近江朝廷(近江京)一覧

第1209話 2016/06/16

古田先生の九州王朝系「近江令」説

 正木裕さんが提唱された九州王朝系「近江朝廷」という新概念について、「洛中洛外日記」で考察を加え、それをまとめて『古田史学会報』に発表したのですが、古田先生が既に「九州王朝系『近江令』」という視点に言及されていることを思い出しました。
 『古代は輝いていた・3』の第六部二章に見える「律令制の新視点」(ミネルヴァ書房版316頁)の次の記述です。

 「『日本書紀』の天智紀に「近江令」制定の記載はない。にもかかわらず、『庚午年籍』と一連のものとして、その存在は、あって当然だ。この点、『庚午年籍』が九州王朝の「評制」にもとづくとすれば、いわゆる「近江令」なるものの実体は、実は九州王朝系の「令」であった。そのような帰結へとわたしたちは導かれよう。」

 この古田先生の九州王朝系「近江令」という指摘は、その論理展開として、九州王朝系「近江令」を制定した「近江朝廷」も九州王朝系「近江朝廷」という正木新説への進展を暗示しています。古田先生の先見の明には驚かされるばかりです。(つづく)


第1184話 2016/05/11

近江朝と「朝庭(錦織遺跡)」

 近江朝を論じる際、最も重要な考古学的論点が大津市錦織遺跡から出土した大規模な朝堂院様式の宮殿遺構でしょう。周囲が宅地化しているので全容は未解明ですが、前期難波宮に匹敵する大規模な北闕型(王宮が北側に位置し、「北を尊し」とする)の朝堂院様式の宮殿であることがわかっています。文字通り「近江朝庭」と呼ぶにふさわしい規模と様式です。通常使用される「朝廷」とはやや意味が異なる「朝庭」という表記には「朝堂院等の建物に囲まれた広場」という字義がありますが、『日本書紀』などでは混用されているようです。従って錦織遺跡の宮殿遺構はまさに「近江朝庭」なのです(通常は「近江大津宮」と呼ばれている)。
 わたしは「白鳳元年(661)、九州王朝の近江遷都」という仮説(「九州王朝の近江遷都」『古田史学会報』61号所収。2004年4月)や、天智による王朝継承・交替(「洛中洛外日記」580話「近江遷都と王朝交代」2013年8月15日)について発表したことがありますが、今回の正木新説は更に具体化させた「天智・大友による九州王朝を継承した九州王朝系近江朝」という新概念です。この考古学的痕跡が錦織遺跡の近江大津宮遺構ですが、実は『日本書紀』にも「近江朝庭」の史料的痕跡が残されています。
 以前、「古田史学の会」関西例会で冨川けい子さんから『日本書紀』には「大和朝廷」という表記はなく、明確に「地名+朝庭」と理解できる表記は「難波朝庭」と「近江朝庭」であるとの研究発表がありました。この指摘は考古学的出土事実に対応していることから、わたしは注目してきたところです。というのも、文字通りの「朝堂院等の建物に囲まれた広場」である大規模な「朝庭」遺構は、7世紀段階では前期難波宮と近江大津宮(錦織遺跡)、そして7世紀末の藤原宮だけなのです(太宰府政庁2期は規模がかなり小さい)。中でも北闕様式の「朝庭」は前期難波宮と近江大津宮です。ですから『日本書紀』の記事(難波朝庭・近江朝庭)と考古学的事実(前期難波宮遺跡・錦織遺跡)が一致しているのです。
 わたしは前期難波宮を「九州王朝の副都」と考えていますし、「九州王朝の近江遷都」があった可能性も高いと考えているのですが、こうした仮説がこれら文献史学と考古学の成果とよく対応しています。さらにこの仮説体系と今回の正木新説もうまく対応しているように思えますので、これからの正木説に対する検討や論争が期待されるところです。


第1173話 2016/04/22

「近江令」の官制

 正木説に従えば、九州王朝を継承した近江朝による「近江令」は九州王朝系のものとなりますから、その研究は九州王朝令制研究の重要テーマの一つと位置づけられます。「近江令」そのものは現存しませんから、『日本書紀』などに記された断片記事から推測するほかありません。『日本書紀』によれば近江朝の官制として、次の官職名が見えます。

