。
 他方、考古学的には創建瓦の老司Ⅰ式が7世紀後半と編年されてきましたので、文字史料と考古学史料が見事に一致しています。瓦の他にも国宝の銅鐘も7世紀末頃、塔心柱の形態も7世紀後半として問題ありません。これこそ古田先生のいわれる“シュリーマンの法則”の好例であり、一元史観の通説よりも「白鳳10年創建」説が有力説ということができます。更に、これとは異なる文字史料の発見(実証)や考古学史料の出土(実証)もなく、年代判定可能な根拠を有する他の有力説がない点でも安定した仮説といえるでしょう。
 このように観世音寺の創建「白鳳10年」説は比較的安定して成立しているのですが、その創建に関わる歴史的事象については、九州王朝研究においても未解明なことが多くあります。「洛中洛外日記」751話(2014/07/24)「森郁夫著『一瓦一説』を読む」で紹介したように、観世音寺創建瓦から飛鳥の川原寺、近江の崇福寺との同笵軒丸瓦(複弁八葉蓮華文軒丸瓦)が出土しているのです。森郁夫著『一瓦一説』には次のように記されています。

 「川原寺の創建年代は、天智朝に入ってからということになる。建立の事情に関する直接の史料はないが、斉明天皇追善の意味があったものであろう。そして、天皇の六年(667)三月に近江大津に都を遷しているので、それまでの数年間ということになる。このように、瓦の年代を決めるのには手間がかかるのである。
 この軒丸瓦の同笵品が筑紫観世音寺(福岡県太宰府市観世音寺)と近江崇福寺(滋賀県大津市滋賀里町)から出土している。観世音寺は斉明天皇追善のために天智天皇によって発願されたものであり、造営工事のために朝廷から工人集団が派遣されたのであろう。」(93ページ)

 九州王朝の都の中心的寺院である観世音寺と近畿天皇家の中枢の飛鳥にある川原寺、そしてわたしが九州王朝が遷都したと考えている近江京の中心的寺院の崇福寺、それぞれの瓦に同笵品があるという考古学的出土事実を九州王朝説の立場から、どのように説明できるでしょうか。あるいは近年、正木裕さんから発表された「九州王朝系近江朝」説ではどのような説明が可能となるのでしょうか。
 これら三寺院の様式は「川原寺式」あるいは「観世音寺式」に分類され、東に塔、西に金堂が配置され、しかも金堂は東面するという共通した様式を持っています。この塔堂配置の一致と同笵軒丸瓦の出土は、偶然ではなく、三寺院が密接な関係を有していたと考えざるを得ません。
 それら寺院の建立年代は、川原寺(662〜667)、崇福寺(661〜667頃)、観世音寺(670、白鳳10年)と推定され、観世音寺がやや遅れるものの、ほぼ同時期とみてよいでしょう。この創建瓦同笵品問題は、7世紀後半における九州王朝と近畿天皇家の関係、正木説「九州王朝系近江朝」を考える上で重要な問題を提起しています。これからの研究課題です。


第1371話 2017/04/16

『海東諸国紀』の「任」の字義

 「洛中洛外日記」1367話で紹介した『海東諸国紀』の次の記事を紹介し、「天智天皇の記事に『初めて太宰帥に任じた』とあるのですが、文脈からは天智天皇が七年(668)にはじめて太宰帥に任じたと読めます。」と説明しました。

 「天智天皇(中略)元年壬戌〔用白鳳〕七年戊辰始任太宰帥(後略)」

 この説明に対して、昨日の「古田史学の会」関西例会で水野孝夫さん(古田史学の会・顧問)から、この説明では天智が誰かを太宰帥に任命したと読めるとのご指摘をいただきました。「任じる」という動詞は現代日本語では自動詞と他動詞の用例があるので、確かに説明が不親切だったと反省しています。
 もちろん『海東諸国紀』の「任」を現代日本語の解釈で理解するのは学問の方法として不適切ですので、わたしは『海東諸国紀』の他の「任」の用例を調べ、この記事の意味を天智が太宰帥になったと理解しました。この天智天皇の記事の末尾に次の記事があります。

 「以大友皇子〔天智子〕為大政大臣皇子任大政大臣始」※〔〕内は細字。

 岩波文庫の『海東諸国紀』では「大友皇子を以て大政大臣と為す。皇子の大政大臣を任ずるは此より始まる。」と訳されています。わたしはこの用例に従って、「任太宰帥」を天智が太宰帥になったという意味に理解したのです。
 水野さんの指摘を受けて、今日、『海東諸国紀』全文を読み直して、「任」の全用例調査を行いました。意外に「任」の使用例が少なく、次の一例を見つけることができました。