○太政大臣(大友皇子)『日本書紀』初出
○左大臣(蘇我赤兄)
○右大臣(中臣金)
○御史大夫(蘇我果安・他)『日本書紀』初出

 このような官職名が『日本書紀』編者により脚色された可能性も考慮しなければなりませんが、天武天皇の立場を「正当」とするために編纂された『日本書紀』ですから、敵対した近江朝廷側を実際以上に美化・権威化する官職名を造作して天智紀を記述するとも考えにくいので、近江朝では実際にこうした官職名が採用され、「近江令」で規定されたと考えてよいと思います。
 正木説ではこれら官職名も九州王朝を継承するとした天智・大友による近江朝で採用されたことになりますから、九州王朝の官職研究のヒントになりそうです。さらに付け加えれば、わたしが九州王朝の副都とする前期難波宮において、既にこうした官職名は採用されており、近江朝においても継承されたとする可能性もあります。(つづく)


第1172話 2016/04/21

「近江令」の史料根拠と正木説

 「近江令」については一元史観内でも、存在説・非存在説がありますが、存在説の史料根拠は『藤氏家伝』に見える「天智天皇の命令により藤原鎌足が天智元年(668)に律令を編纂した」という記事と、『弘仁格式』序に見える「天智元年に令22巻を制定した。これが『近江朝廷の令』である」という記事です。いずれも後代史料であり、より成立年代が近江朝の時代に近い『日本書紀』に「近江令」記事が見えないということが、非存在説の根拠となっています。いずれの主張もそれなりの根拠があり、論争に決着が付かないのも頷けるところです。
 ところが、この史料状況を正木説(天智・大友による九州王朝系「近江朝」)という視点から見ますと、『日本書紀』の編纂方針として九州王朝の存在を隠す、あるいは盗用し近畿天皇家のこととするという姿勢ですから、近江朝年号の「中元」「果安」は隠し、「近江令」も隠したと考え、だから『日本書紀』には記されていないという理由付けを、言って言えないこともありません。他方、「近江令」は実在したのだから、後代史料には「22巻」などと具体的な記事が表れるようになったと考えることもできそうです。
 ただこの場合、それならなぜ九州年号の「大化」「白雉」「朱鳥」が『日本書紀』に記されているのかという説明が別途必要となります。いずれにしても、この問題の説明は一筋縄ではいかないようです。(つづく)


第1171話 2016/04/20

近江朝と「近江令」

 天智・大友による九州王朝系「近江朝」という正木説の考察とその展開について論じてきましたが、今回は「近江令」を俎上に上げたいと思います。
 従来の九州王朝説の立場からすれば、701年より前は九州王朝の時代であり、その律令は「九州王朝律令」「倭国律令」ともいうべきものが制定されていたはずで、九州王朝下での近畿地方の一有力豪族に過ぎない近畿天皇家による律令はなかったと考えられてきました。すなわち、史料に見える「近江令」や「飛鳥浄原令」などは存在しないという立場でした。また、同時代金石文の「威奈大村骨蔵器」にも「大宝元年初めて律令を定める」とする記述があり、近畿天皇家による律令は大宝元年(701)の大宝律令からとする根拠にされてきました。
 ところが今回の正木説によれば、九州王朝系の近江朝が「近江令」を定めたということになり、「威奈大村骨蔵器」の銘文とも矛盾しなくなります。その結果、「庚午年籍」も「近江令」にあった「戸令」に基づき造籍されたとする理解が成立します。従って、「近江令」研究は九州王朝律令研究の一分野として見直さなければならなくなるのです。(つづく)


第1168話 2016/04/13

近江朝と「不改常典」

 九州王朝を継ぐ天智・大友の「近江朝」という正木裕さんが提起された新概念は、九州王朝説にとって年号や造籍だけではなく、様々な重要課題を惹起します。今回は「不改常典」との関係について考察します。
 わたしは「不改常典」について「洛中洛外日記」584話「天智天皇の年号「中元」?」で次のように記しました。

【以下引用】
 『続日本紀』の天皇即位の宣命中に見える「不改常典」は、内容の詳細については諸説があり、未だ明確にはなっていませんが、近畿天皇家にとって自らの権威の根拠が天智天皇が発した「不改常典」にあると主張しているのは確かです。そうすると、天智天皇は近江大津宮でそうした「建国宣言」のようなものを発したと考えられますが、それなら何故九州王朝に代わって自らの年号を建元しなかったのかという疑問があるとわたしは考えていました。ところが、竹村さんが指摘された天智の年号「中元」が江戸時代の諸史料(『和漢年契』『古代年号』『衝口発』他)に見えていますので、従来のように無批判に「誤記誤伝」として退けるのではなく、「中元」年号を記した諸史料の史料批判も含めて、再考しなければならないと考えています。ちなみに「中元」元年は天智天皇即位年(668)で、天智の没年(671)までの4年間続いていたとされています。
 もちろんこの場合、「中元」は九州年号ではなく、いわば「近江年号」とでも仮称すべきものとなります。「中元」年号について先入観にとらわれることなく再検討したいと思います。
【引用終わり】

 このようにわたしは、「中元」の年号を持つ近江朝を近畿天皇家の天智によるものと理解し、天智による九州王朝の権力簒奪は成功しなかったと考えてきました。ところが、正木説によれば近江朝は九州王朝系であり、「中元」年号は「建元」ではなく、九州年号「白鳳」を引き継ぐ「改元」ということになります。
 この理解が正しければ、天智は九州王朝を引き継ぐ「改元」を行い、その権威継承として「不改常典」を制定したと考えることができます。従って、『続日本紀』の元明天皇即位の詔勅などに見える近江大津宮の天智が制定した「不改常典」とは、九州王朝の権威を継承する「常典」ということになります。
 正木説の当否はこれからの論争や検証作業を待ちたいと思いますが、もし妥当であれば、この先様々な問題を惹起する仮説となりそうです。(つづく)


第1167話 2016/04/12

唐軍筑紫進駐と庚午年籍

 今朝は特急サンダーバード5号で金沢に向かっています。夕方には松本市に到着、一泊します。明日13日と14日に桂米團治さんがKBS京都放送での番組収録や落語会(松尾大社)で京都に見えられるので、ご挨拶にうかがいたいのですが、出張と重なってしまいました。もちろん、『古田武彦は死なず』にKBS京都のラジオ番組「本日、米團治日和。」での古田先生との対談を掲載させていただいたお礼のためです。残念ですが、ご挨拶は次の機会ということになりました。
 琵琶湖沿いの湖西線を列車は走っています。金色に輝く湖面と青空に映える比良山系、咲き誇る桜がきれいで、心は癒されます。連日繰り返される激しい企業間競争や困難な開発案件に、ついつい「好戦的」になり、心がささくれだつのですが、日本の美しい風景は、一瞬それらを忘れさせてくれます。まさに「ゆく春を近江の人と惜しみけり」の心境です。

 「庚午年籍」(670年)の造籍が近江朝によると正木さんは理解されているのですが、この「庚午年籍」造籍について、わたしは重要な問題が提起されているのではないかと考えてきました。古田先生もたびたび論じられたテーマですが、唐軍進駐により筑紫は軍事的に制圧され、倭国王墓は壊されたという指摘についてです。
 わたしは白村江戦敗北により、倭国水軍は壊滅的打撃を被ったと思いますが、九州王朝の都・太宰府や、その防衛施設である水城は破壊された痕跡がなく、むしろ「大宰府政庁2期」の宮殿や観世音寺が白鳳10年頃に造営されたり、同じく白鳳10年(670)には「庚午年籍」という全国規模で造籍がなされていることから、九州王朝の権威や国家官僚群(中央と地方とも)は健在だったのではないかと考えていたからです。もし、筑紫進駐した唐軍が九州王朝に対して軍事攻撃や墳墓・王宮破壊を行っていたのなら、その同時期に悠長に観世音寺や「政庁」を造営したり、全国的造籍事業を行ったりはできないはずだからです。
 ところが正木さんは「近江朝年号」すなわち天智・大友による「近江朝」という新概念を提起され、「庚午年籍」はその「近江朝」が造籍したものとされたのです。しかも正木説によれば、天智・大友の「近江朝」は九州王朝系であり、親唐派の薩夜麻と対立して対唐抗戦派の「近江朝」を立ち上げ、年号も「中元」と改元し、九州王朝を継ぐ自らの正当性を主張したとされたのです。
 その正当性を背景に「庚午年籍」を造籍したとすれば、この二重権力状態においてどのようにして全国的戸籍、とりわけ九州地方の造籍を行ったのでしょうか。実は「庚午年籍」において、九州地方と他地域とで「差」があったのではないかと考えられる史料根拠があります。『続日本紀』に見える次の記事です。