 「履中天皇仁徳太子元年庚子始置大臣四人任国事」

 岩波文庫の訳では「履中天皇。仁徳の太子なり。元年庚子、始めて大臣四人を置き国事に任ぜしむ。」とあります。しかし、「国事」は「太宰帥」や「大政大臣」のような職位ではありませんから、「任」の訓みとしては「あたる」「つく」が適切のように思われます。すなわち、天智天皇がはじめて太宰帥の職にあたる、大友皇子が大政大臣の職に就く、大臣四人が国事にあたると訓んだほうがよいと思います。
 手元にある『新漢和辞典(改訂版)』(大修館書店)には、「任」の字義として「あたる」が冒頭にあることからも、「任」の字をある役職に「就く」、ある任務に「あたる」という意味で『海東諸国紀』には使用されていると思われます。
 そうすると、次に問題となるのが天智が就いたとされる「太宰帥」という役職はどのようなものでしょうか。太宰府の高位の官職と解さざるを得ませんが、当時の「太宰府」とは九州王朝下の官僚組織であり、その「太宰府」の「帥」ですから、最高権力者としての倭国の天子ではありません。
 『海東諸国紀』の当該記事がどの程度信頼できるのかも含めて引き続き論議検討が必要です。


第1367話 2017/04/09

太宰帥に任じたのは天智か薩夜麻か

 今年三月に発刊した『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(古田史学の会編・明石書店刊)の巻頭言で、本書中出色の論稿として正木裕さんの「『近江朝年号』の研究」を紹介しました。今日、改めて正木稿を読み、天智称制が六年間続いた後、天智七年になって天皇に即位した理由を九州王朝の天子薩夜麻の帰国との関係で論じられていることを興味深く思いました。
 その後、本書末尾に収録された九州年号史料の『海東諸国記』に次の記事があることに気づきました。

 「天智天皇(中略)元年壬戌〔用白鳳〕七年戊辰始任太宰帥(後略)」

 天智天皇の記事に「初めて太宰帥に任じた」とあるのですが、文脈からは天智天皇が七年(668)にはじめて太宰帥に任じたと読めます。『日本書紀』には見えない記事ですから、九州王朝系史書からの引用記事の可能性が高いのですが、正木説によればこの頃に筑紫君薩夜麻が唐より帰国したとされていますので、もしかすると太宰帥に任じたのは薩夜麻かもしれません。
 従来は『日本書紀』天智七年七月条に見える栗前王を「筑紫率」に任命した記事のことと漠然と理解していましたが、よく読むと官職名も対象者も異なり、別の記事ではないかと考えています。
 不思議な記事ですが、「九州王朝系近江朝廷」という正木説によりどのような理解が可能なのか、今後の研究の進展が期待されます。こうした新たな問題を発見できた『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』は、九州年号のみならず九州王朝史研究にも役立つ優れた一冊ではないでしょうか。多くの古代史ファンに読まれることを願っています。


第1209話 2016/06/16

古田先生の九州王朝系「近江令」説

 正木裕さんが提唱された九州王朝系「近江朝廷」という新概念について、「洛中洛外日記」で考察を加え、それをまとめて『古田史学会報』に発表したのですが、古田先生が既に「九州王朝系『近江令』」という視点に言及されていることを思い出しました。
 『古代は輝いていた・3』の第六部二章に見える「律令制の新視点」(ミネルヴァ書房版316頁)の次の記述です。

 「『日本書紀』の天智紀に「近江令」制定の記載はない。にもかかわらず、『庚午年籍』と一連のものとして、その存在は、あって当然だ。この点、『庚午年籍』が九州王朝の「評制」にもとづくとすれば、いわゆる「近江令」なるものの実体は、実は九州王朝系の「令」であった。そのような帰結へとわたしたちは導かれよう。」

 この古田先生の九州王朝系「近江令」という指摘は、その論理展開として、九州王朝系「近江令」を制定した「近江朝廷」も九州王朝系「近江朝廷」という正木新説への進展を暗示しています。古田先生の先見の明には驚かされるばかりです。(つづく)


第1184話 2016/05/11

近江朝と「朝庭(錦織遺跡)」

 近江朝を論じる際、最も重要な考古学的論点が大津市錦織遺跡から出土した大規模な朝堂院様式の宮殿遺構でしょう。周囲が宅地化しているので全容は未解明ですが、前期難波宮に匹敵する大規模な北闕型(王宮が北側に位置し、「北を尊し」とする)の朝堂院様式の宮殿であることがわかっています。文字通り「近江朝庭」と呼ぶにふさわしい規模と様式です。通常使用される「朝廷」とはやや意味が異なる「朝庭」という表記には「朝堂院等の建物に囲まれた広場」という字義がありますが、『日本書紀』などでは混用されているようです。従って錦織遺跡の宮殿遺構はまさに「近江朝庭」なのです(通常は「近江大津宮」と呼ばれている)。
 わたしは「白鳳元年(661)、九州王朝の近江遷都」という仮説(「九州王朝の近江遷都」『古田史学会報』61号所収。2004年4月)や、天智による王朝継承・交替(「洛中洛外日記」580話「近江遷都と王朝交代」2013年8月15日)について発表したことがありますが、今回の正木新説は更に具体化させた「天智・大友による九州王朝を継承した九州王朝系近江朝」という新概念です。この考古学的痕跡が錦織遺跡の近江大津宮遺構ですが、実は『日本書紀』にも「近江朝庭」の史料的痕跡が残されています。
 以前、「古田史学の会」関西例会で冨川けい子さんから『日本書紀』には「大和朝廷」という表記はなく、明確に「地名+朝庭」と理解できる表記は「難波朝庭」と「近江朝庭」であるとの研究発表がありました。この指摘は考古学的出土事実に対応していることから、わたしは注目してきたところです。というのも、文字通りの「朝堂院等の建物に囲まれた広場」である大規模な「朝庭」遺構は、7世紀段階では前期難波宮と近江大津宮(錦織遺跡)、そして7世紀末の藤原宮だけなのです(太宰府政庁2期は規模がかなり小さい)。中でも北闕様式の「朝庭」は前期難波宮と近江大津宮です。ですから『日本書紀』の記事(難波朝庭・近江朝庭)と考古学的事実(前期難波宮遺跡・錦織遺跡)が一致しているのです。
 わたしは前期難波宮を「九州王朝の副都」と考えていますし、「九州王朝の近江遷都」があった可能性も高いと考えているのですが、こうした仮説がこれら文献史学と考古学の成果とよく対応しています。さらにこの仮説体系と今回の正木新説もうまく対応しているように思えますので、これからの正木説に対する検討や論争が期待されるところです。