 「筑紫諸国のの庚午年籍七百七十巻、官印を以てこれに印す。」『続日本紀』神亀四年七月条(727)
 この記事によれば、神亀4年(727)まで、筑紫諸国の「庚午年籍」には大和朝廷の官印が押されていなかったことを意味します。したがって、この時期になってようやく大和朝廷は筑紫諸国の「庚午年籍」に官印を押すことができたということであり、それ以外の諸国の「庚午年籍」への官印押印についての記事は見えませんから、筑紫諸国(九州)とその他の諸国の「庚午年籍」の管理に何らかの差があったと考えられるのです。
 この『続日本紀』の記事が以前から問題になっており、何度か論じたこともありました(「洛中洛外日記」119話「九州の庚午年籍」)。今回の正木さんによる「庚午年籍」近江朝造籍説にショックを受けたのも、こうした問題意識があったからでした。(つづく)


第1166話 2016/04/11

近江朝と庚午年籍

 『古田史学会報』133号に発表された正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の論稿「『近江朝年号』の実在について」は九州王朝説の展開について重要な問題を提起していることに気づきました。
 『二中歴』などに見える九州年号とは別に「中元(668〜671)」「果安(672)」という不思議な年号が諸資料に散見されることが、九州年号研究者には知られていました。正木さんはこの「中元」を天智天皇の年号(天智7年〔即位元年〕〜10年)、「果安」を大友皇子の年号、すなわち「近江朝年号」と理解されました。「中元」を天智の年号ではないかとする見解は竹村順弘さんやわたしが関西例会で発表したことがあるのですが、正木さんは更に「果安」も加えて「近江朝年号」と位置づけられたのです。ここに正木説の「画期」があります。
 九州王朝の天子、筑紫君薩夜麻が白村江戦敗北により唐の捕虜となっている間、九州年号「白鳳」(661〜683)は改元もされず継続するのですが、その最中に「中元」「果安」が出現しているのです。すなわち、日本列島内に二重権力状態が発生したと正木さんは主張されました。そこで、正木さんとの懇談の中で、「それでは庚午年籍(670)は誰が命じて造籍したのか」というわたしの質問に対して、「近江朝でしょう」と答えられました。その瞬間、わたしの脳裏は激しく揺さぶられました。(つづく)


第941話 2015/05/02

続・九州王朝滅亡の一因を考える

 九州王朝から大和朝廷への権力交替にあたって、九州王朝の首都太宰府は「無血開城」されたかのように、宮殿は破壊されず、巨大な防衛施設の水城も 健在のままでした。すなわち、九州王朝はその滅亡期において、「首都決戦」を行った痕跡が文献史料的にも考古学的にも見あたらないのです。この事実は、九州王朝の滅亡がどのようなものであったのかを考える上で重要なヒントになるように思われます。
 九州王朝が白村江の敗戦以後、実質的にも名聞的に も権威と実力を急速に失っていったと思われますが、7世紀末頃から8世紀初頭にかけて、列島内で「一大決戦」ともいうべき大きな戦争が2度行われました。
 一つは有名な「壬申の大乱」(672年)、もう一つは『続日本紀』にその痕跡が残されている「隼人の大乱」(712年、九州年号最終年の大長9年)です
(「続・最後の九州年号」『「九州年号」の研究』所収をご参照下さい)。

 わたしはこの二つの「一大決戦」こそ、九州王朝滅亡期の姿を考える上で、重要な事件だと推察しています。 「壬申の大乱」は近江朝廷の大友皇子と大海皇子(天武天皇)の争いとして『日本書紀』には特筆大書されていますが、わたしは「九州王朝の近江遷都」が白鳳元年(661年、『海東諸国記』の遷都記事による)になされたと考えていますから、大友皇子は父の天智天皇が定めた「不改常典」により九州王朝の権威を継承した、あるいは九州王朝の対唐徹底抗戦派を支持した人物ではなかったかと推察しています。とすれば、「壬申の大乱」は近江京などを中心とした九州王朝の 「首都決戦」だったと言えるかもしれません。
 もう一つは南九州での「隼人の大乱」で、これは最後の九州年号である「大長」の最末年「大長九年」 (712年)に起こっていますから、九州王朝の最終年の「大乱」であり、これも九州王朝の対大和朝廷徹底抗戦派による「一大決戦」と考えざるを得ません。
 この二つの「一大決戦」がともに九州王朝の首都太宰府から遠く離れた地で行われたことが、太宰府「無血開城」の遠因になったのではないでしょうか。
 さらにもう一つの理由、これは全くの想像ですが、九州王朝の天子は首都太宰府の有力氏族や人民からの信頼を決定的に失っていたのではなかったでしょうか。 白村江戦に先立ち、唐の脅威から逃げるように、難波副都や近江京を造営し、天子や百官百僚たちは首都の人民を見捨てて「遷都」したとき、残された太宰府の人々からの信頼を決定的に失ったのではないでしょうか。ですから「首都決戦」などできる条件を九州王朝は既に失っていたものと思われるのです。
 以上、今回の帰省で大野城(大城山)の遠景を見ながら考えたことでした。