第1173話 2016/04/22

「近江令」の官制

 正木説に従えば、九州王朝を継承した近江朝による「近江令」は九州王朝系のものとなりますから、その研究は九州王朝令制研究の重要テーマの一つと位置づけられます。「近江令」そのものは現存しませんから、『日本書紀』などに記された断片記事から推測するほかありません。『日本書紀』によれば近江朝の官制として、次の官職名が見えます。

○太政大臣(大友皇子)『日本書紀』初出
○左大臣(蘇我赤兄)
○右大臣(中臣金)
○御史大夫(蘇我果安・他)『日本書紀』初出

 このような官職名が『日本書紀』編者により脚色された可能性も考慮しなければなりませんが、天武天皇の立場を「正当」とするために編纂された『日本書紀』ですから、敵対した近江朝廷側を実際以上に美化・権威化する官職名を造作して天智紀を記述するとも考えにくいので、近江朝では実際にこうした官職名が採用され、「近江令」で規定されたと考えてよいと思います。
 正木説ではこれら官職名も九州王朝を継承するとした天智・大友による近江朝で採用されたことになりますから、九州王朝の官職研究のヒントになりそうです。さらに付け加えれば、わたしが九州王朝の副都とする前期難波宮において、既にこうした官職名は採用されており、近江朝においても継承されたとする可能性もあります。(つづく)


第1172話 2016/04/21

「近江令」の史料根拠と正木説

 「近江令」については一元史観内でも、存在説・非存在説がありますが、存在説の史料根拠は『藤氏家伝』に見える「天智天皇の命令により藤原鎌足が天智元年(668)に律令を編纂した」という記事と、『弘仁格式』序に見える「天智元年に令22巻を制定した。これが『近江朝廷の令』である」という記事です。いずれも後代史料であり、より成立年代が近江朝の時代に近い『日本書紀』に「近江令」記事が見えないということが、非存在説の根拠となっています。いずれの主張もそれなりの根拠があり、論争に決着が付かないのも頷けるところです。
 ところが、この史料状況を正木説(天智・大友による九州王朝系「近江朝」)という視点から見ますと、『日本書紀』の編纂方針として九州王朝の存在を隠す、あるいは盗用し近畿天皇家のこととするという姿勢ですから、近江朝年号の「中元」「果安」は隠し、「近江令」も隠したと考え、だから『日本書紀』には記されていないという理由付けを、言って言えないこともありません。他方、「近江令」は実在したのだから、後代史料には「22巻」などと具体的な記事が表れるようになったと考えることもできそうです。
 ただこの場合、それならなぜ九州年号の「大化」「白雉」「朱鳥」が『日本書紀』に記されているのかという説明が別途必要となります。いずれにしても、この問題の説明は一筋縄ではいかないようです。(つづく)


第1171話 2016/04/20

近江朝と「近江令」

 天智・大友による九州王朝系「近江朝」という正木説の考察とその展開について論じてきましたが、今回は「近江令」を俎上に上げたいと思います。
 従来の九州王朝説の立場からすれば、701年より前は九州王朝の時代であり、その律令は「九州王朝律令」「倭国律令」ともいうべきものが制定されていたはずで、九州王朝下での近畿地方の一有力豪族に過ぎない近畿天皇家による律令はなかったと考えられてきました。すなわち、史料に見える「近江令」や「飛鳥浄原令」などは存在しないという立場でした。また、同時代金石文の「威奈大村骨蔵器」にも「大宝元年初めて律令を定める」とする記述があり、近畿天皇家による律令は大宝元年(701)の大宝律令からとする根拠にされてきました。
 ところが今回の正木説によれば、九州王朝系の近江朝が「近江令」を定めたということになり、「威奈大村骨蔵器」の銘文とも矛盾しなくなります。その結果、「庚午年籍」も「近江令」にあった「戸令」に基づき造籍されたとする理解が成立します。従って、「近江令」研究は九州王朝律令研究の一分野として見直さなければならなくなるのです。(つづく)