第787話 2014/09/19

「観世音寺」「崇福寺」不記載の理由

 本日の関西例会では服部さんから古代中国の二倍年暦について、周代以後は二倍年暦とする明確な痕跡が見られないとの報告がなされ、わたしや西村秀己さんと大論争になりました。互いの根拠や方法論を明示しながらの論争で、関西例会らしい学問論争でした。わたし自身も服部さんが紹介された考古学的史料(西周の金文)など、たいへん勉強になりました。
 常連報告者の正木裕さんが欠席されるとのことで、昨晩、西村さんから発表要請があり、急遽、現在研究しているテーマ「なぜ『日本書紀』には観世音寺・崇福寺の造営記事がないのか」について意見を開陳しました。その結論は、観世音寺も崇福寺(滋賀県大津市)も九州王朝の天子・薩夜麻の「勅願寺」だったため、『日本書紀』には掲載されなかったとするものですが、様々なご批判をいただきました。
 観世音寺創建は各種史料によれば白鳳10年(670)で、崇福寺造営開始は『扶桑略記』によれば天智7年(668、白鳳8年)とされ、両寺院の創建は同時期であり、ともに「複弁蓮華文」の同笵瓦が出土していることも、このアイデアを支持する傍証であるとしました。
 出野さんからは古代史とは無関係ですが、誰もが関心を持っている「少食」による健康法について、ご自身の体験を交えた発表があり、こちらもまた勉強になりました。結論として、みんな健康で長生きして研究活動を続けようということになりました。
 9月例会の発表テーマは次の通りでした。

〔9月度関西例会の内容〕
1). 中国古代の二倍年暦について(八尾市・服部静尚)
2). 納音の追加報告(八尾市・服部静尚)
3). 観世音寺・崇福寺『日本書紀』不記載の理由(京都市・古賀達也)
4). 食べるために生きるのか、生きるために食べるのか・・・少食について・・・(奈良市・出野正)
5). 二人の天照大神と大国主連、そしてその裔(大阪市・西井健一郎)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況(10/04松本深志高校で講演「九州王朝説は深志からはじまった」、11/08八王子大学セミナー、岩波文庫『コモンセンス』)・『古代に真実を求めて』18集特集の原稿執筆「聖徳太子架空説」の紹介・大塚初重『装飾古墳の世界をさぐる』に誤り発見・坂本太郎『史書を読む』の誤字・中村通敏『奴国がわかれば「邪馬台国」が見える』を読む。『三国志』斐松之注の文字数は本文よりも少ない・聖徳太子関連書籍調査・その他


第779話 2014/09/06

古田武彦著『古代の霧の中から』復刊

 古田武彦著『古代の霧の中から — 出雲王朝から九州王朝へ』がミネルヴァ書房から復刊されました。同書は1985年に徳間書店から出版されたもので、『市民の古代』などに発表された論文が収録されています。各章は次の通りです。

序章  現行の教科書に問う
第一章 古代出雲の新発見
第二章 卑弥呼と蝦夷
第三章 画期に立つ好太王碑
第四章 筑紫舞と九州王朝
第五章 最新の諸問題について
日本の生きた歴史(二十二)
歴史の道

 「日本の生きた歴史(二十二)」と「歴史の道」は復刊に伴って新たに書き下ろされたものです。本書の性格は「はしがき--復刊にあたって」で古田先生が次のように書かれていますように、「異色の一書」です。

 「異色の一書だ。最初の出版の時から、“濃密な”内容をもっていた。「学問の成立」とその発展が具体例でしめされていた。今回のミネルヴァ書房復刊本では、新稿「歴史の道」を加え、わたしにとって決定的な意味を持つ本となった。幸せである。」

 今回、改めて読み直してみて、面白い問題に気づきました。第五章にある「発掘が裏付ける『大津の宮』」において、大津市穴太2丁目から出土した「穴太廃寺」について、次のような考察が示されています。

 「これほどの寺院跡、法隆寺級の大寺院跡が出土したにもかかわらず、その存在事実を示す文献記載のないことに不審がもたれている、という(朝日新聞〔大阪〕、一九八四・七・六)。」(252頁)
 「これがもし、真に『寺院』であったとしたら、『日本書紀』にその記載のないのは、不可解だ。その、いわゆる『寺院』は、書紀の編者たちが知悉していたはずだ。そしてその存在や寺名を、“消し去る”べき必要が、彼等にあったとは、全く信じえないのである。」(253頁)

 穴太廃寺遺跡を古田先生は天智天皇が遷都した「近江宮」と解され、大津市錦織から出土した朝堂院様式の宮殿を、同じく天智紀に見える「新宮」とされたのです。大変興味深い考察ですが、穴太廃寺遺跡はその後の調査から、やはり寺院跡と見なされています。しかし、古田先生の抱かれた疑問「何故、これほどの大寺院が『日本書紀』に記載されていないのか」という視点は有効です。しかも、大津宮遺跡(大津市錦織)の真北から出土した 「南滋賀廃寺」も、やはり『日本書紀』に記載されていません。
 古田先生が疑問とされた『日本書紀』の「沈黙」こそ、わたしが提案している仮説「九州王朝の近江遷都」の傍証となるのではないでしょうか。大津宮が九州王朝による宮殿であれば、同時期に建立された九州王朝による大寺院が『日本書紀』から“消し去られた”理由も説明できそうです。
 『古代の霧の中から』の復刊により、当初は気づかなかった問題が「発見」できました。他にも同様の「発見」があるかもしれませんので、しっかりと再々読しようと思います。


第754話 2014/07/28

森郁夫著 『一瓦一説』を読む(4)

 「洛中洛外日記」751話で、 観世音寺の創建瓦と同笵の瓦が飛鳥の川原寺、近江の崇福寺から出土していることが森郁夫著『一瓦一説』で紹介されていることを記しました。その観世音寺の 創建瓦は老司1式と呼ばれるもので、同笵とされる軒丸瓦の瓦当文様は「複弁蓮華文」と称されています。この複弁蓮華文軒丸瓦の最初は川原寺と一般的にはされているようで、川原寺の創建年には諸説ありますが、森さんは「天智朝」の頃、具体的には「近江遷都」する前の662~667年頃とされています。
 ところが複弁蓮華文軒丸瓦は近江大津の寺院(南滋賀廃寺・穴太廃寺・崇福寺・園城寺前身廃寺)の方が早いとする考古学者もいます。大津市歴史博物館編 『近江大津になぜ都は営まれたのか』(平成16刊)に掲載されている林博通さんの講演録「大津宮とその時代」には次のような説明がなされています。

 「南滋賀廃寺・穴太廃寺などで出土する軒瓦の系統を整理したものが、図34になります。A系統とB系統に整理できまして、A系統というのは、複弁 蓮華文軒丸瓦といいまして、じつは大津京時代頃に初めて使われ始める瓦です。一般には、大和の川原寺が最初だという意見が大半ですけれども、川原寺の瓦作りの技法が大津京のこれらの寺院のA系統瓦にはまったく認められないことなどから、私は、大津京で使われた方が古いだろうというふうに考えています。」 (84ページ)

 この林さんの見解が正しければ、複弁蓮華文軒丸瓦は白鳳元年(661年、『海東諸国記』による)の近江遷都に伴って建立されたと考えられる南滋賀廃寺などでの使用が最初ということになります。南滋賀廃寺は大津宮の北側にあり、両者の南北の中心軸はほぼ一致していることから、大津宮と密接な関係を 持った寺院であることは明白です。しかも、その伽藍配置(西に金堂、東に塔、等)が観世音寺と同じで、この一致は偶然とは思えません。ともに九州王朝との関係が深い寺院ではなかったでしょうか。ちなみに川原寺の伽藍配置も似ています。
 複弁蓮華文軒丸瓦の最初の使用が大津宮の南滋賀廃寺などで白鳳元年(661)頃とすれば、太宰府の観世音寺創建は白鳳10年(670)ですから、まず近 江大津で使用開始された複弁蓮華文軒丸瓦が、その後、同型の瓦当笵とともに大和の川原寺や筑紫の観世音寺創建に使用されたとする理解に至ります。白村江戦 前後にまたがる時代の近畿と九州王朝の関係を考える上で、この複弁蓮華文軒丸瓦の変遷や瓦当笵の移動は一つのヒントになるかもしれません。